怪々縫典
白紙の原稿用紙の前に私はただ突っ伏していた。視界に入るシャープペンを手に取り、芯を出したり無意味に時間を浪費する。飲みかけのコーヒーは既に冷めきり、携帯の充電は赤ゲージになっている。時折、頭に浮かぶ言葉を書き出すも、そのあまりに稚拙な文章に嫌気がさし原稿用紙を破く。現在の時刻は午前二時、床には缶ビールのゴミや敗れた紙が散らばり、机にはコンビニ弁当の容器がそのままに放置されている。こんな部屋の有様なのだ、その主の精神状態が良好な訳がある筈もない。そう、この部屋の主である『紋谷キミ』は入稿三日前にして作品が何一つ完成していないという、まさに絶望の淵に立たされているのだった。
「次の作品、何を書けば良いのだう。もう何も思いつかない。」
携帯の画面に映し出される担当からの進歩確認のメールを眺め、溜息交じりに呟いた。いつもの私なら入稿一週間前には作品を完成させ、今の時期には誤字と脱字を確認している頃である。だが今回はそう言う訳にもいかなかった。何故筆が進まないのか、それは数か月前に都内の某喫茶店で行われた担当との打ち合わせに遡る。
その日は私が新たな小説の執筆依頼を受ける日であった。「次はどんな小説を書けば良いのかな。」そんな軽い調子で私は担当の下に会いにいったのだ。喫茶店の入口を潜り、店内を見渡す。端っこのテーブル席に座る見慣れた女性の人影を見つけるや否や、私は駆け寄り対面に腰を下ろす。
「こんにちは、キミ先生。何頼みますか?」
「それじゃあ、紅茶で。」
「いつものやつですね、あ、すいません。」
担当の『志田さやか』は手慣れた様子で注文をする。彼女は私と同い年であり、私の担当でもある。そうしたこともあってか「先生と担当」と言う関係でありながら、気の合う「友達」同士でもあった。
「キミ先生、最近何かやってることありますか?」
「最近だとあの新しいゲーム買ったよ。いや、あれ難しいね。ネット対戦だと全然勝てないよ。」
「あー、オンライン部屋って強い人ばかりですよねぇ。今度一緒にやりませんか?」
「じゃあ、やるとき連絡するからね。」
担当が先に来て、私が後に来て注文を頼む。いつもの紅茶が来るまではお互いの関係を忘れ近況報告する。直接会って話す時、担当の敬語は染みついていて無くなることは無いのだが、この一連の流れはお互いの暗黙の了解だった。しばらくして店員が紅茶を運び込むと、お互いの間に流れていた緩やかな空気が一変した。担当は眼鏡を掛け、手提げカバンから資料とペンを取り出すと、私の方へと差し出す。
「先生、それでですね、今回の資料がこちらになります。」
渡された資料に目を通すも、その依頼内容に思わず声を出してしまった。
「テーマは『怪奇』…?」
「そうです。今回のテーマは『怪奇』です。御上の方が言うには、新たなジャンルに足を延ばせとのことです。今まで先生が書いてきたジャンルは恋愛小説ですので、今回は少し難しい内容になるかもしれません。」
「そ、そうですか…」。
そう、私は『怪奇』と言うテーマで小説を書いたことが無かった。と言うか、『恋愛』と言う枠組みを超えた作品を一度も書いたことがない。今回も恋愛小説を書くだろうと思っていた私にとって、今回の依頼は突拍子もないもので鳩が豆鉄砲を食らったような気分だった。
「それで、詳しい内容は?」
「今回先生に書いて貰うのは、今までに存在していない怪奇です。簡単に言えば、オリジナルの怪奇を作ってください。」
「私、怪奇について一度も学んだこと無いんだけど…。」
「そう思ってここに色々な資料を持ってきました。まあ、参考程度に目を通して置いて下さい。あ、それとこのリストが怪奇について詳しい本になりますね。」
そう言って彼女は新たに先ほどよりも多い量の資料を取り出すと机の上に並べた。私はただその物量に圧巻されるばかりで、思考を停止し紅茶を一口啜るしかなかった。
