十二月十六日 その二
布団に横たわる左兵衛様と二人きりのお座敷で、私はただそのお顔を見つめるしかなかった。
「むつみよ。そなたの心中、身も存じておったかのような気がいたす。さりながら、身はそなたへの気遣いはおろか、むしろそなたに甘えてしもうた」
「左兵衛様、そのようなお心、無用にございます。初めから何のお役にも立てなかったのは私の方でございます」
「いや、ちがう! それは違うぞ、むつみ」
左兵衛様が思わず身を起こそうとして、ウっと呻いた。それでも痛む身体で、思いつめた顔の私を慰めるように言う。
「……そなたの一件、身は父上とも話しておったのだ」
「えっ!」
思わず声を挙げる。
「後々の世からまかり越したと申すそなたが、何故当吉良家へと参ったか。これこそ天啓。何やら前触れの如き変事なり、と身は父上に申し上げた。この後に起こる委細の顛末を知りおるそなた。それは近々、赤穂浪人が攻め寄せてくることに外ならぬ兆しではないか。父にはそう申し上げた」
「それで、ご隠居様は……」
「一言のみ。さもありなん、と」
「ご隠居様が!」
「父も、同じく思っておったのだ。その折、父は仰せになった」
――左兵衛殿。相済まぬ。もしあの折、殿中にてわしが内匠殿に討たれておったれば、かかる遺恨も遺さぬほどであったであろうに。
「内匠頭殿がなぜ殿中で刃傷に及んだか、父はおそらく存じておったと思う。されば、いつかは赤穂の家臣が攻め寄せてくるといぶかっておった。父と内匠頭殿の間に何があったのか、それは分からぬ。だが、それが所以で浅野家はお取りつぶしと相成った。士分を失った侍は五百余りと聞く。父に落ち度があったかは分からぬが、それほど多くがあの一件で安寧な暮らしを失った」
上を見上げたまま、左兵衛様の声は続く。
「父は、三河の吉良の庄へ転居するつもりであった。まさに隠居だ。此度の茶会は父が江戸に別れを告ぐる心で催したと、身は思っておった。だが赤穂の浪人が討ち入って参るのであれば、そはまさに内匠頭殿の御遺志として、父は受ける覚悟を決めた」
ああ、やっぱりそうだったのか。
あのときのあの言葉、あの眼つき。
上野介様もすべて分かっていた。赤穂浪士の討ち入りが起きるかもと承知の上で、年忘れの茶会を、江戸表で最後となる茶会を開いた。
「左兵衛様、ご隠居様は……すべてご承知の上で」
「とは申せ、父と身は、己が意地と面目のためだけに多くの者を道連れとした。松竹と春斎、また無手の中間、小者までが手にかかるとは……不憫でならぬ」
布団から出した右手が両目を覆う。
「茶坊主がおらねば茶会も開けず。さりとて万一を思い、何かが起きても手だしせぬよう言い含め寝所に天野定之丞を配したが、慮外とはいえ、あれほど用意周到かつ冷淡に攻め寄せて参るとは、まさに身の不心得。悔やみきれぬ」
「申し訳ございませぬ! 私が、もっと早くにすべてをお伝えしていれば」
またも畳に突っ伏す私に、でも左兵衛様が優しく声をかけてくれる。
「よい。そなたは、身も及ばぬほどに苦しんだはず。その心中、察して余りある」
今さら浅野内匠頭の刃傷を取りざたしても仕方がない。問題は、事後処理の過程で大きくねじれてしまったその結果が、これほど大勢の人が死ぬ事件にまでつながってしまったということだ。
泣きながら見た左兵衛様のお顔が、そのとき心なしか笑った気がした。
「なれど、此度の浪人たちの行いは、お上やご公儀はともかく、世間にはさぞかし胸のすくものであろうな……赤穂の浪士たちは、これで改めての主取りが叶うやも知れぬ」
自戒とも自嘲ともとれるお言葉。
「……主取り。仕官のことですか」
「左様。此度の一件が、主君内匠頭殿の仇討ちと認められれば、浪人は忠臣となり武士の鑑ともてはやされよう。されば、仕官の口もあろうというもの。まさに浄瑠璃坂とやらの再来ぞ」
左兵衛様の顔が、なぜか穏やかな表情に見える。でも、そこまで言って左兵衛様は気づいたように私を見た。
「いや、むつみはこの後の顛末、すべて存じているのであったな」
「……それは」
「いや、言わんでよい。今は聞きとうない」
黙り込む私たちの耳に、火鉢の上の鉄瓶のシュンシュンという音だけが静かに聞こえている。
忠臣蔵をはじめ、フィクションの物語に、武器を持たない使用人や年若い二人の茶坊主までが殺されていることは、まず描かれない。それは、私をさらったあの二人やこの本所の人たちのように、庶民のすべてが赤穂浪士を善、吉良家を悪として、それで一件落着の物語を望んだ証しともいえる。
そしてそれが、私の生きる時代にまでずっと語り継がれていく。
人の見方で『真実』は変わる。赤穂の浪士や浅野内匠頭にも彼らの『真実』があり、吉良家の人々にもそれぞれの『真実』がある。
怖いことは、その中の誰かの『真実』だけがクローズアップされ、いつしか本当に起きた『事実』として思い込まれてしまうことだ。
ここに来る以前の私のように。
「父上のお傍に懐刀があったそうな。抜き身であったとの由。父も浪人どもに立ち向かいしか。あるいは逃れ得ずと見て、自害あそばされる気であったやも知れぬ」
赤穂浪士は、討ち入りを仇討ちと捉えた。仇討ちは決闘と同じ。首尾よく仇を討つか返り討ちに合うか。もともとの発端なぞ脇に追いやられ、いわば武士の面目を保つことこそを一大事と考える。その風潮にこの時代の人々は翻弄される。そこに善悪や正義がないと知っていても。
私が、なぜこの時代に呼ばれたのかは分からない。結局、何一つできずただ大勢の人が死んでいくのを見守ることしかできなかった無力感。
でも、ただ一言だけ、どうしても伝えたいことがあった。
「ですが、左兵衛様……」
泣き顔を見せまいと平伏した。それでも目からは涙がぼろぼろとこぼれ、畳に墜ちた。
「私は、ご隠居様に、そして皆様に、生きていて欲しゅうございました」




