15.父の思惑
屋敷に戻ると、エメラインはまっすぐに父がいるであろう執務室を訪れる。
ノックをして入ると、父は書類仕事をしていたらしく、机に向かっていた。
「なんだ?」
こちらを見ようともせず、ぶっきらぼうに言う父に、エメラインは内心でため息をつく。
「少しお話があります。よろしいでしょうか」
エメラインが声をかけると、父がようやく顔を上げた。
「話ならあとにしろ。忙しいんだ」
そう言って、父は再び視線を手元に戻す。一瞬だけ見えた顔はすぐに伏せられ、艶やかな皮膚の色をした頭頂部が再び目に入ってくる。
「ダミアンさまに婚約破棄されました」
エメラインが淡々と告げると、父はぎょっとしたように顔を上げる。
「な……何を馬鹿なことを……! まさか、何か失礼なことをしたんじゃないだろうな! 今すぐ謝罪して、取り消してもらってこい!」
慌てふためいた様子の父に、エメラインは冷めた目を向ける。
「失礼なことをされたのは、私のほうです。グラスを投げつけられて、怪我までさせられました」
エメラインが頬の傷を指差すと、父は青ざめる。
「そんな……いったいどうして……お前が怒らせたのか? それとも何か気に障るようなことでも……」
「私が怒らせてしまったのは確かです。しかし、私は何も恥じることはしていません。むしろ、謝罪するべきはダミアンさまのほうです」
きっぱりと言い切ると、父は困惑しきった顔で目を泳がせる。
「た……確かに、暴力を振るうのは誉められたことではないが……しかし、たった一度の過ちではないか。許してやりなさい」
「許してやれ? 冗談ではありません」
エメラインはぴしゃりと父の言葉を遮る。
「ダミアンさまが私を粗末に扱ったのは、今に始まったことではありません。幼い頃から、ずっと蔑ろにされてきたのです。それでも、今までは我慢してきました。しかし、今回ばかりは、見過ごすことはできません」
「エ、エメライン、落ち着きなさい……。お前はまだ子どもだ。大人になれば、きっと考え方が変わる。だから、どうか冷静になって、婚約者のことを許して……」
「お断りします。お父さまはいつもそうですね。私の気持ちを勝手に決めつけて、自分の意見を押し通そうとする。そのせいで私がどれだけ苦しんできたか……わかろうともしてくれなかった」
吐き捨てるように言い放つと、エメラインは鋭い視線で父親を見据える。
「せっかく、あちらから婚約破棄してくださったのです。私も、あのような男とこれ以上関わりたくありません。すぐにでも、縁を切りたいと思います」
エメラインの言葉を聞いて、父は愕然とした表情になる。
「だ……だが、これはギャレット辺境伯家も絡んだ婚約だ。ダミアン殿は将来の辺境伯となる方で……」
「あの方に辺境伯となるような資格はありません。そもそもの発端が、辺境伯領、そしてそこの者たちのことを馬鹿にする、ダミアンさまの言動から始まっているのです。それを棚に上げて、一方的に婚約を破棄してきたのですよ」
しどろもどろになる父の言葉を遮り、エメラインは畳みかけるように言った。
父は言葉を失い、呆然としてエメラインを見つめている。
「それと、お伺いしたいことがあります」
そう言って、エメラインは翠玉の耳飾りを机の上に置く。
その途端、父の顔が青ざめた。
「この耳飾りはいったい何ですか? どういうつもりで、私にこれを渡してきたのでしょう?」
エメラインが尋ねると、父はびくりと身体を震わせた。
「それは……だな……」
「お父さまが用意したものなのでしょう? 何故、このようなものを渡されたのか、理由をお聞かせください」
エメラインが強い調子で言うと、父は観念したように息をつく。
「……そうだ。私が用意させたものだ」
そう認めた父を睨むと、エメラインは口を開く。
「では、この耳飾りにはどんな効果があるのですか?」
「……魔力を封じる力がある」
ぼそりと呟く父に、エメラインは眉根を寄せた。
「やはり、そうなのですね。お父さまは、私の力を封印していたのですね?」
エメラインが重ねて問うと、父は気まずそうに視線を逸らす。
「……お前のためを思ってしたことなのだ」
「私のために? ……これが、私にとって良いことだとは思えません」
冷ややかな口調でエメラインが告げると、父は苦渋に満ちた顔をした。
「……お前の魔力は、相当に強い。本来なら、お前をギャレット辺境伯にとの話だった。だが、辺境伯として矢面に立つことになってしまえば、危険だ。せめて辺境伯夫人として、一歩引いた安全な場所に置いておきたかった」
父は、訥々と自らの考えを語る。
「そのため、お前は魔力が乏しいということにした。魔力封じの耳飾りでお前の魔力を封じたのだ」
「……私は、この耳飾りをつけた当時の記憶が、かなりおぼろげです。外したことにより、色々な記憶が蘇ってきましたが、そういったものも封じていたのですか?」
「いや、そのようなことはしていない。ただ、強大な魔力を封じたために感覚が遮断されて、当時の記憶がおぼろげになったのかもしれない。力の喪失感から、心に変化が生じた可能性も……」
自信なさげに言う父の言葉を、エメラインはじっくり吟味する。しばし考えてから、再び口を開いた。
「では、刺繍などが苦手なのもそのせい……」
「いや、それは関係ないだろう」
無情にも否定されてしまい、エメラインは沈黙した。
父は大きくため息をつく。
「とにかく、お前のためだった。辺境伯家に行かねばならぬ以上、矢面に立つ夫が必要だった。お前の幸せのためだ。婚約破棄とは言っても正式なものではない以上、取り消して……」
「嫌です」
父の言葉を遮り、エメラインははっきりと拒絶の言葉を口にする。
「女遊びを繰り返し、暴力を振るうような男を夫にするのが、幸福だと? 本気でおっしゃっているのですか?」
エメラインは冷淡な口調でそう問いただす。父は、ぐっと言葉に詰まった様子を見せた。
「……女の幸福は結婚して、夫を支えて子を産み育てることだ」
父がぽつりと呟いた言葉を聞いて、エメラインの心に怒りがわき上がる。
こんな自分勝手な押しつけのために、これまで人生を無駄にしてきたのか。
「あのような男と結婚して幸せになれると、本気で思っているのですか? それが本当に私のためだと思っているのですか?」
エメラインは静かな声で、しかし有無を言わさぬ語調で問いかける。
その気迫に押され、父は口をつぐんだ。
「私の幸せは、私が決めます。お父さまが決めることではありません」
「だが……」
なおも言い募ろうとする父に、エメラインは強い視線を向ける。
「お父さまが私を思う気持ちは理解しました。けれど、必要ありません。あなたがするべきことは、婚約破棄を受け入れることだけです。そもそも、あの男は辺境伯として矢面に立つような度胸はない、卑怯者に過ぎません」
エメラインがそう断言すると、父は呆然とした顔になる。
やがて、その表情に苦い笑みが浮かんできた。
「……やはりお前は、パトリシアの娘なのだな。わかった。もう何も言わない。好きにするといい」
父はどこか疲れたようにそう言って、肩を落とす。
「ありがとうございます」
一礼すると、エメラインは部屋を出た。
疲労感を覚えながらも、心は晴れやかに澄んでいる。
これでようやく、自分の人生を取り戻すことができるのだ。