切磋琢磨の日々、そして悪夢
この物語はフィクションで、実在の人物や団体等とは関係はないんですが、物語の舞台設定は実際の現代社会を背景とさせて頂いています。ですから、実際に起こった出来事とか、行事なども使わせて頂いております。ただそれは、野球漫画に甲子園がなくてはならないのと同じと理解して頂ければ助かります。大きな出来事も物語の進行上もはや欠かせませんので、そのまま引用させて頂きますが、どうかご了承お願い申し上げます。
「優、大丈夫?何か、見てるこっちが痛いんだけど。」両手で手すりを持ちながら、強張った脚を引きずるようにして自宅の階段を昇っている僕に、風香が珍しく声をかけてくれた。
「ありがとう。でもいつものことだから、大丈夫だよ。」
「いやいや、最近いつもそんなだから云ってるんだよ。何かもがいてる虫みたいで、いっそのこととどめ刺して楽にさせてあげたくなるんだけど。」
「それどういう意味?みっともないと云われてるのかな。」
「一応頑張ってるみたいだからそうまでは云わないけどさ、でも痛々し過ぎて、見てて”うっ”と来るものがあるね。」
「ごめんな、みっともない兄貴で。」
「まあ、それはしょうがないけど、あんまり無理しない方がいいんじゃない。体力ないのに背伸びし過ぎると、そこらじゅう傷めちゃうよ。」心配してくれてるのか、相変わらず馬鹿にされてるのか、何だかなあ。
まあ妹の云うことはともかくとして、僕は来る日も来る日も頑張っていた。痛くて苦しくてもうそれ以上は無理と思うところからも、必死でやり抜く気力が付いてきた。ただその分、毎日の生活に余裕がなくなっていた。
「ああ、あいつね。いつもマスクして俯いてる奴だね。」夏場になって、トレーニング場のエアコンがあまり効かなかったある日、少し休憩をとっていて、たまたま近くで話し込んでいた元田さんの声が耳に入ったのをきっかけに、
「体育の時はまだ耐えれるんよ。化学よ、化学。化学反応起こしてんじゃねってくらい臭うんすよお。」尾瀬さんがいつものように変な口調で喚いていた。
「まじー。発酵してんじゃね。」元田さんは初めはいい人だと思っていたが、この頃にはすっかり人が変わっていて、よく悪口や陰口を云うようになっていたし、そういう話には好んで参加していた。僕はそんな話聴きたくなかったから、普段はこの人たちを避けていたが、この時は暑いのと脚がくたくただったので、たまたま居合わせたその場所を動かずについ聴いてしまった。
「尾瀬ちんはまだいいじゃん。こっちはさ、毎日いるんだよ教室にさあ。」いつも刺々しい樫木さんがぼやいていた。彼女のクラスの子のことだとは分かったが、僕はそんな子がいること自体気が付かず、全く知らなかった。”教室の汚物”その後も何度となくその噂を耳にはしたが、あまり気にも留めず、その姿に気付くことなく時は過ぎた。それほど、僕は周りを見る余裕がなかったんだ。だから、野球部が夏の全国大会の埼玉県予選の準々決勝で敗退したことも、秋の大会も2次戦で敗退したことも知らなかった。ただ1人、真奈美さんのことばかり気になっては、目で追いかけていた。
そして当の真奈美さんは相変わらずみんなと気さくに接しながらも、練習は真剣そのものだった。そんな彼女と交わす言葉は、彼女がほとんどの仲間と交わすのと同じような挨拶と励まし合いくらいだったが、僕にはそれが凄く嬉しかったんだ。だから、僕も目一杯頑張れた。汗と笑顔だけで通じ合えてる気がして、充実した毎日が続いた。その甲斐あって、着実に力が付いて行ったんだ、真奈美さんもだし、僕自身も。そんなある日、パワー部でちょっとした事件が起こった。それは、
「園香、どうしたの?」真奈美さんの声に反応して見ると、前島さんが何やら探し物をしていた。
「タオルをこの辺に置いといたんだけどな。どこ行っちゃんたんだろ。」まだ残暑があった9月の終わりくらいのことだ。
「え、それもしかして、」と真奈美さんがトレーニングルームの隅っこに置かれたゴミ箱を見て、そこからタオルを拾い出した。
「どうしてそんなところに。」前島さんも、ちょっとショックみたいだ。
「あいつだ。」そう云うと同時に、真奈美さんは別の女子のところへ一直線に向かって、
「園香のタオル、ゴミ箱に入れたの、百花だよね。」
