表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/38

世界大会への初挑戦

 前を向いて挑戦し続ける気持ちが、人を成長させる。そんなお話へ読んで下さる貴方をいざないましょう。

 「坂下君、ベンチ75上げたんだって!今日は絶好調だね。」

 「うん、今度の地区大会の成績次第では世界に行けるかもしれないから、気合が入るよ。」

 「私も負けてらんないな。よし、その元気、私も頂き!」すっかり元気になった真奈美さんを見ていると、僕のやる気も最高潮になっていく感じだった。大震災の為に中止になった全国大会の代わりに、次の埼玉県大会が世界大会出場資格をかけた戦いになる。目前に迫った運命の大会に向けて、真奈美さんも僕も夢中でトレーニングに没頭していった。


 そして、迎えた5月8日。桜区総合体育館。戦いの火ぶたが切られた。


 女子57キロ級の全国の参考データでは、トータル262.5キロを上げている栃木卓新学園高校3年の平沼桃花、同252.5キロの春日部徳栄高校3年の堀江由乃、そして真奈美さんの240キロ、同々記録の沖縄首里城高校3年の玉城メイサ、更に京都酪農高校2年の竹宮しずかの同210キロと続いていた。真奈美さんが8月末にカナダで開幕する世界大会への出場権を得る為には、その中で1番の記録を出す必要があった。しかし、この場で直接顔を合わせるのは、春日部徳栄の堀江由乃だけだった。ただ、栃木ではほぼ同時刻に卓新学園の平沼桃花が競技していたが、報せが届くのか分からない状況だ。

 さて、この大会で同階級にエントリーしていたのは4人。その中で真奈美さんは3番手の登場だ。前の2人のスクワット第1試技は60キロと65キロで、それぞれ成功していたが、真奈美さんにとって全く問題にならない数字だ。問題は後に登場する堀江由乃と栃木大会の平沼桃花の2人だけだと思われていた。でも、今は自分の試技に集中すること。真奈美さんは、90キロに設定した第1試技に真剣な面持ちで挑もうとしていた。

 「頑張れー!真奈!」後で出番の男子93キロ級の春樹。

 「落ち着いて!真奈美!」先に試技を終えていた女子52キロ級の園香。

 そして、間もなく出番の僕は、心の中でエールを送っていた。そんな仲間の熱い想いの中、真奈美さんはゆっくりシャフトを両肩に乗せ、台から外し、その重みを受ける。その視線はまっすぐ前を睨み、歯を食いしばり、ゆっくり腰を沈めて行く。そして、今度はぐっと力を込めての伸び上がり。真奈美さんはまっすぐ前を見たまま落ち着いていた。白い旗が揚がる。肩からシャフトをはずした途端、安堵の笑みがこぼれ、見守る仲間の方に向かい小さくVサイン。ギア(競技用ウェア)で締め付けられて歩きにくそうに退くと、つづく堀江由乃の方をちらっと見た。由乃はこのスクワットが得意な選手で、いきなり95キロを設定してきた。真奈美さんはその結果を見ず、控えに戻ってしまった。由乃はあっさり95キロをクリア。やっぱり強敵だ。まあ向こうは3年なので、2年の真奈美さんには意地でも負けられないだろう。さて、競技は第2試技へと移っていく。

 「次、105キロ行かせて下さい。」いつになく熱い真奈美さん。

 「確実に100キロ上げておいた方がいいんじゃないか?」滝先生の説得。

 「今日は105いけます。やらせて下さい。」

 「後悔しないな。」

 「夢を掴む為に必ず上げます。」

 「よし、分かった。それでいこう。」しかし、105キロは練習でも、よほど調子いい時しか上がらない真奈美さんにとって、それはやはり冒険だった。屈み込んで、起き上がろうとする時、苦渋の表情を浮かべる。でも、今日の彼女は諦めない。その闘志が見てる誰にも分かるくらい、普段決して見ることの出来ない形相に変わったかと思うと、そこからが凄い。人が入れ替わったようにぐいぐい起き上がる。見事白旗が上がり、今度は両拳をぐっと握るポーズ。こんな熱くなってる真奈美さんを見るのは初めてだった。