そんなことから私は『怪奇』をモチーフにした作品を書くことになってしまった。あれからと言うもの、私は様々な怪談やそれを取り組んでいる作品を読んではみた。ただどうにも私にはそういった非現実的な存在を信じることが出来ない。虚構かどうか確かめる術は無いのだから確かなことは言えないが、あれらは昔の人々の見間違いの類では無いかと私は考えている。そんな私なのだ。新しく怪奇を創作するのは困難極まる依頼だった。今日もまた、何も書けずに終わっていく。私は湧き上がる重苦しい自責の念を、コンビニで買った安酒で流し込んだ。
私は雀たちの無邪気な鳴き声と共に目を覚ました。カーテンの隙間からは微かに光が漏れている。どうやら机で眠ってしまっていたようで、肩や腰回りが非常に痛い。案の定と言った所か原稿用紙は純白の様相のままだった。「はぁ…」私は深い溜息を零した。締め切り二日前にして未だに白紙、憂鬱な気分に支配されるのには無理もないことだった。私は気怠い体をベットに倒し、テレビを付けた。早朝と言う事もあってか、どのチャンネルを回しても堅苦しいニュースばかり、たまにそれ以外の内容のもあるのだが子供向け教育番組だとか通販だとかで、興味がそそられるものは何一つとして無かった。私はとりあえず適当なニュース番組にチャンネルを変え、朝食の準備をすることにした。朝食の準備と言っても大層なことをする訳ではない。八枚切りの食パン二切れを焼き、コーヒーを淹れ、冷蔵庫からジャムを取り出すだけである。それが私の日常だった。
『昨日、深夜未明、日川山峠の峠にてバイク三台が転倒する事故が発生しました。この事故の影響で現在、日川山の事故周辺道路は閉鎖されています。また事故に遭ったのは近所に住む大学生三人とみられ、現在身元の特定を急いでいます。続いて次のニュースです。政府は来年度の…。』
眠い眼を擦りながらパンを齧っている時、物騒なニュースが耳の中へ飛び込んできた。日川山と言うのは隣の町に聳える山である。ここと言うのは昔から走り屋が集まる場所で有名で、私の友人もここで峠を攻めたことがあるとか言っていた。多分今回事故に遭ったのは、その友人と同じように危険運転をした者達であろう。「愚かだなぁ」そんな軽い同情を思いながら、そそくさと朝食を済ませることにした。
午前十時頃、机の上で携帯が震えた。画面には『志田さやか』の文字、どうやら担当からの電話のようだ。私は身構えた。この時期に掛かってくる電話なのだ、きっと進歩について聞かれることだろう。流石に電話に出ない訳にもいかない。私は渋々携帯を手に取った。
「もしもし、志田さん。こんな朝の早よに電話なんて珍しいですね。何かあったんですか。あっ、もしかして宝くじでも当たりましたか?」
『何言ってるんですか先生。締め切り明後日ですよ。どこまで進んだかの確認しに掛けたんですよ。それでどこまで掛けましたか、嘘偽り無くきっちり教えてくださいね。』
担当と言うものは恐ろしい者である。まるで今の私の状況を見透かしているように言ってくる。どうにか誤魔化せないか、私は言い訳を考えるのに集中した。
「いや、それが全然筆が乗らなくてですね。もしかしたら締め切り間に合わないかもしれないんですよ。」
『そうですか、でもまあ締め切りは二週間くらいまでなら伸ばせるので心配しないでくださいね、先生。それで今どれぐらい書けているんですか。今の分だけでも中身を確認したいんですが。』
「書いてる途中の作品なんて見せられるってもんじゃないですよ。全部出来たら見せますから待っていてくださいよ。」
『へぇ、そうですか。』
担当は何処か納得がいかない様子の相槌を打つと、「うーむ」としばらく考え込んでしまった。沈黙が二人を包む。
「ど、どうかしましたか。」
『今どれぐらい書けているんですか。とりあえずそれだけでも教えてください。』
「いや、ぜんぜん書けていないんですよ。だから文字数言うのも烏滸がましいと思うんですよね。」
『烏滸がましくて結構ですよ。それでどれぐらい書けてるんですか。』
私の担当と言うのはどうやら引くと言う事を知らないらしい。とうとう私は観念し、不本意ながら仕方なく事実を伝えることにした。
「それがですね。書けてないんですよ。それも全く。」
『全くってどれぐらい?』
「全くって、それはですね、一文字ももってことですね。まっさらです。」
『はあ。』
