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疲れたなぁ。そう呟きながら佐羽はむくりとベッドから身を起こす。隣に眠っているのは落ちかけた化粧に佐羽以上の疲労を滲ませた若い女性だ。名前は何といったか、佐羽は咄嗟に思い出せずに悩む。できれば思い出して、そして温かい朝食でも用意してから優しくその名を呼んで起こしてあげたいところなのだが、今はそれもできそうにない。佐羽は女性を起こさないようにそっとベッドから抜け出すと、床に散らばっていた自分の服を着込み、彼女の服を丁寧に畳んでからその部屋を後にした。鍵もきちんと外から掛けて、郵便受けの中に入れておく。
目覚めた彼女はどう思うだろうか。佐羽とのことを一夜の甘い夢とでも思うのだろうか。それは佐羽としてはまったくの不本意だった。彼は本来であれば彼女を絶望させなければならなかったのだから。
しかし今日はどうしてもそういう気分になれないのだった。夢の世界では魔王と呼ばれ、現実では外道と呼ばれる彼にもそういう日がある。破壊と絶望を振りまく日々は彼自身の心をも削り、ときに暗い闇へと落とす。女性の身体を抱くという快楽でさえ、今の佐羽にとっては苦痛の種でしかなかった。
早朝の街並みに人はまばらで、佐羽が入ったコンビニエンスストアにも彼の他に客はいない。よく冷えたカフェオレとサラダを挟んだサンドイッチを持ってレジに行き、電子マネーで代金を払った。
佐羽はがさり、と安っぽい音を立てるビニル袋を片手に静かな街を歩く。どこか人の通らない、そして少し暗い場所で座って朝食をとりたいと思った。地下鉄の始発はすでに出ているはずだ。ならば地下のコンコースにあるベンチなどはどうだろう。あそこであればさほど人目にはつかないし、たとえ通勤の時間になっても急ぎ足の人々が佐羽に興味を持つとは思えない。そこでならば彼は一種の透明人間になることができる。そう考えて、彼は最寄りの地下鉄駅へと降りていった。
「……」
佐羽はむうと顔をしかめて立ち止まる。目指した先のベンチには先客がいた。短めの黒髪に水色の帽子、セーラーカラーの制服らしき衣服を身につけた若い女性……少女だ。少女は広げた新聞紙を膝にかけた格好で壁に背を預けて眠っていた。足元には通学用と思われる鞄がひとつ置かれている。あまりにも不用心なその姿に、佐羽は何となくその場を離れがたくなる。
「君、こんなところでそんな格好で寝ていると危ないよ」
気付けば佐羽はそんなお節介な言葉で彼女を起こしていた。薄目を開いた少女は佐羽を見て、それからまた目を閉じる。あと20分、とその小さな口が動いた。
「20分って」
「……夜眠れなかった。今寝たとこ」
「ずっとここで寝ていたのかい?」
「……うん」
「昨日から?」
「うん……」
地下コンコースは終列車が発着するとやがて全ての入り口が閉鎖される。勿論中に人がいないかどうか駅員が見回るはずだが、どうやら少女はうまく隠れてここで一夜を明かしたらしい。家出? と尋ねた佐羽に少女は音もなく頷いた。
「いけないなぁ……でも、何か理由があるんだろうね。俺は興味ないけど」
そう言いながら佐羽は少女の隣の空いたスペースに腰掛け、コンビニエンスストアの袋を開ける。少女の薄目が少しだけ開いた。佐羽がサンドイッチの袋を開けると、少女の目は完全に開く。あまりにも正直すぎるその動作に佐羽は溜め息をひとつつきながら、2つ入っていたサンドイッチの1つを彼女に差し出した。
「はい、どうぞ」
「知らない人からものをもらうとよくない」
「お母さんに言われた? お父さん? 君、いくつ?」
「……13」
「じゃあ考えてみて。今の君の空腹と、俺からものをもらうことで考えられる君のリスクを比べてみよう。どっちが辛いかな?」
「あなたは悪い人でしょう」
うんざりした様子で少女は言った。佐羽の心臓が一瞬だけどきりと跳ねる。どうして? と尋ねた佐羽に少女はこう答えた。
「笑顔が変だから」
「……そうかな。結構うまく笑っているつもりなんだけど」
「わざとらしい。楽しそうじゃない笑顔って、悪い人がするものだよ」
少女はぱっちりと開かれた茶色の瞳を佐羽に向けてそう言うと、彼の手からサンドイッチをもぎ取った。
「いただきます」
「あれ? いいの。俺は君の見立て通りの悪い人だよ。サンドイッチの見返りに何を要求するか分かったものじゃないよ」
