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だいじょうぶ? とどこか舌足らずな声が聞こえる。ゆるりと顔を上げた頼成の目の前に、淡い青色の空を背景にして1人の少年が立っていた。いや、少女なのかもしれない。一見して性別のよく分からない、年齢で言えば中学生くらいの少女、いや少年である。サイズの大きいぶかぶかのボタンダウンのシャツに臙脂色のハーフパンツを穿いて、大きな黒い目で頼成の顔を下から覗き込むようにして見ている。
一方の頼成はただただ唖然としてその中性的な中学生を見ていた。その茶色がかった長い髪と大きな黒い目は忘れようもない。昨夜の夢で出会った少女に瓜二つだったのだ。
しかしよく似ていると感じるもののどこか違うようにも思えて、頼成は戸惑う。少なくとも昨夜の少女はどこから見ても少女だと分かる容姿をしていた。今目の前にいる中学生のようにどっちつかずの印象を与えるものではなかった。頼成は恐る恐る口を開く。
「……あんた、は?」
もしもこの中学生が昨夜の少女であったとしても、その記憶は恐らく残っていないだろう。少女は“天敵”となったのだ。それは人間としての死を意味する。たとえ少女にとって向こうの世界が夢であったとしても、そこで死を認識してしまえば現実にも死んでしまいかねない。ゆえに夢での死はひどく曖昧な記憶となって生者の心の奥深く、決して取り出すことのできない場所へとしまわれる。それが常識だ。
それに、たとえこの中学生が昨夜の少女だとしても、そしてその記憶がいくらかなりと残っていたとしても、彼女は目の前にいる人間に見覚えなどないだろう。向こうの世界での頼成は髪を染めていない。元の黒髪を短く切り揃えた、こちらにいるときと比較すれば随分と真面目くさった髪型で通している。染める必要もなかったのだから当然といえば当然だ。であれば、彼女がこちらの世界の頼成をそうと見破ることはまず不可能とみていい。
頼成がそんなことを考えて緊張している間に、中学生はうーんとひとつ唸って首を傾げた。その仕草は見かけの年齢と比べて妙に幼い。
「あんた、は」
中学生はそうやって頼成の言葉を繰り返した。頼成は不審に思いながらももう一度中学生に話しかける。
「あんた、誰だ。なんで俺に声をかけた」
「だいじょうぶかな、って、思って」
今度はすぐに答えが返る。さらに中学生は自ら付け加えて言う。
「何してるの。悲しいの」
「は?」
「泣いてる」
そう言うと中学生は細い指を伸ばして頼成の目尻に流れる涙を拭った。そしてくるりと頼成に背を向けるとそのまま公園から出ていこうとする。その足取りはふわふわとして、まるで地に足がついていないかのようだ。頼成は急に不安になってその小柄な背中を追い掛けた。
「おい、待て。あんたの方こそ大丈夫か」
頼成の足は速く、小柄な背中をすぐに捉える。中学生はまたもうーんと首を傾げた。
「よく分からない」
「分からない、ってあんた……まさか迷子か?」
「迷子?」
そうかも、と小さな声が呟く。
「なんでここにいるんだろう」
「いや……それは俺が聞きたいくらいだが」
中学生にしてはいやに覚束ない様子をしているその子に対して頼成は大きな背を屈めて問い掛ける。
「ええと、交番……行くか?」
「交番?」
「迷子なら交番に行けば何とかなるだろ。それとも駅まで行けば帰れるか?」
「駅?」
「……あんた、ここがどこで自分が誰だか分かっているか?」
「分からないなぁ」
ふわふわとした調子で答えてその子はへにゃりと笑う。その表情は昨夜の少女とは全く異なり、頼成は再び不安に駆られる。この子は果たして昨夜の少女なのか、それともよく似ているだけの赤の他人なのか。
「分からない……か。何も、か?」
「うん!」
「そこだけはっきり頷くんじゃねぇよ」
頼成は先程までとはまた異なる意味で頭を抱える。迷子、あるいは記憶をどこかに落っことしてでもきてしまったのだろうか。この中学生と思しき子どもに対して頼成ができることは一体何だろう。
