05.婚約者の来訪
ある日のこと、婚約者であるダミアンがクレスウェル子爵邸を訪れた。
「先日の件について、きみが誤解しているのではないかと思って説明にきた。あのときの相手は、話が上手でね。きみにも、見習ってもらいたいと思っての行動で、きみのためだったんだ」
応接間で向かい合って座ると、ダミアンは穏やかな笑みを浮かべながら言った。その表情からは、悪意のようなものは感じられない。
「はあ……」
「そもそも、きみは僕を楽しませようという気持ちが欠けている。もっと努力するべきだ」
傲慢に言い放つダミアンを、エメラインは冷めた目で見つめる。
いつもなら、『はい、申し訳ございません。努力します』と答えていただろう。
だが、今よく婚約者の顔を見てみると、確かに顔立ちはとても整っているが、さほど魅力的には思えなかった。
顔からはどことなく軽薄そうな印象を受け、口元は陰湿そうに歪んでいる。何よりも瞳がどんよりと濁っていて、バートのような意志の強さはうかがえない。
「僕の話を聞いているのか?」
ぼんやりとしているエメラインに苛立った様子で、ダミアンが声を上げる。
しかし、エメラインはそれに答えることができなかった。
何か、大切なことを思い出しかけているような気がするのだ。
そういえば、母が死に際に何かを言ってはいなかっただろうか。記憶の底から浮かび上がってくる言葉を、必死に手繰り寄せる。
『……を……で選んでは……』
だが、あと少しというところ言葉は途切れてしまう。
もう少しで思い出せそうなのに、どうしても思い出せない。もどかしさに歯噛みする。
さらに、頭が痛くなってきた。ずきずきとした痛みに顔をしかめ、額を押さえる。
「おい、無視するな!」
ダミアンが乱暴にテーブルを叩き、立ち上がった。エメラインに対する気遣いなど、かけらもうかがえない。
「……っ」
急に大きな音がして、その拍子にめまいがした。翠玉の耳飾りが揺れ、小さな音を立てる。
そのまま、エメラインの体がぐらりと傾いていった。
「お嬢様!」
床に倒れる前に、入り口で待機していたバートが駆け寄って、支えて助け起こしてくれた。
「何だ貴様は!?」
突然現れた護衛騎士の存在に、ダミアンは威嚇するような声を上げた。
「……お嬢さまはお加減が悪いようです」
バートは臆することなく、淡々と答える。すると、ダミアンはさらに怒りを増したように、顔を赤く染め上げた。
「犬ごときが生意気な! 前から貴様のことは気に入らなかったんだ!」
ダミアンがバートに向かって腕を振り上げる。エメラインは、思わず悲鳴を上げかけた。
しかしその瞬間、バートは素早くエメラインを抱き上げ、後ろに下がる。ダミアンの腕は空振りに終わった。
「ちぃっ……」
ダミアンが悔しげに舌打ちをする。それから彼は、バートを睨みつけた。
「その女から離れろ! それは僕の婚約者だ!」
ダミアンは大声で怒鳴りつけるが、バートは微動だにしない。それどころか、冷ややかな視線を向けるだけだった。
「婚約者ならば、もっと大切にしたらいかがですか?」
「なっ……この僕に対して、無礼な態度を取るとはどういうつもりだ!? ……いや、まさか……」
さらに激昂しかけるダミアンだが、大切そうにエメラインを抱えるバートを眺めているうちに、何かに気づいたらしい。
「まさか貴様、己の主に懸想しているのか? はっ、こんな取り柄のない女に物好きなことだな」
ダミアンは嘲笑うように言い捨てる。だが、バートは何も答えない。ただ黙ったまま、じっとダミアンを見据えているだけだ。
「……お嬢さまは素晴らしい女性です」
しばらくして、ようやくバートは口を開いた。その声は断固たる決意に満ちており、強い意志を感じさせるものだった。
「ふん、馬鹿馬鹿しい。さすがは獣だ。主人に対する忠誠心だけは人一倍ということか」
ダミアンは呆れたように首を振ってみせる。だが、その顔にはわずかに動揺の色が滲んでいた。
「まあいい、どうせ貴様の主人はいずれ僕の妻になるんだからな。卑しい貴様が懸想したところで、報われることなどない。せいぜい哀れな思いをするんだな」
吐き捨てるように言うと、ダミアンは踵を返して応接間を出て行った。
残されたエメラインは、バートの顔を見ることができずにいた。頬が熱を帯びているのを感じる。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
「バート、降ろしてちょうだい」
「いえ、このまま部屋までお連れします。今日はもうお休みになったほうがいいでしょう」
「でも……」
エメラインが口ごもると、バートはふっと笑みを浮かべた。
「お嬢さまは、少しお疲れになっています。ゆっくり休んでください」
「……ありがとう」
エメラインは小さく呟く。バートに抱きかかえられて運ばれるのは恥ずかしかったが、それ以上に彼の優しさが嬉しかった。
そしてバートは、エメラインをベッドの上に優しく降ろす。
「では、俺はこれで失礼いたします。何かあればすぐに呼んでください」
「ええ、わかったわ」
エメラインが答えると、バートは恭しく頭を下げて、部屋から出ていった。
一人になると、エメラインは静かに目を閉じた。
ダミアンとのやり取りで緊張していたのだろう。全身から力が抜けていくのを感じた。
しばらく横になっていると、次第に眠気が襲ってくる。
エメラインはそのまま眠りについた。