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 他サイトにも重複投稿。


 人間の尊厳なんて実際、大したモノじゃあ無いんだよ。ただ、掛け替えのないモノって言うだけだろ?――

 弓張警視がこの場にいたならば、

「クソが。イカレてやがる。だからああいう手合いはさっさと死滅すればいい」

 とでも言ったのだろう。いや、更にそれに準じた罵詈雑言を並べただろうか、それよりももっと酷く、罵詈讒謗を口汚く吐き捨てたかも知れない。

 滝川まりね警部は弓張警視のように言いたいことを言う人間ではない。ある程度、年下の上司よりも長く生きているし、人との軋轢を生まない処世術も身につけているつもりだった。それでも、滝川まりね警部の口からは、言葉が漏れ出でた。

「ああ……こんな事をしたヤツは、死ねばいいのよ」

 眼鏡越しに遺体をじっと眺め、メスを持ったまま両手をだらりと下げた。

 仮にも遺体安置所と併設された検視室で、鑑識係検視官長の森田警部の居る前で、口にした言葉。

 そして、次の瞬間。とある形をしたモノが、炸裂した。


「地震、ですかね」

「バカかっ、爆発したんだよっ! こゆりっ」

「し、したよっ」

「村山、地下だっ! まりねがヤバイかも知れない。行くぞっ」

 怠そうに結婚情報誌を握っていた弓張が、非常に慌てた様子で雑誌をソファーに放り投げて走り出した。幸い開け放たれた扉を誰も閉めることなく会話していたので、開ける手間も、ぶっ壊して行く手間も省けた。L字型になった警察署というのも面倒なことこの上ない。L字型の建物の中央を直角に廊下が二本、そしてその両脇に部屋が連なっている。地下に降りられるのは三箇所。L字型の両端部分と、直角に廊下が折れる部分の三箇所。そして最も入り口から遠い雑対係が地下へ続く階段に近いのは、やはり出入り口から最も遠い最奥の階段だった。

 駆け下りるのは三人と一匹。

 初めは弓張と村山だけが駆け下りていたのだが、後から付いてきた。片方は「あたちは戦力になるのよっ」と言って聞かない毛むくじゃらで、片方は「お兄様の行くところ、どこでも子づ――」と意味不明な事を口走る痴女だった。

 殆ど往来のない薄暗い地下に降り、そのまま廊下を走っていても追いかけてくるので、もう放っておこうというのが弓張と村山の共通認識だった。それでも、どうしてか二人の後ろであの真珠がタヌキを片手で小脇に抱え「おに~さまぁ~」と笑顔で空いた右手を振って追いかけてきていた。

 一瞬、何を見たのかと思った。あのタヌキと真珠が仲良くするはずがないのだ。

 だからこそ――

「あぶなーいっ」

 そう言いながら、笑顔でタヌキを左投げ、オーバーハンドの投球フォームで投げてきた。二人が振り向いた所の脇を掠め、タヌキは廊下のかなり奥まですっ飛んでいった。

 そんな真珠を、男二人は心底恐怖した。

「ぎゃあああっ!」

 断末魔というか、断末魔獣というか。おそらくそこらの愛護団体にこの光景を見せたら速攻で真珠はつるし上げられるのだろうと言うくらい、獣の扱いが雑……というかあまりにも酷かった。そしてその笑顔が怖い。

 薄暗い、ただ真っ直ぐなだけの駐車場と犬舎、そして遺体安置所兼検視室へとつながる廊下を今の光景を無視して、ひたすらに走った。地下駐車場などあるだけで誰も使っていない。無駄なモノを作って経費に計上するくらいなら雑対係の扉をもっとマシな扉にして欲しい。

 海外のデザイナーに設計依頼をしたという、アクリル張りの向こう側に見える真っ暗な地下駐車場は本当に無用の長物だった。一台も車が止まっていない。その横を五十メートルほどの廊下がぴたりと寄り添っていた。無駄なモノを見せるための廊下だと誰かが言っていたが、そんな事は今、どうでも良いことだ。

