一章──第一夜、危険な保健医
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春が来た。
桜の季節、始まりの季節。
今日から始まる新学期。 聖霞学園高等学部で迎えた二度目の春だった。
...赤夜.
─シャクヤ─
長く退屈な入学式を終え、璃玖たちはすぐに保健室へと向かった。
「…失礼しまーす」
「あーだるい疲れた。璃玖、お茶ー」
水未が、我がもの顔でソファに腰掛ける。
璃玖はそのまま簡易キッチンへと歩き、ポットとカップを用意した。
「あのねえ君たち。当たり前のようにここへ来るのは、どうかと思うよ」
ついたての影から呆れ顔で現われたのは、この教室の主であり聖霞学園の校医、神崎紫苑。
普段は流したままの紫色の長髪を、今は一つにまとめている。
「センセーこそ、そのついたての影で何やってたわけ?また手ェ出したんでしょ」
水未の言葉に、璃玖は思わず頬を引きつらせた。
正直なところ、璃玖は神崎先生が苦手なのだ。
その表情に気付かれまいとすぐに顔をそらしたが、神崎先生は目ざとくそれを見抜いていた。
「ホラホラ、伊藤さん変なこと言わないでもらえる?東条さんがものすごい目で僕を見てるんだ」
「おーよしよし璃玖、こっちにおいで。そのおじさんに近寄ると子供ができるよ」
「あはは。ひどいなあ」
髪と同じ紫色の瞳が、スッと細められる。
背中に走る悪寒。すべてが見すかされている、そんな予感までもが渦巻いた。
「そんなに警戒しなくても、大丈夫だよ?僕は保健医だし、色々詳しいから」
そう冗談めかして(あるいは本気かもしれないけれど)言う神崎先生は、決して恐怖を与えるような人柄ではない。
頭ではそう思うのだ。
「璃玖の男嫌いが治んないのは、確実にアンタのせいだよ変態教師」
「え?僕ー?そんなことないよね、璃玖ちゃん?」
「…え、と…」
視線に堪えられなくなって、璃玖は目をそらして俯いた。
「傷つくなあ、その反応。僕、結構モテるんだよー?」
先生自身に問題があるだとか、そういうわけではなかった。
──極度の男嫌い。
それが、璃玖の最大の悩みの種であった。
「女の子には、嫌われたことないんだけどな」
神崎先生はソファのひじ置きに腰をおろし、背もたれに肘をおいて頬杖をついた。
そして、小さなため息を一つ。
「自意識過剰なんじゃない?璃玖じゃなくても、アンタみたいな変態人間、誰だって身の危険を感じるよ」
つっけんどんに言い放つ水未に、神崎先生はやんわりと笑みを浮かべる。
そして何を思ったのか、おもむろに水未の耳元に唇をよせた。
「……ヤキモチ?」
「近寄んな、カンチガイ野郎」
「照れなくてもいいのに」
「はあ?寝言は寝て言え、セクハラ教師」
「ホント、素直じゃないなあ水未ちゃんは……あ、良い薫り」
漫才のように息の合った(?)やりとりも、いれたての紅茶の香りによって中断される。璃玖は三人分のカップをテーブルに置いた。
「はい、お茶淹れたよ。…先生もどうぞ」
傍にはできるだけ寄らないようにして、カップだけを先生の目の前に差し出した。神崎先生はにっこりと笑みを浮かべる。
「ありがとう、東条さん」
軽く会釈をして、すぐさま視線をそらした。ソファに腰を下ろした璃玖は、そんな行動をごまかすように自分のカップに手を添えた。
お茶菓子まで持ち出して、保健室での小さなお茶会が始まった。
「璃玖も、ちょっとは男慣れしたんじゃない?前はセンセーと、目も合わせようとしなかったのに」
さきほどの行動を指摘され、居心地悪さに目を伏せる。
男がいる前でのその話題は、タブーというものだ。あからさまに態度で示している璃玖が言えたことではないが。
「とは言っても、ほんの一瞬だけどねー。まあ、嬉しいことには変わりないよ」
「男が嫌いって理由で、男子のいないこの学校選ぶくらいだもん、相当だよね」
璃玖たちの通う聖霞学園は徹底された女子教育で有名で、ぞくに言う“お嬢様”たちが多く在学している。
彼女達のほとんどが初等・中等・高等学部とエスカレーター式に上がってきているために、璃玖や水未のような高等学部編入をする生徒は、ごくわずかしかいない。
「まさか本気で聖霞に入るとはねえ。男嫌いも、ここまできたら末期だわ」
カラカラと笑う水未に、璃玖は非難の眼差しを向けた。
「…水未だって、悩むの面倒だからって私と同じ高校にしたじゃん」
「まあね。おかげで親元離れた生活をエンジョイしてるってわけ」
「あはは。水未ちゃんらしいね、その考え」
茶化すように言った神崎先生に、水未はギロリと鋭い視線を投げ付けた。
「…そうだ、璃玖。結局どうなったの?ルームメイトは」
水未の問いかけに、璃玖は飲んでいた紅茶を置いた。
ため息を一つこぼして、話しはじめる。
「それが、いないんだよね」
「マジ?もしかして璃玖、今年はこのまま一人部屋なんじゃないの」
「んー…名前はあるんだよね、一応。でも、荷物運び込まれる様子もないし…春休み中だからかなって思ってたんだけど」
「へえ。で、結局、新学期始まっても現れないんだ。そのルームメイト」
「うん…“若松瀬名”ちゃん、って子なんだけど。知ってる?」
「わかまつせな?知らないなあ。一年生なんじゃないの?」
「かなぁ」
真新しい制服に新しい環境のなかで緊張してばかりだった昨年。
そんな璃玖たちは今年、新入生を迎える立場にあるのだ。
「それなら今日あたりにも来るんじゃない?ピカピカの一年生ルームメイト」
「うん、そうかも」
「来なかったらラッキー、広い寮室を一人で使い放題!」
「期待してるところに悪いんだけど」
それまで黙ったまま聞くがわに徹していた先生が、口をはさむ。
「きっと来るよ、その子。ただちょっと事情があって、遅れているんじゃないかな」
「センセー、その子のこと知ってるの?」
「んー、まあね」
「何だ、それなら話は早いじゃん。璃玖にその子紹介してやってよ、その方が手っ取り早く仲良くなれるし。でしょ?」
神崎先生はあごに手を添えて考えるような仕草をすると、曖昧にほほえんだ。
「……んー、どうだろうね」
「………」
「………」
「……」
「……」
「…ど…どうしよう…」
璃玖の頭から、音を立てて血の気が引いていった。
「おいおいおいこのヘンタイ保健医がああ!嘘でもいいから『大丈夫だよ☆』くらいのこと言っとけ!!」
「ごめんねー、僕嘘つけないんだよね」
「はあぁぁ!?あんたのせいで、見てよこの璃玖の不安そうな顔、捨てられた仔犬のような目!どーしてくれんの!」
「あはは。まあでも、会ってからのお楽しみってことで」
にっこりと笑う先生に、璃玖と水未はそろってうさん臭そうな目を向ける。
「…璃玖ちゃんなら大丈夫。そんな気がするよ」
そんなことを言う神崎先生の瞳に、璃玖は恐怖を感じるよりも、どこか複雑な感情を見たような気がした。
危険な保健医...END