担当の大きなため息がすると、再びお互いを沈黙が包んだ。自業自得と言えば返す言葉も無いのだが、私はどうにも居た堪れない気持ちなって仕方がなかった。言い訳をすれば「書かなかった」訳ではないのだ。書いたとしても「ぱっと」しない怪奇ばかりしか思いつかなかったのだ。幾つかの創作怪奇の中に「魂を運ぶ重箱」だとか「呪いを振りまく煙管」だとかがある。ただそのどれもが陳腐のもので、何の刺激も感じられるものではなかった。考えても一般の枠を出ることが出来ないことが私の頭を悩ませているのだ。
『そうですね、先生。ここに一つ良い情報があります。今朝手に入ったとっておきの情報です。日川峠のニュースは既にご存知ですよね?』
そういうと彼女は一人でに語りだした。
彼女が手に入れたとっておきというのは、世間に公開されていない独自の人脈で手に入れた情報だった。どうやって手に入れたのかは教えてはくれなかったのだが、警察関係者の証言らしく信憑性は高いらしい。彼女が話したのは以下の内容だった。あの事故を起こした三人の大学生は一応生きてはいるらしい。三人とも重体ではあったのだが奇跡的に一命を取り留めたらしく、今は市内の病院に入院しているそうだ。一方、彼らのバイクは残念ながら全壊したらしい。大型バイク三台が絡む事故で死者が一人も出なかったのだ。バイクの三台くらい安いもんだと担当は言っていた。だが一つ、この事件において不可解なことがある。それが世間一般には未公開の情報である。実は事故を起こした三人の内、一人が右腕を失ってしまったのだ。バイク事故で四肢を失うことはさほど珍しことではないのだが、何処を探してもその千切れた腕が見当たらない。見つかったところで腕が治るわけではないが、ある筈のものが見当たらないと言うのは不気味な話で、警察としては非公開情報として処理をするらしい。「そんなことが本当にあるのか、どこかに転がっているのではないか。」私は担当にそう聞いた。
『それがですね、本当なんですよ先生。実は今朝、私はその腕を失くした人の親御さんに会って取材をしてきたんですよ。会うや否や『帰れ』だとか『失せろ』だとか言われてそれはそれで大変だったんですけど、それは置いといてですね、どうやら本当らしいですよ。未だに親御さんの手元に腕が届いていないそうです。それでですね、ここからがもっと不思議な話なんですよ。』
内の担当はジャーナリストだったのだろうか、さらに熱の籠った声を上げてくる。
『普通腕が千切れたら出血多量で大変なことになる筈でしょ。でもこの人、欠損した傷口からの出血が少なかったんですよ、それも誰かが縫合治療したような感じで。不思議な話じゃないですか?』
「確かに不思議な話ですね。それで、それを話した意味は?」
この時期にこの話題を話してくるのだ、なんとなく予想は付いていた。きっとこれを作品のモチーフにしろと言うのだろう。
『これ、作品のネタになりませんかね。締め切りは一週間延長するから心配しないでくださいね。』
まさにだった。それに加え、ありがたいことに締め切り期限まで延ばして貰えるようだ。答えは既に決まっていた。ここまで来たのだ、もう形振り構う訳にはいかない。私の心に火が灯った。利用できるものはとことん利用してやる。
「わかりました。今回の事件をモチーフに書かせて頂きますね。楽しみにしていて下さい。」
一週間弱の間、私は死ぬ気で文字を綴った。あの峠で起こった事件と不思議な現象を基に物語の世界を紡いでいく。だがただありのままを書いても面白くはない。この不思議な現象を怪奇現象として脚色し、上書を繰り返していく。オリジナル怪奇の名前は『縫合ウサギ』にした。この怪奇の簡単に説明するとこうだ。