「検視室っ、検視室っ」

 呪詛のように繰り返す弓張の慌て様に、なんとなく村山は余計なことを考えた。弓張は滝川のことをどう思っているのだろうかと。

 十メートルほど走ると、床に黒っぽい物体が転がっていた。タヌキだった。オーバーハンドで無慈悲に投げつけられた、哀れなタヌ吉。投げられた理由が不明だが、どうにもタヌキは自分を、哀れみを受ける様な事になっていないと言いたげに、すくと立ち上がった。

「にぃさま、まずいわ。何か居るのっ」

「あにっ、何がっ」

「わかんないわっ! でも何か居るから早くっ」

 今度は弓張がタヌキを片手で担ぎ上げ、小脇に抱えて走り出した。恐らくタヌキは真珠に自分を放り投げて弓張の前に投げろと言ったのだろう。ただ、真珠は笑顔で思いっきり振りかぶって投げていたあたり、思うところがあったのだろうが。

 男二人が必死に走って五十メートル。必死に走ったのだが、途中タヌキのために止まったこともあって時間が掛った。ほんの数秒だと思うのだが、その数秒をそこに居た二人がどう思ってくれるのかは解らなかった。


「まりねっ」

「けい、し……」

 両開きの扉を、壊れるのではないかと言うほど派手に蹴り開け、村山とタヌキを担いだ弓張は遺体安置所兼検視室に飛び込んだ。そして、飛び込んだ先で扉の近くにすぐその姿を見つけた。

 だらんと下がった両腕は素肌が見えていた。滝川が検視室に居る時は白衣を着ていたはずで、滝川はそれを切り替えのための重要なアイテムだとかなんとか言っていたのだが、その白衣がボロボロに引き千切られていた。

 顔色が悪く、セミロングの髪を乱し、目の焦点がしっかりと合わない状態で、滝川は言葉を続けた。

「だいじょーぶ、です。ちょっと、えっと。ちょっと背中を強く打っただけです……」

「おま、こんな時に嘘つくなよ。口から血ぃ出てんぞっ」

 小さく「えっ」と声を上げて手で口元を拭っていた。普通に動かしているあたり、腕は無事のようだった。更に、

「ああ、唇噛んで切れたんです。ちょっと、イラッとして噛んじゃって――」

 いつもなら目まぐるしく表情を変えていた滝川を村山は今、違った視点で見ていた。一切、表情が伺えない。あれだけ表情豊かに泣き笑いしていた滝川が無表情のまま、つるの折れた眼鏡を脇に放り投げて言葉を続ける。

「森田さん、森田警部はだいじょーぶですか、どこに――」

 滝川の事は弓張に任せ、もう一人居たという森田という警部を村山は捜した。

 捜したのだ。遺体安置所と検視室が兼務されてはいるが、あまり広くない場所で捜さざるを得なかった。転がっていた。全ての遺体が地獄絵図のように転がり、彼の世が顕界せしめた様だった。そして、その最たるモノが、目の前の処置台に横たわっていた。

「警視、コレまずいんじゃないです?」

 森田警部を捜しつつも、どうしても視界の端に入ってしまうそれに怯え、村山は弓張に言葉を掛けてしまった。

「それはまだ大丈夫だ。森田警部を捜すぞ」

 見て見ぬふりをした。それしか出来なかった。だからこそ、弓張と村山は森田警部を早々に発見することが出来た。五体もの遺体が絡み合った山の中に、蹲った初老の男性が埋まっていて気絶していた。なぜ検視室にこれだけの遺体数があるのか、初め村山には理解できなかったが、弓張には心当たりがあるらしい。そしてその心当たりがあるという言葉を聞いた時、昨日滝川が話してくれた内容に関わっている遺体だと思い当たった。