「何だ、見られてたのか、残念。」
「どうして、そんな酷いことするの?」
「臭かったからだけど、悪い?」
「百花、いつからそんな性格歪んだの。そんな人じゃなかったよね。」
「るさいな。あんたは黙って練習してればいいじゃん。」この頃、1年の女子部員は既に2対3に分かれていた。
「そういう訳にはいかないな。園香にちゃんと謝ってもらわないとさ。」
「何もめてるんすかあ?その人怒らせたらまじやばいって七ちん云ってたお。」
尾瀬さんまで寄って来て、雰囲気怪しくなって来て、
「いいんだよ。もういいの、真奈美が心配してくれるだけで充分だよ。」
「うわ、何かさ、あんたらの友情ごっこって寒気するんですけどお。」
「だおねえ。でもさあ、もうみんなほどほどにしておけばって感じ。その人の顔まじ怖いっすよお。」元田さんの挑発に、尾瀬さんの半端ななだめ。それを、樫木さんは少し離れてにやにやして見ていた。そこへ巨漢が割り込んで来て、
「真奈、そいつらの挑発に乗ったら思う壺だぜ。だろ、百花。おまえの気持ちも分からねえでもねえけど、部の雰囲気あんまり壊すなよな。」
「ああ、辞めた、辞めた。もうこんな部活辞めてやるよ。」倉元君に云われて、きれた元田さんはトレーニングルームを出て行き、もうそれきりで退部した。
更にしばらくして、既に練習を休みがちだった尾瀬さんまでが、事件の後更に練習をさぼる頻度が増し、「やる気ないなら、もう来るな。」と新主将の藤堂さんに最後通告を受け、翌日あっさり滝先生に退部届を出した。すると、仲の良かった2人がいなくなった樫木さんは、ますます刺々しくなっていった。1年の女子では実力ナンバーワンという自信も、真奈美さんの台頭で、危うくなって来ていて、露骨に不愉快感漂わせていた。そして、決定的な出来事がある日の練習時に突然勃発した。練習中だった樫木さんが急に気分が悪いと苦しみ出し、吐血して救急車で運ばれたのだ。そのまま彼女は、2度とみんなの前に現れることはなかった。間もなくして東京の大病院に転院したという噂を最後に、翌年の3月14日に、未成年では珍しい胃がんで亡くなった。若い分病気の進行も早かったらしい。僕はそれを数カ月後に聞いて知った。彼女が亡くなったその頃は、もうそれどころではない状態だったんだ。それは、それより3日前に襲って来た悪夢の出来事だった。
真奈美さんも僕も、その日まで筋肉痛に耐え、きついトレーニングに明け暮れていた。体重こそ増えてなくて、むしろ世界的階級の見直しで60キロ級から59キロ級になっていたが、僕の体は見違えるほど筋肉で引き締まっていて、10日後には初の全国大会に出場予定だった。春休みが近かったその日通常授業はなく、補習授業が午前中にあって、それに出る部員に合わせて午後から部活があった。普段のトレーニングはジャージのようなユニフォームだったが、その日はギアという世界的に認められた試合用のウェアを着ての練習だった。ギアを着用すると、ノーギアで競技するより通常幾分成績はよくなるが、その代わり体が締め付けられ過ぎて、普通の動作をするのに不便だった。
「今一、ギアがしっくりこないんだよね。」ギアを着てスクワットに挑んでは、なかなか記録を伸ばせないでいる真奈美さんがしきりに首をひねっていた。
「でもまだ真奈美はいいよ。私なんか、普段の記録が伸びてないんで、おまけにギア使いこなせてないから、全国出ても恥かくだけだしなあ。」同様にギアを上手く使いこなせず苦労していた前島さんが苦笑いしていた。
「何弱気なこと云ってんだよ、園香。頑張って、みんなで世界行こ!」10日後の全国大会の成績次第で、8月から9月にかけてカナダで行われる世界大会出場が可能だったから、真奈美さんの意気は上々だった。
「よし、次はこの100キロ絶対上げてみせるんだから。」そう云って、独特の気合のポーズをとってみせる真奈美さんはたまらなくかっこよくて、可愛い。しかしだ、今はそんなことを云ってる場合ではない。僕も又、ギアに苦戦している1人なのだ。
「ノーギアで65キロいけるんだったら、ギアで70はいけるだろう。」藤堂先輩はそう云って僕のベンチプレスの準備をしてくれた。僕はそのベンチ台に仰向けにスタンバイして、そのバーベルのシャフトに手をかけたその時だ。