昔、ここの山には父親と二人で暮らし、白ウサギを飼っていた少女がいた。少女の母親は、少女を産んですぐに病気で亡くなった。そのため父親は少女に誰よりも愛情を注ぎ、男手一つで生活を営んできた。平穏な家庭のおかげで、少女は心優しい人間に育っていく。少女が一五歳になった年、事件は起きた。その日、父親は山に猟に出かけ、少女とウサギは家で留守番をしていた。疑う余地もないごく平凡な日常の風景。夜になれば父親がシカを持って帰ってくると少女は信じていた。太陽が真上になり、西に傾き、山陰に沈んでいく。辺りは既に闇夜が広がっているが、父親が帰ってくる気配がない。父親がいないで迎える夜は初めてのことで、少女は心細く眠ることすらままならない。薄い布団に頭を被せ、戸を叩く音がしないかと全神経を集中させるしかなかった。どれぐらいの時間が経ったか、月の影は既に真上に昇っている。未だに父親は帰ってこない。慣れ親しんだ山で迷子になると言う事は想像し難かったが、迷子になっているのであれば明け方に帰ってくるだろう。少女はそう信じ心を落ち着かせる。今夜帰ってこなくたってなんの問題もない。ようやく、うとうとと眠気が襲い、少女は眠りについた。
父親は帰ってはこなかった。正確に言えば肉体と言う意味では帰っては来たのだが、魂と言う意味では帰って来なかった。朝目が覚めると、やけに家の前が鴉の鳴き声で騒々しい。それに部屋には飼っているウサギがみあたらない。疑問に思った少女は家の戸を開け、その目の前に広がる、真っ赤に染まった悲惨な光景を目の当たりにした。鴉たちは中央に転がるいくつかの肉塊に群がり、一心不乱に啄ばんでいる。少女は我を忘れて裸足で駆け寄った。鴉たちは何処かへと羽ばたき去り、その光景が露になる。その肉塊の状態はこの世のものとは思えないほど凄惨なものだった。四肢は辺りに千切れ、散らばり、体のいたるところから肉が飛び出してしまっている。血の海に膝をつき、少女はその光景を呆然と眺めるしかなかった。少女はその肉塊の纏う着物、赤く血に染められた毛皮に見覚えがあった。それは父親とウサギのものだった。
それから、少女は遠い親戚の家に引き取られた。彼らは不幸な身の上になった少女を温かく受け入れた。少女はその内、村の男と結婚しその天寿を全うすることになる。遺言に従い、遺体は基に住んでいた山に葬られたとのことだった。
結局と言うもの、なぜ少女の父親が殺されたのかと言うのがはっきりすることは無かった。村の住人は「山賊に襲われた」だとか「神の聖域に踏み入った」なんて言っていたが、確信を持てる説と言うのは何一つ無かった。もしかしたら殺した奴にとっては理由なんて無かったのかもしれない。たまたま殺人鬼がいたと言うだけで、そこに父親が出くわしてしまった。その可能性もある。ただ、時を数多跨いである時の春、これに関して新たに問題が発生することになる。
当時、事柄と言うのは口頭で引き継がれていくものであった。其の度に話に尾ひれが付くのは仕方のないことで、この時代なら珍しくないことであった。最初に言いだしたのはだれであったか、「あそこの山で昔、男が殺されて、今でもその娘の怨霊がでるらしい。しかもウサギの姿をしてるらしい。」そんな噂話が広まった。「誰かが仲間を怖がらせるために面白半分で言ったんだろう」当時を知る者が居れば、こう言って一蹴りしたのだろう。しかし、あれから一五〇年は経っていて当時生きている者なんて一人もいない。話は雷の如く一瞬にして広まり、村を震撼させた。また、この日から山では不可解な問題が発生することになる。山に入った男が行方不明になり、数日後に川辺に四肢の一部が欠損した状態で見つかったのだ。しかもその傷口を糸で縫合した跡があると言う。村人は口を揃えて「女の祟り」と言った。悠長に構えていた村長もこのあまりに非常な事態には驚きを隠せなかった。数日後、村は寺の高尚な住職を呼びこの事態を話した。
「先日、村の男が腕を失って見つかりました。しかもその傷口は糸で縫ってあったのです。これはもしかして例の『女の祟り』なのでしょうか。私たちはどうしたら良いのでしょうか。」
「村長さん、まずは御顔を上げてください。残念ながら我々にはアレを祓うことが出来ません。」
住職は神妙な面持ちだった。
「祓えないと、一体何故。」
「あれはカタチのない怪奇でございます。言葉と言うものは時に恐ろしい怪物を生み出してしまうものです。一体誰が『女の祟り』と言い始めたのか判りませぬが、あれはその言葉によって生み出されたものです。言ってしまえばアレは、我々の噂話を触媒に生み出されてしまっているのです。ならば我々寺の者ではどうすることも出来ません。」