 堀江由乃も第2試技で105キロを上げ、競技は第3試技へと移る。真奈美さんは110キロ。由乃は115キロを仕掛けてきた。駄目元で挑んだ110キロは、今日の闘志をしても上げ切れなかった。つづく由乃も失敗し、とても悔しそうにしていた。結局スクワットは共に105キロで並んだ。こうなると、ベンチが互角なので、デッドが得意な真奈美さんは優位に立ったと言える。でも、彼女は決して油断することなく、一段一段階段をのぼるように、次のベンチは、40キロ、45キロ、50キロと3度の試技を成功させた。絶好調だ。それに押されてか、由乃は第1試技で45キロを上げれず、第2試技で再度挑んだ45キロで辛くも上げて並んできたが、第3試技の47.5キロを失敗し、ベンチプレス終了時点で、堀江由乃150キロ、月岡真奈美155キロと、得意なデッドを残し5キロリードと、願ってもない展開となった。それでも真奈美さんは、厳しい顔をゆるめることはなかった。そして、勝負は最後のデッドリフトへと移行していった。

 由乃は焦っていた。第1試技でいきなり自己ベストに近い100キロで挑んできたのだ。失敗したからといって、次に重量を下げることは出来ないルールなので、普通に考えれば、ここは確実に上げられる90キロくらいに抑えるのが常識なのだが、早く劣勢を盛り返したい思いが前面に出ていた。彼女はそれを必死の力でクリアしたが、厳しい練習に耐えて来た真奈美さんにプレッシャーを与えることすら出来なかったのだ。何故なら、真奈美さんは120キロのデッドリフトをも既に自信を持っていたからだ。だから、この第1試技も由乃のベスト記録を超える110キロで挑み、それを難なくクリアした。この時点で由乃は勝負を諦めたみたいだが、真奈美さんは、既に気持ちを全国の他のライバルに向け、少しでも高い記録を見据えていた。実際第2試技で、由乃は110キロを失敗したが、真奈美さんは120キロをもあっさりクリアした。その身に付けた力には目を見張るものがあった。更に、つづく第3試技も由乃は110キロを上げることが出来ず、トータル250キロで終えた。対する真奈美さんはそんなことに目もくれず、130キロを、最後の力を振り絞るように上げてみせた。凄い!凄過ぎるフィニッシュで、トータル285キロという、57キロ級の高校2年生としては、見事過ぎる成績で優勝した。

 「真奈美、おめでとう。」真奈美さんが競技を終えてしばらくしてから、応援に来ていた彼女の父親が声をかけて来ていた。

 「お父さん、来てくれたんだ。ありがとう。」

 「よく頑張ったな。見事な優勝じゃないか。」

 「うん、でもお父さんパワーのこと分かるの?」

 「そりゃあ、一応勉強したからな。」

 「嬉しい。お父さん、私のパワーのことは仕方なく許してくれてるだけだと思ってたから、まさか応援してくれるとは思わなかった。」

 「当り前だろう。娘のこと気に掛けない父親なんていないよ。」

 「じゃあ、これからもずっと応援してくれるの?」

 「それは、今まで通り真奈美が頑張ればという条件付きだけど、親として出来ることは任せておきなさい。」真奈美さんは思わず笑みをこぼした。だがその時、娘の視線が落ち着かず、別の方向を気にしていることに、父親は気付いた。

 その頃、僕は男子59キロ級の競技の真っ最中だった。女子とは違い男子は人数が多く、特に59キロ級は27人という大激戦だ。それに、ここ埼玉県は高校パワーリフティングのメッカみたいな土地で、59キロ級の強豪は埼玉県大会にほとんど揃っていた。従って、ここで勝てばそのまま全国1位が確実とも云えるくらいの状勢にも思えた。ただ現在のデータでは、僕はエントリー27人中13位、ここのところの急成長を考慮してもせいぜい10位くらいの実力だろう。更に希望的観測で、今日絶好調の上、運も味方してくれるとする。それでも表彰台には届かないだろうし、まして世界大会への切符が自分に転がり込む可能性は無に等しい情勢と云える。それでも、僕は全力を出し切ることだけに集中すればいい。そうすれば必ず明日に繋がるのだから。

 仲間の声援を背に、僕はまず得意のスクワットに挑んだ。第1試技は確実に上げられる130キロ。緊張も確かにあったけど、チャレンジャーに徹していた僕には硬さがなく、それを余裕で上げることが出来た。そこから始まった快進撃は、自分でも会心のものだった。第2試技で145キロを、第3試技では今まで練習でも成功したことのない155キロを上げることが出来たのだ。ここまでで4位。得意のスクワットで波に乗る理想の展開になった。次は苦手のベンチプレスだけど、最近の練習ではベンチも調子よく記録が伸びてきていたのに加えて、この日は本当に程良い緊張感と自信が僕を後押ししていた。だから何とベンチも、70キロ、77.5キロ、82.5キロと3度の試技を成功させ、ここまで237.5キロの5位に踏みとどまった。後はデッドリフトで、最後の力を振り絞ればいいだけだ。