 ここに居るほぼ全ての遺体が、弓張と滝川の負ってきたモノらしいと、気がついた。

 そして全てから目を背け、両開きの扉を蹴るようにして開け、弓張は滝川を、村山は森田を背負って惨状から逃げ出すことにした。


「ああ、クソが。全部織り込み済みだってよ」

「え、なんですって?」

「嵌められたんだよっ! 俺がっ」

 のっそのっそと先ほど来た廊下を歩いた。五十メートルの距離を、意識を失った重い男を担いで歩かなければならない苦労は相当なモノだった。弓張は意識のある滝川を運んでいるのだからそれほど苦労はしないのだろうと思っていたのだが、

「触わんなっ」

「いてっ! 当たっただけだっ! 故意じゃねぇっ」

 尻を触ったとかなんとか……言い合いをしていたが、タヌキが居たらどうなっていた事だろう。

 タヌキは、タヌキと真珠は件の遺体安置所兼検視室前に置いてきた。置いてきたという無責任な表現は適切ではなく、

『おい、真珠とやら』

『なんでしょう?』

『ここでちょっとこゆりと一緒に見張りをしてくれ。何か動きがあったら俺に伝えに来い』

『な、何でわたくしが……』

『やってくれたら村山を好きにして良いから』

『はいっ! 村山真珠、全力で務めさせていただきます、けいしっ』

 まさか爛々と目を輝かせて敬礼しながら簡単に命令を聞くとは流石に思っても見なかったらしいのだが、どうやらなんとかは盲目らしい。それか、本人がカラスだと自称していたのだから、実は鳥目かも知れない。

 タヌキには弓張が真剣な顔つきで「見張っていろ。抑えられそうならやってくれ、無理なら逃げろと」伝えていた。タヌキが意味不明な能力で動いている事を村山は知っていたが、それがどこまで検視室のソレと対峙できるか全く解らない。

 怪我人を助けるためだとは言え、タヌキと少女を残して逃げる他なかった。

 今や後方四十数メートル先にある遺体安置所兼検視室。その処置台の上に乗った遺体の腹から、顔も、手の指も無い、人間の上半身のような、大きな肉塊が生えて蠢いていた。


「どうするんですか、あの物体……」

「……わからん。お手上げだ」

 意外や意外にも、弓張が折れるのは早かった。更に「さっぱりわからーん。あんなん見たことねー」などとかなり自暴自棄になった喋り方で頭を掻きむしっていた。

 落ち着き無く雑対係の部屋で歩き回ったあげく、弓張は自分の、机の引き出しを開けてなにやら大きな袋を取り出した。コンビニの、一般的なビニール袋。ただ、内容物が異常だった。

『アタリ かったおみせでこうかんしてねっ!』と書かれている、木の棒。

 コンビニの中袋。その袋が丸く膨れあがるほど、アタリの棒を詰め込んでいた。

「そ、そんなに持ってたんですか」

「あ、ああ。これ以外にもまだあるけどな」

 どれだけ氷菓を食べて、アイスクリーム頭痛を起こしたのか聞き訊ねてみたくなった衝動を抑え、村山は別のことを訊ねた。

「何に使うんですか」

「……そうだなぁ。美味いモノと交換して貰うって云うのはどうだ」

「またどうせ、アイスでしょう?」

「あー、とびきり頭痛のするヤツな」

 どうせ交換して貰えるのは、痛くて痛くてたまらないヤツだ。

 それも酷いアタリ付き。


 滝川警部と森田警部は軽傷だった。階段を登り切るなりおろおろと駆け寄ってきた署員達が二人の状態を見て救急車を手配した。

 しかし、弓張は救急車が到着する前に二人が命に別状がないことを自分自身で確認すると、雑対係に走りアタリ棒を大量に回収し、また地下に降りていった。それに伴ったのは部下である村山だった。

 二人の行動を明らかにおかしい行動だとは思ったらしいのだが、どうしてか『誰も』二人の後を追ってこなかった。誰も追ってこなかった理由は村山には解らない。弓張に訊ねれば恐らく階段を再び駆け下りる際、明らかに故意でアタリ棒を数本ばら撒いた事にあると言い切っただろう。

