梅雨明けの向日葵
雨が好きです。太陽は嫌いです。
私は雨が好きだった。いや、実際には雨というより、雨の日に歌う私自身が好きでありました。私が雨と歌えば、その雨は私のものでありました。
花の中では紫陽花を愛しておりました。
雨が多い時期になると、私の演奏は止まらなくなりました。
紫陽花と笑い合い、窓にぶつかる雨音と歌い、時には蛙達と雨空を見ながら昼寝をしたりするのです。私は毎日家にいて、時折雑誌で見つけた出版社に歌を送っては、突き返される日々を送っておりました。たまに、私より年齢が下であろう男に、「素晴らしい歌声ですね」と揶揄されることもあったのです。それでも私は歌を愛しておりました。自分自身のこともまた、愛しておりました。
先に雨が好きだと申しましたが、それに対比して、太陽が心底嫌いでありました。太陽は、なんの苦労も知らず、笑って生きている人間しか照らしません。文字通り殺したいほど、嫌いでありました。嫌いなんて言葉では片付けれない。嫌いでありました。
それはまた梅雨の蒸し暑い雨の日で、一段と蛙達が歌っていたことをよく覚えております。庭先の紫陽花は確か紫色でありました。今年は青が生まれないのか、と残念がっておりました。
「綺麗ですね。」
雨の声と共に、一人の女の声が混ざりました。最初は理解が出来ませんでしたし、何より、雨の声を押しのけて入ってきたことに、酷く憤りを感じておりました。
無愛想な顔で、声のするほうを振り向くと、朱色に黄色がほんのり入り交じったような着物を着た女が、庭先に立っておりました。私の色がない庭に浮かび上がる着物の色でありましたから、少し驚きました。ただ、思っていたよりも不快感は覚えませんでした。
「何の用ですか。」
久々に人と話すな、と考えながら女にそう問いかけます。
「綺麗だっだもので。」
と、また先程と同じことを繰り返すのです。
女の声は、甘いわけでも、低いわけでもなく、ただ、雨の声がいくら大きくても、私の耳にはっきりと届くのです。耳元で囁かれているような、鼓膜を噛み砕かれているような声でありました。
「馬鹿にするつもりならお帰りください。そして二度と来ないでください。」
昔から捻くれ者でありました私は、そんなことしか言えませんでした。ただ、本心でもありましたから。
「あなたは雨とお話ができるのですね。」
私は少し目を見開きました。そんなことを言われると思っていなかったのもありますが、私の雨たちへの感性を否定しなかったのは、この女が初めてだったのです。
「私も少し混ぜていただけませんか。隣で聞いているだけで良いのです。」
女の肩は、傘を持っていなかった割には、微塵も濡れていませんでした。
その女は「静子」という名前でありました。名前の通り、あまり口を開かぬ、静かな女でありました。雨が降った日に限り、静子は、昼過ぎ頃に私の家へ来、私が、ただら雨たちと歌うのを、黙って眺めているのです。そして、歌が終わったら帰る。それだけでありました。ただ、雨が降った時にのみ来るのです。
梅雨の時期は長くても2ヶ月程でありますから、いつか終わるだろうな、という気持ちは常にありました。静子が隣におり、雨が私に囁いてくれる最中も、この声が止まったら、静子と私も死ぬのだろうなと思いました。
梅雨の終わりかけ、あまり雨も振らなくなってきた頃、謎の胃痛で町医者の元へ駆け込んだことがありました。いつもなら体調の不良など放っておくのですが、その日はなぜか胸騒ぎがし、足が医者へ向いたのです。医者は私に「癌ですね」と告げました。丸眼鏡の、少し小太りな、気持ち悪い医者でありました。
「癌ですか。」
「癌ですね。」
「…癌ですか。」
「癌です。」
実に不毛な会話でありました。ただ、私はくちにだしても、脳で繰り返しても、なかなか飲み込むことが出来ませんでした。
「まあ、もってあと、1か月ほどでしょう。」
「…」
特に、この世に未練があるわけではありませんでした。
