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半透明の自動ドアをくぐって声を掛けると、奥から白衣をだらしなく着崩した無精髭の男が出てくる。佐羽は彼を見て少しだけ顔をしかめ、その小脇に抱えるようにして連れてきた彩莉を彼に見せた。
「おはようございます、朝倉先生。ちょっとこの子を診てもらってもいいですか?」
そう言った佐羽に、この朝倉医院の院長である朝倉玄太郎は驚いた顔で笑ってみせた。
「ああ、もしかしてこの子が彩莉ちゃん?」
「……え?」
「いやぁ、良かった良かった、捜してたのよ~。警察も役に立たないのよね、こういうときってさ。ばたばたしちゃって全然その気で捜索してくれなくって」
「あの、朝倉先生?」
「佐羽くーん、彩莉ちゃん連れてこっち来てくれる?」
院長は軽い調子で言いながら病棟の方へと歩いていく。佐羽は彩莉と顔を見合せた後、すぐに彼の後を追った。
朝倉医院はベッド数15の小さな医療機関で、それも常に半分程度しか埋まっていない。緊急の患者を多く受け入れるためだと院長は言うが、それにしてもよく経営が成り立つものだ。ここよ、と院長が示したのはこの医院ではもっとも数の多い2人部屋で、2つあるベッドの両方に患者の姿があった。ベッドは淡いクリーム色のカーテンで覆われていたが、彩莉はそれを見た瞬間にはっと目を開けて片方のベッドに駆け寄る。
「お父さん!?」
彩莉は遠慮容赦なくカーテンを開け放った。そこには身体中に包帯を巻かれた姿の男性が、それでもしっかりと目を開けて飛び込んできた彩莉の顔を見つめていた。お父さん、と彩莉がもう一度呼び掛ける。
「生きて……た?」
「……彩莉、良かった。無事だったんだな……」
彼女の父親はそう言って包帯の巻かれた腕を持ち上げようとする。しかしすぐに彼は痛みに顔をしかめて呻いた。動いちゃ駄目よ、と院長が言う。
「火傷の範囲が広くってね。癒着しちゃっているから、今動くと皮膚が引き攣れてすごく痛いでしょう。彩莉ちゃんを抱き締めたいのは分かるけど、それはもうちょっと傷が落ち着いてからにしてちょうだい」
「はい……ああ、でも本当に良かった……彩莉」
腕を動かすことを諦めた彩莉の父親だったが、その目には喜びと安堵の涙が浮かんでいる。彩莉はそんな父親を見て、一瞬院長に目をやった後で父親に抱きついた。いてて、という父親の声が聞こえるも院長もそれを止めはしない。代わりに彼はそっと佐羽の袖を引いた。
「ちょっとこっちに来てくれる?」
佐羽は大人しく彼に従って別室へと移った。
「彩莉ちゃんのご両親を助けてくださったんですね」
2人以外に人の気配のない診察室で、佐羽はそう言って院長を見た。
「ありがとうございます」
「偶然だったのよ。でもまぁ……それも必然かもしれないけどねぇ」
「……俺が彩莉ちゃんに出会ったことも、ですか」
「神の導きでないことは確かよ? でもね、佐羽くん。君や彩莉ちゃんみたいに業を抱えて生きる人間はときどきどこかでこうやって報われる。俺はそう信じていたいね」
無精髭の院長はそう言って優しく笑ってみせる。うさんくさいですね、と佐羽が言うと彼はわははと楽しそうに声を立てた。
「いやね、元々あのお母さんのことは俺も気に掛けていたのよ。総合病院の精神科の教授がねぇ、ちょっと気になる症例だからって俺んとこに相談に来ていたわけ。彩莉ちゃんのこともあったし、色々と手を回してはいたんだけど。この火事までは予測できなくってねぇ……」
「そうだったんですか」
「ニュースで火災の報道を見て慌てて柚木に連絡して、現場に行ってもらって……」
思わぬ名前が出てきて、佐羽は思わず聞き返す。
「ゆきさんに?」
「ほら、彼女の旦那さんはたくましいでしょう。彼は頼りになるからねぇ。火の中だって何のその、豊里夫妻を助け出してもらってここまで運んでもらったわけよ」
