11.さようなら
それから、エメラインはぼんやりとした日々を過ごした。
ボーナム伯爵夫人の怒りを買ったためか、それともすでに目的を果たしたためか、ダミアンがエメラインのもとを訪れることもなくなった。
エメラインは花嫁修業として苦手な刺繍を続けながら、時折聞こえてくる噂話に不安を募らせる。
魔物がますます活性化しているらしいと、人々は囁いていた。
王都にも不安の声が広まりつつあるようだ。
しかし、父もダミアンも何も動こうとはしない。
エメラインは焦燥感に駆られながらも、何もできることはない。ただ時間だけが過ぎていく。
そして、ある日のこと──。
「お嬢さま」
しばらく距離を置いて会話もなかったバートが、エメラインのもとを訪れたのだ。
その顔は悲痛な覚悟を決めたかのように引き締まっていて、エメラインは思わず息をのむ。嫌な予感が、ふつふつとわき上がってきた。
「本日でお嬢さま付きの護衛を外れることになりました」
「えっ!?」
突然の言葉に驚き、エメラインは手にしていた針を取り落とす。
バートは苦渋に満ちた表情を浮かべていた。
「これからギャレット辺境伯領に向かい、魔物討伐に参加します」
「そ、そんな……! どうして……いえ……」
エメラインは言いかけて、口をつぐんだ。
バートを拒絶したのは、自分だ。それなのに、彼はずっと側にいてくれるのだと、甘い考えを抱いていたことに気づく。
これまで彼は、どのような思いでエメラインの側にいたのだろう。きっと何度も心を痛めたはずだ。
それなのに、自分のことしか考えない身勝手な女など、愛想をつかされて当然ではないか。
「ごめんなさい……!」
「謝らないでください」
「でも……」
エメラインは俯く。すると、ぽたりとしずくが床に落ちた。
自分が泣いていることに気がついたエメラインは、慌てて涙を拭う。
「すみません。お嬢さまを泣かせるつもりはなかったんです」
「違うの……ごめんなさい。私が悪いのよ。私が、あなたを遠ざけるようなことをしたせいで……こんなことになったの」
「違います」
バートはきっぱりと否定する。
「お嬢さまは悪くありません。悪いのは、すべて俺です。俺はお嬢さまを守りたかった。お嬢さまの笑顔を見ていたかった。だけど、俺には力がなかった……それだけのことです」
「でも……」
「お嬢さま」
バートは優しく微笑みかけた。
「辺境伯領は、いずれお嬢さまが主となる地です。その前に、余計なものを片付けてまいります。それが、俺にできる唯一のことです」
決意に満ちたバートの顔を見て、エメラインの瞳からまた涙がこぼれ落ちる。
彼は命を捨てるつもりだと、直感的に悟ったからだ。
「お願い、行かないで……」
エメラインは泣きじゃくりながら懇願した。だが、バートの決心は固いようで、揺るぎそうになかった。
「どうか、手向けにそのハンカチをいただけませんか?」
「え……? これ……?」
ちょうど今、刺繍を終えたばかりの不格好なハンカチを、エメラインは呆然と眺める。以前より少しはマシになったとはいえ、刺繍された花は歪んでいた。
「はい。お守り代わりに持っていきたいのです」
「で……でも、こんな不格好なハンカチを……」
「いえ、お嬢さまがお作りくださったものなら何でもいいんです。だから、どうかそれを俺にください」
「……わかったわ」
エメラインは、ぐしゃぐしゃになった顔を必死に拭いてから、そのハンカチを差し出した。
バートはそれを大事そうに受け取って、胸に抱きしめる。
「ありがとうございます」
嬉しそうに笑うと、バートはエメラインの前に膝をつく。
そしてエメラインの手を取って、真摯な瞳で見上げてきた。
「永遠の忠誠を、お嬢さまに」
バートは恭しく、エメラインの手の甲に口づけをする。その瞬間、エメラインは胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
「お嬢さまのお幸せを祈っています」
「バート……」
エメラインは震えながら、彼の名を呼んだ。
バートは立ち上がり、エメラインに向かって一礼してから、背を向ける。
「待って……!」
エメラインは呼び止めたものの、言葉が続かなかった。
しかし、何か言わなければと焦る気持ちが、背中を押してくれた。
「あのね……私、あなたが……!」
エメラインが声を振り絞ると、バートは足を止めて振り返る。
「その先は、言ってはなりません。お嬢さま」
バートは悲しげに首を横に振った。
「言ったら、俺はその言葉を真に受けてしまいます。だから……どうか、忘れてください」
その言葉で、エメラインは胸が張り裂けそうになる。
バートがどんな思いでエメラインの側にいたのか、痛いほどわかってしまった。
それでも、彼を引き留めることなどできない。彼はもう決めてしまったのだ。エメラインに、それを止める資格などない。
想いを告げることすら、許されないのだ。
エメラインの瞳からは大粒の涙が次々とあふれ出す。それをバートに見せたくなくて、エメラインは両手で顔を覆う。
「さようなら、お嬢さま」
優しい声で囁くと、バートは静かに部屋を出ていった。
一人取り残された部屋の中、エメラインは嗚咽を漏らして泣き続けた。
バートがいなくなってからも、ずっと。