第7話 五月下旬、和解の楔
楓に襲われた翌日、葵は生まれて初めて学校をサボることにした。
目が覚めても全く疲れが取れておらず、鉛のように体が重く感じられた。それだけなら我慢できるが、なによりも精神的に参っていた。引っ越してから今まで災難続きだ。ただモテるだけならまだしも、相手がマトモじゃない。
唯一救いになるかもと思った桃花でさえ、楓の話では普通じゃないらしい。一から十まで信じる訳ではないが、彼女から感じた違和感を考えればその通りかもしれなかった。
ともあれ、彼はこの日一日をベッドで過ごすことにした。幸い詩乃は休む事をすんなりと承諾してくれた。楓は不満気だったが、詩乃が許したということで何も言わなかった。
冷蔵庫からペットボトルのお茶を一本持ち出し、部屋の鍵を掛ける。トイレ以外で部屋を出なくて済むようにしたかった。
色々と問題は山積みだが、今は何も考えたくなかった。
早々にベッドに倒れこみ、布団を頭まで被った。視界が暗くなり、布団に包まれたこの空間だけが彼の安息地のように思えた。
すぐに眠気が押し寄せる。堪えずにそのまま意識を暗闇に落とし込み、嫌な現実から逃げ出した。
彩乃がこの日休みだと知らなかった事が、この週最後の災難となった。
◇
幼稚園の行事から帰ってきた彩乃は昼前に帰宅した。かなり疲れが溜まっていたのか、シャワーもそこそこに自室へと閉じこもる。葵の隣の部屋だが、彼女は当然彼は学校にいるものだと思っていた。
無人の家は完璧な静寂に包まれていて、鳥のさえずりでさえハッキリと聞こえた。自分の息遣いと時計の針の音だけが部屋に流れ続ける。
そんな中、彼女はぼうっとした頭で葵の事を思い浮かべていた。
成長した愛しい少年の姿は、再会してから彼女の全てを占めていた。離れているときも、近くにいるときも彼を最優先に考えている。
食事の時はその唇を見つめ、風呂上りで上気した彼はとても艶っぽい。成熟した女の本能が彼を全て奪ってしまいたいと訴え続けていた。
彼の精神を自分のものにするには時間がかかるだろう。葵が自分に苦手意識を抱いているのは気付いているし、それが簡単に払拭出来るものでないことだって理解している。
であれば、まずは身体をモノにしてしまえばいいと考えていた。
車での一件は性急だったかもしれないが、結局いつかは同じ事をするのだ。いずれは彼にも慣れてもらわなければならない。なら、早いうちから彼を自分の色に染めておきたかった。
相思相愛でいちゃいちゃできる事が理想だが、彩乃と葵の関係はそんなに単純じゃない。
楓にも、あの西條の娘にも彼を渡す気はない。ぼやぼやしてたら奪われてましたなんて事は許せなかった。
だが今は耐えるときだ。自分の色に染める時は今ではない。
力づくでモノにするのも悪くないが、彼女の求める関係からは遠く離れてしまう。欲しいのは心と身体両方なのだ。
最近の葵は友人と遊んでばかり。避けているのだろうが、そろそろ彩乃の我慢できなくなってきている。
襲わないにしても、抱き締めるくらいしなければ頭がおかしくなりそうだ。多少嫌がっても、押し切ってしまえばいい。それくらいなら問題ないはずだ。
明日は土曜日。葵を買い物にでも連れて行って、この間のミスを取り戻しておくのもいいかもしれない。
眠気が強くなった頭でそんな事を考えていた時だった。
ーーーかたん。
彩乃はその小さな物音を聞き逃さなかった。
隣の部屋で明らかに誰かが動いた音は、静まり返った家では大きく響いてしまったのだった。
その音に、彩乃は一気に覚醒した。布団を跳ね除け、髪を整える。
