恋の芽
(数学、意味わかんない……)
授業後、朝倉桃は自席で突っ伏していた。桃は成績が悪い方ではないが、高校に入ってからというもの数学が理解できず苦しんでいた。
桃は、次の授業の準備をしなきゃなと起き上がり、ぐっと背を伸ばす。
「朝倉ちゃん、今いい?」
すると、同じクラス女子生徒――花沢春姫が話しかけてきた。春姫は空いていた前の席に座る。
「うん、大丈夫だけど」
「あのね、朝倉ちゃん放送部なんだよね?」
「うん」
「私は3年の翠川翔先輩と寮で一緒なんだよね」
「そうなんだ! 確かに寮の話していた気がする」
「うん。……それで、ね」
「?」
春姫が話始めたかと思ったら、ぴたっと止まり、話しづらそうな表情を浮かべた。その顔はどことなく赤い。
「翠川翔先輩って、彼女いるのかな? ……というか放送部の部長さんと付き合ってる?」
「へ?」
× × ×
「付き合ってないよ」
部活の後、自転車と徒歩通学の碧・桃・朱音・蜜柑は、学校近くのコンビニでアイスを買い、たむろしていた。休み時間に春姫に聞かれたことを解決するために、桃が誘ったのである。
「よく聞かれるんだよねー、まぁ、3年2人しかいないししょうがないのかもしれないけど……、まさか桃ちゃん翠川君のことー-」
「違います! 友達です! 友達に聞かれて!」
そっかーとからかうように言い、蜜柑はアイスに口付ける。
「本当に、翠川先輩モテますよね」
それまで、静かに話を聞いていた朱音がボソッとつぶやく。
「そんなにモテるんですか?」
「まぁ、顔良し、声良し、性格良し、成績も運動神経もいいからね。長男で年の離れた妹と弟が居るから包容力があって、女の子の扱いもちゃんとしてるし……、信じられないぐらいモテるよ」
「私も時々、聞かれます。『翠川先輩って彼女いるの?』って」
「「わぁ」」
事実を知らなかった碧と桃は思わず声を上げる。
「……あの、翠川先輩の好みのタイプってわかります? いや! その子に聞かれてて! その子は寮で翠川先輩と一緒らしいんですけど!」
桃は焦って言い訳を捲し立てる。蜜柑はその様子に「わかってるよ」とケタケタ笑う。
「えー、自分のことを好いてくれる童顔の子かな? 多分足より胸派?」
「元カノさんはそんな感じでしたね」
春姫は、スレンダーで大人びた顔立ちの子であった。他に情報はないかと、桃はさらに質問を続ける。
「……今は彼女いないんですよね?」
「うん。……でもその元カノと別れるときに揉めてから新しい彼女作ってないんだよね。それまでは、初見で告白みたいな子はともかく、知ってる子に告白されたら、断らなかったらしいんだけど」
「私の同級生もつい先月告白したら、受験に集中したいからって断られたって言ってました」
「受験勉強ゴリゴリにやってますってキャラでも無かろうにね」
「そ、そうなんですか」
桃は、顔を赤らめながら相談してきた春姫の表情を思い出し、少し気まずい気持ちになった。いくら寮でのつながりがあっても、今の状況ではふられる可能性が高そうだ。
完全に巻き込まれてここにいる碧が、ふと呟く。
「彼女作らなくなった理由って何なんですかね?」
「元カノさんが蜜柑さんに喧嘩吹っ掛けて、いろんなところに支障が出たからじゃない?」
何事もないかのように朱音が答えた。碧と桃は驚いて目を丸くする。蜜柑はすっと目をそらすのだった。
× × ×
1年前、食堂。
蜜柑は食堂で友達と3人組でご飯を食べていた。
「何で食堂のキーマカレーってこんなにおいしいんだろ」
「うちの食堂は割と何でもおいしくない?」
