27.元婚約者の敗退
「おじいさま……」
エメラインは小さく呟く。
「これは……! 辺境伯閣下……」
はっとした様子で、ダミアンは慌てて姿勢を正した。
「ボーナム伯爵令息か。いったい何をしにきたのだ?」
ザッカリーは冷たい目でダミアンを見下ろす。
「いえ……あの、その……」
ダミアンは口籠もるが、すぐに開き直ったように胸を張る。
「エメライン・クレスウェル子爵令嬢との婚約破棄を撤回させてもらいたく、参りました。次期辺境伯にふさわしいのは、僕以外におりません!」
自信満々な様子でダミアンは告げたが、ザッカリーの冷たい表情は変わらない。
「よくぞそのような恥知らずなことが言えるものだ。魔物が活性化したとき、そなたは何をしたというのだ?」
「そ、それは……」
「何もしなかっただろう? 安全な王都でのうのうとしていただけだ。それでいながら、そなたは自分が辺境伯になると? 戯言にも程がある」
「うっ……!」
吐き捨てるようにザッカリーが言うと、ダミアンは言葉を詰まらせる。
「それに、そなたはエメラインを侮辱したばかりか、怪我まで負わせたそうだな? それを反省するどころか、まだエメラインを貶めるようなことを言うつもりなのか?」
「ち、違うのです……! あれは……その……つい、うっかり……」
必死の形相でダミアンは言い訳をしようとするが、ザッカリーは冷淡な目を向け、続ける。
「言い訳など聞きたくない。エメラインの名誉を穢す者など、この屋敷には必要ない」
「そ……そんな……! どうか……!」
ダミアンは情けない声で懇願するが、ザッカリーは首を横に振った。
「これ以上、そなたの顔を見るのも不快だ。即刻立ち去るがよい」
「ぐっ……! な、ならば、僕以外の誰がエメラインの夫となるというのですか!? まさか、その犬を……!」
悔し気に歯噛みしながら、ダミアンは血走った目でバートを睨む。
「犬……? ああ、バートのことか。それも悪くはないな。バートは良い働きをした。魔力も高い。エメラインが望むのなら、夫として認めてやってもよいだろう。少なくとも、そなたよりはエメラインの夫にふさわしい」
「なっ……!」
淡々としたザッカリーの言葉に、ダミアンは絶句する。
そして、エメラインとバートも驚きのあまり、大きく目を見開いた。思わず互いに目を見合わせてしまい、気まずそうに顔を背ける。
今まで胸を覆っていた不快感など、どこかに消えてしまうくらいの衝撃だった。
「まさか……どこの馬の骨ともしれぬ平民を辺境伯にするなど、正気ですか!?」
ダミアンは信じられないというように、声を張り上げる。
「それがどうした? この地では強さ、勇敢さこそが尊ばれる。身分など二の次だ。それに、何か勘違いしているようだが、辺境伯となるのはエメラインだ。過去にも辺境伯が平民から配偶者を迎えた例はある。問題なかろう」
「そんな……こんな取り柄のない女が辺境伯に……? ありえません!」
動揺するダミアンを眺め、ザッカリーはため息を吐く。
「今回の魔物活性化の際、結界を張り直したのはエメラインだ。魔物退治の腕もどんどん上がり、今や辺境の聖女との呼び声も高い。そなたごときより、エメラインのほうが強いことは明白だ」
「そんな馬鹿な……そんなはずはない……! 僕こそが辺境伯となるはずだったのに……どうして……今さら……」
ぶつぶつと呟きながら、ダミアンはふらりとよろめく。
「もともとそなたは、跡取り娘の婿候補に過ぎなかったのだ。そなたに辺境伯たる資質がなかったからこそ、このような事態になっている。いい加減、現実を受け止めよ。もう遅いのだ」
静かにザッカリーが告げると、ダミアンはうつろな目でその場に座り込む。
「僕が……僕が、辺境伯に……なれると思っていたのに……! くそぉおおお!!」
ダミアンは頭を掻きむしり、叫びを上げる。
その姿を見て、エメラインは眉をひそめた。
本当に辺境伯の座が欲しければ、もっと自分を磨けばよかったのだ。それなのに、ダミアンは努力することさえしなかった。
自分こそが辺境伯の跡取りだと信じ、慢心していたのだろう。しかし、本当はダミアンは跡取りではなく、跡取りの相手候補として選ばれただけだった。
「そ、それなら、僕の新たな婿入り先をご紹介ください……! できれば伯爵家以上の跡継ぎで! 婚約破棄を受け入れるのだから、それくらいはしてくださっても構わないでしょう?」
すがるような眼差しをザッカリーに向けながら、ダミアンは必死に言い募る。
あまりにも厚かましい物言いだと、エメラインは呆れ返ってしまう。
そのようなことを要求できる立場ではない上に、伯爵家以上の跡取りという条件は無理難題すぎる。当然、条件を満たすような令嬢はすでに婚約しているはずだ。
「……呆れて物も言えん。そもそも、そなたが勝手に婚約破棄を宣言したのであろう? そのうえで、新しい婚約者を用意せよだと? 図々しいにもほどがある」
案の定、ザッカリーは冷たく切り捨てる。
「で、ですが……!」
「今この場で斬り捨てられないだけありがたく思え。オーガスト……そなたの亡くなった伯父に免じて、今日のところは見逃してやる。だが、これ以上エメラインに付きまとうようなことがあれば……」
「ひっ……!」
ザッカリーに睨まれ、ダミアンは青ざめる。
「二度と顔を見せるな。そなたの顔など、見たくもない」
「ううっ……!」
ダミアンは肩を落とし、力なく歩き出す。
その姿を見送り、ザッカリーは小さく嘆息した。
「おじいさま……ありがとうございます」
エメラインが頭を下げると、ザッカリーは苦笑する。
「礼を言われるようなことではないだろう? むしろ、すまなかったな。魔物が活性化していた時期なら、後腐れなく始末できていたのだが……。そなたには嫌な思いをさせてしまった」
「いえ、とんでもありません。私は大丈夫ですよ」
エメラインが微笑むと、ザッカリーはほっとしたように表情を和らげた。
「ところで、そなたたちはこれからどうするつもりだ?」
「どう、とは……?」
「そなたたちの結婚だ。この調子では、そなたは婚期を逃してしまうぞ?」
「あっ……それは……」
エメラインは口籠もり、顔を赤らめて俯いた。
「そなたたちが互いに想い合っているというのなら、わしは構わんと思っておった。だが、そなたたちの間に流れる空気は、どこかぎこちないように見えたのでな。それで、どうなのかと思ったのだ」
「あー……えっと……」
エメラインがちらりとバートを見ると、バートも困った顔をした。互いに目を見合わせているうちに、気まずさが募っていく。
「おや、まだ互いに気持ちを伝え合ってはいないのか? なかなかに初々しいことだ」
そんな二人の様子を見て、ザッカリーが笑う。
その言葉を聞いて、ますます二人は気まずくなり、黙り込んでしまう。
ちょうどこれから互いの気持ちを確認しようとしていたところではあったが、こうして指摘されてしまうと気恥ずかしい。
「どうやら、そのようだな。ならば、二人きりにしてやろう。あとは若い者同士でゆっくり話すといい」
そう言うなり、ザッカリーはエメラインとバートに背を向けて、立ち去っていってしまった。
気を使ってくれたのは嬉しいのだが、残されたエメラインとしては、余計に気まずさを感じずにはいられなかった。