10.伯爵夫人の怒り
翌日、エメラインは定期的に開かれるお茶会のため、ボーナム伯爵邸を訪れた。
そこには珍しく、ダミアンがいた。エメラインは驚きつつ、せっかくの機会なので彼に尋ねてみることにする。
「あの、ダミアンさま」
「……なんだ」
ダミアンは不機嫌そうに顔を歪めたが、エメラインは怯まずに続けた。
「最近、魔物が活性化しているという話を聞きます。ダミアンさまは、そのことについてどのようにお考えですか?」
「……何故、僕に聞く?」
「何故って……ダミアンさまは、将来の辺境伯ではありませんか。辺境伯領は魔物の領土と隣接しているのですから、とても重要な問題だと思うんです」
「ふん……くだらんな」
「え?」
予想外の言葉に、エメラインは目を丸くする。
「まだ辺境伯になったわけでもないのに、そんなこと……。そもそも魔物退治など、騎士に任せればいいんだ。いちいち大騒ぎして、馬鹿らしい」
「そ、それは……」
あまりにも身勝手すぎる言い分に、エメラインは絶句した。
ギャレット辺境伯家はその強い魔力でもって、魔物が住まう地との境界を守り、民の安全を保つことを誇りにしてきたはずだ。
それなのに、ダミアンはそれを『くだらない』と言い切った。
「……ダミアンさま、あなたは……」
「いい加減になさい。そのようなことで、ダミアンを煩わせるものではないわ」
エメラインが口を開こうとすると、横から鋭い声が飛んだ。
視線を向けると、そこにはボーナム伯爵夫人の姿があった。彼女は扇子で口元を隠しながら、エメラインを呆れたように見つめている。
「ダミアンはね、あなたのような凡庸な娘とは違うの。次期ギャレット辺境伯として、日々努力を重ねているのよ。だから、そんなくだらない話を持ち込まないでちょうだい」
「……!」
エメラインは唇を噛み締めた。
悔しくて仕方がなかった。伯爵夫人まで、『くだらない』と一蹴してしまったのだ。
ギャレット辺境伯家の役目を、何一つわかっていない。
あまりの怒りで、エメラインは体が震える。普段ならばこのまま黙り込んでいるだろうが、今日ばかりは我慢ならなかった。
「以前、魔物が活性化した際にはボーナム伯爵家にも犠牲者が出たと聞きました。それなのに……」
「黙りなさいっ!!」
ところが、口を開いたエメラインを遮るように、伯爵夫人は甲高い叫び声を張り上げた。
その迫力に気圧され、エメラインは思わず言葉を詰まらせる。
「いったい何を言っているのかしら! あれは運の悪い事故だったのよ! それに、そんな昔のことを今更掘り返すなんて、無神経だと思わないの!?」
激しい剣幕でまくし立てる伯爵夫人を見て、エメラインは唖然とする。
伯爵夫人は眉間に深い皺を寄せ、怒り心頭といった様子だ。ダミアンですら、冷や汗を浮かべて固まっていた。
「部外者のくせに余計なことに首を突っ込もうとするんじゃないわ! ダミアンの婚約者だというのなら、もっとわきまえなさいっ!!」
「……っ」
エメラインは何も言えなかった。
ここまで怒鳴られるとは思ってもみなかったのだ。
エメラインが押し黙ると、夫人はふんと鼻を鳴らし、ダミアンを連れて去っていく。
一人取り残されたエメラインは、いったい何があれほど伯爵夫人の逆鱗に触れてしまったのかと、しばし呆然とする。
ボーナム伯爵家から犠牲者が出たことが、恥だとでも言うのだろうか。
エメラインとしては、ギャレット辺境伯家が長年守ってきた役割を、軽んじられたことが許せなかっただけだ。しかし、伯爵夫人が怒っている理由は、それとは関係がないだろう。
「……わからないわ」
エメラインは肩を落とし、ため息をつく。
しばし悩んだ末に諦めて、エメラインは帰ろうと歩き出した。すると、玄関ホールに差し掛かったところで、ダミアンの妹であるキャメロンと出会う。
ダミアンとよく似た美貌の主である彼女は、蔑むような目つきで、エメラインを見下ろしてきた。
「あら? 誰かと思ったら、お義姉さまじゃないの。お茶会に行こうと思ったら、今日はもう終わったんですってね」
「……ごきげんよう」
「お母さまを怒らせたのですって? 余計なことを言って……あなた、やっぱり頭があまりよろしくないのねえ」
嘲笑うキャメロンに、エメラインは不快感を覚えた。だが、ここで反論しても意味がない。ぐっとこらえる。
「あなたはね、お母さまの傷を抉ったのよ」
「……どういうことですか?」
「……本当に何も知らないのね」
呆れ果てたという表情で、キャメロンはエメラインを眺める。
「昔、ボーナム伯爵家から出た犠牲者は、お父さまの兄一家だったの。それも、まだ幼い子どもまで犠牲になったのよ」
「え……」
「一家が領地に行こうとするのを、お母さまは魔物が活性化しているから危険だと必死に止めたそうよ。でも、一家は反対を押し切って移動して、魔物に襲われて命を落としたの」
「そんな……」
エメラインは絶句した。
まさか、一家が命を落とすほどの事態になっていたなど思いもしなかったのだ。
「お母さまは、お止めできなかったことを今でも悔いているのよ。あなたは、その傷を抉ったっていうわけなの。本当に、頭が悪い方ってどうしようもないわね」
キャメロンはため息をついた。
「当時はまだおじいさまがボーナム伯爵で、本来なら跡継ぎは亡くなった一家だったそうよ。でも、お母さまのほうが先に男子を授かって、兄夫婦を差し置いて申し訳ないと気に病んでいたらしいわ。そこに、ようやく兄夫婦にも男子が誕生した矢先の悲劇……だから、余計にお母さまは自分を責めているの。わかるかしら?」
「……」
エメラインは言葉もなく、立ち尽くす。
そんなエメラインを見て、キャメロンは馬鹿にしたように笑った。
「まあ、あなたごときの頭では、理解できないかもしれないわね。軽率にべらべらと喋るから、こういうことになるのよ。覚えておくといいわ」
使用人たちが行き交う玄関ホールで、大声でまくし立てたキャメロンは、高笑いを残しながら去っていく。
エメラインはその背中を呆然と見つめることしかできず、しばらくその場から動けずにいた。