「蜜柑、いつも弁当なのに、キーマカレーの日だけ食堂行くのウケる」
3人は食堂の長机の端でキャッキャとご飯を食べる。すると、蜜柑の体に影が差す。
「隣良い?」
「モグモグ……、どうぞー」
蜜柑の隣に2年の校章を付けたかわいらしい少女が座った。少し遅れて、少女の友人らしき人物がやってきた。
学食で相席になることはよくあることだ。態々、断りを入れない生徒も多い中で、許可を求めた少女に対し、蜜柑は礼儀正しい子だなと思った。
「蜜柑―、英語の課題後で見して」
「うん。あ、でもーー」
「葉山さん」
突然隣から声がする。蜜柑は自身の友達との会話を止め、話しかけてきた少女に振り返る。
「はい?」
「今、いい?」
「うん?」
(知り合いじゃないはずだけどな……、誰だ)
蜜柑は視線を彷徨わせる。一瞬視界にはいった友人たちが微妙な顔をしている様な気がした。
「翔君と仲いいの?」
「(翔君? ……あぁ、翠川君か)……まぁ、同じ部活だしそれなりにーー」
そこで、蜜柑はあることを思い出す。
(この子、翠川君の彼女か!)
対応をまずったかもしれない。この場合「あんま仲がいいって感じではないかな、部活が同じってだけ」とかごまかした方が当たり障りなかったのでは……と、蜜柑は冷や汗をかく。
目の前の少女――確か安田、いや有馬芽衣はご飯に手を付けず、暗い顔で笑っていた。
「今日はお願いががあって」
芽衣はスッと、蜜柑に目を合わせる。
「私、翔君と一緒に帰りたいの」
「お、お願いしてみたらいいのでは? 翠川君に」
嫌な緊張感が走る。対応を間違ったらいろいろな意味で死が待ち受けているだろう。
芽衣は何も言わない。蜜柑が何か言うのを待っている。
(というか、翠川君寮生なんだから、帰り道も何も……)
「え、まさか、3階の放送室から校門まで、私が翠川君と帰るのを止めろって言ってるの?」
5分程度だぞと驚愕する蜜柑と反対に、芽衣は満足そうな顔であった。
「それは、あの、無理があるというか、部活の打ち合わせすることもあるし」
「うん。でも、翔君優しいから心配なの」
その時、蜜柑の頭の中で何かが切れた。蜜柑は争いごとが嫌いで沸点は低くない方だ。しかし、売られた喧嘩はきっちり買う性格だった。
「……やっぱり“やさしい”翠川君にお願いした方がいいよ。というか、『翔君優しいから心配』ってさ、私と浮気するかもって思ってんの? それを私に直で言うのはさ、私にも翠川君にも失礼でしょ」
「私、そんなつもりじゃ……」
蜜柑が捲し立てると、芽衣の目はうるんでいた。蜜柑が周りを見渡すと、いつも賑わっている食堂がシンと冷えているのに気が付く。
数人の生徒がこちらを伺っている。蜜柑の2人の友人は「やるやん」と目をキラキラさせるのが1人、顔を青ざめさせているのが1人。芽衣の友人は心配そうに芽衣を伺っていた。
蜜柑は腹をくくり、何事もなかったかのように食べかけのキーマカレーを食べ始める。
(やっちゃった)
× × ×
「まぁ、そういうことがあってね、うん」
気まずそうに、蜜柑は翠川の元カノとのいざこざを語った。
「その後、いつの間にか別れてたんだよねー。他のとこでも色々やらかしてたらしいし。まぁ、翠川君はそこから告白を受け付けなくなった。「私のせい?」って聞こうかと思ったこともあるけど、自意識過剰でキモイかと思ってやめた」
「その事件の後でしたっけ? 翠川先輩の悪名が広がったの。それで落ち着きましたよね、翠川先輩のモテキ」
「悪名?」
「“メンヘラ製造機”ってね」
蜜柑はすでにアイスを食べきり、ゴミで遊んでいた。