 事実、アタリ棒を投げる前に聞こえた複数の靴音がアタリ棒を投げ終えた途端、弓張と村山のものだけに減ったという事実が、村山の推測を確信に変える材料となっていた。

 何かの爆発か衝撃で検視室の内部が酷い有様になっていたが、それを『一般人』に見せるわけにはいかない。そういう事で人払いのなにかを行ったのだろうが、村山が弓張を追ってきている事を承知していて、村山をも追い払うことなく追従させているのだから弓張には思うところがあって村山の随伴を許したらしい。

 信頼して貰えた事を村山は嬉しいと感じると同時に、それは村山をも巻き込んでまで完遂させなければならない事態だと言うことも理解した。自分が使い物になるはずがないという村山の考えはおおむね間違っていないだろう。それでも、弓張は「得体の知れないモノ」を一度でも見ていて、ただ恐れるばかりではない村山を使おうと思っただけなのだと。

 ただそれだけだと、そう考える。

 その考えることも、今ではそれほど意味がないが。


「……」

「ひっぐ、うぇっぐっ! にぃざばっ」

 検視室の入り口。開け放たれたままの、両開きの扉の前で真珠に両手で抱かれたタヌキが鼻水を垂らしながら泣いていた。不覚にも村山は「へぇ、タヌキって泣くんだ」と思ってしまった。そんな場合ではないというのに、そういう思考が先に出ると言うことは村山もかなり精神状態が危険水準にあるらしい。

「こゆり、どうなってる」

「ぶくぶくって、ぶくぶくって……」

「わかんねぇよ。真珠は?」

「んー、わかりません。でも、わたくしに似てますよね」

 わざわざ片手でタヌキを抱え直し、唇に左手の人差し指を添えて『計算尽く』のポーズを取る。そんな真珠の言葉を聞いて、弓張と村山は視線を検視室の中に放る。嫌でもぶち当たるのが水膨れの様なモノがうねる光景だった。二人でそれからすぐに目を離し、真珠の方を見る。

 十歳程度の女の子だが、少なくとも黙っていれば目の保養になるような美人なので、こちらの方が精神衛生上はまだマシだった。

 流石に真珠にあの肉塊とどこが一緒なのかと問う気にはならなかった。本人が言うのだからそうなのかも知れない。得体の知れないモノ同士、通じるモノがあると言うのは村山の考えすぎだろう。それでも、何の情報もない中、それを指して「似ている」という言葉は上司には、弓張には無意味ではなかったらしい。

「似ている…… カラス、アルビノ…… 生まれる理由、信仰の対象――」

 すぐそばにその得体の知れない肉塊が蠢いている廊下で、弓張は真剣に考え事を始めた。手にはアイスのアタリ棒が満杯に詰め込まれたコンビニの袋を提げ、空いた手でわっしわしと髪の毛を掻いていた。

「共通点は生まれた事だな。真珠の場合生まれた理由は信仰の対象となるからで――」

「アレを生まれたって云うんですか?」

 村山が流石に訝って訊ねた。村山の見る限り遺体から生えてきたようなモノで、どう見ても真っ当に生まれたモノだとは思えない。それに、生物として成り立っているようには到底思えなかった為でもある。

「ああ、あれも俺たちの間では生まれたことになる。ああ、ソレだな。参道は産道に通じて―― まあ、素人が居て助かった」

 素人呼ばわりされた事は村山にとって喜ぶべき事だったのかも知れない。この得体の知れないモノに囲まれた場所には長居したくはないし、出来ることなら関わりたくなどはない。それでも、与えられた職務に貢献できたのだから、素人呼ばわりされてもやはり喜んでおくべきかも知れない。

