episode0〜事件の前日〜
夢を見ていた……。
朧げな視界の中で、幼い妹の姿が僕の目に写った。落ち葉だらけの公園の中、妹は足を擦りむいて泣いていた……。
僕は何もできずに立ち尽くしている……。妹の元に走って行こうとしても僕の足は動かない。
僕はただ彼女を見ていた。
妹は泣きながらも、痛みに耐えて、立ち上がろうとしていた。
しかし、思っていたより傷が深いらしく、上手く立ち上がれていない……。
彼女は諦めずに何度も、何度も、立とうと試みていた……。
こんな状況の妹を見ても僕は未だにこう思っているのだ……。
『大丈夫……風音は強いから。』と……。
不意に強い衝撃が走った……。
世界が急に明るくなる……。
あたりを見回す……。
うん、何も問題ない。
いつも通り、宮嶋は親指と薬指の爪をぶつけあっているし、西本と藤本は顔を見合わせ駄弁っているし、学級長の秋山はノートにがんを飛ばしていた……。
ん……?他の生徒たちはニヤニヤとわざわざ窓側最後尾の俺の席に顔を向け、前の席の麻岡は呆れたような顔で俺を見つめている。
「痛っ……。」
頭の後ろ辺りがジンジン来ている。どうやらいつも通りではないらしい……。
嫌な予感がした。ゆっくりと右を向く……。丸太のように太い足……。
視線を上げる。
ゴリラでもビビる肥大に肥大を重ねた胸筋……。
さらに視線を上げる。
ゴリラでも泡を吹くゴリラ顔……。
筋肉型数学教師、十頭身のゴリラオブゴリラ小桜だ。
この痛みのソースが筋肉であるのは火を見るより明らかだった。
そして、そのイカツイ顔は引火したかのように赤くなっていた。
――――あっ、これ俺がなんかやったタイプのやつだ……。
あまりにも恐ろしい表情によって真っ白になった俺の頭の中の辞書から、必死に言葉を紡いで、
「す、す、すみませんでしたっ。」
と、訳も分からず謝罪した。
「いんやぁ〜散々でしたね〜宜喜くぅぅぅん。そしてんんん?なに惚気てんだよ。」
悪魔の方が品があるんじゃないかと錯覚してしまうような口調で話すのは俺の一つ前の席に座る、幼馴染の麻岡 志紀だ。
もう九年以上の付き合いであるが、未だに何を考えているのかわからない。
そのくせ彼女がいやがる。顔もイケメンだし……。
「やめてくれ……。もう俺のヒットポイントは小桜の発勁でゼロなんだよ。てか何だよそれ?ナニが惚気だ、なにか知ってるなら応えてくれや、麻岡ァ。」
「とぼけるなよ鈍感型主人公の成り損ない……。よだれ垂らしながら風音ぇ、風音ぇとかなんだ彼女にでも振られたか?あっ、そういやお前彼女いないんだったわ。ギャハハハハw。」
とんでもない侮辱を受けたのはさておき、それよりも受け入れがたい……いや、受け入れられない恥辱が俺の中で渦巻いていた。
俺が、寝言で風音の名前をよんでいた?それも何度も?
確かに妹の夢は見たが、俺は根っこからの紳士なはずだ。
妹とはいえ、睡眠中に女の名前を口に出してしまうようなことは無いはず……無いはずなんだ。
「お前wどんだけシスコンなんだよwwそんなに妹が恋しいのか。あとんんん?そんなに仲良かったけ、お前ら?」
「その『んんん?』っていう口癖はいつ指摘しても治らないんだな……。それは置いといて、うん……。あまり良いとは言えないんだよな。」
「そうだよな~。無意識のうちになにか引っ掛かってるんじゃないのか?」
「うーむ……。何かあるのかもしれないけど全く思い当たらない……。」
「ところでこの教室でお前の自我は何秒間保てるのかね?シスコン紳士くん。」
そう言うと麻岡はそそくさと教室を出ていった。そして俺はすぐに周囲の異常に気づいてしまった……。
俺の半径五メートルの四分円の外で、女子も男子も珍しく仲良く話している。多分俺のことについて……。
うん……、これはいけないやつだ……。
『シスコン。』
どこからか聞こえてきたその言葉はクラスメイトの言葉であるのか、それとも自分から出てきたものなのか、もう恥辱と小桜の平手で駄目になった頭では分からなかった。
午後二時半、五限が終わりこれから六限が始まろうとしていたとき、最後列の窓際の席で頭を抱えて突っ伏している生徒から滲み出ている、ドス黒い空気と、周りの生徒たちが放出する、ピンクとオレンジが混じったようななんとも言えない空気が、高校二年E組のクラス内に漂っていた。
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久しぶりに夢を見た。
わたしが公園で転んだときの夢であった。たしか、わたしが九歳のとき、遊具のない、真ん中にイチョウの木が植えてある公園で兄と鬼ごっこをして遊んでいた。