「まず完ぺき真人間の傍にいる事に耐えられなくてヘラる。あと、みんな優しい翠川君の特別になりたくて告白するんだけど、翠川君は彼女を特別扱いするわけじゃなくて、彼女出来ても女友達に優しいままだから、彼女がヘラっちゃうんだよね。私も知らないけど中学の時の彼女も最終的にヘラったらしいし、翠川君のことが好きな仲のいい女友達もヘラる。おまけに「俺と彼女どっちが大切なんだよ」って男友達もヘラる」
「普通の人が他人に60の優しさで恋人には90の優しさを与えるところを、翠川先輩は友達にも彼女にも80なんだと思います」
「確かに」
翠川と親交の深い蜜柑と朱音は、好き勝手にずばずば分析する。
碧は口を開け、違う国の話のように話を聞いていた。桃も目をパシパシ瞬かせる。
「まぁ、だからさ、」
蜜柑は桃の目をしっかり見つめた。
「あんま、告白とかはお勧めしないかな。その友達」
× × ×
次の日の朝、桃は登校するや否や、自席で頭を抱えた。
(どうしよ、翠川先輩告白全部断っているとか……でも、言わなきゃ、まだ春姫ちゃんは来てないけど)
桃は教室の扉を睨みつけていた。数分経ったのち、春姫が登校してくる。
「は、春姫ちゃん! おはよう!」
「朝倉ちゃん、おはよー」
「あのね、翠川先輩のことなんだけどーー」
桃はきわめて明るく春姫に近づき、昨日蜜柑から聞いたことをぼかしながら話した。
「……そっかー、いや、寮の先輩もさ、なんか言いにくそうにしてたから、なんかあるのかなって思ったけど」
「あ、そうなんだ」
春姫は落ち込まず、納得したようだった。少し遠くを眺めたあと、春姫は何か決心したようだった。
「でも、やっぱ、告白しようかな」
「え⁉」
予想外の言葉に桃は驚愕する。思わず大きな声を上げてしまう。
「自己満だけど、ワンチャン付き合えるかもしれないし」
「や、あの、今全部告白断ってるってーー」
「うん、でも自分の気持ちに区切りつけたいし」
清々しい表情の春姫に、桃は困惑する。理解が追いつかなかった。春姫はそんな桃の様子に気づいていないようで、こぶしを握り締め、ルンルンとテンションをあげていた。
「……そういえば、翠川先輩のどこが好きなの?」
「うーん。優しいとことか、気を使えるとことか? でも性格はあんま知らないから……」
「知らないのに、告白するの⁉」
驚き、非難するような発言になってしまった桃に対し、春姫は気にせず続ける。
「んー。もちろん、友達になって親友になって恋人になる手順をとる人も多いと思うけど、私はちょっと知っているだけの人と、特別な関係になりたいから告白するなー。だって友達にしたい人と恋人にしたい人は違うじゃん!」
桃は、自身にはない春姫の考えに感心する。
「告白ってそんな重い物じゃないよ!」
カラッと笑う春姫はとてもかわいらしかった。
それからしばらくたったある日、泣きはらした顔で春姫が登校してきた日があった。桃は告白したのかなと察したが、泣きはらした春姫を意外に思っていた。
(「告白ってそんな重い物じゃないよ!」って言ってたけど泣くぐらい好きだったんだな)
桃の手元にはラジオドラマの台本があった。先日、蜜柑から初めての収録をすると告げられていた。
(好きってなんだろ。この話の中でもポップな感じの好きと重い感じの好きの2つがある。春姫ちゃんの好きはポップな好きかと思ってたら、泣くぐらい好きだった……そもそも私が考えてるポップな好きって?)
その時、瞼の奥に一人の男子生徒の顔が浮かんだ気がしたが、桃は気づかないふりをした。