第16話 鬼怪
暗くてなにも見えない。でも何か心地のいい音色が聞こえる。そして温かい、砂風呂に入っているみたいだ…意識が遠のいて行く感覚に陥る。
遠くから聞き覚えのある笑い声が聞こえてくる。突然、視界が開けると目の前に育苗トレーが並んでいた。小松菜の苗が発芽している。そばには大きなブリキのジョウロが置いてあった。苗に水をあげようと思うと小さな手の平が視界に入り目の前が真っ暗になった。目のあたりをギュッと抑える少し冷たい手の感触が伝わる。誰かに両手を優しく掴まれた。大きくてちょっとカサカサした手の感触が伝わる。後ろから笑いを堪える様な気配がするとゆっくり歩きだした。先導されるままに進むとミカンの花のかおりが漂いさらに濃くなる。
目の前が開け辺りを見回すと庭にあるミカンの木の下で小学校の制服姿の姉ちゃんとばあちゃんがにこにこと笑みを浮かべていた。上の前歯が抜けた屈託ない笑顔の姉ちゃんが手招きしながら木陰を指し示すとミカンの木の幹に蛹が見えた。殻は半透明で中に黒色とクリーム色の姿が見える。蛹の頭部が割れると中から触覚・黒い目・しぼんだ羽と徐々に姿を現し全身が殻から出るとジッとして動かなくなった。
「これはナミアゲハね。陽子触っちゃダメよ。いま羽を乾かしてるから、不思議でしょ。この間見た緑の芋虫がこうなったのよ。まるで生まれ変わったみたいでしょ?」
三人で蛹の様子を伺っていると姉ちゃんの視線に気が付いた。
「ねぇ、もしも生まれかわったらつかさは何になりたい?」
「よく分かんない。でも僕のままがいい。それで…家族と一緒がいい」
急に視界がぼやけると父さんと母さんの顔が思い浮かんだ。ばあちゃんは俺たちの前に来るとしゃがみニコッと笑った。
「まだ羽化には時間がかかるからそっとしておきましょう。二人ともこっちにいらっしゃい。いい?この蝶々や陽子、司・おばあちゃんもおじいちゃんも勇仁もみんな生きてるって事はとっても素晴らしい事だけど楽しい事も大変な事も沢山あるの…って言っても難しかったわね」
ばあちゃんは少し困った顔で笑うと俺と姉ちゃんの頭を撫でた。そして抱き寄せると優しく背中を叩いた。なにか前にも同じ様な事があった気がするな…突然、蝉の鳴き声と共に突き抜ける様な青い空、父さんが誰かと電話している姿が脳裏に浮かんだ。これは夢なのかそれとも誰かの記憶?違う!災害の日の出来事だ。でもどうして、なぜ急に思い出したんだ。不意に母さんの声が耳元で囁いた。
「二人ともこれからどんな事が起きても決して諦めないで。貴方たちと出会えてとても幸せだったわ。ありがとう。そして…」
「ごめんな。陽子、司。今度埋め合わせするからな」
父さんの声で母さんの声がかき消された。首元に母さんの柔らかい腕の感触だけが伝わると体中に衝撃が走り沸騰する様な感覚に襲われた。
陽子達は発煙手榴弾の煙の中にいた。ホライゾンのCIC(指揮所)モニター画面にはスパイダーからのサーモグラフィ映像が映っている。大蛇の辺りには人影はなく司のバイタルサイン(脈拍・血圧・呼吸・体温)にエラーが表示されているのを確認すると勇仁は机を叩く様に立ち上がった。
「ササエル、無線で司を呼び出せ。応答するまでだ!堀石(尚美)主任、陽子っ隊員は無事か?司隊員のバイタルが捕捉できない。カメラもだ。現場の状況は?」
「司隊員は…わかりません。こっ、こちらでもロストしています。ルーカスさんこっちに来て彼の武器を取り上げて下さい。
隊長、不可思議です。音が、音が聞こえます。例の通信障害がまた…これは!?スパイダーのマルチサーベイメーター(放射線量計)が急激に上昇、あの生物が発生原因と思われます!この数値は…人体に悪影響が及ぶ危険性があります。何かの遮蔽物に、急がないと」
椅子ごと体を勇仁に向けた尚美は引きつりながら首を横に振った。
「わかった!総員、トラックで直ちに派出所まで後退!エリオット隊員もトラック乗れ。近くの二人は陽子隊員とトラックへ。チャーリーはイッターを受け取ったら再拘束、残りは発煙弾(40mm口径グレネードランチャー)で弾幕を張れ、ホークも退避…美原山後方に移動、山影に隠れて旋回待機、みんな急いでくれ!」