「おい、地震だー!」補助に就こうとしていた藤堂先輩が、バーベルを押さえながら叫ぶ。凄い揺れに、僕は慌ててベンチ台から起き上がり、咄嗟に藤堂先輩と一緒にバーベルを押さえた。
「バーベルから離れられる者は、慌てずに安全なところに避難しろ。」滝先生の声がトレーニングルームに響き渡った。
「揺れが強すぎる。せーの!で離れるぞ。足元とか確認出来るか?」藤堂先輩が僕に聞いて来た。
「はい、大丈夫です。」
「よし、せーの!」掛け声と同時にバーベルから離れた。
「月岡、大丈夫か?」滝先生と藤堂先輩が同時に叫んだ。
「こっちは、大丈夫です。」そう返事したのは、真奈美さんの補助に就いていた倉元君だった。見ると、彼ともう一人2年の先輩がバーベルを押さえていて、その近くで真奈美さんがうずくまっていた。ギアのせいで思うように動けないのもあったと思うが、どうやらそれだけではないようだ。怪我したんじゃないか心配だったが、僕もギアに体を締め付けられていて、すぐには駆け寄れなかった。そこへ滝先生が急行して、彼女を抱き抱えるようにしてその場を離れ、
「よし、足場とかに気を付けて、バーベルや器具から離れろ。」と指示された。倉元君らがタイミングを合わせるようにして器具を離れ、滝先生や藤堂先輩の指示や誘導で、全員トレーニングルームを出た。ちょうどそこへ校内放送が入った。
『地震です。全員グラウンドに避難して下さい。揺れが繰り返しています。足元に注意して、全員グラウンドに避難して下さい。』同時に、高い位置にあって安定の悪いバーベルとかが倒れたような大きな音がしていた。
「大きかったな、5以上はあったぞ。」グラウンドに着いてほっとして間もなく、誰かが云っているのが聴こえた。真奈美さんは、怪我してる訳ではなかったようで、とりあえず安心したが、
「ほんと、あんな器具の中で、よくみんな無事だったな。」続いて先輩の誰かが云ったその言葉を聴いた途端、彼女がわっと泣き出した。いつもからりと明るく元気な彼女が、初めて見せた泣き顔だった。しっかりしてると思っても、やっぱり女の子だなと思った瞬間だった。
「大丈夫だよ。真奈美。もう、大丈夫なんだから。」そう云う前島さんの頬にも涙が見えた。真奈美さんはなかなか感情が抑えられなくなっているようで、なかなか泣き止まなかった。そんな2人の女の子に、滝先生がそれぞれの肩を撫でるように軽くポンポンと叩いていた。その頃から携帯があちこちで鳴り響くようになり、自分から家族などと連絡を取り合う人もいた。ただ、いざかけようとしても繋がりにくい状態だった為、家族と無事を確認し合うのに少し時間がかかったところへ、 「東北地方から関東地方にかけての広範囲で大きな揺れを観測しました。震源地は宮城県沖で、仙台地方は震度7と発表されている他、太平洋岸の広い範囲に大津波警報が発令されています。現在のところ、当校の被害は確認されていませんが、余震などで再度大きく揺れることが予想されます。充分にご注意下さい。」と放送が入り、母の実家が宮城県の旅館だった為、祖父母たちの安否が気になった。
更に、グラウンドに集合してからも大き目の余震が発生して、一同騒然となり、真奈美さんの不安に満ちた顔は、涙に濡れたままだった。眩いばかりの憧れの女の子の、弱く可愛い一面を目の当たりにして、男の僕は強くなくてはいけないと改めて思った。そうこの時、強くなって、僕が彼女を守りたいとつくづく感じたんだ。
その日の大震災の全容を知ったのは家に帰ってからで、原発事故も含めて、その日を境に日本が大変なことになったと実感した。ただその中でも、母の実家の被害は少なく、親戚がみんな無事だという報せに、とりあえず胸を撫で下ろした。深夜になって、帰宅困難だった父も無事帰宅して一段落したものの、余震の心配や、いざという時の為の備えや気持ちの昂りから、眠れたのは夜明け前になっていた。
大震災の被害は予想を遥かに超えて甚大で、各方面でイベントやスポーツ大会などが見送られ、僕たち高校生のパワーリフティングも、全国大会の中止が決まったのだった。
東日本大震災で被災されました方々には、改めて深くお見舞い申し上げます。又その復旧に、ボランティアなどでご尽力された方々には、頭が下がる思いです。お付き合い頂きまして、ありがとうございます。