第4話 引っ越し二日目、早朝から
午前四時半、陽もまだ昇り切っていない早朝に葵は目を覚ました。度重なる心労と衝撃で寝込んでしまった彼だが、慣れない環境下ではどうしても安心して休むことができなかった。
両親を亡くしたショックも彼を未だに蝕んでいた。本人は気付いていないが、その傷は癒えてはいない。安眠を得られるにはまだ早過ぎた。
早朝の寒さは肌に厳しく、葵はお気に入りのパーカーを着込んだ。肌を刺す寒さが幾分和らぎ、音を立てないようにそっと部屋を出る。
キッチンで水を飲み、コップを軽く洗っておく。夕飯を取っていなかったため、空腹を感じるも冷蔵庫を開けることはなかった。人の家の冷蔵庫のような気がして、開ける気になれなかった。
二度寝するには眠気が足りず、かといってリビングでテレビを見れば叔母たちが起きてしまうかもしれない。寝ぼけた頭で少し考え、とりあえず散歩でもしようかと思いつく。
同じく極力音を立てないよう玄関を開け、より強い寒さを感じつつも歩き出した。
◇
改めて歩くこの町は、彼の思っていたより自然に満ちていた。
家の周りはそれなりに整備されていたものの、少し歩けば田んぼ道や畑など、都会では見られないような風景が広がっている。
しばらく気ままに歩いていると、小さな湖が彼の前に広がった。自然の中にぽっと広がったそれは、どこか神秘的な雰囲気を醸し出していた。
湖の中央へと伸びる桟橋を歩けば、水の上を歩いているような気分になる。その先には、木でできた大きなベンチがあり、朝霜でしっとりと湿ってはいたが構わず座り込む。尻に冷たさを感じたが、すぐに気にならなくなった。
「これからどうしようかな……」
思わず口に出た言葉は、彼の心情を表すものだった。
新天地に着いてたった一日で、彼を取り巻く環境が想像してもいないような方向へと変わっていってしまった。普通の生活とは程遠い状況だ。
もちろん、あのような美女に好かれて嫌な訳ではない。健全な男子高校生であればむしろ羨むべきだろうし、彼自身も女性が若干苦手なだけだ。普通に接するのであれば、好ましくさえ感じている。
葵が眠れなかった理由は、その重すぎる愛ゆえだった。幼稚園の頃の約束をこの歳まで引っ張り続け、その相手は自分にトラウマを受け付けた張本人である。さらに抑止力であるその母親は、姉妹の味方となっていて、完全に逃げ場を失ってしまっているのだ。
叔母である詩乃から宣告されたのは、高校卒業までに姉妹のどちらかを選ぶこと。どちらかを選んで、一八歳の誕生日と共に籍を入れることを念押しされた。
それだけならば何とかなるだろう。問題なのは、姉妹二人が力づくで物事を進めようとすることである。あの叔母の娘だ。選ばれなかった方は、何をするかわからない。血を見ることは明白であった。
トラウマの張本人、彼の苦手な女性とはいえ、怪我をするような目に遭うのは好ましくない。
ではどうするか、それが一番の問題だった。
「ほんとに……どうしよう……」
頭を抱える彼に、安息の日は訪れるのだろうか。
◇
数時間ほどの散歩を終えて、葵はのんびりと帰路についていた。
日が昇れば印象が変わり、のどかな田園風景は傷付いた心に癒やしを与えてくれた。
若干迷いつつも家に付けば、リビングには叔母の姿があった。日曜日は休診日ということで、今日は自宅にいるようだ。
「あら、葵くん。随分早いのね」
「おはようございます。ちょっと目が冷めちゃって、散歩に行こうかなって思って」
「ここらへん何も無いでしょう?がっかりしなかった?」
「いえ、のんびりできましたし。湖まで行ったんですけど、すごく気に入りました」
朝食の支度をする詩乃の機嫌はよさそうだ。昨日の事などまるで無かったかのように話す。それに葵は違和感を覚えた。
「ふたりはまだ寝てるわよ。休みの日は昼くらいまで寝てるから」
「あ、そうなんですね……」
良かった、と言いそうになり、慌てて口を噤む。今あの二人と顔を合わせるには心の準備が足りない。
それを察したのか、詩乃は踏み込んでくる。
「気まずい?ごめんなさいね、ちょっと急すぎたかしら」
