十二月十二日
お屋敷から眺める庭には、昨日から雪が降り続いている。
結局、米屋五兵衛も小豆屋善兵衛も見つからず、私は考えを改めざるを得なくなった。もっとも、見つけていたらいったい何ができたのか、それも定かではない。
討ち入りが起こるとすればあと二日。準備に取りかかっている頃だろう。
小堀さんは、米屋五兵衛から買い付けをしたのは数度、と言っていたけれど、念のため裏門の人たちにも訊いてみたら、それ以外にもたびたび訪れていたようで、暇な時には菓子などを手土産に、世間話をしていたこともあったそうだ。
やっぱり、前原伊助と考えてよさそうだ。門番の人たちも懐柔して、この吉良屋敷の情報を入手していた。ということは、討ち入りが現実のものとなるかはともかく、赤穂の浪人たちがこの吉良屋敷をずっと探っていたのは事実だろう。
赤穂浪士の当日の行動を思い出してみた。
昔の映画で描かれたような、大勢がそろってこの吉良屋敷を目指し行進してくるというのはフィクション。
実際には数人ずつが目立たないように数か所の集合場所に移動し、そこで翌日まで待機していた。
討ち入りは、午前三時から四時ころとされている。まさに、吉良屋敷では当番の人たち以外はまだ深い眠りについていたころだ。
浪士の集合場所がいくつあったのか、記録ではまちまちで、前原伊助や神崎与五郎の店もその中にあったと思っていたが、引っ越したということは別の場所なのか。
あとは、堀部安兵衛武庸と杉野十平次次房の借り宅。この二人もこの本所で吉良屋敷の動向を探っていたとされる。でも住所は定かでないし、名まえも偽名だろうし、探し出すことは不可能だ。
この四人は、いずれも江戸の急進派で討ち入り決行を主張。特に剣豪と名高い堀部安兵衛はリーダー格で、浅野内匠頭切腹、赤穂浅野家のお取りつぶし後は、大石内蔵助に吉良上野介への敵討ちを何度も催促していた。
吉良上野介をつけ狙い、この本所界隈に居を構えて動向を探っていた彼らが引っ越したということは、すでに討ち入りの日時は決まり準備が進んでいるということか。
赤穂の浪人たちは、今ごろ何を思っているのだろう。
浅野内匠頭長矩が江戸城本丸大廊下、いわゆる殿中松の廊下で吉良上野介義央に刃傷に及び即日切腹、赤穂浅野家が改易されてから一年八か月余り。
その間、彼らにもまさに艱難辛苦のドラマがあった。これこそが忠臣蔵の物語のもう一つの醍醐味であり、彼らが討ち入りで見事本懐を遂げるまでの苦労、苦悩が深ければ深いほど、判官びいきの日本人は、同情し同調する。当然私もそうだった。
強欲で業突く張りな吉良上野介。勅使饗応指南役の立場を利用し、賄賂を要求したが、清廉潔白な浅野内匠頭は形通りのもので済ませる。
それを逆恨みして、これ見よがしの嫌がらせを繰り返し、そのおかげで内匠頭のみならず浅野家の家臣までもが何度も窮地に追い込まれる。皆の一致団結の許、何とか凌いできたものの、元禄十四年三月十四日、浅野内匠頭は江戸城内、松の廊下で吉良上野介から武士の面目をつぶされるが如き悪口雑言を浴びせられ、ついに堪忍袋の緒が切れて、懐剣を抜き放つや上野介に斬りかかる。
日本人なら、誰もが知っているシーンだ。
ただ、私が以前に読んだいくつかの書籍、情報では、史実として残っている記録は違う。
浅野内匠頭が刃傷に及んだ際、羽交い絞めにして吉良を助け、ドラマでは「殿中でござる」の声で一躍有名となった梶川頼照。彼が残した「梶川日記」によれば、三月十四日の当日、吉良上野介と浅野内匠頭は言葉を交わしていない。
もちろん、彼が二人に会う以前に何かが起こっていたかもしれないが、少なくとも内匠頭が直前に上野介から激昂するほどの言葉を浴びせられたという記録はない。
「この間の遺恨、覚えたるか!」
浅野内匠頭が、吉良上野介に斬りかかった際の言葉。
このように聞こえた、という証言での記録らしいけれど、これから考えられるのは、以前にされたことを腹に据えかねていた、となる。
でも結局、浅野内匠頭が何に怒ったのか、上野介への恨みは何だったのかは分からず、今もって日本の歴史に残る謎の一つだ。なぜなら、浅野内匠頭自身が、取り調べでも全く理由を明確にせず、そのまま即日切腹してしまったから。
そう考えると、浅野内匠頭という人はいったいどんな人物だったのか、なぜこんな大変なことをしでかしておいて、家臣にすらその心情を聞かせず死んでしまったのか、この人物もまた謎だ。
でも、それがもとで赤穂浅野家の家臣は即座に全員が失業した。
庶民と違い、侍は主が没落したらどこか他家に仕官が叶わない限り何もできない。でもこの天下泰平の江戸時代では、どの武家、藩も手いっぱいで、よほどのことがなければ仕官の口なぞない。
赤穂城を開城し、幕府の言いつけに従ったものの、主君の弟浅野長廣、通称大学による浅野家再興を目指す国家老の大石内蔵助良雄らと、あくまで吉良上野介への敵討ちを望む堀部安兵衛ら江戸派との間にも確執が生まれる。
結局、この元禄十五年七月に大学による浅野家再興が絶望的となり、それまで日和見ともなっていた大石内蔵助の心中が定まる。
七月の円山会議で吉良上野介への敵討ちが決定。その後八月の神文返し、つまり、浅野家改易時に心を一つにすると盟約した藩士の成約文をすべて本人に返す。
窮乏に耐えかね他に生きる道を求める者、運よく伝手をたどって再度の士官が叶った者、周囲に説得され泣く泣く盟約をひるがえした者。
心変わりした者たちを責めずに脱盟を促した結果、当初は百二十名もいた同志は次々と姿を消し、残ったのは五十名ほど。そしてこの十二月、こうしているうちにも姿を消していく者がいるはずだ。
それでも最後まで残った四十七士。
彼らは今、何を思い、十二月十四日を待っているのか。
私は、今こうして吉良家にお世話になり、皆さんと仲良くなった。だからこの方々にはこの先も穏やかに暮らしてほしい。でも、それは赤穂四十七士も同じ。彼らには彼らの論理がある、それは痛いほどわかる。だからこそ、誰にも傷ついてほしくない。
私は三百年後から来た。仇討ちなんてない世界から来た。この時代の人たちにも、この先の将来を見据えて、自分の幸せのためにこそ生きてほしい。
私には、少しずつ状況が分かり始めていた。
私がここで成すべきこと。それは、吉良家の方々に赤穂浪士を迎え撃てと伝えることじゃない。双方に戦ってもらうことじゃない。できることならば、赤穂の人たちと出会い、討ち入りを思い留めてもらいたい。
とするならば、どこにいるのか分からない赤穂浪士と会うことができる機会は、ただ一つ。
当日、その時しかない。




