第3話 引っ越し一日目、夜
後頭部のひやりとした感覚が、葵の目を覚まさせた。
ゆっくりと目を開ければ、窓の外は夜の帳が下り始め、室内は暗闇に包まれつつある。
見慣れない部屋だとは思ったが、よくよく思い出せば引っ越したばかりだと気付く。彼の自室とはいえ見慣れているはずがなかった。
身体を起こし、後頭部を擦る。ずきりと痛みが走り、殴られたのは勘違いではなかったと再認識した。
彼女らの喧嘩の原因は、彼には理解できなかった。そもそも、彼の周りに殴り合いをする女の子はいた事がない。自分を巻き込んだ言い合いが発端だとは思うが、そんな事で気絶するほどの拳をぶつける人間は見たことがなかった。
とにかく、このまま寝ている訳にもいかない。暗くなっているのであれば、叔母さんだって帰宅しているかもしれないし、引っ越し初日に寝っぱなしというのは印象が悪いだろう。
正直なところ、あの姉妹と顔を合わせるのは気まずかった。からかわれ、殴られ、得体の知れない恐怖だって感じた。十六年間で味わったことのない経験が、あの姉妹に対して苦手意識を喚起させていた。
バスタオルで包まれた氷枕を手に取り、リビングへ下りる。姉妹の話し声と、もう一つ聞いたことのある声が漏れ出ていた。深呼吸をして、ドアノブに手をかける。
小さな音とともにドアを開けば、ソファには姉妹と叔母の姿があった。葵が入ってきたことで視線が集まり、叔母はにこりと笑うと彼に駆け寄った。
「葵くん、大丈夫だった?ごめんなさいね、この子達ったら加減ってものを知らないから」
「あ、いえ、大丈夫です」
「まだ痛むかしら……全く、彩乃ももう少し手加減しないとだめよ?」
手加減するなら殴ってもいいんですか、とは訊けず、ただ愛想笑いを零すことしかできなかった。
叔母である草薙 詩乃は、二十三歳の娘がいるようには到底思えない程の美女である。四十代前半らしいが、どう見たって三十代前半にしか見えなかった。肩口で切り揃えられた金髪が彼女の女性としての魅力を引き上げていて、大人の女性という点であれば、姉妹よりも数段上だ。
そんな女性に接近され、後頭部を撫でられれば照れてしまうのも無理はなかった。
みるみるうちに赤くなる葵を見て、姉妹の顔が曇っていく。
「お母さん、近すぎ。葵くん困ってるでしょ?」
「葵もママにデレデレしてんじゃないわよ。アタシの身体見てニヤついてたくせに」
「は?何言ってるの楓ちゃん。まだ寝ぼけてるのかな?」
「アンタたち、いい加減にしないとまたお説教するわよ」
ピリつく雰囲気を察した詩乃が姉妹を制止する。
その言葉に一斉に口を噤んだところを見れば、この家での詩乃の権力の高さがわかった。
「ごめんねえ、この子達、いつもは仲良いんだけど……」
ふふふ、と笑いながら、後頭部の手は止まらない。笑い方が彩乃そっくりだった。目は楓に似ていて、切れ長の美しい目だ。親子って似るんだなと思いながら、葵は愛想笑いで返す。
「それで、ちょっと葵くんにもお話があるのよ。ご飯の前に、いいかしら?」
「話、ですか?」
「そう、これからのことっていうか、ね」
確かに、今日から一緒に暮らすのだから、家のルールや生活態度など色々話すべきだろう。特に叔母は夫とは死別しているため、この家の男性は葵だけだ。線引するためにも、葵は彼女らと話すことに異論はなかった。
大きなコの字型のソファに座り、改めて姿勢を正す。両サイドに姉妹が陣取ることに疑問はあったが、正面に座る叔母が何も言わないのであれば、口出しするべきではないのだと諦めた。
「それで、お話なんだけど……」
叔母が一枚のクリアファイルから紙切れを取り出す。ボロボロに汚れたそれは、所々千切れてしまっていた。
「葵くん、これ覚えてるかしら?」
手に取った紙切れを裏返すと、ぱっと見では読めないほどの拙い字が書かれていた。
