十二月十三日 その三
「あれは、接待の三日ほども前か。殿中にて会いし折、わしは内匠殿に問うたのじゃ」
お話が核心に近づいた気がして、私はただ黙って聴いていた。
「内匠頭殿、卒爾ながらお手前、日頃よりお国許でのおはからいに相際し、臣下の言上なりを聞き届けられるや、とな」
吉良上野介が浅野内匠頭に、日頃から部下の話も聞き入れているのか、と訊いた。それは上野介様にしてみれば、内匠頭が藩内で孤立しているのではないかとの危惧だったのか。
「内匠頭殿は、『忠臣の言上なれば、従うことも藩主の務めとぞ心得申す』と返されしが、まことの仔細はわからぬ」
上野介様が、自分の両手を揉むようにしながら目を落とす。
「内匠殿の『遺恨覚えたるか』との言葉。詮議の席には皆目見当がつかぬと申したが、今となって思いを馳せば、あの折のわしの言葉の意を違え、賂を寄こさぬ皮肉、蔑みと取ったやも知れぬ。もとよりこの上野介に二心を抱いておれば尚更にの」
二人とも黙り込んだ。なんとも言えない空気が部屋の中を漂う。
やがて上野介様が思い出したように目を上げる。
「とはいえ、一国一城の大名ともあろうものが五万石の家名、藩、家臣までを捨て、殿中にて刃傷に及ぶなどまさに面妖なり。裏を返さば、それだけの覚悟をもってこの白髪首を狙ったとも言えよう。じゃが、わしへの意趣返しがそれだけのものに能うとは到底思えぬ」
その顔つきに、この方はすでに何かに気づいていると思えた。
「ご隠居様は、内匠頭様刃傷の折のお心をご存じなのではございませんか?」
上野介様が、自らに言い聞かせるようにうなずく。
「内匠殿は、いまや諸家の習わしともなっておる挨拶、賂について、日頃より腹立たしく思うておったのであろう。律義者にて山鹿甚五右衛門に傾き、古よりの武士を手本とし人品方正を目指して居ったればこそ、知行、俸禄の外に賂を受くることを善しとせず、我らを武士の道より外れし者と見ていたのではないかの」
上野介様が遠くを見るような眼をした。
「そしてその筆頭が、この上野介と映った」
その横顔は少し寂しげに見える。自分が信じ歩んできた道を、正面から否定されたかのように。
「だがの、今の武家諸藩のすべからくが、すでにそのような大きな波に飲み込まれておる。この吉良の家も古来よりの名跡なれど、しょせんは旗本四千二百石。さりながら、父のまとめた礼法を継ぎし者として、わしは高家の誰よりも多く上洛した。無論、宮中、公家たちへの貢も用意せねばならぬ。そのための費えがいかほどにまで成りしことか。財に困り台所ははなはだ窮しておる。綱憲殿を頼みに上杉家より重ねて助けを得たが、おかげでこの上野介は上杉からも厭われ者じゃ。だが、そうせねば吉良の家なぞたちまち影形もなくなる」
私の頭に、お屋敷内のこまごましたことが浮かんでくる。人こそ多いが、ともすれば普請にも事欠き、食事も質素。お仕えする人もみな質実で、高額の賄賂を甘い汁と吸い続け、日々贅沢三昧に明け暮れている家には到底見えない。
「今の世に、知行、俸禄のみにて暮らせる武家なぞあらじ。みなそれ以外の入り前を頼みとしておる。浅野家中もそれは存じおるはずであるが、およそ内匠殿は、それに我慢がならなかったかと、わしは思うておる」
「では、内匠頭様はそれを根に持って刃傷に及ばれたと」
上野介様は、それに答える代わりに、ふと眉根にしわを寄せて私の顔を見た。
「内匠殿は、詮議にも委細を申し開きせず、と聞きしが、まことかのう?」
その言葉の意味を測りかね、私が問いかけるような眼を返す。
「殿中にて目付の詮議なれば、お上の手前、言いたきことも言えず、とは思う。だが奏者番、田村殿お預かりとなりし後もかたくなに拒んだとは、まったくもって信じがたし」
「ご隠居様は、内匠頭様が何かお言葉を遺したとお思いですか?」
思わず声を挙げる。
「うむ。内匠殿は、腹を切る前、およそ本心を明らかにしていたと、わしは思うておる。聞いた者が、それをひた隠しにせねばならぬことをの」
私は、謎の一つとなっている浅野内匠頭の遺言を思い出した。
内匠頭は、刃傷の後で江戸城から退去させられ、陸奥一関藩主、奏者番を務める田村家お預かりとなり即日切腹。その際に浅野家の家臣に宛てた遺言は、上野介に斬りつけた理由を述べる最後の機会でありながら、まったく不可解なものとなっている。
