鬼という種族
首に牙が突き立てられる。すぐ傍から死の音が歩み寄ってくる。
恐怖は勿論あったが、郁はその場で大人しくしていた。どうせ家族も友人もいない身だ。ここで命果てようと、果てまいと、どちらも変わらないような気がしてしまった。
このまま喰われてしまう…。
衝撃に耐えようとぎゅっと目を瞑る。
鬼は郁を壁に押しつけて、その首元目掛けて──。
「ッ……!」
かぷ、と優しく牙の先端を突き立てた。ちくりと鋭い痛みが首元に走り、体が僅かに震えた。
そうしてできた傷口に吸い付き、血を舐めとる。小さな傷だったためすぐに血も止まってしまい、吸血も予想以上に早く終わった。
「…え、あ、あの…?」
「何?」
「えっと、俺を食べるつもりだったのかと」
鬼はきょとんと首を傾げた。
それからぷっと吹き出して、くつくつ肩を震わせている。
郁の首にできた傷口を袖で軽く拭いてあげながら、生理的に浮かんだ涙を拭う。
「あはは!食べられると思ってたのか?」
郁はどきっと肩を揺らして目を泳がせた。
あのような展開があって、まさか食べられないとは思わない。自身の首元にできた傷に触れて、再び鬼へ視線を向ける。
「食べないさ。お前みたいな面白いやつ、食べるには惜しいね」
それに食べると後処理が色々面倒なんだ、と物騒な一言つけ足した。
郁はひとまずほっと胸を撫で下ろした。しかし、自分が勘違いしていたという事実がじわじわと心に染み込んで、頬が次第に熱くなっていく。
「す、すみません…失礼なことを…」
「気にするなよ。血は貰ったしな」
自分がどれほど妖怪に対する知識がないか、思い知らされた瞬間だった。
人間をとって食べてしまう印象があったが、そもそも妖怪はめったに人を喰ったりしないらしい。
「お前の血、かなり美味かった。また飲ませてくれる?」
「えっと…検討しておきます」
曖昧な返事でも彼は満足してくれたようで、にっこりと笑顔を浮かべた。
「それじゃ、また来るから。待ってろよ」
ぺろりと唇を舐め取り、鬼は再び羽織を頭から被る。帰るのかと思いきや、身を翻した彼が途端に足を止めた。そして郁の方へ振り返ると、一言だけこう残していった。
「俺の名前、言ってなかったな。名前は火宵だ。周りから酒呑童子とか呼ばれてるが…まぁ、呼び方は好きにしな」
そして扉が開き、彼は軽い足取りで去っていく。
郁はその後ろ姿を見つめながら、ぺこりと頭を下げた。
鬼の姿は暗闇の中へ紛れていき、やがて完全に見えなくなってしまう。
辺りには再び静寂が舞い降りた。
彼の陽気な声がいつまでも耳に残り、次はどんな話をしようかと思考が巡る。
そんなことをぼんやり考えながら店のシャッターを閉じると、箒を取り出して床の掃除を始めた。
ばらばらと床に散乱する赤紫色の髪の毛を見つめる。
(すごく綺麗だな…)
捨ててしまうのが惜しいぐらい、艶のある美しい髪の毛。
火宵という鬼がもつもの全てに惹かれてしまう。彼から滲み出る不思議な魅力に、郁は知らないうちに捕らわれていた。
「次来てくれるのはいつだと考えても、ここは床屋だからしばらくは来ないか…」
独り言をぽつりと呟く。自分で言っておきながら、まさにその通りだ。
残念な現実に気づいてしまって、がっくりと肩を落としたい気分になる。ついさっき会ったばかりの妖怪に何故ここまで惹かれているのか、正直自分でも分からない。
しかし、嬉しかったのだ。話が出来て楽しかった。
その素直な気持ちに従って、一人の友人として接することが出来ればそれで良い。
「次はお菓子でも用意しよう。いや…でも妖怪はお菓子を食べるのか…?妖怪も人間と同じなのか…?」
落ち込んでばかりもいられない。郁は早速彼におもてなしする方法を考えた。
(俺は床屋の仕事はできるけど料理もあまりできないし…かといって何をすれば喜んでもらえるかも知らない…)
箒をざかざかと動かしながら、思考をフル回転させる。これ程何かを考え込んだのは初めてかもしれないというぐらい。
(お裁縫?なんだか可愛らしいな…妖怪の好きなもの…?)
様々な可能性を探ってみるが、結局良い案は思い浮かばない。
考えながら、手は無意識に動いていた。すると気づいた時にはだいたい片付けが終わっていて、自分のことながらこの必死さには笑ってしまう。
(それと、妖怪のことについて俺はもっと詳しく知るべきだな)
首元についた小さな傷跡を優しく撫でる。痛みはすっかり引いていて、噛まれた時の感覚が少し残っている程度だった。
こうして郁が生まれて初めてできた友人は『周囲から恐れらる程力の強い鬼』ということになった。
いったいこんなこと誰が信じてくれるだろうか。
しかし自分だけに出来た特別な友人、という肩書きも悪くない。穏やかな時間に浸りながら、その夜は上機嫌のまま過ごした。
「火宵様、か…」
ただひたすら嬉しいという感情だけを享受する。
しかし、この時郁はまだ何も知らなかった。彼が見据えていたもの、見抜いていたもの。
血を舐めとった鬼の顔は、何か「ある重大な事実」を確信していた。
しかし、浮かれた郁にそれを見抜くことはまだ出来なかった。