生物が発する奇妙な音が次第に大きくなるに連れて煙が歪み霞んでいく。カドリは慌てて立ち尽くす陽子の肩を揺さぶり頬を軽く叩くと首を横に振った。急いで陽子の腕を肩に回すとルーカスに合図を送る。二人は陽子を抱えるとトラックに走り出した。ジョンはトラックの運転席に乱暴に飛び乗ると他の隊員に乗車を促しエンジンをかけた。荷台に乗った隊員達は生物の近くに発煙弾を放つ。勇仁の合図でトラックは勢いよく走り出した。
「「スパイダーはこのまま観測を続け…」」
勇仁と尚美は同時に声を発した。尚美は黙って頷くと勇仁に言葉を譲る。
「まだ、まだアルファとブラボーの隊員が残っている。それに…今の状況では余りにも判断材料が不足している」
普段の勇仁の声色とは違い動揺の様子が伺える。
「隊長、お気持ちお察しします。ですがこの状況は以上です。最悪の場合は…もしスパイダーの通信が途絶した場合は撤退を、島外撤退を上申します。みなさんは絶対に先頭の通信リールから離れないで下さい。いつ通信が途絶えるかわかりません。
ササエルは全ての観測機器で情報を取得、同時にデータのバックアップを取って下さい。それから大破したスパイダーの情報も含め取得情報を…科学的に分析。引き続きAR(拡張現実)情報をモニターに表記して下さい」
「承知しました」
トラックは派出所の建物に隠れる様に停車した。視界が定まらず呆然と俯いている陽子の視界にクーフィーヤ(頭巾)が差し出された。
「これ、君の私物だろ?ありがとう助かった。もう血は止まった。その…兄弟か?無事だといいな」
陽子はマイクからクーフィーヤを受け取ると力なく頷き依然奇妙な音が鳴り響く頂上に目をやった。辺りの陽は陰りスパイダーの影が薄くなる。発煙弾の煙が海から地を這うように運ばれてきた冷たく湿った風により薄らいでいく。大蛇と呼ばれていた生物の姿がCICのモニター上に映し出されている。大蛇の先端と末端は複数に分岐し胴体は人の形をした繭の様に膨らんでいる。末端は植物の根の様に地面に定着し全体が不規則に振動、まるで海藻類が揺らいでいる様に見える。
奇妙な集団はまだその場に留まっていた。モニターにはオーガとタグ付された人影が先頭に立っている。全身は血の様に赤く無機質な仁王像の似た出で立ちに鎧の様な腰巻。額上部には一本の角が生え蜂目を思わせる形相からは表情は読み取れない。
赤いオーガは左右の手のひらを胸の前で合わせ合掌の印相の様な仕草を見せた。無機質な体表面に黒い電子回路とトライバル(民族柄)模様を合わせた幾何学模様な柄が血管の様に現れ脈打つ様に光り浮かび上がる。合わせた掌の隙間から強烈な閃光が漏れ出すと前方に大きな虹色の輪が輝いた。さながら祈祷の様に見える。狒狒とタグ付けされていた獣人が両手を高く突き上げるとロゴヘッドとタグ付けされた蛸の様な頭をした人影がゆらゆらと動くと踊る様に舞う。大蛇から発せられる奇妙な音と合わさり神事の演目を見ているようだった。
不意に奇妙な音が鳴りやむと大蛇の動きもピタリと止んだ。狒狒が不思議そうに大蛇に近づき覗き込むように様子を伺う。突然、大蛇の胴体が膨らむように盛り上がると繭を食い破り紫黒色の腕が狒狒の腕を掴んだ。さらにもう一方の腕が繭から出ると狒狒の反対の腕を掴む。次に片足が狒狒の胸部に触れると狒狒の両腕が鈍い音を立てて引きちぎれた。紫黒色の両腕は千切れた手を落とすと大蛇の先頭を掴み上下に引き裂いた。繭から紫白色のしぶきと共に中から紫黒色の額に二本の角を持ったオーガが姿を現した。体全体に蛍光紫色の幾何学模様が煌めき明滅している。
黒いオーガは膝をついた狒狒の頭を掴むと赤いオーガに投げつけた。次の瞬間アルファとブラボーの近くにいるロゴヘッドの集団の前に跳躍し近くの1体を持ち上げると集団に向かって投げつけた。同時に黒いオーガの体表の幾何学模様が薄まる。黒いオーガは再び合掌すると体全体を発光させながら赤いオーガに飛びかかった。