その豊満なスタイルに似合わない子供じみたパジャマを脱ぎ捨て、この時の為に買っておいたワンピースに身を包んだ。春らしさを感じさせつつも、武器であるセクシーさを強調した勝負服だ。
鏡で顔をチェックする。目ヤニはない。少し疲れた顔をしているが、まあ許容範囲内。
(っていうか、葵くんがサボり?いや、風邪でもひいたのかなぁ⋯⋯)
風邪であれば看病しなければ。弱っている葵を想像して、背筋にゾクゾクしたものを感じた。
(私がいなかったらご飯もトイレもできない葵くん⋯⋯。うん、すごくいい⋯⋯)
トイレに起きたのだろう葵が、ドアを開けた。狙うはトイレから出たタイミングだ。
洗浄音に合わせて廊下に出ると、やはり寝惚け眼の葵の姿があった。
ふらふらとした足元は覚束なくて、一瞬彩乃の姿を認識できていなかった。
目があって、葵は驚いた顔をする。それすらとても可愛らしくて、彩乃の心の琴線に触れる。
「葵くん、大丈夫?お休みってことは風邪ひいちゃった?」
「あ、彩乃さん⋯⋯。そうなんだ、ちょっと体がだるくて⋯⋯」
「もう、体調には気をつけなきゃ。ご飯食べた?薬は飲んだ?」
何気ない会話が彩乃を満たす。ここしばらく避けられていた上に仕事に追われていた。
そんな会話に幸せだなと思う心と、それを与えてくれる葵を自分だけのモノにしたいという心がせめぎ合った。
少し怯えたような、それでも彩乃を気遣った笑顔はいつも通りだ。
ふわりとした栗色の髪に寝癖がついている。
噛み付きたくなる首筋に、滑らかに浮いた鎖骨。真っ白な肌には小さな赤い斑点。
ーーー赤い、斑点?
彼女の目に留まったのは、彼の首筋に残る痣のようなもの。
いつも彼を目で追っている彩乃には、それが昨日朝までには無かったものだと知っていた。
彼女の考えうる限り、最悪ともいえるケースが頭を巡る。よくよく見れば、痣は一つではない。
「首、どうしたの?」
考えるよりも早く、葵に尋ねる。睨みつけたくなる衝動を抑え、笑顔を保つ。
正直に答えはしないだろう。だが、彼の反応で真偽はわかる。
「いや、これは⋯⋯」
「あ、もういいや」
言葉を遮って、葵に詰め寄る。彼がなんて答えようか思いあぐねているとき、嘘を吐こうとしているときはよく分かる。
足元に視線を泳がせる事は、彩乃が今一番して欲しくない行動だった。
「っ⋯⋯痛いよ」
「誰にやられたの?楓ちゃん?西條の子?それとも他の女?」
「誰でもない。ここ緑多いから、虫に⋯⋯」
「嘘吐いてもいいけど、私今ギリギリで話してるからね。よく考えて答えた方がいいと思うなぁ」
壁際に押さえつけられ、覗き込むように視線を合わされる。
口元とは違って、目は笑っていない。確かに誤魔化すのは得策ではないようだ。
「だれ?」
「⋯⋯⋯⋯楓さん」
その答えにピンときた。
やはり、想像した通りか。
「ふぅん⋯⋯昨日やられちゃったわけねぇ。あの子、昔から抜け駆けだけは得意だったからなぁ⋯⋯」
悔しそうにその美貌が歪む。歯がギリっと鳴り、自分を落ち着かせるように深呼吸する。
本当ならここで葵にお仕置きをしたい。
自分というものがありなが、易々と奪われてしまうその迂闊さを戒めたい。
その首をゆっくりと締めて、そのキスマークを噛み千切ってしまいたい。
だが、それはすべきではないのは分かっていた。
それをしてしまえば、彼女の計画が崩れてしまう。
「ねえ、ここで私が悔しがって葵くんを襲うって思ってる?」
「⋯⋯正直、思ってる。今も押さえつけられてるし⋯⋯」
首にそんなアザつけてたら心配するじゃない、とむくれる彩乃。
全身全霊で怒りを抑えつけ、葵の想像を回避する。
「本当はね、葵くんの嫌がることはしたくないの。そうゆう事が嫌なら、私は我慢するわ。私は、ね」