わたしが兄を追い掛けていた……。興奮していたのだろう……。わたしは落ち葉に足を掬われ転んでしまった。
段々とあの日の記憶が鮮明になっていく。
そうだ、もう辺りは暗くなっていたんだった……。幼いわたしは膝を擦りむいて立てなくなってしまい、暗くて、痛くて、不安で、泣いていた……。
しかし、泣いていてもどうしようもないと思ったわたしは立とうと試みた。しかし体に力が入らずうまく立てない……。
ちらりとわたしは兄の顔を見た。兄もわたしの顔を見ていた……。彼の目には涙が浮かんでいて、震えながら立ち尽くしていた。
わたしは今でも宜喜兄さんがなぜ泣いているのか分からない。
ふと目が覚めた。布団から体を起こし、視界を邪魔する前髪を右耳にかける。アラーム時計は午前四時をさしていた。
――――早く起きすぎましたか……。
かと言って再び寝る気にはなれず、布団をたたみ、押入れの中に押し込んだ。
二三回伸びをした後、ふすまを開けて洗面所へ顔を洗いに行った。
寝癖を整え、シワがないのを確認してから、制服に着替える。
しかし、すぐに手持ち無沙汰になったので台所まで朝食を作りにいった。
適当にみそ汁とだし巻き卵を作り終え、空腹を覚えたので、先に朝食をとり、残った食材にラップをしてから私はまた部屋に戻った。
ここまでしてもまだ、四十分程しか経っていなかった。いつも、家をでる時間まで、あと一時間もある。
「時間が余るのはなんとなく不快ですね。」
と、一人ごとを言いながら私は机に置かれてあるイアフォンで耳をふさぎ、最近読み進めている本を取り出す。
あまり面白くないラブロマンスものの小説であったが、読むのを諦めてしまうと負けたような気するので、時間があるときにこうして読んでいる。
四十五分くらいたっただろうか、私はゆっくりと本を閉じ、誰に話すわけでもない、この本への悪態を頭の中で愚痴りながら玄関を出る。
「行ってきます。」
返事は無い。
祖父はもう仕事に出かけていていない……。
お母さんと兄さんは寝ているのだろうか……。二人とも遅刻しないことを祈ってから私は家を出た。
電車に揺られて五分、天狗堂駅の西口を降りて、真っ直ぐ道を二十分ほど歩き続けると、私の通う学校、御岳ヶ原大学付属高等学校の校門が見える。
築百年以上の校舎を未だに使っていて、様々なところの塗装が剥げている。
そのため、ボロくさい教会のような雰囲気がある。
私は無感動に校門をくぐり抜け、自分の教室がある3階に向かう。
視線を感じる……。騒がしかった廊下が私が来たことにより急に静かになった。
私は足早に自分の教室に入り、音を立てずに席に座る。
また、あのつまらない本を開きながら物思いにふける。
ふと夢にみた幼い頃の兄の顔を思い出す。
「最近、兄さんの顔を見ていませんね……。」
と、小さく呟いたが、教室の喧騒に紛れて、誰も聞き取ることができなかった。
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なんとか地獄のような空気を耐えきった俺は、終礼が終わると、ハヤブサが、反復横跳びをするよりも速いステップで教室から脱出し、陸上部がなぜスカウトしないのかと疑う程の全力疾走で東校舎を出た。
穂野高校のダサい校旗が俺の視界にちらつく。
俺は後ろを振り返り、全力で走ってしまったことへの恥隠しとして、自分が二年間通ってきた校舎をまじまじと見た。
鉄筋コンクリートでできた豆腐のような東校舎、その隣にある、部室と図書館のある西校舎。
西校舎は少し趣味を凝らしたつくりになっていて一階の壁がほとんどガラス張りになっている。あとなんか尖っている。
唯一、粋な建物である西校舎も帰宅部の俺には全くと行っていいほどに縁がない。
聞いた話によると、毎月新しい部活が発足しては他の部活が部室不足で潰れているらしい。
部員がいなければ、その部は学校からブラックリストと認定され、解体させられる……。
故に西校舎は青春を愉しみ尽くしている人生の勝者たちが集う桃源郷……。いや、血で血を洗う魔境といわれているのだ。
そんなことは一切気にせず、俺は駐輪場の方へ向かい、
「俺っちの〜チャリオット〜♪」
と即興で作った歌を歌いながら自分の自転車を探し当て、そのまま帰路に着くのであった。
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私は校舎裏によく呼び出される。呼び出され方は様々で私の下駄箱に手紙が入っていたり、直接教室にて呼び出されたりもする。しかし、彼らは決まって校舎裏を選ぶ。
