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佐羽は彩莉を前に戦慄していた。最早身構えていたといってもよかった。自慢にもならないが、彼はこれまでの数年間で何十人、下手をすれば百人以上の人間から恨まれるようなことをしてきている。女性を甘い言葉で誘い、貢ぎ、なぐさめ安らぎを与え、最後にどん底へと叩き落とすということを繰り返してきた。中には佐羽の所業に傷付き、絶望して自ら死を選んだ女性も少なくない。そんな彼女達の家族や友人や恋人から、佐羽は永遠に恨まれ続けている。
この街に佐羽を恨む人間は多い。もしや彩莉も何らかの形で佐羽の所業を知っており、彼に憎しみや恨みを抱いているのだろうか。そういう人間に襲われたことも一度や二度ではない佐羽としては、このような中学生の少女に何かをされるわけにはいかなかった。
こんなあどけない少女に罪を犯させたくはない。
逃げよう、と佐羽が腰を浮かせかけたその時、彩莉が強い力で彼の腕を掴んだ。
「違う。そうじゃない、あなたを責めたりとか憎んだりとかじゃない」
「……彩莉ちゃん?」
「分かるの」
ぽつり、と彩莉はどこか困ったような、弱ったような目つきで言う。
「分かるの。人を見れば、名前とか……何をしている人かとか、何となくだけど」
変でしょ、と彼女はふてくされた様子で呟いた。佐羽はとりあえずそれを否定してから少し考えて、告げる。
「じゃあ俺の……俺のしている悪いことも、何となく分かってるんだ」
「信じるの? 中学生の馬鹿な妄想」
「俺の名前を当てたでしょう」
「たまたまじゃない? 大人なのにそんなこと信じるとか、馬鹿みたい」
「怒っているね」
佐羽はそっと彩莉の帽子に片手を載せた。信じるよ、と彼が言うと彩莉はなおも「嘘つき」と返す。
「嘘じゃないよ。君は魔法使いだ」
「そんなわけない」
「じゃあ預言者。神様が書いた文字が読めるんだ。俺の名前や所業が分かるなら、きっとそういうことなんでしょう」
「……あなた、何」
彩莉は今度は気味悪そうに佐羽を見た。佐羽は敢えて邪悪に笑ってみせながら答える。「魔王だよ」と。
「君が信じてくれるかは分からないけど、俺は夢の世界ではちょっとは名の知られた魔王なんだ。魔王って分かる? よくゲームとかで勇者に倒される悪ーい奴だよ」
「その年で魔王とか……痛い」
「ふうん? 預言者だってなかなかだよ」
「馬鹿にするな」
「していないよ。ただどっちも本当だっていうだけ。君なら分かるでしょう?」
佐羽は彩莉の茶色い瞳をじっと見つめる。よく見ればそこには確かに佐羽もよく知る魔法文字の紋様が光って流れていた。夢の世界で簡単な魔法を行使する際にはそのように瞳の中に呪文の文字列が現れるのだ。もっと大きな魔法を使うとなると文字列も大きく長くなって身体の外に具現化するが、さすがにこの現実でそれほどの魔法を見たことはない。それどころか、この世界で魔法を使う人間を見るのは佐羽も初めてだった。しかも佐羽の話に乗ってこないところをみると彼女はどうやら彼らと同じ夢の世界を共有しているわけではないらしい。不思議なこともあるものだ、と佐羽は思わず彼女の目を凝視し続ける。
「やめて!」
突然彩莉が佐羽の身体を突き飛ばした。その力は思った以上に強く、佐羽は簡単にベンチから転げ落ちる。無様な姿勢で床に転がった佐羽を見て彩莉はすぐに立ち上がり、焦った様子で謝った。
「あ、ご、ごめんなさい!」
「いや……俺の方こそ、ぶしつけなことしてごめん」
佐羽は苦笑いしながら立ち上がり、そして彼女の膝から落ちた新聞紙を拾い上げる。昨日の日付の夕刊だ。そこには昨日の午前中に日河岸市内の某所で火災が起き、鎮火の目処が立たないという記事が少しばかり目立つ大きさで掲載されていた。佐羽の目は自然とその記事に吸い寄せられる。
“日河岸市向陽区8丁目の豊里茂さん(45)宅から出火し、消防車が出動した。豊里さん及び妻の尚子さん(38)、娘の彩莉さん(13)の行方が分からなくなっており、警察は火災に巻き込まれた可能性のあると見て消火活動を急ぐと共に行方不明者の捜索に当たっている”
「……彩莉ちゃん」
「今日には焼け跡からお父さんとお母さんが見付かると思う」
彩莉は抑揚のない声で言い、ふっと佐羽から視線を逸らす。
「火をつけたのはお母さん。つけたわけじゃない。お母さん、具合が悪かったから寝ていた。起きて煙草を吸って、そのまままた寝ちゃった。煙草が絨毯に落ちて、燃え広がった」