そこまで考えて頼成はふと我に返る。別に放っておいてもいいのではないだろうか。少なくとも昨日までの頼成なら話しても埒の明かない相手にかかずらって面倒事を背負い込むような真似をしようとはしなかっただろう。誰か他に親切な人が現れてこの子をどうにかしてくれればそれでいい。頼成には何の責任もないし、関わり合いになる筋合いはないのだ。
「なぁ、あんた」
「助けて」
頼成が突き放すための言葉を告げようとしたその時、その子が言った。大きな黒い目を見開いて、頼成の目をじっと見つめて、淡々とした声で告げられた救いを求める言葉。その音が頼成の耳の奥でひどく大きく響く。
「助け……?」
「怖い。ここがどこか、夢か、本当か、生きているのか、死んでいるのか、今か、昔か、分からない。誰も何もどこもどうしても分からない。助けて」
「……夢」
ぽつり、とその単語ひとつだけを拾い上げて頼成はそっと天を仰ぐ。どうやら突き放したり振り切ることはできないようだ。頼成自身の胸の内にはもうこの子を何とかしなければという使命感にも似た何かがはっきりと芽生えてきているのだった。
そうは言うものの何も分からないという子どもをどうすればいいのか、頼成には分からない。交番に行くのが早いかと思ったが、考えてみれば頼成はあまり警察と仲がよろしくないのである。この辺りの交番に勤務している警察官であれば頼成の顔を知っている可能性が高い。万が一にも誘拐の疑いでもかけられては面白くない。それよりは少し人の多いところを歩くなどして何か手がかりになるものがないか探しながら、信頼できる病院にでも連れて行った方がいいのかもしれない。もしも記憶に何か障害が生じているというのなら医療の管轄だ。それに幸い、面倒事を押し付けることのできる病院には心当たりがある。
「ねぇ」
頼成と並んで歩きながらその子は彼に問い掛ける。
「名前」
「あ? ……頼成、だ」
「ライセイ」
「そう。呼びたきゃ好きに呼んでくれ」
「ライセイ」
「ああ」
「名前」
「はあ?」
今教えただろうが、と言おうとした頼成だったが、その子の真剣な眼差しを見たときに気付く。その子は頼成の名前を知りたがったのと同時に、自分にも何か呼び名がほしいと言っているのだ。
「なんかつけろ、ってか」
「名前」
「俺、そういうのは得意じゃねぇんだが」
「名前」
「しつけぇ。どんなのがいい」
「分からない」
「……でしょうね」
分からないから呼び名がほしいのだろうから、その子の答えは無理からぬものである。頼成は少し考えて、やがてぽつりと言った。
「あかね」
「あかね?」
「……気に入らねぇか?」
「ううん。あかね、がいい」
そう言ってその子は頼成に向けて満面の笑みを浮かべてみせた。まるで幼い子どもが信頼できる親に向けるような表情だ。おいおい、と頼成は内心で苦笑する。そのような笑顔を忘れて久しい彼がどうして見ず知らずの、いや、昨夜見た少女によく似ているだけの知らない中学生からそのような信頼の笑みを向けられなければならないのか。そのような表情を向けられていいものなのか。
いささかげんなりしつつ、頼成はその子…あかねを連れて街の中心部へと歩みを進めていく。
「ねぇ」
途中、あかねが頼成の手をきゅっと掴みながら話しかけてくる。
「なんで、あかね?」
「……なんでって。何となくだよ」
答えに詰まった頼成はそう言って追及から逃れようとする。適当な名前を考えようとして最初に頭に浮かんだのはやはり昨夜の夢の少女の姿だった。しかし頼成は彼女の名前を知らない。知っているのはその声と、治癒術師であるということと、外見だけである。彼女の外見を特徴付けていたのは何より赤い羽根だった。そこまで考えたところでふと思い浮かんだ名前が“あかね”だったのである。男でも女でもどちらでも使えそうなのでそれでいいと思ったのだ。
「何となく、あかね」
ふふっ、とあかねは楽しそうに笑う。何がそんなに楽しいのやら、と頼成はあかねに見られないようにこっそりと溜め息をついたのだった。
執筆日2014/08/19