――あそこに魅力を探す方が難しそうですが……。
と心のなかで考えていながら、珍しくも直接会いに来た男子の後ろを黙ってついていく。
やはり陰気な場所だ。明るい場所は全くと行っていいほどなく、五月だというのに、草木は萎れていて、ジメジメしている。
そんな中、私をここへ連れてきた男の子はポケットの中にある何かを忙しなくいじくっている。数十秒そのようにしていた後、勢いよく私に頭を下げて、愛の告白をし始めた。
「天笠さん……。好きですっ!僕と付き合ってください!入学式の時から貴女のことが気になっていました……。僕、一目ぼ「ごめんなさい。お断りします。」」
今、読んでいる小説の一節のようなベタな告白のせいで気分が悪くなり、私はいつもより、強い口調で告白を断った。
一体どんな風に生活していたら、そんな告白で女の子がその気にできると勘違いできるのかと、私は苛立ちを通り越して呆れていた。
――大体何なんですか、一目惚れって……。私の容姿を褒めてくださるのは有り難いですが、だからといって全く話したことがない相手に言うにしては「気味が悪いですね。それって私の体目当てって受け止められますよ、それ…………あっ。」
どうやら途中から口に出ていたらしい……。私に思いをぶつけた男の子は、のぼせたように顔を赤らめてから走っていった。
――悪いことをしましたね……。私はもう見えなくなった彼に対して少し申し訳なく思いながら、後十分程で始まるであろう終礼に備えて教室に戻った。
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自転車でだいたい三十分程入り組んだ道を走り続けていると、突き当りに大きめの日本家屋がある。
まぁ俺の家なのだが……。
周りの建物は、アパートや、コンビニのような、現代的な建物が並んでいるのに俺の家だけ日本家屋……。
俺は少しだけ肩身狭い思いで、門戸の鍵を開ける。
ああ、鍵は空いているようだ……。風音がもう帰っているのか。俺は
「ただいま〜。」
と言いながら玄関に上がった。
自分の部屋に向かい、部屋着の甚平に着替えて、寝転がりながらスマホををいじる。
晩飯の時間になり、帰ってきたじいちゃんと母さんと風音が唯一洋風の作りである食卓に集まった。
「お〜今日はゴーヤチャンプルね?美味しそうっ!ふふふっ風音ちゃ〜ん、今日もかわいいね〜。」
母親がいつも通りのキャピキャピしたテンションで話してきた。風音も
「おかえりなさい、お母さん。」と朗らかに返した。
皆が席に付き、俺は食事を始めた。
料理はいつも風音が作ってくれる。長年、風音の飯を食べてきている身であるが今もなお、味に飽きた試しがない。
じいちゃんはもう七十だというのに、全く剥げない豪毛な頭をかきながら、鋭さが残る瞳で、俺を見据えてから……。
「宜喜……。想い人ができたのか。」と流石に亀でも驚くのではないかと思うほど唐突に聞いてきた。
俺は思わず味噌汁を吹き出しそうになるのをこらえながら、
「違うが、何故に……?」
と、辛うじて言葉を繋げた。
風音は一瞬こちらを見たが直ぐに黙々と食べ始めた。
「顔でまるわかりだ……。その顔は、女の類で悩む男の面だぞ。今までもそのような若者にはよく会ってきたものであったが……。まさか私の孫がそうなるとは……。」
「勘違いしているところで悪いがじいちゃん……。俺は誰からもマークされていないし、マークしたつもりもないぞ。」
「そうか……。照れてるのだな、焦らず機を見て想いを伝えるといい……。」
耳が遠いのかボケているのか知らないが、これで会社の会長が勤まっているのか本気で不安になってしまう。
もう、言い返す気が失せて俺は
「健康に気をつけて。」
とだけ、小さく呟いてから食事に戻った。
風音と特と言った会話もなく、夕飯は終わった。
迷路のような長い廊下を渡り、応接間にある仏壇の元に座り、線香に火を付ける。
俺は今日、麻岡に言われた引っかかることについて座布団にあぐらをかきながら考えていた。
「風音関係で俺、何かあったかな……。だめだ、最近会話らしい会話してねぇわ……。
あいつの入学式のときになんかあったっけ……?
だいたい三年も、まともに顔を合わせてないんだ。
……いやなんで同じ屋根の下でそんなにもコンタクトがないんだ……?」
逆に今までの日常に不安を感じてきた。ぶつぶつと独り言を言いながら思案していると不意に眠くなってきた。
――へんな頭の使い方をしたせいかな……。
俺は自分の部屋に戻って畳に横になり、スイッチが切れた掃除機のように眠りについた。