ふふふと笑う彼女に罪悪感はなかった。急じゃなければ良いという問題ではないような気もするのだが、詩乃の雰囲気には勝てそうにもない。
「でも、あの二人が君のことを好きだっていうのは嘘じゃないのよ。やり方は確かに強引だけど、それだけ葵くんのことが好きなのね」
「それは嬉しいんですけど、僕まだ高校生ですし……」
「だから十八歳までってこと。どちらにしろそんな理由であの子達が君を逃がすとは思えないわね」
それは貴女がそう育てたからだろうと叫びたかった。元凶なのに、どことなく他人事だ。
「逃がすって……僕の意志はないんですけど」
「意志ならあるじゃない。サインが残ってちゃあね?」
そう、あの誓約書こそが一番のネックだ。あんな小さな頃に書いたもののせいで、ここまで追い詰められている。そんなもの知るか、と反故にするほどの勇気は彼にはない。人の良さが災いした。
「ま、時間はあるんだし、ゆっくり決めていけばいいんじゃないかしら」
「……結局、選べってことですよね」
葵の言葉に、詩乃は笑みで返した。それを見て、本当に逃がす気はないんだなと実感する。
選ばなければどうなることやら。追い出されるか、それとも刺されるのだろうか。
「それは、君が決めること。親としては、選んでくれたほうが一番嬉しいけどね」
言葉や表情こそ穏やかだか、詩乃の威圧感はそうは言っていなかった。綺麗な女性の威圧感というのは、どうも迫力があって萎縮してしまう。
乾いた笑みを浮かべるだけで精一杯だった葵は、普段より随分早く起床した姉妹に笑えなくなって行くのを感じていた。
◇
「今日はどこ行こうか?日曜日だし、お姉ちゃんどこでも連れてってあげるよぉ」
昼食も終えた昼下がり、相変わらずおっとりした彩乃は当然のように葵にべったりだった。
楓が仕事で学校へ行っているため(彼女は高校教師で、女子バスケ部の顧問である)、必然的に彩乃に独占されてしまう。
「ここら辺のことまだ知らないでしょ?私が色々案内してあげようか?」
言うな否や、手を取って立ち上がる。今朝の散歩で周辺地域はあらかた回ったのだが、言い出せる空気ではなかった。
「服はそのままでいいよね?じゃあ行こっか」
引っ張られ、財布も持たず車へ乗せられてしまう。せめて財布と携帯をと彩乃には伝えるも、そんなもの要らないと一蹴された。
明らかに値段の張るような外車に乗せられ、出かけようと言い出してからわずか数分で出発する。思い出されるのは、彩乃は人の意見を全く聞かないということ。昔も彼女に連れ回され、そこら中を駆け回っていた。
本人に悪気はないのだが、昨日の今日ではしゃげる気分でもないのが本音だ。今日一日彩乃と二人きりでいることを考えて、胃に痛みが走る。
隣で嬉しそうに運転する彼女を見てしまえば、無下には断れない。お人好しとはよく言われたが、それが彼の性分なのであれば仕方がなかった。
「それで、どこに行くんですか?僕今朝散歩してて、湖の方とかは行ったんですよ」
どうせ出かけるのであれば、行ったことのないところがいい。昔住んでたとは言えだいぶ周辺は変わっており、見覚えのないところばかりとなっていた。
葵がなんとか話題をひねり出したとき、車は急ブレーキを掛けて停止した。荒く舗装された道路にタイヤの後がつき、焦げた匂いが周囲を漂う。
シートベルトに圧迫され、息が詰まる。何事かと思って周囲を見渡したとき、隣から伸びた手が葵の顎をそっと掴んだ。そのまま彩乃のほうへ顔を向けられ、目にしたのはあのぞっとする笑顔を浮かべて女性だった。
「葵くん、もう忘れちゃったのかなあ」
彼女は笑顔だ。写真に収めれば雑誌の表紙ですら飾れそうな素敵な笑顔。それに全く似合わない地獄の底から響くような声を聞いて、葵は自分がやらかしてしまったと気付く。
彩乃がやめろと言った敬語を使ってしまったのだ。
「敬語はやだって、お姉ちゃん言ったよねえ」
「言った!言ったけど、でもクセで使っちゃっただけで!ごめ……」
ごめんなさい、という前に、掴んだ手に力が入る。痛みに言葉が止まり、涙が浮かんだ。
「じゃあその後なんて言ったかも覚えてるよね?」
その後?
