十二月五日 その一
私は、朝からそわそわしていた。
今日、上杉家より吉良上野介がやってくる。松竹さんによれば、若殿の左兵衛義周様は私のことを気に入った、というより世にも珍しいもののように、義父である吉良上野介の耳にも入れようと思ったらしい。そうなれば、一目見ようと思うのが人情。
つまり、私は天狗に拐された女として、先代の当主だった吉良上野介にお目通りが叶うということだ。
見世物扱いはともかく、あの吉良上野介に会える。本物の、歴史上に生きていた上野介だ。こんなこと、どう願っても普通に叶えられるものじゃない。当たり前か。
でも私は会える。
忠臣蔵の悪役。リアル上野介に。
とはいえ、会ってみればおそらくどこにでもいるおじいさんだろうとは思っている。映画やドラマでは、悪役専門の俳優が憎らしく演じるから悪人に見えるのであって、あんな人間がどこにでもホイホイいるはずがない。
お屋敷にお世話になっていても、自由に出歩けるわけではない。どこからともなく現れたおかしな身なりのおなご、という私の話はもうお屋敷中に広がっているようだったけれど、お屋敷の中に女性はおらず男だらけのため、面倒ごとを避けるために一日中ほとんどお部屋の中だけとなっている。退屈なことこの上ない。
刺激が欲しくなっているのも事実。
今日のお目通りを意識してか、夕べはお風呂にも入れてもらった。
分かってはいたけどシャンプーもボディソープもなく、渡されたのはお風呂用のぬか袋。冬だから汗もかかないし、外に出ないので汚れもしないからそれはいいけれど、困ったのは上がった後。
江戸時代にバスタオルで身体を拭く習慣はない。麻の浴衣を渡されて、それを着て身体のしずくを取るとは知っていたけど、非効率なことこの上ないし寒いし、大変だった。
お昼ご飯を済ませてしばらく経ったころ、お屋敷の中がにわかに慌ただしくなった。遠く聞こえてくる人の声に、吉良上野介が到着したと分る。
呼ばれるまでにはしばらくあるだろうと、落ち着こうと努力したものの、なかなかそうもいかない。心の中で今か今かと待っているうち、やがて襖の向こうからお声がかかった。
開けたのは初めてお会いするお侍さんで、齋藤十朗兵衛様と名乗った。付いてくるように言われ、しずしずと後ろに従う。
廊下を通り、途中の部屋を過ぎ、齋藤様が立ち止まると、閉まったままのふすまの前にかしずく。
戸口で中の方と二言三言交わされた後、私を振り返った齋藤様が言った。
「どうぞ、中へ」
襖が開かれる。
正面上座に、あの若様、義周様が座っている。そしてその横、地味だけど仕立てのよさそうな着物のおじいさんがいた。
他にお付きの方がお二人。お部屋の隅には、松竹さんよりもさらに若い茶坊主さんが、茶道具とともに控えている。
私は、正座をしたまま頭を下げてお声を待った。
「むつみと申したな。良い良い。これへ参れ」
若様のお声がかかる。目を伏せたまま膝で擦り歩きながら中へ入ると、部屋の隅に縮こまるように控えた。
「堅苦しゅうするには及ばず。表を仰げよ」
そう言われ、そろそろと顔を挙げる。上目遣いにみた若様はこの前と同じように、少し陰があるが穏やかな笑顔。
その脇の立派な着物のおじいさんは、丸顔にどこと言って特徴のない、本当にどこにでもいそうな庶民的な顔立ちの人だった。
――この人が、あの吉良上野介?
そのおじいさんが、私の顔をじーっと見ながら口を開いた。
「左兵衛殿、これが天から落ちてきた女子であるか?」
「左様にございます」
若様が応える。二人を前に、私は何も言えずただ黙って固まっているだけ。
「むつみ、と申すそうじゃの。隠居の吉良左近義央じゃ」
そう言った後、うすい笑いを含みながら付け足した。
「世間では、こうずけのすけ、と呼ばれおるがの」
本人だ。
この人が吉良上野介だ。
いざとなると、やっぱり何も言えない。そんな私に若様が言った。
「直答を許すぞ。思いのまま話すが良い」
「……むつみ、と申します。不調法者なれどお屋敷にてお世話になり、心より御礼申し上げます」
そう言って、また畳につくくらいに頭を下げる。
「うむ、仔細は左兵衛殿より聞き及んでおるが、天狗に拐されたとは誠であるか?」
「あ……いえ、その件はあいにくと委細の覚えがなく」
義周様が上野介様に向く。
「されど父上、初めに見つくし中間によれば、天より落ちてきたが如く、にわかに現れたとの由。当人も覚えがなく、やはり怪生の物の仕業かと」
「ふうむ。まこと異なことがあるものよのう。とはいえ、現れし者がこのような小さき乙女にてよかったのう。左兵衛殿」
「は、まぁ……それはそれで」
「さしずめ天女のような話であるの。ことによると、天狗とか申すもの、あるいは神仏の仮の身かもしれぬ。左兵衛殿と天女との巡りあわせじゃ」
そう言って、上野介様はさも可笑しそうに笑った。
義周様はと言えば、ご隠居の上野介様にからかわれて苦笑いをしている。
今は親子とはいえ、実の祖父と孫だ。この年、上野介様は確か六十二。義周様は十八のはず。年季の入り方が違う。
「ときにむつみとやら、当家に落つる前の委細は、いささかも覚えがないか?」
上野介様に訊かれた私は一瞬迷ったが、意を決して返答した。
「されば、恐れながら、お耳に入れとう儀がございます」
「……とは、なんぞ思い出したか?」
義周様の言葉に、じっとお顔を見る。私の視線に何かを感じた義周様が心得た様子で言った。
「構わぬ、申してみよ」
私が顔を伏せる。
「……まことに恐れ入ります。はなはだ不躾なれど、ご隠居様、お殿様お二方のお耳に入れとうございます」
「なに?」
場の空気が乱れた。頭を下げていても、お付きの人たちの困惑しているようすが分かる。ずうずうしく人払いをしろなぞと、きっととんでもない無礼者と思われていることだろう。
お殿さまたちがどう反応するのか、畳の目を見ながら待った。
「良い良い。これ大須賀、一学、しばし下がっておれ。春斎よ、そちもよいぞ」
上野介様だ。
その言葉にホッと胸をなでおろす。
控えていた人たちが、心残りな様子ながら下がっていく。私は、一学と呼ばれた人を目で追った。忠臣蔵で一学と言えば清水一学。講談では一角とも呼ばれるが、吉良方で奮戦した勇士と言われる。だが実際にはまだ若いお侍さんだ。
襖が閉められ、私たち三人のみとなった。
さあ、ここからが勝負。失敗すれば頭のおかしな怪しい者として、どこかに閉じ込められるかもしれない。
そうならないことを祈りつつ、大きく深呼吸をすると、私は話し始めた。
「どうか、私の申し上げますこと、戯れ言、夢語なぞと仰せにならず、お聞きくださいませ」
「ふむ、相分かった。申してみよ」
「本日は元禄十五年十二月五日でございますね」
「左様だが?」
義周様が頷く。
「私の生まれ年は、平成と申します」
「へいせい? はて……聞かぬ年だな」
左兵衛様と上野介様が目を見合わせる。
「平に成ると書きます」
「平らかに成るか。吉音じゃの」
上野介様が頷く。
「だが、聞き覚えもない。そなたの歳なれば、この元禄、上っても貞享であろう?」
「はい。平成とは、この元禄よりおよそ三百年ほど先の世でございます」
言い切って、私は思わず顔を突っ伏した。