第1話 引っ越し一日目、お昼
都会から田舎へと引っ越すということは、それなりの不自由を覚悟してのことだった。彼のイメージでは、携帯の電波が届かない、ネットも繋がってない、コンビニも少なければ娯楽施設なんか無いといったものだった。
ところが実際に越してきてみれば、思ったほどではなさそうだ。
携帯も問題なく使えるし、これから住むところはしっかりとネットが通っている。コンビニは少し離れていはいるが、ぽつんと一軒建っていた。
娯楽施設に関しては、待ち時間の長い電車を使えば行けないこともない。
むしろ自然が多く、のんびりとした雰囲気は悪くなかった。山々に囲まれ、湖や川もあり、傷付いた心を癒やすにはもってこいだ。これから暮らすことになる叔母の家もかなり大きいそうで、その周辺は高級住宅街とまではいかないがある程度整備が進んでいる。
不便さを感じつつも、彼にとってはこれからこの場所で暮らさなければならない理由があった。
つい先日、両親を事故で亡くし、心理的にショックを受けているらしい。
らしいというのは、彼自身そこまでショックだと思っていないとういことだった。確かにショックではあるが、あまりに急なことで実感が湧いていない。
彼の家は裕福で生活に不自由はなかった。一人息子なので我儘もそれなりに通った。
両親は共におおらかな性格で、時には厳しく、基本的には優しく彼を育てていた。その甲斐もあって、彼はクラスの中心人物となるような、人柄もいい少年へと成長した。年頃にありがちな反抗期も彼には無縁の存在であった。
絵に描いたような幸せ家族だったのが一ヶ月前まで。敬愛していた両親が事故でこの世を去り、なんの実感もなく、いつか両親がふらっと帰ってくる気がして呆然としたままだった。
とにかく、彼の取り巻く環境は一変してしまった。
親戚付き合いが希薄だったこともあり(何故かは知らないが)、唯一彼が小さい頃に交流のあった叔母の家へ引き取られることとなった。
まだ物心付く前に、近所で暮らしていたらしいのだが、正直に言えば彼はうっすらとしか覚えていなかった。都心での暮らしがとても充実していたため、小さかったときの事などうろ覚えでしかない。
叔母の顔も、更にはその娘の顔など覚えているはずがなかった。高校二年生にもなって、幼稚園時代のことはそれ程重要な思い出でも無かったのだろう。
通夜や葬儀、自宅の売買も手配してくれた叔母を見たときは、こんな美人な叔母さんがいたのかと驚いた程だ。
転校手続きも済ませ、級友との挨拶も終わり、残すところは新天地への移動だけとなった。
彼の転校に際して、学校の一部の女子からは悲鳴があがった。柔らかな栗色の髪に、男というよりは女の子と見紛う程に整った容姿もあってか、学校のマスコット的な存在だった。
文化祭での女装コンテストではぶっち切りで一位であり、その容姿に似合った優しい性格に惹かれる者も多い。ファンクラブはないにしろ、牽制し合っていた状態だったことは事実だった。
反面、男友達は結構さっぱりしていた。いつでも会おうと思えば会えるだろとか、夏休みには帰ってこいよ、とか。
こういうとき、この距離感やぶっきらぼうな友情は助かる。
叔母は仕事のため、先に自宅へ戻ってしまっている。となると、必然的に交通手段は電車の乗り継ぎとなった。
進むほど建物が少なくなる状況に不安にもなったが、着いた時には拭い去られた。最寄りの駅周りはそこそこ開けていたし、大きくはないが道中にコンビニやデパートもあった。一軒ずつしかないのが気になるが、ないよりはマシだ。
気乗りはしないが、もう彼にはここで暮らすしか選択肢はない。
腹を括り、叔母の家へと歩を進めていった。
◇
叔母の家へ引き取られるとはいえ、四ノ宮という姓が変わるわけではない。叔母の家の表札には、草薙と四ノ宮の両方が彫られた表札が光っていた(四ノ宮は母方の姓である)。
気を使ってくれたのだろうか、こういった小さな心遣いが彼には嬉しかった。少なくとも、歓迎されていない訳ではないようだ。
とはいえ、素直に喜んでいられる心境ではない。両親の死から1ヶ月弱、実感はなくとも、まだ彼の気持ちは沈んだままだったからだ。
緊張がまだ体を包む中、まずはインターホンを押す。
閑静な住宅街に、小さくチャイムの音が響く。夏はもう少し先だというのに、遠くからセミの鳴き声が聞こえる。
家の中から、間延びした女性の返事。ぱたぱたと足音が大きくなり、優しげな声とともにドアが開いた。
ドアを開けたのは叔母ではなく、緩やかなウェーブが魅力的な女性だった。同じ髪色だとか、目を惹く豊かなスタイルより、テレビで見るような圧倒的な美女を前にして、彼の緊張はさらに高まった。
舌が回らず、言葉が出ない。やっと絞り出せたかと思えば、あの、そのという意味のない言葉であった。
「もしかして、葵くん?」
怪訝な顔をしていた女性は、思い出したかのように声をかけた。もしかして、というような期待が込められた声色に、彼は聞き覚えがあるような気がした。
「ええと、もしかして、彩乃さん?」
「うん、やっぱり葵くんなんだねえ。何年ぶりだろう?」
