第2話 引っ越し一日目、昼過ぎ
案内された新しい自室で、四ノ宮 葵は荷解きをしていた。今は売却された自宅から送った荷物は既に片付けられていたが、自分で持ってきたキャリーバッグの荷物を入れっぱなしにしておく程、彼はぐうたらな性格ではなった。
といっても、キャリーバッグの中にはたいして物は入っていない。長距離の電車移動とは言え、半日あれば着いてしまう距離だったし、最低限必要な着替えやスマートフォンの充電器など、あってもなくても良いような物だけだった。
それでも彼が彩乃から誘われたお茶を断ってまで荷解きに三時間も掛けたのは、先程感じた恐怖感ゆえだ。
彼女の見た目から想像もできないような、蛇に睨まれたカエルになったかのような感覚が、未だに彼を縛っていた。
葵は自分の首を撫でる。
あの時添えられた手は、驚くほど熱を持っていた。
そのまま締められるんじゃないかと思ってしまった。そんなことないだろうと考えるも、どうしても拭いきれなかった。
しかし、いい加減このまま自室にいるのも限界がある。それに葵の勘違いであったのなら、彩乃に対して失礼だ。
うん、とひとつ呟いて、キャリーバッグをクローゼットにしまう。
きっと僕の勘違いだ。慣れない土地で、新しい生活に緊張しているだけだ。そう言い聞かせて、自室の扉を開く。
ドアの外に掛けられた木札が、からんと鳴る。よくよく見ればローマ字でAOIと書いてあった。
表札の件といい、やはりこういった小さいことでも嬉しくなる。先程まで考えていた疑念がばからしくなってきた。
―――こんな優しくて気配りのできる人が、怖いわけない。
だいぶ楽になった気がした。なんだか嬉しくなって、自分でも笑ってしまう。
気づけば喉もだいぶ乾いている。緊張していたためか、カラカラになっていた。
とにかくリビングにもう一度彩乃と話してみようと決意する。一緒にお茶でもしながら話せば、自分の勘違いだったと確信できるはずだ。
葵が気持ちを落ち着かせ、階段を降りようとしたときだった。葵の部屋の隣の扉が開く。KAEDEと書かれたプレートが掲げられていた。
部屋からのそりと出てきたのは、彩乃に負けず劣らずの美しい女性だった。
「……葵?」
彩乃とは対照的な、黒いストレートヘアの女性。ひと目見ても、かなり手入れされていることが分かる。目が開ききっておらず、恐らく今まで寝ていたのだろう。
「えっと、楓、さん?」
草薙姉妹の妹、草薙 楓。こちらもうっすらとしか覚えていないが、昔仲良く遊んでいたことだけは覚えている。
「あぁ、やっぱり葵なのね。もう着いてたんだ?」
「はい、お昼過ぎくらいに着きました。これからお世話になります」
彩乃とは違う、凛とした雰囲気を帯びている。今は半開きだが、その奥にある瞳は意志が強そうだ。双子だったはずだが、随分対照的だった。共通点は、楓も変わらずとんでもない美女だということ。
「ていうか、今何時……あぁもう、アンタ着いたんなら起こしなさいよね」
「す、すみません……」
寝起きで不機嫌なのだろうか。黒髪の美女はじろりと葵を睨むが、肝心の本人はそれに気づかない。
春ももうすぐ終わりかけだが、日中はそれなりに日差しも強くなってきている。特にこの家のデザインは陽の光を取り入れやすいように設計されているため、長袖で着込めば若干暑さすら感じるくらいだ。
窓も開けず、日光に晒されたまま寝こけていた楓の格好は、タンクトップにハーフパンツというラフなものだった。彩乃に劣らず目を惹く豊満なスタイルは、葵が直視できないくらいの過激さを帯びている。
下を向いてもじもじしている葵。当然のごとく、楓が気にならないわけがなかった。
「アンタ、人と話す時くらい目見て話しなさいよね。何、アタシのこと嫌いなの?」
「いやっ、そうじゃなくて……楓さんの格好が……」
「自分の家なんだから、何着たってアタシの勝手でしょ」
「そうなんですけどぉ……」
泣きそうになる。どう考えても逆なのだが、葵の羞恥心が膨れ上がった。恐らく、楓には何を言っても突っぱねられるのだろうと思ったら打つ手がなかった。
涙目で目線を上げれば、腰まで伸びた艷やかな黒髪が日光で輝いていた。それよりも目につくのは大きく開いた胸元。体のラインに張り付くタンクトップは、そのくびれも際立たせている。
「別に見たきゃ見てもいいわよ。減るもんじゃないし。アタシの自慢だし」
「そういう問題じゃないんですよ!」
ついに葵が限界を迎える。顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「これから家族になるんでしょ?これくらい慣れてもらわないと困るわよ」
もっともな言い分だった。確かに元々この家で生活していた者にとって、急に格好を変えろと言われる筋合いはない。
引き取られたとはいえ、住まわせてもらう以上合わせるのは自分なのだと、葵は考えていた。
「慣れます、慣れますけど……僕にその格好は刺激が強すぎて……」
「そりゃ彼女もできたことないアンタじゃ仕方ないわね」
「なんで知ってるんですか!」
