16.旅立ち
「ギャレット辺境伯領に向かうわ」
自室に戻り、エメラインは開口一番そう言った。
「お嬢さま……」
侍女のアルマが、心配そうに声を上げる。
「大丈夫よ。お父さまはわかってくれたから。ダミアンさまとの婚約も破棄することになったわ。これからは、私が自分で選ぶ道に進むだけよ」
エメラインは微笑んで、そう答える。
すると、アルマは呆然とした様子でエメラインを見つめてきた。ややあってから、くしゃりと顔を歪める。
「……よかったです。本当に、よかったです」
泣き笑いの顔でそう言うと、彼女はエメラインに抱きついてくる。エメラインはその体を抱き締め返した。
まるで幼い頃の、まだ身分の垣根がなかったときに戻ったかのようだ。
当時の自分は、しっかりと前を向いていた。それは何も知らないが故に、恐れ知らずだったためもあるだろう。
だが、これからは己の道を見つめ、その先にあるものを知った上で、しっかり顔を上げて進まなくてはならない。
「ごめんなさいね。今までずっと我慢させてしまって」
「いいえ、そんな! 私は、お嬢さまのお側にいられるだけで幸せなんです!」
「……私も、あなたのことが大好きよ」
そう告げると、涙を滲ませていた彼女の瞳が大きく見開かれる。そして、みるみるうちに喜びの笑顔が広がった。
「光栄です、お嬢様……! どうか、辺境伯領までお供させてください」
「もちろんよ。よろしくお願いするわ」
エメラインは力強く頷く。
そして早速、準備に取りかかったのだった。
これまでエメラインのことを抑え付けてきた父だったが、いざ彼女が自ら望むとなると、途端に態度を変えた。
エメラインがギャレット辺境伯領に行くと宣言すると、あっさりとその話を受け入れたのである。
その日のうちに必要な荷物をまとめ、翌日、エメラインは馬車に乗り込んだ。見送りに来た父の表情には、複雑な感情が見え隠れしている。
「それはお父さま、お元気で」
エメラインが別れの挨拶を口にすると、父は一瞬息をのみ、それから諦めたような笑みを浮かべる。
「……お前が決めたことだ。もう何も言わん」
それだけを言うと、彼は踵を返して去っていった。
その姿が完全に見えなくなると、エメラインはふうっとため息をつく。
「お嬢さま……」
「平気よ。それより、出発しましょう」
不安げなアルマに、エメラインは優しく語りかけた。
ゆっくりと動き出した馬車の窓から、エメラインは生まれ育った屋敷を振り返る。
そこはもう、自分が帰る場所ではない。
「さようなら」
小さくそう呟いて、エメラインは前を向いた。
馬車は順調に進んでいき、ついにギャレット辺境伯領の手前の街にたどり着く。
そこで一晩過ごしてから、翌朝、いよいよギャレット辺境伯領に入った。
エメラインの視界に、これまで見たことのない風景が広がっていく。それは、自然豊かで美しい景色だった。
緑に覆われた山々に、湖や川などの水場も多い。豊かな森は領民たちの生活を支えているだろう。
「綺麗ね。でも……」
エメラインは窓の外を眺めながら、そっと眉根を寄せた。
人の姿をほとんど見かけないのだ。街を行き交う馬車の数も少ない。
魔物が活性化している影響だろうか。この辺りの人々は外出を控えているのかもしれない。
そんなことを考えていると、不意に御者台の方から声が上がった。
「お嬢さま、あれは……」
エメラインが振り返ってそちらを見ると、アルマが前方を指差していた。
そこには、狼のような姿をした獣が数頭、こちらに向かって走ってきている。
「……魔物だわ」
エメラインは緊張しながら呟く。初めて見る姿だが、知識として知っていた。
「どうしてこんなところに……。街道にまで出てくるなんて」
魔物は基本的に、人間の多い場所に出てこない。だからこそ、王都のように安全な都市があるのだ。
しかし、魔物が活性化している今の状況では、その常識も当てはまらないらしい。
「お嬢さま、どうしますか?」
震える声で、アルマが尋ねてくる。
エメラインはごくりと唾を飲み込んで、覚悟を決めた。
「戦うしかないわ」
そう言って、馬車を止めるように命じる。
「お嬢さま、いけません!」
アルマが悲鳴じみた声を上げた。
「ここは私が食い止めますから、お逃げください」
「いいえ、それじゃあ意味がないわ」
エメラインは首を横に振る。
「ギャレット辺境伯家を継ぐ者として、私はここで逃げるわけにはいかないのよ」
「お嬢さま……」
アルマは何か言いたそうに口を開いたが、結局は何も言わなかった。
エメラインの意思を尊重してくれたのだろう。
「ありがとう、アルマ」
礼を告げると、エメラインは馬車を降りる。
本当は恐ろしくて仕方がない。しかし、ここで逃げ出すことは、自分の気持ちを裏切ることになる。それに、もはや二度とあの家には帰らない覚悟で出てきたのだ。
エメラインは震える足を踏み出し、周囲の精霊へと呼びかけた。
「お願い、力を貸して」
すると、たちまち周囲に風が巻き起こり、小さな竜巻のようになってエメラインの体を取り巻いていく。
「お嬢さま!」
「大丈夫よ」
心配そうなアルマに微笑んでみせると、エメラインは右手を前に突き出す。
そして、叫んだ。
「風の刃よ、切り裂け!」
その言葉と共に、エメラインの手から鋭い空気の塊のようなものが放たれた。それは勢いよく飛んでいき、狼型の魔物を切り裂く。
ギャウンッ! と断末魔の声を上げて、その一体が倒れる。
すると、それを見ていた他の魔物たちが怯んだように後ずさった。
「やった……!」
エメラインはほっとすると同時に、自分の中にある魔力の多さに驚いてもいた。
まともに魔法を使ったのは初めてだったが、まさかこれほどとは思わなかったのだ。
「さすがです、お嬢さま!」
アルマが感嘆の声を上げる。
「まだよ。次が来るわ」
エメラインは油断なく身構えると、再び魔力を練り上げる。
それからしばらく、エメラインは休むことなく攻撃を続けたのだった。
疲労困憊となりながらも、どうにかすべての魔物を倒すことに成功した。
「はあっ……はあっ……」
荒くなった呼吸を整えながら、エメラインはその場にへたり込む。
「お嬢さま、お怪我はありませんか?」
「え、ええ……」
アルマに問われて、エメラインは大きく息を吐いた。
ほとんどは精神的な疲労だ。初めての魔物との戦闘で、かなり神経を使っていたらしい。
「よかった……本当にご無事で」
アルマが心底安堵した様子で言う。
苦笑しながら、エメラインは立ち上がった。
「いつまでもここにいるわけにもいかないわね。早く移動しないと……」
そう呟いて歩き出そうとしたときだった。
ガサッという音が聞こえてきたかと思ったら、突然茂みの中から大きな影が現れた。
「ひっ!?」
エメラインは思わず悲鳴を上げてしまう。
そこにいたのは、熊に似た姿をした魔物だった。全身を灰色の剛毛に覆われており、頭部には長い角が生えている。
その魔物は、エメラインとアルマの姿を見つけると、ゆっくりと近づいてきた。
「お嬢さま、逃げてください!」
「で、でも……」
かばうようにエメラインの前に立ちはだかり、アルマは叫ぶ。
だが、エメラインは足がすくんでしまい、動くことができなかった。どうにか魔法を発動させようとするが、焦ってしまってなかなかうまくいかない。
その間にも魔物はどんどん近寄ってきており、ついに二人に向けて腕を振り上げた。