昨日の出来事を思い出し、頭をフル回転させる。思い出される記憶の中にその答えがあった。
思い出した時には手遅れだと気付いて、絶望感が増す。
「思い出した?また使ったらお仕置きだって言ったよね?」
今日一番の笑顔を浮かべ、舌なめずりをひとつ。あの笑顔に合わさる妖艶さが、背筋を凍らせた。シートベルトを外し、かちゃりとした音が恐怖心を煽る。サイドブレーキを引き、ブレーキから足を離した。
そのまま助手席に跨り、リクライニングのレバーを一気に引き上げる。体重を載せられた助手席ががくんと倒され、気付けば葵は押し倒されていた。流れるような動作に、抵抗する間もなかった。
「あの、彩乃さん……本当にごめんなさい」
なんとか震える身体に鞭を打ち、謝罪の言葉を述べる。許されるかと期待するも、変わらない笑顔に全くの無意味だと悟った。
「昔からね、言ってわからない子には身体で分からせるって言葉があるんだよ?」
随分物騒な言葉である。体罰が当たり前の時代に使われていそうだが、あいにく彼には馴染みの無い言葉だった。
涙を浮かべる葵に嗜虐心をそそられ、彩乃は背筋にぞくりとした感覚を覚える。小動物のように怯える葵は、優しく甘やかしてあげたいと思うと同時に、もっと虐めたいという気持ちを抱かせる。目の前で縮こまる彼を組み敷いて、それが抑えられようものか。
「大人しく、してるんだよ?」
震える葵の顔を両手で掴み、笑みを深くした女は噛み付くようにその唇を奪った。
◇
突然のキスに、葵は混乱を極めていた。お仕置きだというのだから、暴力的なものだとばかり思っていたからだ。
顔を固定され、彩乃のふわりとした栗色の髪が纏わり付く。超が付くほど奥手で恥ずかしがりの彼が想像していたキスとは違い、乱暴とも言えるそれは彼の思考を停止させた。かろうじて肩を掴んで離そうとするも、びくともしない。
唇を噛まれ、ぐっと閉じた歯列を彩乃の舌がなぞる。一通りなぞった後、今度は唇を吸い付かれた。唾液で汚れた口元を舌で舐められ、ぎゅっと目を瞑る。
ぞわりとした感覚が包む中、体験したことない気持ちよさが彼を襲った。こういった経験が一切ない彼は(姉妹に襲われたことはあったが)、徐々に抵抗を弱めてしまう。
一向に終わる気配すら見せないキスは、次第に過激さを増していく。呼吸が苦しくなり、ついに食いしばった歯を緩めてしまった彼の口内に、蛇のような舌が滑り込んだ。
奥歯や口蓋を撫でたあと、引っ込めていた葵の舌に絡みつく。流し込まれた唾液を飲み込み、飲みきれない分は溢れて顎を伝った。
どれだけ時間が経ったかわからないが、日曜の昼下がり、道路に停められた車の窓ガラスは熱気で曇っていた。誰かに見つかるかもと思っていたが、彩乃にとっては誰に見られようが関係なかった。見たければ見ればいい、むしろ見せつけてやるとさえ思っていた。
お仕置きと称してはいるが、単純にいちゃつく口実が欲しかっただけだ。何か言われたら、呼吸をしづらくしたとでも言っておけばいい。
今はもう抵抗する素振りもなく、なすがままに受け入れる葵を見て、満たされたような気持ちになる。結局は口だけで、押せば手に堕ちるのだと確信した。
より深く、より激しくなるキスの中、彼女の手が顔から離される。こうなれば、もう少し先まで行けると思ったからだ。
そっと下半身へ伸ばされた手のひらが彼自身に触れた時、その変化は起こった。
◇
葵の頭の中を占めていたのは、混乱と動揺だった。葵は軽度の女性恐怖症で、女性にボディタッチをされたり密着してしまうと、身体が一気に固まってしまう。それだけならまだいいのだが、問題はキスや性的な行為に及んだ場合である。汗が吹き出し、恐怖心が彼を支配して、時には泣き出してしまうこともあった。それがモテるにも関わらず恋人を作れなかった理由である。