旦那、という表現に佐羽は戸惑う。それは一体誰のことなのだろうか。少なくとも佐羽でないことは確かで、今現在阿也乃の家に居住しているのは彼女と佐羽だけであるはずだ。しかし一方で佐羽は時折家の中に阿也乃以外の誰かの気配を感じることがあった。それが“旦那”だろうか。気にはなるものの、今はそれよりも事実の確認が先だ。
「随分とまぁ……無茶をしたものですね。というか、よくゆきさんが動きましたね」
「彩莉ちゃんのことを教えたら興味を持ってくれたみたいでね」
「……朝倉先生」
佐羽は鋭い眼差しで院長を睨む。ゆきさんが彩莉ちゃんに興味を持ったらどうなるか、分からないわけじゃないでしょう。そう言った佐羽に院長はくくく、と悪魔めいた笑いを見せた。
「勿論よー? だからね、彩莉ちゃんにもちゃんと治療をしてあげるつもり」
「……治療って、まさか」
「預言者、っていうのも稀にいるのよね。世界の理を見る力を生まれつき持ってしまったがために苦しんだり、必要以上に人に気を遣って悩んだり。そうやって追い詰められたせいであの子の母親もどこか壊れてしまったんじゃないかって……俺の見立てではそんなところ」
院長の言葉に佐羽は強く顔をしかめた。彩莉だけではなかったのだ。彼女の預言の力は彼女の母親から受け継がれたものだったのだ。黙ってしまった佐羽に対して、院長はまたもくくくと喉の奥で笑ってみせる。
「君みたいなのに、あの子の存在は結構こたえたっしょう?」
「……どういう、意味ですか」
「見透かされるのは怖いんじゃないの?」
「あなたの言動ほどには腹も立たないですよ。それに俺は……」
佐羽はそこで言葉を切り、ゆるゆると首を振って席を立った。
「帰ります。彩莉ちゃんとご両親のことはお任せしましたよ」
そう念を押してから佐羽は朝倉医院を後にした。腹の底に苦い塊が居座っているような感覚があったが、それもいつものことだ。気にするまでもない、と彼は医院から程近いコンビニエンスストアに向かう。いい加減腹に何か入れなければ空腹で倒れそうだった。
と、そこへ甲高い声が佐羽を強烈に呼び止める。
「佐羽!」
「えっ」
思わず声を上げて振り返った佐羽にどんと勢いよくぶつかってくる少女。彼女の頭から帽子が落ちる。佐羽は彼女を抱き留めてから、その水色の帽子を拾った。
「彩莉ちゃん……どうしたの?」
「どうしたじゃない。私、まだお礼も言ってない」
「お礼って……」
「ありがとう、佐羽。私をお父さんとお母さんに会わせてくれた。撫でてくれた。泣かせてくれた」
彩莉は佐羽の目を真っ直ぐに見て、しかめ面でそう言う。その目に光るものを見て、佐羽は一瞬身を硬くした。
「彩莉ちゃん、俺は何もしていない。君が……君が一生懸命だったから、きっと運が味方してくれたんだよ」
「それなら佐羽も」
彩莉の唇が震えながら言葉を紡ぐ。
「佐羽はすごく悪い人だけど、全部悪いわけじゃない。そうじゃないところもたくさんある」
「……そうかな。……どうかな」
「私、分かるよ。佐羽はお腹の中にものすごい寂しさを抱えているでしょ。それがいっつもあなたのお腹を空かせるんでしょ。誰かに触っていたくなるんでしょ。それが悪いことでも、佐羽はそうしないと生きていられないくらい寂しいんでしょ」
少女の茶色い瞳にいくつもの青い光の筋が走る。彼女は自ら魔法を使って佐羽の情報を読み取っているのだ。過去も未来も人の心さえも見通すことのできるその魔法は彼女を不幸にするかもしれない。しかし彼女は今、佐羽のために佐羽のことを暴こうとその力を使っている。
「佐羽……あなたはいつから独りだったの」
彩莉はひどく辛そうな顔でそう尋ねた。佐羽はぐらりと眩暈を感じてその場に屈み込む。彩莉が近付いてきて、彼の頭に手を載せた。
「ごめんなさい。でも……それが始まり?」
「……そうだね」
佐羽はやっとそう答えるとふわりと微笑んで彩莉を見上げる。いつの間にか彼女の身体の周囲には青い呪文の文字列がまとわりつくように浮かんでいた。
執筆日2014/05/19