伴侶もおりませんでしたし、無欲でありましたから、何歳まで生きたいとか、何かをするまで死ねないとか、そう言った気持ちは全くありませんでした。
ただ、いざ、あと1か月で自分がこの世にいなくなると思うと、何か、こう、恐怖ではありませんが、何か、こう、こう、何か、こう、思うものがあったのです。
何か、こう、あったのです。
「それ」を告げられた次の日も、静子はやっぱり来ました。雨が降っていましたから。けれど私は特に何も言わぬままでした。別に言う必要はないと思ったのです。静子と出会い、3か月かそこらが経ちましたが、どうせこの女は自分を見下し、優越を味わうために、私のそばに来て歌を聞いているのだろうと、この女は、そう、まさに、太陽のようだと思っておりました。
私はあの小汚い医者を、良いと思ってはおりませんでしたが、どうやら医者は医者であるようで、月末になるにつれ、私の体調は目に見えて悪くなっていきました。
雨が語りかけてきても、歌うことはあまり無くなり、微笑むことでさえ、体力を使うようになっていきました。静子は、私の家に来て、寝たきりになっていた私に、少し驚いたふうを見せましたが、またいつもと変わらず畳に座っては、ぬるい風しかこない団扇を仰いでおりました。
1か月経ちそうな頃、私の体調は、当たり前ですが良くならず、血も吐くようになって参りました。時も場所も選ばず血は喉を登りますから、静子の前でも吐くことが何度かありました。しかし静子は、うるさく心配したり、血を吐く理由を問い詰めたりせず、ゆっくり私の背中をさすっては、やっぱり、団扇を仰ぐのです。
私は以前、「静子さんはどうして雨がすきなのか。」と尋ねたことがありました。静子は、少し虚空を見つめ、こちらを見もしないまま、言ったのです。
「雨の日は、涙が見えないでしょう。」と
私はその意味が、全くわかりませんでしたが、静子の長い睫毛と、大きな瞳から涙が流れるのか、と想像すると、見てみたい気もしたのです。
この、顔色変えぬ、すんとした女が、どのような顔で泣くのか。
今思えば、それが私の、唯一の、未練だったかもしれませんね。
ある時、静子が来た頃、私は、うってかわって体調が良くなり、水を欲したのです。布団から意気揚々と出ようとした時、心は元気にも関わらず、体が全く動かなかったのです。こんなに気持ちは晴れやかで、元気であるのに。
「死ぬのですか。」
と静子が私に聞くのです。初めて出会った時と同じような、あの、「綺麗ですね。」と私に言った時と同じような、あの、喋り方で。
「死ぬのでしょうか。」
「死ぬのでしょうね。」
静子は、やっぱり声色を変えず、淡々と喋っておりました。私も淡々と返しておりました。色で例えるなら、そうですね、私の好きな、紫陽花の色でしょうか。淡かった。
私に極力触れなかった静子が、私の頭を、ゆっくりと膝に乗せたのです。頭に昇った血が一気に下に降り、少し吐き気を催しました。
「もう歌われないのですか。」
「そうかもしれません。」
その時は、蛙も、雨も、なにも聞こえませんでした。静子からは、少し暖かい液体が落ちておりました。
そうか、この女は、こんな顔で泣くのだな。こんな顔で、そのほんのり赤い頬と、少しそばかすの入った鼻筋に、そんな風に涙を落とすのだな。
「静子さん。」
「はい。」
「笑ってください。」
「は」
その時の静子の顔が、多分私が見た中で、初めての、最後の、驚いた顔であったかと思います。
「笑ってください。」
私はうわ言のように繰り返しました。静子は横に結んだ唇を、口角を震えさせながら、出会ったときのように、庭先に立っていた時のように、笑ったのです。
静子、静子さん、静子。
私はやっぱり太陽が嫌いですが、
そう、悪いものではなかったかもしれません。
来年は、紫陽花の隣に、向日葵でも植えてみようか。
そんなことを考えたり、して。
雨が好きです。太陽は、