 弓張はにやっと笑った後、提げていた袋からアイスの棒を右手で掴めるだけ取り出した。

「おそらく、どっかのバカが神降ろしをやったんだな。神降ろしは然るべき場所で、手続きを踏んで降ろさないとならない。もちろん、帰す方法もセットでな」

「かみおろしって、そんな――」

 ふざけた話、非科学的な――そういう言葉を言おうと思っていた村山はそれ以上言葉を続けられなくなった。そもそもふざけていて、非科学的な事なら幾つも見たのだし、現に目の前にある。今更そんな話をしても意味がない。きっと、言っていれば「アレはどう説明すんだよ」と言われていたに違いない。

「降ろしたのは。たぶん、ヒルコだろう……」

「ひるこ?」

 検視室の中で蠢いている様を弓張は真っ直ぐに見つめ、村山に説明を始める。蠢いてはいるが、そこから自発的に動こうという意思のようなモノは受けないし、足も無い様なので動かない物と認識して、二人は話を続ける。

「ヒル。血を吸うヒル、知ってるだろ。あの蛭っていう漢字に子供の子。それで蛭子。他にも児童の児の字を使って蛭児とか。他にもまあ、書き方はいくつかあるんだが――」

「字は良いです」

「日本神話に出てくるイザナギとイザナミの子供だ。元々手足が無かったとか、三歳になっても足が立たなかったとか。まあ、神話に諸説あるのは仕方ないとして、殆どに共通するのが葦の船に乗せられて海に流されたと云う話。それと神に数えられなかった神話の登場ジンブツだ」

「神に数えられなかったとは?」

「親に、神である親に、神として認められなかった。だが、人間はそう受け取らない。蛭子と書いてエビスと読み、海岸線に流れ着いたモノを神として、御神体として祀った。エビスは漁業の神としても祀られているからな」

「エビス様ってヒルコって読むんですか?」

「いやあ、別に。元々ある話を歪曲して捉えたり、変質させて土着の神に仕立て上げる事はどこでもやっている事だからな。同一かどうかはわからん」

「って、結局解らないんですか……」

「でもまあ、アレがヒルコだっていうのはあながち間違いではないだろうよ。俺もアレを一瞬だけアノ状態の前に見たが、遺体の腹に編んだような玉が出来ていた。一見しただけで何か解らなかったんだが、あの編み目が漁業の網を編む方法で出来ていたのなら、エビスを土台に『足の立たないヒルコ』を降ろした可能性が高い」

「可能性って……」

「だから、あながち間違いじゃないだろうって云ったろ」

 弓張はアイスの棒を、結構な数を右手で握りしめ、左手に提げた袋にはそれの数倍アイスの棒が入っていた。そんな相手と神話の神様についての話である。アタリ棒が罰当たりに通じていない事を祈るばかりだ。

「あっていると思われます。けいし様」

「ん?」

 突然、両手でタヌキを抱き留めたまま真珠が弓張に賛同した。

「その、横たわっている方から願いが読めます。どうか無事でいて欲しいと」

 自分のことはどうでもよい。かわりに、どうか子供には――

「あんでアンタにそんなこと解るのよっ」

 少女の胸元でタヌキが牙を剝いたまま低く唸り散らす。

「これでも、身に余るほど信仰を受けているので、強い願いなら読めるんですっ! 中途半端なタヌキと一緒にしないで――」

 途中までタヌキに好き放題言ったのだが、少女は腕の中で暴れ出したタヌキに気圧されて一瞬、驚いて手を離した。そしてタヌキと少女の乱闘である。

「いだいのよっ! やべばばいよっ!」

「そ、そちらこそ当てつけですかっ」

 タヌキの顔面の皮を両手で横に引き延ばしている少女。それに対し、後ろ足で器用に少女のぺたんこな胸をぐいぐいと蹴っているタヌキ。喧嘩するほど仲が良いというので、放っておくことにした。

