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あかねは見るもの全てが珍しい様子できょろきょろと辺りを見回しながら街を歩いた。頼成はそんなあかねの手をしっかり握っておかなくてはならなかった。何しろ相手は中学生である。どれだけ言葉遣いや表情が幼くとも身体はしっかりしており、その足は思いの外速い。呼び名をつけたためなのか、初めに会ったときよりは足取りもしっかりしているようだ。気になるものがあると何にでも近付いていこうとするあかねを見失わないように、頼成は必死であかねの手を掴み続ける。
「おい、あかね。あんた一体何を」
「ライセイあれ何。赤くて四角い」
「あれは郵便ポストだ」
「ゆうびんぽすと?」
「あれに口があるだろ。あそこに手紙や葉書を入れておくと、そのうち郵便局の人が来て宛先に届けてくれるんだよ。……って、なんであんたはそんなことも知らねぇんだ!?」
「ライセイ、人が箱に乗って動いてる。上に行った」
「ああそれはエレベーターっていってなぁ!」
始終このような調子なので頼成もすっかりへとへとだった。彼は自分が休みたいがためにあかねを近くのケーキ屋へと誘導する。案の定あかねは煌びやかなケーキに大きな黒い目を輝かせて食べたいと頼成にせがんだ。
「すごい、こんな綺麗な食べ物初めて見た」
「そうか……そういや昔は俺もそうだったな」
そう呟いて頼成ははたとあることに気付く。しかしまずは注文だ、と彼はあかねを連れて店に入った。どのケーキが食べたいかを尋ねてもあかねはうんうん唸るばかりで決められそうにない。仕方がないので頼成は苺のショートケーキを2つと、ミルクティーを注文した。
店の奥の一画に腰を落ち着けると頼成は深く息を吐く。何やら妙なことになってしまったが、ここまできてあかねを放り出すわけにはいかない。やはり最後には病院に連れて行って何とかしてもらうのがいいだろうと思いつつ、彼はそっとあかねの様子を窺う。
彼はやっと気付いていた。あかねの様子はまるで頼成と佐羽が初めてこちらの世界に来た頃のようなのだ。見るもの全てが珍しく、それまで暮らしてきた向こうの世界の常識では到底理解できないものばかりだった。自分が一体どこにいるのかもまるで分からずただただ途方に暮れた。幸いにして2人共自分自身のことを忘れたりはしなかったが、それでもやはり心細かったものだ。もしもあかねもまたそうなのだとすればどうだろうか。向こうの世界で生まれ、何の偶然かこちらの世界を夢に見てしまったのだとしたら。
ケーキとお茶が運ばれてくる。頼成はあかねにポットのお茶を注いでやりながら、ふと思いついたという調子で尋ねてみた。
「あんた、昨夜はどんな夢を見た」
すると突然あかねの顔色が変わる。これまでの人懐っこい表情が消え失せ、目元に何か剣呑な光が宿る。頼成は一瞬びくりとしたが、なんとかお茶を零すことは免れた。
「夢、かーぁ」
ぽつり、とあかねは呟く。その声は先程までよりほんの少しだけ低い。
「夢、かな。分からない」
「また分からない、か」
「独りになる夢を見た」
独り、と頼成は口の中で繰り返す。あかねは昨夜の少女なのだろうか。いや、それはないだろう。もしも少女が向こうの世界の生まれであれば、その死は揺るぎないものである。少女がこちらの世界を夢に見るはずがない。そしてもし少女がこちらの世界の生まれであれば、昨夜の記憶は曖昧になっているだろうが決してあかねのような反応にはならないはずだ。記憶は薄れても知識までがなくなるということはないだろう。
「昨日までは独りじゃなかったのか」
ショートケーキの苺にフォークを刺しながら、頼成は慎重にあかねの素性を探っていく。赤い苺に白いクリームを絡め、口に含めばまろやかで甘酸っぱい独特の味が広がる。頼成の大好きな味だ。あかねはそんな頼成をそっと見ながら、同じように苺を口に含む。甘い、とその口が小さく動いた。
「昨日までは独りじゃなかった」
「そうか」
「ライセイはケーキ、好き?」
「は? ああ、好きだぞ。だから連れてきた。ここのケーキはどれもうまいんだ」
「そう。美味しいね、ケーキ」
「そりゃあよかった」
あかねは満足そうな表情でケーキを平らげる。そして頼成に聞こえるか聞こえないかの声でそっと呟いた。