「そう言われても困ります。それでは一体我々はどうしたら良いのですか。このままでは山に入ることが出来ません。」
村の存亡が掛かっているのだ、村長はいつも以上に必死だった。
「ひとつ方法がございます。ですがこれは長く長く、時間の掛かるものでございます。それでもよろしければお教えしましょう。村人全員がその噂を忘れれば良いのです。アレは噂話を触媒にしているとお伝えしましたが、それはつまり噂の信仰具合によって力が左右されていると言う事です。噂を信じる者が減れば、次第にこの怪奇は収まるでしょう。」
住職はそう言うと、この村を去っていった。村で現れた『縫合ウサギ』の怪奇はしばらくの間猛威を振るった。どうやらソレは人の人体を集めていると言う事が判った。傷口を縫合するのはその謝罪が込められているのだろう。いつか村人全員がソレを忘れる日を。
怪奇が噂になることがある。その逆も然りで、噂が怪奇に昇華されることがある。今回のはあくまで架空の物語だが、もしかしたらそういう事例と言うのは本当に存在するのかもしれない。私がこの小説を入稿したのは延長した締め切り日丁度であった。アイデアをくれた担当が言うには編集部でこの物語が評判になったらしい。今回は複数の著者と『怪奇』をモデルにした小説を持ち寄って本にするのだが、次は私をセンターにして本を作りたいとのことだった。担当の弾んだ声を察するに、今、相当目を輝かせている事だろう。初めて書いたジャンルの小説にしては個人的に満足のいく内容になった。でもまあ、次に『怪奇』を書くのは一年後とかが良いなんて贅沢なことを思う。
『先生、せっかく本が書けたんです。休みをとられますか。』
「んー、一週間ぐらい休みが欲しいかな。とりあえず明日ぐらいに打ち合わせをしてスケジュールを決めよう」
『そうしますか。それじゃあ明日、いつもの喫茶店で待ってますね』
電話が途切れると、私は糸が切れたようにソファに倒れ込み泥の様に眠った。
夜が明けて、喫茶店に出向くといつも以上に調子が良さそうな担当がいた。そそくさと対面に座ると適当に紅茶を頼み、軽く打ちあわせをすることにした。どうやら今回の小説はいつもとは違いネットでも販売されるらしい。通常、紙媒体であるならば作品が出来上がっても流通までに時間が掛かるが、今回はネットでの販売も試みてみるとのことだった。紙での販売は半月後だが、ネットなら明日から販売できるらしい。時代の移り変わりとは寂しいもので、紙が減っていくというのは心象としてはあまり良くは感じられなかった。だが私だって作家の端くれである。そんな小さなことに拘って四の五の言ってはいられない。「時代にあった作品を、時代にあった売り方をすること」をどうにか試みなければと自分に言い聞かせる。
「そういえば志田さん。あの事故の事なんですけど、傷口の縫合って一体何だったんですか?」
「それがですね先生、あれ実は友達の警察官の嘘だったんですよね。いや、腕が見当たらないのは本当なんですけど、傷口は縫合されていなかったらしいです。」
「まあ、そんな事だろうと思ったよ。」
冷静に考えればそんなことはあり得ない話ではあるのだが、実はあの縫合の件、本当だったら面白いなと期待している自分がいた。本当であるならば怪奇や妖怪を信じていない私を変えてくれるかもしれないと少し期待していた。だが結果としてはやはり存在しないと言う。現実のゆとりの無さは非情であると改めて感じさせられる。それから私たちは軽く雑談をして別れた。すでに私の休息の使い方は決まっていた。六日は家で怠惰に過ごし、七日目は遠くへドライブをする。久々の休息に心が躍った。
ドライブの帰り道、車の中で一人、この休息を思い返していた。六日間は家で死ぬほどゲームをした。最近のゲームと言うのは良くできていて、年甲斐もなくのめり込んでしまっていたと思う。だがそれに対し少しも悪い気はしない。また、今日のドライブでは予てより訪れてみたかった遠くの廃鉱を見に行ったりした。そのことはいつか体験記として本にしてみたいと思う。今まさに、私は幸せの絶頂だった。