「そうだな、他にも降ろせる要素はあるだろうな。胎盤や羊水を海と見立てて降ろせる。母親そのものを海として見る事も出来る、母なる海って云うだろ。他にもヒルコを不具の子として扱うことが多く、元々この女性が妊娠していた子供が先天的に何らかの病気や異常を持っていた場合にはヒルコを、神降ろしが成立するかも知れない。単純に概念の同一性だけで普通なら神なんて降ろせるようなシロモノじゃないんだがな」

「ど、どうして神降ろしなんてしたんですか?」

 その質問をした途端、弓張は大声で怒鳴るようにこう返した。

「知るかっ! 飛んで逃げたクソッタレに訊けっ!」

「……」

 その態度が自分でも気に入らなかったらしく、弓張は右手で握りしめていたアイスの棒をギリと鳴らし、舌打ちをして一言すまなかったと村山に断りを入れた。

「兎も角、アレをどうするかだが」

「はい」

「俺が送り帰す」

「送り帰すって、どうやるんですか」

「わからん。だが降ろせたなら、帰せるはずだ。そうでないと困る」

 わからんとハッキリ言われた村山の方がその答えに困ったのだが、どうしてか自信満々の弓張に「凄くその答えに不安を覚えるのですが」などとは言う気になれなかった。

 それに、先ほど怒鳴っていた弓張がその目に煌々と色を灯し、何事か思いついたようだった。

 にっと嫌らしい笑みを浮かべ、相方に言葉を掛けた。

「こゆり」

「わいっ」

 はい、とでも言いたかったのだろうが真珠に頬を引っ張られていて気の抜けた返事にしか聞こえなかった。それでも、意味と意気は酌んだらしく、弓張は言葉を続けた。

「アレ、ボッコボコにして送り帰すぞ」

 その言葉を聞いた瞬間、タヌキはぶわっと涙を溜めていた。凄い、嫌だったらしい。

「ぼ、ボッコボコって相手神様ですよね? 物騒過ぎやしませんかっ?」

「神様って云うのは意外に喧嘩好きなんだよ。喧嘩祭りとかあるだろ、それに相撲だって神前で行う祭事だしな。だからほら、神様の前でちょっと喧嘩をな」

 それはもう神前とか祭事ではなく、対神戦そのままではないのか。村山はそう言ってやろうかと思ったのだが、止めた。結局『じゃあどうすんの?』で村山の言葉は無為となる。

 村山に出来ることなど無い。ならば出来る人間に、出来るモノに任せた方が良い。だからこそ、村山に出来ることを遂行することにした。

「ま、真珠」

「はいっ! お兄様っ!」

 光のない瞳、死んだような目でタヌキをいびっていた真珠が、一瞬にして輝かんばかりの笑顔で村山の掛けた言葉に応えた。変わり身の早いことである。それでも、村山に出来ることは――

「た、タヌキ離してやって」

「はいっ!」

 『計算尽く』の笑みで村山の言葉に応える。タヌキの頬を引き延ばしていじめていた少女は、タヌキを床に叩きつけるように、直下に投げた。床でぐえっと声を上げて潰れたタヌキが哀れこの上なかった。流石にタヌキの扱いが酷すぎるので、村山は真珠をしかりつけること。出来ることをする事にした。

 しゅんと小さくなって、両手の人差し指をついついと合わせ「ごめんなさい、お兄様……」などと、計算尽くの上目遣いで全く反省の色がない。今から死地に赴こうという者に対する敬意とか、思いやりとかを教え込ませた方が良いのだろうと、村山は柄にもなく少女にお説教である。

 なんとか言葉を選んで真珠には、弓張とタヌキが頑張ってくれるのだからタヌキに対する扱いを改めろだの、もう少し仲良くしてやってくれだの、柄にもなくというより多少自分のことを棚に上げてのお説教だった。

 村山は真珠がふざけているのは解ったが、それでも言葉の内容は聞いているのだろうと思って説教していたが、当の真珠の方は「お兄様がわたくしだけを見ていてくださって嬉しい」などと、違うことを考えていることに全く気がついていなかった。