 「坂下君、凄い!一緒に世界行けるかもしれないね。」優勝を決めてテンションの上がっている真奈美さんが、いつになく興奮ぎみに声をかけてくれた。

 「世界は無理だよ。」

 「分からないよ、やってみなきゃ。最後まで可能性にかけて、頑張って!」

 「ありがとう。やれるだけやってみるよ。」

 「うん、目一杯応援してるからね。」こんなに熱く応援してくれる真奈美さんは初めてだったので、絶好調の上に、テンションも最高潮でデッドを迎えることが出来た。

 この時点のトップは280キロで、優勝ラインは400キロをかなり超えることは間違いない情勢だった。だから、僕は最低でも165キロは上げないと望みはない。しかし、デッドリフトの自己ベストは145キロ。優勝とか世界は、未知の重量への挑戦の更にその先でしかなかった。そう、この時点ではまだ遥か彼方の夢というのが現実だ。いくら調子がいいといっても、急に自己ベストの何十キロも重いバーベルを上げることは不可能に近い。それに僕より上位が4人いて、その全員が失敗して栄冠が転がり込んで来るなんてことも、まず有り得ないからだ。それでも僕は果敢に攻めた。第1試技は自己ベストの145キロ設定という大冒険。この懸けに失敗すれば記録なしになる。このパワーリフティングの定石を逸脱した挑戦を、滝先生は勿論反対だったけど、僕は押し通した。それは自分にとってかなりのプレッシャーになったけど、僕はそれをも超えたかった。応援してくれている仲間の方を見ると、真奈美さんが祈るようにこっちを見てくれていた。憧れの真奈美さんの熱い応援を胸に受け、強いプレッシャーに勝る幸福感を得て、僕は全身全霊を振り絞るように、第1試技で145キロを上げてみせた。成功の白旗が上がった瞬間、思わず涙が溢れ出した。それまでの人生の中で、最高の喜びと自信を勝ち取った瞬間でもあった。でも勝負はまだ続く。浮かれてばかりいる場合ではないのだ。僕はモチベーションを維持しながら、次の第2試技で今まで上げたことのない155キロに挑んだ。145キロを成功してから155キロに挑むまでの数十分の間気を緩めず、それでいて第1試技よりも余分な力が抜けて、最高のコンディションだ。その最高の勢いを味方に付け、僕はこれも渾身の力を振り絞って155キロを上げた。スクワットから数えて8試技連続成功という快挙だ。今度は涙ではなく、ガッツポーズを抑えるのに気を遣った。自分自身の向上という点では、これ以上ないという出来に酔いしれてしまいそうだった。しかし、勝負の現実はそれとは裏腹に厳しく、上位との差は一向に縮まらない。それどころかトップとは更に差を広げられていて、優勝とか世界は知らぬ間にゼロになっていた。それに、連続試技成功もそこまでで、第3試技の165キロは、床から少し浮かせるのが精一杯だった。結局トータル392.5キロの4位で、惜しくも表彰台を逃した。これは2年生の中では2位で、総合3位の同年のライバル辻洋一との差は僅か7.5キロだった。来年こそいい勝負になるだろう希望的数字だ。明日に期待を持ち越し、この大会での僕の挑戦は終わった。

 僕の試技が終わった後も、先輩や、83キロ級の三田村君や、93キロ級の春樹の競技が続いたが、三田村君はトータル445キロの3位と、春樹はトータル467.5キロの2位と健闘し、キャプテンの藤堂さんは74キロ級でトータル525キロで見事優勝に輝いた。他の先輩方の成績は今一つ振るわなかった。尚、優勝した真奈美さんと藤堂さんの世界大会進出は、同時に行われていた栃木大会に唯一可能性のある男子74キロ級のライバルがトータル512.5キロだったことから、藤堂さんはほぼ確実となった。そして、真奈美さんの最大のライバルと目された卓新学園の平沼桃花の結果がトータル265キロだったことで、真奈美さんの世界大会出場も十中八九確実視されたが、決定は、まだ世界大会出場参考の地方大会を行っていない全国のライバルの結果待ちとなった。こうして、埼玉県大会の幕は閉じた。

 優馬たちが入部した当初から1年の間に、パワーリフティングの階級が、世界的に見直されていることを補足致します。。何はともあれ、ここまでお付き合い下さった方には感謝いたします。尚、この物語はフィクションであり、実在の個人、団体等とは一切関係ありません。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