丁度、日川峠を通っている時、それはあまりに一瞬の出来事だった。後方から「どんっ」と言う大きな音と共がしたかと思うと、押し出されたように車体が横へと傾いた。急いでハンドルを切るが、コントロールは言うことを聞いてはくれない。私は何が起きたか把握しようと後部座席に目をやった。右後部座席の窓ガラスは割れ、扉は大きく凹んみ歪んでしまっている。数秒間の間、訳が判らない光景に私は目を奪われた。まさにそれが命取りになった。次は前方で「どんっ」と言う音と強い衝撃が走った。緊急時のエアバッグが開かれた時、私はすべてを理解した。時の流れるスピードが緩やかになり、辺りが無音になった気がする。妙な浮遊感、前方で弾けるガードレール、ヘッドライトの届かない崖底、嫌なほどその光景が鮮明に目に焼き付く。数秒後、崖底に鈍い落下音が響き渡った。
朦朧とする意識の中、まず目に入ったのは辺り一面の火の海だった。全身が激痛で悲鳴を上げている。右腕を伸ばし、体を地に擦らせ、逆さになった車の中から這い出る。まず思ったことは「生きている」それだけだった。私は枯れた大木に体を預けた。目の前にはさっきまで車だったものが転がっている。頭上はるか高くのガードレールから飛び出して生還したのだ。生きているだけで万々歳であう。
「あ、そうだ。警察に電話しないと。それと救急車もか。」
左ポケットの携帯に手を伸ばそうとする。だがそこにはある筈の腕の感覚がない。妙な話だった。頭の中では「左腕を動かせ」と言っているのだ。普通それに応じて体は動くものである。もしかしたら落下の衝撃で脳や脊椎を痛めたのかもしれない。私は渋々、使える右手を携帯へと伸ばすと共に、体に視線を落とす。そこで私は初めて自身の体の状態を理解した。左袖から伸びるている筈の左腕は、肘のところで綺麗さっぱり失われていた。
「え。」
私はまさにパニック状態に陥った。嫌な思考が巡る度、眩暈、吐き気、動悸が激しくなってくる。どす黒い感情が胸に溜まり、私にはもうどうして良いか判らなかった。その時だった、炎に照らされた一つの小さな人影が私の前に現れた。ウサギの耳の付いたパーカーを被り、白ニーソを履いた短パン姿の少女で、その両腕には見覚えのある左腕が抱えられていた。
「キミは誰、こんなところにいると危ないよ。早く離れた方がいい。あっ、それと警察と救急車を呼んではくれないか。ちょっと今このなりだから、体が上手く動いてはくれないんだ。」
私の言葉に逆らうように、少女は更に傍へ寄ってくる。
「どうしたんだ、早く逃げた方が良いっていっただろ。私のことは放っておいてくれ。」
「いえ、放ってなんて置けません。この腕はあなたの物ですよね。今からこの腕をくっつけます。痛いでしょうが我慢してくださいね。」
少女はそう言うとパーカーからミシン針のような大きな針と白く輝く糸を取り出すと、私の腕と腕を縫い付け始めた。全身が痛んでいたからか、将又左腕の神経が切れてしまっていたのか判らなかったが、幸か不幸か縫合の痛みを感じることはなかった。
「そんなことをして左腕は治るの。」
肉が裂けている訳ではない、骨や血管がそのまま千切れているのだ。医学的に考えて、ただ腕を繋げたところで治るとは思えなかったのだ。
「私には傷を治す力があるんです。本来はこういう風に力を使うことは無いのですが、今回は別です。」
少女は黙々と作業を続ける。腕を繋ぎ留める糸は淡く光を放ち、その辺りから次第に痛みが伝わってくる。原理は判らないが腕の感覚が戻っているようだ。
「どうして、ここまでしてくれるの。それにその恰好、山に入る格好には見えないし。」
「それはお教えできません。ですが大丈夫です。私はあなたを死なせません。何が何でも助けます。」
少女は何も教えてはくれなかったが、その赤い瞳を携えた顔を見るに嘘は言っていない様子だった。腕の縫合が終わると、少女は他の怪我の縫合を始めた。意識していないせいで気が付かなかったのだが私の体は大小様々な傷で溢れていた。