そう、葵が性的な接触を拒むのであればそれでいい。楓は人生で一番耐えるべきは今だと思っていた。
「私は葵くんと仲良くしたいの。ちゃんと私の事を好きになってもらって、それでお嫁さんにして欲しい。こないだは先走っちゃったけど、ね」
「彩乃さん⋯⋯」
「ドライブの時はごめんなさい。気分が高まっちゃって、我慢できなくて⋯⋯昔襲っちゃった事も。もう二度としないって、約束する」
「⋯⋯」
「だから、葵くんと一からやり直したいの。普通に恋人になって、結婚して、一緒に過ごしたいから⋯⋯」
今は優しいお姉さんを演じる。
葵の嫌がる事を避け、彼の求める自分を演じよう。
楓は強引に事を起こしたようだが、それは逆効果だと気付いていない。気付いているかも知れないが、それを彩乃は利用する。
彩乃の求める関係と、その先に待つ甘美な時間の為に、今は血涙を流しても、耐え抜く。
心を先に手にしてしまえば、彼は容易く彩乃の色に染まり上がるだろう。
気付いた時にはもう遅い。
全てが手に堕ちた後、じっくりと彼を味わい尽くす。
ゆっくりと、自分の言うとこだけに耳を貸すように彼を調教しよう。その為には暴力だって振るう。痛みも愛だと刷り込めば、より一層自分好みになる。
「だから、今日はその第一歩として、二人でゆっくりしよ?お姉ちゃんが看病してあげる」
ふふっと笑う彩乃は、押さえつけていた肩から手を離す。
一瞬首筋を苦々しく見つめたが、すぐに再会した時のような柔らかさが戻っていた。
葵に断る理由はなかった。今までは恐怖が勝っていたが、彩乃は彩乃なりに考えていてくれたようだ。
そしてそれが、葵の心に変化をもたらす。
(彩乃さんって、あんなに女の子らしかったっけ⋯⋯)
失礼かも知れないが、彩乃があんなにも乙女のような言葉を吐くとは思っていなかった。
言う事を聞かなければ暴力だって厭わないタイプだとは思っていたが⋯⋯。
(なんか急に意識しちゃうな⋯⋯)
ストレートに好意をぶつけられ、それが自分の事を考えてくれているものだった。
楓とは違う愛情が、葵には新鮮に感じられた。彩乃のような美女からであれば尚更だ。
力づくはもうしないと彼女は言った。嫌がる事もしないのであれば、車での一件のような事はもうないだろう。
もしそうならば、葵にとって彩乃が心の拠り所になるのではないだろうか。過去を精算するのであれば、彼女を避ける理由も見当たらない。
葵は彩乃の差し出した手を取った。柔らかくて、温かみのある手の温度にドキリとする。
そのまま葵の部屋へと戻り、夕方になるまで二人は話し続けた。どうでもいい会話が殆どだったが、彩乃を知るいい機会となった。
夕食の頃にはすでに彩乃への恐怖心は消え去っていた。
優しく、笑顔が素敵な年上のお姉さんとして、葵の心の隙間を埋め尽くす。
膝枕で彼がうたた寝したのがいい証拠だ。少なくとも、今までよりは心を許していた。
土台はこれで完成したと彩乃はほくそ笑んだ。
楓に葵が嫌悪感を抱いているのも確認した。彼は楓を避けるように彩乃の料理を手伝っていたのだ。明らかに彩乃に傾きつつあった。
どれくらい我慢すればいいのかは分からない。分からないが、その先に待つのは葵との甘い新婚生活だ。
あの愛しい少年との未来を糧に、彩乃は歯を食いしばる。
この土日で更に差をつけてやろう。彼を虜にするために、彩乃はただひたすら耐えて、策を弄する。
巣で獲物を待つ蜘蛛のように。
掛かってしまえばあとは絡めて食べるだけ。
気付く間もなく、モノにする。
葵のこの週最後の女難は、彩乃の本心に気付けなかったことだ。
それさえ気付けたのならば、彼はこの先もう少し平穏に過ごせただろう。