そんな彼がここまで密着され、したことのないようなキスまでされている。発作が起きるのは当然だった。
「ンんんんッ!」
きっかけは、彩乃の這い回った手だった。
それがきっかけで、彼の記憶はフラッシュバックする。あの日、あの夜の出来事が鮮明に頭に映し出され、同時に味わった恐怖心が葵の心を握りつぶした。
途端に強くなった抵抗に、彩乃は驚く。唇を離し、泣きじゃくる葵を見てしくじったと気付いた。
嗚咽が止まらず、身を守るように身体を丸める。一瞬合った目が、恐怖心で溢れかえっていた。
手を伸ばしても払われ、声をかけても反応はなし。ただひたすらすすり泣き、身体は震えている。
声も掛けられず、触れることすら躊躇われたまま、時間だけが過ぎていった。
◇
彼が泣き止み、落ち着いたのは日が大きく傾いた後だった。
謝罪を繰り返し、ごめんなさいと謝る彼の目はひどく腫れてしまっていた。恐る恐る葵の頭を撫で、拒否されなかったことに安心する。
「その……ごめんね?あんなに嫌がるとは思ってなくて……」
「いえ、その、違うんだ。彩乃さんが嫌いとかじゃなくて……どうしても、ああいうことされると発作みたいになっちゃって」
「私達が原因、だよね」
「そうなの……かな。でも、これでも良くなったんだよ」
葵が精一杯言葉を選んでいるのを、彩乃は感じていた。襲いかかった彩乃を傷つけないようにしていると気付いたとき、罪悪感が過る。
「自分でもこのままじゃだめだとも思ってるんだけど、なかなか、ね」
落ち込む彼を見て、彩乃は抱き締めようとする。また怖がらせるかと思いとどまるが、衝動には抗えなかった。
抱き締められる程度では、彼もそこまで恐怖することはない。今度は自分を慰めてくれているのだと感じ、彩乃の包容を受け入れた。
彼をこうした原因が姉妹であり、何一つ負い目はないのだとは思えないほど、彼は今疲弊していた。
案内どころではなくなった車の中で、彩乃はひとつ決心を固めた。
確かに昔の自分は性急すぎた。彼を欲しがるあまり、力づくでものにしようとした。その結果、彼は離れてしまった。
同じ過ちは犯さないと誓い、彼がうちに来て暮らすと知った時、ついにその時が来たのだと思った。約束を果たし、彼が自分のものになる日が来るのだと。
最初はゆっくりと関係を進めるつもりだった。しかし他人行儀に振る舞う彼を見て、心が遠く離れていったのだと不安になった。
早急に関係を縮める必要があると気付く。うかうかしていれば、妹が攫っていってしまう。そうなる前に先手を打っておく必要があった。
考えた結果、心より先に身体を奪ってしまえという結論に辿り着いた。それはかつて自分が犯したミスだとは気付かず、母の言うように物理的にまずは手に入れてしまえと思ったのだった。
お仕置きと称したのは単なるイタズラ心からだが、気が付けば押し倒して唇を奪っていた。久方ぶりに会った想い人を前に、我慢を重ねてきた彼女は限界だった。
結果は見ての通り、大失敗に終わった。本気で拒絶され、あまつさえ気遣われる始末だ。
しかし収穫もある。彼女自身は嫌われてはいないようだ。苦手意識はあるみたいだが、本気で嫌いというわけでもないらしい。
あの夜の過ちが彼をそうさせたのなら、それを治すのも自分でありたい。
独占欲が強いのは自分でも知っている。それを治そうとも思わないし、最終的に彼が自分の物になればそれでいい。結果が全てなのだ。
今日は失敗したが、まだまだ挽回できる。女性恐怖症なら、自分だけ怖がらないようにすればいい。むしろそれは他の女に靡かないという分、メリットでもあった。
形の歪んだ愛情が彩乃をさらに歪ませる。先程彼を泣かせて怯えさせたことさえ、良かったと思い始めた。
帰宅する車の中で、彩乃は次はどうやって迫ろうかと頭を回していた。