「大方の傷は繋ぎ留めました。あとは病院に行って治療して貰って下さい。もうじき救急隊が来ます。」
少女は耳元言うと、ゆっくりと立ち上がり私に背を向けた。「ここでそのまま別れる訳にはいかない。」私は出せる限りの声量で引き留める。
「待って、名前は!」
大声を出したせいで痛みが内蔵に響いたが、歯を食いしばって堪えた。こんなところで気絶するわけにはいかなかった。
「名前は、もう知っていると思います。それではまたどこかで、お母さん。」
それからとどうなったか、よく覚えていない。気が付けば真っ白の天井を見上げていた。体を起こして辺りを見渡す。そこは見知らぬ殺風景な部屋で、左手には複数のチューブが繋がれていた。辺りには消毒液の鼻を刺す匂いと、窓辺に飾られた花の甘い匂いとが混ざり合った形容しがたい匂いが漂っている。「ここは病院だ」そう理解した時、視界の端にある一冊の本と手紙に目が留まった。手紙の差出人は『志田さやか』で、中には二つの紙が入っていた。とりあえず見舞いの文面であろう一枚目に目をやる。
『先生、お体の具合はどうでしょうか。今回の事故は誠に不幸の出来事でした。落石でハンドルが奪われ、その後に道路から落下したというのは想像するだけで恐ろしいことです。ですので無事生還したとのニュースを聞いた時、編集部一同は大変喜びました。医師が言うにはもう一度精密検査をしてから退院時期を判断するとのことです。それまではどうか安静になさって下さい。と言う事で、見舞いの文はこれまでにして、ここからは嬉しいニュースです。先生がこの前書いた小説は現在ネットで好評になってます。それで紙媒体での出版時期を三ヶ月早めることに決まりました。机の上の本は、そのサンプルになります。それと、もう一つ。実はこの小説に出てくる『怪奇』をモデルにイラストが付くことに決まりました。現代風の可愛い女の子ですよ。この手紙にその絵を入れますので見てくださいね。あ、それと怪我したからって自分で縫おうとするのは駄目ですよ。それでは。』
もう一枚の紙を取り出す。そこ描かれている少女に私は一驚した。ウサギ耳のパーカー、白いニーソに短パン姿、手には大きな針が握られている。それはまさにあの事故の時に出会った少女だった。「まさか」左腕の袖を恐る恐る捲る。あの時千切れた腕の辺りには、淡く輝く白い糸が埋まっていた。それも何かと何か二つを縫い付けた跡のように。あの夜の出来事は嘘ではない、あまりに信じがたい事実であった。あれから私は無事退院できた。左腕も一度千切れたのが嘘のように、今まで通りに機能している。私は平凡な生活を取り戻したのだった。
草木をかき分け、倒木を飛び越え、息を切らしながら私はあの事故現場に向かった。車の残骸は既に撤去されて、そこで事故があった形跡は見受けられなかった。鞄の中から一冊の本を取り出し、体を預けたあの時の倒木に置いた。
「これ、私が書いた小説。暇があれば読んでみてね。それじゃもう行くから。」
踵を返し、帰路へ足を向ける。その時だった。背後からどこか懐かしく温かい風が流れた。
「じゃあね、お母さん。」
あのウサギパーカーの少女が置いた本を胸に抱え、こちらに笑いかけていた。
「また来るから、私の可愛い『縫合ウサギ』」
またあの風が吹く、気が付いた時にはその少女の姿は無くなっていた。木漏れ日の差す森は、また穏やかな静寂に包まれた。
この小説を読んでいただき、誠にありがとうございます。
R15設定にしましたが、もしかして本当はR15の基準に引っかかっていなかったりして。
なんて感じで現在手探り状態です。
裏話をすると、この小説のタイトルは本来『縫』と『針』と言う二文字で四字熟語を作る予定だったのですが、如何せん思うようにいかず、最終的に『縫』だけを用いて『怪々縫典』と言うタイトルにしました。全体として一応、一万字前後になっています。長く書いても私のモチベーションが途中で切れてしまったり、今よりもさらに冗長な表現ばかりになってしまうのが明白だったので…。
最後になりますが、もしお時間があれば私の他の作品も読んでいただけると幸いです。ここまで読んでくださりありがとうございました。