「背に腹は代えられぬ」
少女は澄ました顔で答え、早速サンドイッチにかぶりついた。まったく可愛らしくない豪快な食べ方でほとんど呑み込むようにしてサンドイッチを腹に収めた彼女は「ごちそうさまでした」と律義に挨拶をした。佐羽はそんな様子を呆れながら眺めつつ、残りのサンドイッチも彼女に差し出す。
「良かったらどうぞ」
「それはあなたの分。私そんな卑しい人間違う」
「なんで微妙に片言なの?」
「私のお母さん外国人ね」
「嘘つき。君の肌も骨格もどう見ても日本人だよ」
「そんなの見て分かるの」
「分かるよ。出稼ぎの人とか、ハーフの子とか、結構よく知っているから。君は紛れもない日本人で、この街じゃ名の知れたお嬢様学校の生徒だ。こんな時間にこんなところで知らない悪い人から朝ご飯をもらっているような子じゃない、はずだけど」
佐羽の見立てでは、彼女の着ている制服は日河岸市内で最もランクの高い名門女子校中等部のものである。淡い青色を基調としたブレザーと真っ白なセーラーカラーが印象的で、細い紺色のリボンがそれらを引き締めている。少女は佐羽の顔を面白くなさそうに見ながら少しだけ目を伏せた。
「関係ないよ、あなたには」
「うん、別に責めているわけじゃあないから安心して。サンドイッチ、食べないの?」
「あなたの分」
「俺はまた買えばいいし。君の食べっぷり、見ていて面白かったし」
「……」
「お嬢様とは思えない豪快さに感服、って感じ。いやぁ、見事だった」
「馬鹿にするな」
少女は明らかに気分を害した様子で、それでも素直に佐羽の手からサンドイッチを取って食べた。今度は先程よりいくらか大人しく、それでも佐羽が食べるよりもよほど速いだろう調子で食べ終える。飲み物要る? と佐羽が尋ねれば、彼女は首を横に振って鞄から水筒を取り出した。少女が蓋を開けるとふわりと甘い香りが辺りに広がる。
「ジャスミンティー?」
「そう。飲む?」
「いや、いいよ。俺は別に飲み物があるから」
そう言って佐羽は先程買ったパック入りのカフェオレを取り出す。2人で並んでそれぞれの飲み物で一服した後、少女は佐羽に向かって質問を投げかけた。
「あなたこそ、こんな朝早くになんでここに来たの。地下鉄に乗るんじゃないの」
「ご飯を食べる場所を探していただけだよ」
「家は?」
「帰りたくない。君と同じかな?」
「……同情して付け入ろうとか」
「そんなことは考えていないよ。普段ならそういうのもありだけど、今は全然そういう気分じゃないんだ。あのね……悪い人間ってときどきとても悪さをしたくなくなることがあるんだよ。悪いことをすると人間の心は疲れるんだ。もっとも、悪いことをしても疲れないくらいにめちゃめちゃに壊れてしまえば大丈夫になるんだけどね」
「そういうもの」
「そういうもの。君も悪い人に会ったことはあるでしょう? 俺以外で」
そうね、と少女は頷いた。そしてつまらなそうに水筒のジャスミンティーを飲む。
「家出少女も悪い人かな」
「理由によるね。でも、それが君の家の問題なら君だけが悪いっていうことにはならないよ。家は人を縛る。縛られれば解かれたくなる。君は自分の家の人以外の他人に危害を加えた?」
「それはない、と思う」
「じゃあ君は悪い人じゃない。少なくとも、俺みたいな極悪人じゃあないね。良かった」
ふわり、と笑った佐羽に少女は少しだけ驚いたような表情を向けた。それは佐羽にとっても新鮮な顔で、彼の心はくすぐったさに震える。楽しい、と佐羽は呟いた。
「君、いいね。可愛い」
「ナンパ?」
「いくら何でも中学生相手には……見返りが少なすぎる」
「悪い人の考え方だ」
「損得勘定だからね。目的のない悪事を働く趣味もないし」
佐羽はふふ、と笑って壁に背を預ける。この少女は彼にとって面白い話相手だった。深く話を聞きたいとも思わないが、もう少し長く時間を共にしたいと感じる。
「ねぇ、名前を教えてくれる? 俺は落石佐羽」
「豊里彩莉」
「彩莉ちゃんか。可愛い名前だね。似合ってる」
「うまいことを言うのも悪い人」
「今のはただの社交辞令だよ。いい人も悪い人も普通の人もみんなが言うこと」
「佐羽、って名前はあなたに似合ってる」
「社交辞令?」
「違う」
きっぱりと。いやにきっぱりと彩莉は言った。そして彼女は彼をほとんど睨みつけるようにして言う。
「羽をたすけるって書くんでしょ。知ってる」
執筆日2014/05/19