B4サイズのルーズリーフに、一番上には、ここだけは綺麗な字で「誓約書」と書かれていた。
その下には文章が書かれ(字が汚すぎて、一部は葵には読めなかった)、辛うじてこれが将来結婚しようという約束事が書かれているのだと理解する。
一番下には、自分と姉妹の名前。黒ずんでいて分からなかったが、名前の横には拇印と思わしき物もあった。
「これって、もしかして……」
「思い出した?君がまだこっちに住んでた頃のものなんだけれど」
記憶がフラッシュバックする。確かに葵には、これを書いた記憶があった。
毎日遊んでいた彼女たちと、夕暮れの神社で書いたものだ。大きくなったら結婚しようと約束した、
他愛もない子供の頃の思い出。すっかり忘れてしまっていたが、はっきりと思い出した。
「懐かしいですね。まだ残っているなんて……」
「当たり前よ。神様の前で、ちゃあんと誓ったでしょ?」
にこにこしていた彩乃は、葵が思い出したことが嬉しいようだ。葵の左手をぎゅっと握る。
近くにある神社の境内で誓約書を書き、そのまま神様に約束は守ると誓ったのだ。
「そ、アンタはその後引っ越しちゃったけど。アタシたちはちゃんと約束守ってたんだからね」
「一回もこっち遊び来てくれないしねえ……」
葵は神社での近いの後、半年ほどで都内へ引っ越してしまった。両親の仕事の都合で引っ越さなければならなくなり、それ以来ここへ遊びに行く機会がなかったのだった。
懐かしさを感じていると、ふと疑問が浮かび上がる。
「それで、これが一体どうしたんですか?」
まだ幼かった頃の、ほんの子供のお遊びの一欠片。改まって話すことではないだろう。
「うーん……葵くんって、地雷踏み抜くわよねぇ……」
「地雷?どういうことですか?」
葵の言葉に、詩乃は困ったように笑う。
瞬間、両隣の姉妹から威圧感のようなものを感じた。
彩乃が握る手が軋み始め、万力のような圧で握りつぶされる。楓からの視線は鋭さを増し、目だけで人が殺せるならきっとこんな視線なんだろうと思わせる。
「アンタ、まさか忘れてたわけ?」
「そんなことないよねえ。ちゃんと私のものになるって誓ったもんねえ?」
――――地雷って、これのことか!
信じられないが、彼女たちはこの子供もお遊びみたいな紙切れを信じ続けていたらしい。
彼女らは既に大学も卒業している。これ程の美女であれば、男たちが放っておくわけもないのだが、姉妹は葵のために全ての男を袖にしていた。
――――まさか、あんな昔の約束を引っ張ってくるなんて……
彼が引っ越したのは、小学校に上がる前だ。それから十年以上、彼女たちは誓約書を信じて待ち続けていたということだ。
冗談かとも思ったが、周りの反応を見る限り本気で思っているようだった。
「まあ、信じられないわよね。我が娘ながら、結構美人だと思うし。こんな姉妹を選べるなんて幸せ者じゃない」
「そうですけど!でも、幼稚園の頃の話ですよ!?」
「いつか、なんて関係ないわよ。あんなこともあったし、私もこんな上手くいくと思ってなかったんだけどねえ……」
あんなこと?
詩乃の言葉の裏に隠されているものが、葵にはとてつもなく恐ろしいように思えてならない。
蘇りつつある記憶が、彼にとってまるで無数の幽霊の手のように感じてしまう。思い出したくないのに、思い出さなければ身の危険すらあるのではと感じさせた。
「あんなことって、なんですか?」
「そうよね、葵くんは覚えてないわよね……」
詩乃は目を一度閉じると、意を決したかのように話しだした。
「あなたたちがこの誓約書を書いたときのことなんだけれど」
雰囲気が変わる。先程までの浮ついた空気ではなく、真剣な空気。
「娘達が、葵くんと結婚したいって言うからこの誓約書で捕まえときなさいって。私が朱肉とこの紙を、この子達に持たせたの」
……………はっ?