また叫ぶ。確かに葵は交際経験がなかった。告白されたことは何度もあるのだが、奥手な彼は「恥ずかしい」のただ一点で全て断っていた。
楓に見抜かれてしまい、葵の顔はさらに熱くなる。
「アタシは変えるつもりないからね。アンタが慣れなさい」
欠伸とともに突っぱねられる。彩乃もそうだったが、女性の平均身長より高い姉妹は、必然的に葵を見下ろすようになる。
鋭さを持つ目でまっすぐ見据えられると、反論する気も削り取られてしまった。
手も足も出ず、葵はわかりましたと降伏するしかなかった。慣れるのにどれだけかかるのだろうとは思うが、彼にはここで暮らすより他にないのだ。なにせ、今まで暮した家はもう無い。
じっと見下ろす視線を感じながら、葵は未だに顔を伏せたままだった。
一度目線を上げただけでも頑張ったほうだ。夜はまだ寒くなるのだから、今だけ耐えれば何とかなるだろう。
「て、いうかさ……」
見下ろす楓の声質が変わる。
俯く葵はそれに気付かない。楓の纏う雰囲気が変わった。
「これでも結構、スタイル維持には気を使ってるのにさ。それを恥ずかしくて見られないって失礼だと思わない?」
片手で葵の顎を掴むと、力任せに引き上げる。
「目瞑ったら、ひっぱたくからね」
一瞬閉じかけた目を開き、葵は改めて楓を見る。顎を掴む手はなかなか力強く、男としてはかなり非力な部類に入る葵には抵抗出来なさそうだ。
腰から胸、きれいな鎖骨からシミひとつない首筋。楓の手はゆっくりと下から上へ、葵の視線をコントロールする。
最後はその美貌を表す顔の近くへ引きつける。睫毛は長く、ノーメイクだろうが十分過ぎる程その美しさが滲み出ている。力強い瞳が葵の数十センチ先にあり、じっと睨めつける。睨んでいるつもりはないのだろうが、どうしてもそういった印象を受けてしまう。
「で?」
吐息がかかる程近く、楓は短く言葉を発した。
その質問の意図を理解できるはずがなく、羞恥と緊張で葵の頭はフリーズしたままだった。
何も答えない葵に、楓は追撃をかける。
「だから、どうだったって訊いてんの」
鋭さを増す声が、葵の頭を覚醒させる。顎を掴む手が、更に力強くなった。
「すごかった、です」
「なにそれ、褒めてんの?」
確かにすごかった、というのはどうかとも思ったが、純粋に感じたことをそのまま口にした。
ふふ、と初めて楓の顔が綻ぶ。言葉はどうあれ、態度で気持ちを感じたようだ。
依然、顎から手は離されない。それからどれだけ時間が経ったのか、無言のままの時間が続く。
離して下さいと言おうにも、掴まれた顎が動かせない。何も言えないまま、その雰囲気に捕らわれていった。
何時間にも感じた数十秒が過ぎたとき、ふいに楓の視線が外れる。葵の向こう側、背にした階段の方へ。
背後から聞こえた声は、人生で一番恐ろしい声だったと言い切れるくらい、葵の体を震え上がらせた。
◇
「なに、してる、の?」
「なにって、言わせないでよ、もう」
地獄の底から響いているのではないかと思わせるような声は、葵ではなく目の前の黒髪美女に向けられた。
楓は臆する様子もなく、戯けたように言葉を返す。照れたような表情は、そのギャップもあって葵をドキリとさせた。
「なんかしてたら困るわけ?っていうか、邪魔なんだけど」
火に油を注ぐような物言いに、葵は慌てた。楓の表情とは裏腹に、掴まれた顎がミシミシと悲鳴を上げ始める。
「葵くんの叫び声が聞こえたと思ったら、やっぱり楓のせいだったのね……」
「アタシのせいっていうか、葵がアタシの身体を見たいっていうから」
―――そんなこと言ってない!
反論しようにも、鷲掴みに変わった楓の手が言葉を遮っている。
背後から感じる寒気が増す。心なしか、室温も下がっているように感じた。
「寝ぼけてないで、葵くんから手を離そう?」
「はあ?なんで姉さんにそんなこと言われなきゃいけないわけ?」
彩乃の上から目線の物言いにかちんときたようだ。顔を顰め、眼光が鋭くなる。顎の骨が軋み出し、本格的に痛くなってきた。振り払おうと腕を掴むが、ビクともしなかった。
「いい加減に、しよう、ね?」
「いいからさっさと消えなさいよ」
取り付く島もなく、楓は言い放つ。
睨み合いが続き、冷や汗が止まらない。
「葵くんの前で、お姉ちゃんを、怒らせないで?」
耐えているのが分かる。優しいお姉さんとして、なにを言われても大人らしく振る舞おうとしている。
新しく家族に迎え入れた少年の前で、醜態を晒すことはしたくなかった。
そんな思いを知っている楓は、止めを刺しにかかる。
「おばさんは、下でお茶でも飲んでたら?」
直後、葵は何かが切れる音を確かに聞いた。ぶちっと、何かが切れる音。
双子なのだから同い年なのだが、彩乃はそれでも姉として一応「歳上」だということを気にしていたのだった。
だん、と廊下を踏み込んだ音が響き渡る。次いで、葵の顔の真横を風が通り抜けた。
顎を掴んだままの楓の手が、その風圧を受け止めるように動かされる。盾にした、といったほうがわかりやすい。
通り抜けたものが拳だと理解する前に、彩乃が放った二撃目が葵の後頭部を撃ち抜いた。
薄れ行く意識が完全に途切れるまで、葵は美人姉妹の殴り合いをぼうっと眺めていた。