「……かは、食べたことあるかな。好きかな」
「ん?」
「なんでもない。ライセイ、美味しいケーキをありがとう」
ふにゃり、とあかねが笑う。その笑顔につられて微笑みを浮かべた頼成がおお、と頷いたそのとき辺りが急に暗くなった。
「なんだ、停電か?」
「ライセイ、お礼にいいもの見せてあげる」
そういうとあかねは頼成の手をぐいと引っ張って店の外へと連れ出した。一体いつの間にこれほどの時間が過ぎたのか、辺りはすでに真っ暗でオレンジ色の街明かりが鮮やかに夜を照らしている。
そして頼成は、それを空の上から見下ろしていた。
「……は?」
「わあ、すごい。こんな風に見えるんだ」
ぽかんとする頼成の隣で彼の手を握るあかねが弾んだ声を出す。空から見下ろす夜の街はまるで光でできているかのようだった。あるいは星空が足元に広がっているかのような、そんな錯覚にさえ囚われそうになる。
「どういう、ことだ」
頼成は強張った表情をあかねへと向ける。彼には勿論分かっていた。これは魔法だ。この世界では使えるはずのない力で、あかねは頼成と共に空を飛んでいるのだ。
「この街がこんなに綺麗なら」
あかねは頼成の問い掛けには答えず、ただ独り言のように言う。
「それなら、いいかな」
「いいって何が」
「何だろう。うまく言えない」
何もできない、と言ってあかねはやっと頼成の方を見た。眼下の街明かりに照らされた顔は幼く、しかしやはり昨夜の少女そのものと言っていいほどによく似ている。
「あんたは向こうの世界の魔術師なのか」
思い切って頼成はそう尋ねてみた。どうせこれだけ非現実的な状況にあるのだから、そのくらいのことを問い掛けても何らおかしいことはないだろう。するとあかねはうーんと唸って首を傾げる。またか、と頼成は心の中だけで溜め息をついた。
「分からない。朝目が覚めたら、なんだかよく分からなくて。とりあえずその辺にあった服を着て外に出た。ずっと歩いて、そうしてライセイを見付けた」
「俺を」
「死んでしまいそうだった」
誰が、とは問わずに頼成はただあかねの目を見つめる。下界の明かりを映してきらきらと光る黒い鏡のような瞳。そこに映る頼成は一体どのように見えているのだろうか。
「溺れているみたいな顔、してた。青い水の中で溺れているみたいだったから声を掛けた」
とぷん、と頼成の周囲の空間が音を立てる。空の中にいると思っていたのに、そこはいつの間にか水の底へと変わっていた。もう街の灯は見えない。上も下も分からない。ただ、ゆっくりと沈んでいく身体と口から零れる泡の立ち上る方向がかろうじてどちらが水面であるかを伝えている。
あかねの姿はどこにも見えなくなっていた。しかしその声は不思議な程にはっきりと頼成の耳に届く。
『ライセイ、あの街は綺麗だね』
「……そうか?」
ごぽり、と頼成は泡と共に声を吐き出す。代わりに味のしない水が口の中へと流れ込む。
「俺には……あんまりそう思えねぇんだが」
『そうかもね』
あかねの声は静かだった。頼成は身体の奥まで染み通るような水を感じながら、その青い世界を見つめる。ここはどこなのだろうか。夢か、現実か、あるいはどちらでもないどこかなのか。
『でも大丈夫。ライセイの目は綺麗だから』
「……はっ」
頼成は鼻で笑う。どこがだよどこに目をつけたらそんな風に見えるんだよ、と吐き捨てれば思ったよりもずっと深い声が返る。
『綺麗な灰色。黒も白も見つめて受け容れたらきっとそんな色になる』
ぽつぽつ、と青い視界に何かが浮かび上がってくる。初めはほんのりと色付いた泡のようだったそれが、やがてもっと大きくはっきりとした形を取って頼成の目の前へと流れてきた。
それは赤い羽根だった。昨夜の少女が長い髪に差していたものとよく似た、赤い鳥の羽根だった。
「あんたは……やっぱり昨日の……?」
呟く頼成に返る答えはない。あかねはもうどこにもいなかった。頼成は水の中で手を伸ばし、赤い羽根を掴む。それはほんのりと温かく、微かに脈打っているように思えた。
「……黒も白も、受け容れる……か。そんなこと、俺にはできそうもねぇ。だが……」
青い水の中で頼成は赤い羽根をその胸に抱き、身体を丸める。
「もし……もしまたあんたに会えたら、その時は絶対にあんたを守るから」
そう呟くと頼成は目を閉じ、意識を手放した。
執筆日2014/08/19