「神様の前で誓わせて、破ったら死を以って償いますって言わせて、一生離さないと誓わせなさいって」
……………・。
「まあ私もそうやって旦那捕まえたし、上手く行くと思ったんだけどねえ……」
……………。
「そしたらこの子達が葵くんの奥さん気分になっちゃったのね。葵くんがうちに泊まりにきたときに、姉妹揃って葵くんに夜這いかけてたの」
……………。
「葵くんが大泣きして、あまりのショックに入院しちゃって……。幼稚園児が女性恐怖症なんて、私どうしようかと思っちゃった」
……………どうしようはこっちの科白ですね。
「引っ越した原因はきっとこの子達から葵くんを引き離したかったのね。葵くんもショックでその時のこと覚えてないみたいだし」
…………ああ、やっとわかった。
「まあそれでもこの子達が葵くんと結婚したいって言ってたから、私がしっかり恋愛テクを伝授して、君をいつか取り戻せるようにって、この子達を育てましたっ」
姉妹の愛がやたら重いのも、それを悪びれていないのも。
全部全て、この人のせいだったのか。
「私も自分が重い女だってのはわかってたんだけどね?まさか娘達まで同じになるとは思わなかったわ」
叔母の性格(性質?)が遺伝した上で、そうなるように育てられた姉妹ということだ。
「と、言う訳で。葵くんには、この子のどちらかと結婚してもらいます。男の子は十八歳になったら結婚できるから、それまでに選んでね?」
恐らくここで拒否しようものなら、明日の日の光は拝めないのだろうと悟る。
全て思い出した記憶が、葵の身体を凍りつかせた。
あの日、神社で誓約書を書いた日から、姉妹の態度が一変したのだ。
やたら一緒にいたがる。世話をしたがる。すぐに抱きついてくるようになり、極めつけは泊まったときの夜だ。
月明かりに照らされた彼女たち二人に襲われ、すでに知識を叩き込まれていた姉妹は葵を徹底的に陵辱した。
泣き叫ぶ彼を押さえつけ、その声に気付いた彼の両親が(その日同じく詩乃の家で酒を飲んでいた)止めに入るまで、葵は姉妹の玩具となっていた。
姉妹に性知識を教えたのはもちろん詩乃で、当日は葵の両親のバレないようにテレビの音量をかなり上げていた。つまりは、確信犯だった。
言葉の出ない葵。身体が硬直し、冷や汗でシャツが濡れる。
彼はここから逃げ出すことはできないのだなと、両サイドで笑みを浮かべる姉妹を見て理解した。
ヤンデレの母の血を受け継ぎ、その愛し方を叩き込まれ、その手に堕ちるように仕組まれた生活が葵を待っている。
しかもどちらかを選ばなければならない。憂うべくは、選んでしまったら死人がでるんじゃないかということだ。先の喧嘩を見ても、選ばれなかった方はほぼ間違いなく刺しにくるだろう。
非常に、とてつもなく愛の重い姉妹だが、かなりの美女だと言うことは彼にとっても喜ばしいことだ。
しかし、詩乃の言動やかつての陵辱劇、先の暴力沙汰などを経験した葵にとっては、いくら美人でも丁重にお断りしたいというのが本音だった。
なにせ、彼の女性に対する恐怖心の原因はこの姉妹と叔母だからだ。
とはいえ、葵にはもうこの家以外に行く居場所はない。
八方塞がりとはこういう事かと、身をもって知る。
泣きたくなる気持ちを抑え、葵は静かに目を閉じた。
願わくば、目覚めた時には、全てが夢でありますように。
考えることをやめ、葵は意識をそっと暗闇に落とした。
引っ越し一日目の幕は、現実逃避とともに終わるのであった。