13.婚約破棄
エメラインは、ボーナム伯爵邸で開かれるお茶会に招かれていた。
いつもの定期的に開かれる少人数でのお茶会ではなく、大勢を招いての華やかな集まりだ。
しかし、エメラインは気が乗らなかった。それでも断るわけにもいかず、憂鬱な気分のまま会場に向かう。
やや遅れて到着すると、ダミアンはすでに艶やかに着飾った令嬢たちに囲まれていた。にこやかに笑いながら、令嬢の腰を抱いて挨拶を交わしている。
すっかり女遊びも復活してしまったようだ。
うんざりしながらその様子を眺めていると、エメラインに気づいたダミアンは、さも嬉しそうに破顔した。
「やあ、おめでとう」
ダミアンはエメラインに近づいてくると、弾んだ声で話しかけてくる。
何のことかわからず、エメラインは首を傾げた。祝われるようなことは何もないはずだ。
「……何のことでしょう?」
「きみに付きまとっていた犬が、やっと消えたそうじゃないか」
嬉しそうに言われ、エメラインは全身の血が凍るような心地になった。
エメラインの様子には気づかず、ダミアンは続ける。
「自分から辺境伯領に命を捧げたとか。なかなか殊勝な心掛けだね。やっと目障りな下郎が消えて、きみも嬉しいだろう」
一瞬何を言われたのか理解できず、エメラインは唖然とする。
だが、すぐにバートのことを嘲笑っているのだと思い至って、怒りで体がわなわなと震えてきた。
とっさに叫びたくなったが、ぐっとこらえる。言い返さないようにと、エメラインは俯いて耐えた。
「まあ、どうせ無駄死にだろうけれどね。せいぜい、その死体で壁を作るくらいしか能の無い平民だ。我々のような貴族とは比べようもない脆弱な存在でありながら、死に急ぐなど愚かなことだよ」
上機嫌で笑うダミアンの声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。エメラインは黙ったまま拳を握りしめ、爪が皮膚に食い込む痛みで我に返る。
もう駄目だ。我慢の限界だった。
エメラインは、ゆっくりと顔を上げる。
「……ならば、どうして脆弱ではないあなたは戦わず、安全な場所で享楽にふけっているのでしょうか?」
感情を押し殺した静かな口調で、エメラインは問いかける。
「……何?」
ダミアンは不快げに眉をひそめる。
「まして、あなたは未来の辺境伯のはずです。真っ先に駆けつけねばならぬのではありませんか?」
しっかりとダミアンを見据えるエメラインの目を見て、彼もようやく彼女が本気で憤っていることに気づいたようだ。
これまでおとなしく従順だったエメラインの反抗的な態度に、ダミアンは苛立った様子を見せる。
「あんな田舎など、どうなろうが構わない! 田舎者が何人死のうが、関係ない!」
「……っ」
吐き捨てるように言われて、エメラインは絶句する。
「僕は王都でこそ生きるべき人間だ。あの辺境にわざわざ行く必要はないだろう。むしろ平民など、魔物の餌になってくれた方が、後々のためになる」
「……そんな」
エメラインは、あまりの衝撃に呆然となる。
この人は一体、何を言っているのだろうか。彼の言うことが理解できない。
「何故、そのようなことが言えるのですか? あなたが治める領地となるのに……」
信じられない思いで尋ねると、ダミアンは嘲笑を浮かべた。
「それがどうした。僕には関係ないことだ」
もはや話が通じない。エメラインはほんのひとかけら残っていたダミアンへの信頼が、音を立てて崩れていくのを感じた。
「……見損ないました」
ぼそりと呟くと、ダミアンの顔が引きつった。
「なんだと!?」
激昂して詰め寄ってくるダミアンを、エメラインは冷ややかな目で見つめ返しながら、すっと背筋を伸ばす。
「あなたに、辺境伯となる資格はありません」
きっぱりと告げると、ダミアンは目をむいた。
「こ……この女! 言わせておけば! 貴様のような奴とは、婚約破棄だ!!」
次の瞬間、ダミアンは顔を真っ赤にして叫びながら、持っていたグラスをエメラインに投げつけてくる。
グラスはエメラインの頬をかすめ、背後の壁に当たって砕けた。
「きゃあっ」
驚いた令嬢たちが悲鳴をあげる。
エメラインは、自分の頬に手を当てた。熱を持った痛みと共に、血が流れ落ちていることに気づく。
耳飾りの留め金が壊れ、片方の耳飾りが床に落ちた。
それを妙に冷静に眺めながら、エメラインは婚約破棄の言葉を久しぶりに聞いたと思う。
聞き慣れた脅し文句だ。この言葉に萎縮して、いつもエメラインは謝罪してきた。
しかし、もはやエメラインには何の感慨もわかない。
「き……傷つけるつもりは……っ」
我に返ったようで、ダミアンは動揺して声が震えていた。
「婚約破棄、確かに承りました」
エメラインは、ダミアンに向かって優雅に一礼した。
そして、足元に落ちた耳飾りを手に取ると、ダミアンに向き直る。
「では、これで失礼します」
そう言って、エメラインは踵を返した。
「ま……待て、エメライン!」
ダミアンが慌てた様子で呼び止めるが、エメラインは振り返らなかった。
静まり返った会場を、背筋を伸ばしたまま、まっすぐ歩いていく。
その凛とした後ろ姿を、会場の人々は息をのんで見送った。