それはとある噂
山々に囲まれ、その麓に位置する小さな村。
背の低い古びた家が並ぶ村だが、決して活気を失っていない。それどころかいつも人々の声が飛び交い、商売が盛んな場所であった。
ある日、その村にとある噂が流れ込んだ。しかも賑やかで平穏すぎる日々を脅かす内容であり、あっという間に人から人へ広がっていく。
「鬼…ですか」
「ああ、だから気をつけた方がいいよ。郁」
郁と呼ばれた青年は、心底不思議そうに首をかしげた。淡い水色のエプロンが似合う床屋の店長は、「怖くないのかい?」と問う。
郁は再び首をかしげた。村の隅にひっそりと立つ床屋にまで、その噂話は姿を現した。
この床屋の働き手である郁。背中まで伸びた白銀の髪の毛を後ろで一つにまとめ、白い肌に淡い緋色の目が儚い印象をもたせる青年だ。
髪の毛の伸びる速度が、他人からわかるほど速いらしい。
幼い頃、両親に捨てられこの小さな店に拾われた彼は感情が乏しく、『鬼』という言葉ひとつで驚いたりはしない。
その噂の内容は、「近頃村の周辺で鬼が出る」というもの。
たしかにこの世では、特に自然に囲まれた場所や山奥など、そういった場所に妖が出るという言い伝えがあった。
可憐な少女の姿に魅せられてその娘に店のものを全て盗まれたという噂がある。その娘の正体は力の強い妖狐だったそうだ。
「今更妖だなんて珍しいね。昔は色んなやつがいたが、今はほとんど姿を見せなくなったのに」
「彼らは…なにをするのですか」
「悪事だよ。ものを盗んだり、人を攫って食っちまったり。郁みたいな細っこいのは特に気をつけた方がいい」
店長の冗談めいた話し方が、彼があまり噂を信じていないということを示していた。郁は相変わらず目立った反応も見せないが、敢えて言うなら、興味が湧いたという表情を浮かべる。
「…郁、一応聞いておくけれど、深追いはだめだよ?」
「わかっていますよ」
彼の雰囲気をいち早く察した店長が、念の為釘を刺しておく。郁のことが少し不安になりつつも、結局これもただの噂。
「あ、いらっしゃい」
戸が開かれる音が部屋に響いた。客が入ったためお喋りもここまでにして、二人はいつも通りせっせと手を動かす。
どこからともなく到来した噂話は、気づけば日常の音にかき消され、すぐに姿を消してしまった。
◆
あの日から数日がたっても、郁の思考から噂話が妙に焼きついて離れない。
命を投げ出すつもりは決してないが、少しだけ会ってみたい、だなんて考えも湧いてしまった。
「………」
数日、店長は出張でここには郁一人しかいない。話す人もいないため、余計に脳内がそのこと一色になってしまう。
(俺はその鬼に会いたいと思っているのかな…)
騒がしいことは正直苦手だった。自分は親に捨てられ、この店に拾われた身。ここの店主も村の皆も優しい人ばかりだが、余所者だという事実は変わらない。自分を良く思っていない者などいくらでもいる。
だから少しでも目立たないように、ひっそりと暮らしたい。鬼に会ってしまったら、「鬼を呼ぶ不吉な者」と言いがかりをつけられるかもしれない。
こんなことを考えていたら、いつの間にか夜の帳が外の世界を包んでいた。慌てて店を閉める準備をしようと、扉を開けた。
「っ!」
「おっと」
途端に、目の前にぬっと現れた何かに顔面をぶつけた。それが程よい柔らかさをもっていたためか、痛みはない。
顔を上げると、そこには自分より頭一つ分は大きい男の姿が視界に入った。
「す、すみません…」
慌てて背中を曲げて謝ると、その男は「気にするな」と口を緩めた。
濃い紫の着物、黒の羽織を頭から被っている。明らかに自身の姿を隠そうとするその人物を、怪しいと言わざるを得ない。
「もう今から閉めるのかい?」
口調はいたって穏やかだ。果たして不審者なのか、ただの客なのか。後者であればこの不審な挙動は失礼だ。だが警戒心がどうしても拭えない──。
「髪切ってもらえねぇか?伸びすぎてもううんざりなんだよ」
「は、はいっ」
咄嗟に口から飛び出た声。もう店は閉まる時間なのに、思わず了承してしまった。
心の中で何をやっているんだと情けない自分を責めた。今すぐこの場から逃げ出したい。
「ありがとな」
そう言って、その人物が顔を隠していた羽織を勢いよく脱ぎ捨てると、客が待っている間活用する机に放り投げた。
「っ…!」
「お兄さん、よろしく頼むぜ」
ひゅ、と息を呑んだ。布の下から現れた鮮やかな赤紫色の髪の毛は後ろの高い位置で結ばれている。瞳は透き通った紫色で、容姿端麗な美しい青年。
その額からは、二本の角が生えていた。
「お兄さん、名前は?」
名前を聞かれる。答えていいのか思考を回転させるが、まずはこの状況を安全に乗り切ることだけを考えた。言うことを聞かなければ何をされるかわからない。
「郁、です」
「そう。かわいい名前だな」
そう言って店の中へずんずん入っていく。その声音は優しくて、耳にすんなりと馴染んでいく。何故だろうか。怖くて仕方ないはずなのに、心の中は何故か温かいもので満たされていた。