私は逃げたの。彩莉はそう言って視線を床に落とす。彼女の父親は異変に気付いてすぐに妻のいる部屋に駆け込み、火を消そうとしたらしい。そして彼は娘の彩莉がその場にいないことに安堵していた。
彩莉はその時間、まだ学校にいた。しかし彼女は知っていたのだ。その日自宅で火災が起きることを。昨日の朝、目覚めた彼女は母親の姿を見て異変に気付いた。彼女の目に映ったのは母親の死相と、燃え盛る自宅の光景。そしてその中で妻を抱いて安心したように死んでいく父親の姿だった。
「……君は、未来を見たんだね」
佐羽はやっとそれだけを言った。それをきっかけに彩莉はぽろぽろと涙を零す。
「知っていて逃げた。そのまま学校に行った」
「信じられなかったんでしょう。まさかそんなことが現実に起こるなんて」
「ありうる、と思った。お母さんはずっと具合が悪かったし、それでも煙草は切らさなかったから。寝煙草危ないよっていっつも私とお父さんとで言ってた。お父さんもお母さんが心配だから、お母さんの具合が悪い日はなるべく家にいるようにしてくれた。あのね、私、死にたくなかった」
2人に巻き込まれて死ぬなんて嫌だった。彩莉はそう言ってわっと泣き伏す。
「お母さん、私が5歳くらいのときからずっと、入院とか繰り返して……煙草、危ないからってお医者さんにも止められたけどやめられなくて。たまに退院して、でも不安定で、お父さんはお母さんにかかりきりで、仕事は大丈夫って……彩莉はちゃんと育てるからって、学校とか、いい所行かせてくれて、でもそれだけで、私……」
「……うん」
「私、初めて、頭、撫でてもらった」
涙に濡れた彩莉の目が縋るように佐羽を見上げる。佐羽は何も言えず、ただゆっくりと腕を伸ばして彩莉の帽子を取る。そしてできるだけ優しく、その頭を何度も撫でた。
「いいんだよ。君は……君はそれでいい」
「よくない、逃げた。私は、あの人達を見捨てた」
「君が一緒に死んだって君のご両親は絶対に喜ばないよ。君はそれも知っていた。だから何も気付かないふりで学校に行った」
「違う、私は嫌だった。私のこと、ろくに見てもくれない親なんかと一緒に死ぬなんて嫌だった!」
「君は自分が愛されていることをよく知っていた。それを表現する余裕が2人にないことも見えていた。君は2人の心がよく分かっていた。だからいつも、もっと傍にいて可愛がってもらいたい気持ちを堪えていた。2人が君に望むことをできるだけ実行しようとしていた」
「違う違う違う! 私そんな子じゃない! 悪い子でいい! 私、悪い子でいいから……親を見捨てて逃げた悪い子でいいから……」
泣き崩れる彩莉の身体を優しく抱き留め、佐羽はゆっくりと彼女の背中をあやすように撫でる。
「そうだね……君は悪い子だ。そう言われた方が楽だから、ご両親のことから目を背けようとしている」
「ひっ……うっ……」
「でも本当のことも知っている。君の目はすごいね。君は他の人が決して知ることのできないことを知ることができる。親に愛されない子どもはたくさんいるよ。でも君は、愛の足りなさを感じていてもその深い意味を知ることができていた。2人が心の底でいつも君を愛していることを知ることができた」
「あ、あ……ああ……うあぁ……」
「辛いね。もしも君がその目を持っていなくて、彼らから想われていないと本当に信じ込めていたなら、きっとそんなに辛くはなかったね」
佐羽が告げた言葉に、ついに彩莉は大声を上げて泣き叫んだ。ごめんなさい、お父さん、お母さん、ごめんなさい。ちらほらと人通りの増え始めたコンコースに少女の泣き声が響き渡る。それを見て人々はぎょっと目を見開いたり、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。そんなものだよね、と佐羽はそんな人々を横目で見ながら軽く溜め息をつく。
「彩莉ちゃん……俺は君がうらやましいし、とても可哀想だとも思う。俺は親に愛されていなかった。でも、もしもそうじゃなかったら……そこに隠された真実とかがあって、それが悲しみの原因になっていたなんて気付いていたら、とても正気じゃいられなかった。君の辛さは酷いものだよ。どこかにぶつけないと、君自身が壊れてしまう」
「さ、わね……」
「落ち着けるところに行こう。君の心を、その力を……あまりにも酷いそれを何とかしてもらおう」
佐羽はそう言うと彩莉の身体を支えるようにして歩き出す。向かうは地下鉄の改札だった。
執筆日2014/05/19