ふわりふわりとした口調と、耳に心地良いその声で確信した。顔すら覚えていなかったが、かつて小さかった頃に仲の良かった姉妹の長女だ。
こんな女性と昔、仲良く遊び回っていたのだと思うと、不思議な感覚が葵を包んだ。
相当仲が良かったと叔母から聞いていたので、忘れていた事自体信じられなかった。
「お母さんから聞いてるよ。今日からまたよろしくねえ」
柔らかな笑みに、自分でも分かるほど顔が赤くなる。
ふふふと笑う彩乃は、再会を喜んでくれているようだ。頭を撫で、頬をつつき、腰に手を回してまた笑う。
若干過剰なスキンシップに、葵は更に熱を帯びていった。
「よろしくお願いします。えっと、彩乃、さん」
「これから一緒に暮らすんだから敬語はだめ。昔みたいにあや姉って呼んでくれてもいいのに」
「いや、流石にそれはちょっと恥ずかしいかなって……」
耐えきれず、挨拶をして離れる葵。若干残念そうにするが、彩乃の笑顔は崩れなかった。
よく笑う人だなあ、と葵は思う。
全身でにこにこと表現しているような彩乃に見とれていると、昔からこんな人だったなと思い出す。
いつもにこにこしていて、怒っているところなんて見たことなかった。
どこか懐かしい匂いと声が、うろ覚えの幼少期を思い起こす。
懐かしさに浸っていると、ふいにぞくりと恐怖が走る。
あの笑顔に一瞬、背筋が凍るような緊張が葵を襲った。
あまりお目にかかれない程の美女との対面に緊張したか、初対面の人物相手に(昔遊んでいたのだが)人見知りをしただけだろうか。そう自分を納得させ、開けられたドアをくぐった。
◇
玄関だけを見ても、叔母の家がかなり裕福だと分かった。飾られている絵画は値の張る一枚です、と言わんばかりのものだし、シューズボックスの中は高そうなヒールやブーツが詰まっている。
リビングに通された時、それは確信に変わった。
テレビで紹介されるようなそれは、実際に目の前に広がると現実味がなかった。
「叔母さんって、何してる人なんですか?」
圧倒されっぱなしの葵は、好奇心のまま彩乃に問いかけた。
「お医者さんなんだよ。ここらへんって住んでる人は結構いるんだけど、病院ってうちくらいしかないから」
そりゃあ儲かるよねえ、と戯けて笑う彩乃。
本格的な大病院となると、結構遠いらしい。事故など起こったらどうするのだろうか。
「都会とは違ってここは田舎だからねえ」
「それにしたって、すごい家ですよね……」
今日からここで暮らすのだから、慣れるまでは大変だ、と思った。今まで暮らしていた自宅も都内の一軒家にしては大きかったが、比べ物にならない。
キッチンもすごそうだ、といろいろ見て回っていると、彩乃背中を押されるまま2階にある一室へと案内された。
10畳程の洋室には、ベッドや机など、一通りの生活用品が揃っていた。事前に送っていた荷物が置いてあるところを見ると、ここは葵の部屋のようだ。
「今日からここが葵くんの部屋ね。荷物とかは全部片してあるし、必要なものは全部揃えてあるけど、なにか必要だったら言ってね」
「広いですね……ありがとうございます」
ベッドに腰掛けてみれば、ぐっと柔らかく沈む。相当良いマットレスだろう。
新しい部屋に笑顔が溢れる。緊張はあったが、今夜は久しぶりにゆっくり眠れそうだ。
「うーん……。ねえ、葵くん」
ずっとにこにこしていた彩乃は、ここで初めてその表情を崩した。柔らかな笑みから、ちょっと困ったようにその眉を顰める。
雰囲気が変わったことを察した葵は、なんにか気に触ることでもしてしまったのかと恐々とする。昔仲が良かったとは言え、心情的には初対面のようなものだ。
しかもこれから世話になる家の娘なのだから、関係は良いままでいたかった。
「敬語はだめって、言ったよね?」
「……あっ、言ってま、言ってた……」
「うん、その感じがいいなあ。私、敬語使われるのってどうも苦手で……」
「ごめんね、彩乃さん」
本当はさん付けも嫌なんだけど、と言われたが、こればかりは葵が折れなかった。流石に呼び捨ては抵抗がある。
「呼び方も変わっちゃうし、おっきくなったんだねえ」
「あれから何年も経ってるから、ね。まだ敬語使っちゃうかもしれないけど、できるだけ使わないようにするから」
年上や初対面の人には敬語を使いなさいと育てられてきたのだから、またぽろっと使ってしまうかもしれない。出来るだけ使わないように意識しようと決める。
その言葉を聞いて、困り顔だった彩乃はまた元の笑顔に戻っていた。
それを見て、ほっと安心した葵は、玄関でぞくりとしたことを思い出させられる。
大きくなったんだね、と言った辺りから、彩乃の様子が急変した。
視線が、どろりとした粘質を帯び始める。つま先から頭の天辺まで、舐めるような視線に晒された。
デジャヴのように、ぞっとした感覚が葵をまた襲う。
いや、それ以前に、もっと昔にもあったような……。
依然笑顔を崩さない彩乃は、怯えた様子の葵に構うことなく距離を詰める。
ゆっくりと、刷り込むように、区切りをつけて吐かれた言葉は、葵の背筋を凍らせた。
「じゃあ、次私に敬語使ったら、お仕置き、だね?」
ひまわりを彷彿させる笑顔のまま、そっと葵の首に添えられた手に、冷や汗が止まらなかった。