――此の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむことを得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候
(以前から知らせておこうと思っていたが、今日やむなくこうなったため、知らせずにいたことを変だと思うだろう)
何を言っているのかさっぱり分からない。そのため、この後に続く言葉があったのではないか。それがあまりに煽情的で外聞を憚るため、誰かが故意に削除したのではないか、とも伝えられている。
その後に続いた言葉に、上野介様は思い当たりがあるという。
「おそらく、内匠殿は今日の武家の姿に異を唱えたのじゃ。挨拶、贓品などの慣習を捨て清廉潔白に生きよ、とな。だが、そのようなこと今さらどの家ができようか。江戸城内お役目の者もみな同じじゃ。誰もかれもが皆そうせねば暮らせぬほどに困窮、ひっ迫しておる。すなわち、内匠殿は周囲の武家、いや公儀、幕府そのものに楯突いたのじゃ。左様な言葉、お上の耳に入れることはできず、公儀が公ごとにしようはずもないがの」
つまり、浅野内匠頭は賄賂がまかり通っている江戸城内の金権政治とそれにどっぷり漬かった武家、幕臣に対して、以前から納得できない思いを抱えていた。
そのために吉良上野介へもあえて形式的な挨拶品だけとした。彼の目には、指南役として大金を差し出されることを当然と思う上野介こそが、まさにその代表格と見えていた。
おそらく、二人の間には間違いなく確執があったのだろう。上野介が気づかなくとも、内匠頭は彼を巨悪と見做し、そこに彼からの言葉や態度への曲解が積み重なって憎悪の心までを募らせ、ついに排除せねばならない人物という決定を下した。
そしてあの日、元禄十四年三月十四日、江戸城内で見かけた上野介の姿に、ついに内匠頭の怒りが爆発する。
だがそれは同時に、この元禄の武家社会、公儀の体制までへの挑戦状であり、幕府の統治に対する真正面からの批判、そしてそのために高家旗本を殺害するという、いわばクーデターだ。
確かに、内匠頭は死の間際にこれらの言葉を残したのかもしれない。だが聞いた側にとっても苦々しいものだったはず。幕府の重臣たちを含め、慣習的に横行している賄賂という収入源は彼らにとってなくてはならぬものになっている。それを武士の道に外れると言われたら、返す言葉はなく心中穏やかではない。それは目付の役人や預かり役となった田村家含め、周囲の大名にとっても同じ。
面と向かった幕府と諸大名への批判。だが皆がその当事者である以上、そんな言葉を将軍に伝えることなぞできず、結局、浅野内匠頭の本心は闇に葬られた。
「わしも長く生きた。そなたの思いも及ばぬことも多々あった」
ご隠居様は火鉢に手をかざしながら、手元をじっと見つめている。
「あの、ご隠居様……」
私がそう言いかけたとき、後ろから声がした。
「失礼いたします」
春斎さんだった。
「御前様、そろそろお約定の刻となりますれば、お発ちいただくべきかと存じます」
坊主頭をぺこりと下げてかしこまる。
「おお、そうであった」
ご隠居様の顔つきが変わる。
「むつみよ、年寄りの戯れ言に付き合わせたの。礼を言う。戻るが良いぞ」
そう言って立ち上がった。
どうしよう。やはり、明日のことを伝えるべきなのだろうか。
「あの、ご隠居様、上野介様」
私は、声を挙げていた。
「なんであろう?」
上野介様が振り向いて私を見下ろす。
「……明日の、お茶の会でございますが」
「うむ」
言葉が続かない。言うべきなのか。明日のお茶会を取りやめて、赤穂浪士の討ち入りに備えるようお伝えすべきなのか。
でも、赤穂浪士を返り討ちにすることが正しい道とは思えない。私はみんなを、この吉良家も赤穂浪士も、ともに救いたい。歴史を変えられるのならば、誰も傷つかない方法を選びたい!
黙ったまま見上げる私に、上野介様のお顔がふっと緩む。そして、納得したようにうなずいた。
「よいよい。案ずるな。むつみ殿」
その言葉を遺して、上野介様はお部屋を出て行った。