 そんなやりとりを横に、弓張とタヌキがセンリャクを練る。

「に、にぃさま。どうすればいい――」

「とりあえずボッコボコだな。うん、もう原型が解らないくらいボッコボコにしろ」

「……」

 そもそも原型が解らないんだけれど。というタヌキ言葉を完全に無視し、弓張は右手の指の間に丁寧にアイスの棒を挟んでいた。まさかの当たって砕けろ作戦らしい。

 更にタヌキがこの人どうにかして、と村山や真珠に視線をくれたのだが村山の方はタヌキを完全に無視して説教中であるし、真珠はどうみても『良いザマね』などという表情でタヌキを見下していた。

 それでも、弓張はちゃんと考えていた。

「こゆり、最大出力で一点突破だ。光収束の術式をアノ肉塊に当てろ」

「うん」

「太さはバスケットボール大だ」

「うん」

「どこでも良い、絶対に当てろ。弱ったところを俺が神上げをする」

「うん」

「余力があれば連射して穴だらけにしろ」

「うん」

 すっとタヌキが姿勢を低くして、検視室の入り口を見据えて戦闘態勢に入った。尻尾の毛を逆立てて、いつでも良いという姿勢だった。村山ならこのタヌキの体勢を見て警戒したのだろうが、目も無ければ耳もない肉の塊がタヌキの行動に警戒の色など見せなかった。

「やるぞ、こゆり」

「うんっ」

 どうしてか降りてきた気味の悪い肉の塊みたいな神の様なモノと、喋るエセタヌキ達の戦いが始まろうとしていた。


「「いち、にっ、さんっ」」

 外傷は無いものの、意識を失ったままの森田警部がストレッチャーごと救急車に押し込められるところを横目に見ながら、滝川まりねは男性救急隊員二人に森田が乗っているものと同じ型のストレッチャーに担ぎ上げられ、乗せられた。

「あいたっ」

「だ、大丈夫ですかっ」

「だ、大丈夫です……」

 変な声を上げたことを恥じつつ、ストレッチャーに寝ころんだまま手を挙げて滝川は救急隊員の親切を遮った。

 弓張に助けられ、担がれて階段の上に放置された時はどうしようかとも思っていた。しかし、流石に森田警部と滝川の状態に驚いた署員達が救急車を呼んでくれたのだが、滝川はその時は流石に大げさだと思っていた。しかし救急車を待っている間、壁にもたれていると背中が痛くなってきて仕方なかった。救急車を待っているというのに「救急車を呼んで~」などと呟いていたらしい。それも恥ずかしくて仕方ないが、頭を揺さぶるほどの衝撃を受けて、生きていただけでもありがたいと思わなくてはならないかも知れない。何を口走っていたのか解らないが、それも全てありがたいと言うことにしておきたい。

 どうして、滝川まりねと森田繁之が助かったのか。

 それは本人達も覚えていない事だった。

 どうして覚えていないのか理解できない。理解できないが、滝川が見た遺体の腹には、滝川が言葉に尽くせぬモノがあったことは覚えている。

 その時、自分が言葉を漏らしたことは覚えているのだが、なんと言ったかは覚えてない。

 それに、それ以上に滝川には強烈な記憶となってすり込まれた事がある。なんと言ったのかは覚えていないが、それでも自分がとある頃の火を燻らせている事に、内心驚いていて強烈な記憶となった。

 あの時、自分がなんと言ったのか。それは森田警部に訊けばよい。

 けれど、きっと『助けよう』とした事には違いない。それは確信している。

 森田を乗せた救急車がハッチを閉め、けたたましいサイレンを鳴らして走っていった。警察署のすぐそばの信号に進入する際の拡声器の声が聞こえた。

 がらんがらんとストレッチャーがアスファルトと相性悪く跳ねるのが滝川には非常によろしくなかった。痛いのである。背中が痛くて仕方が無く、救急隊員に呻き声のような文句を言いそうになった。もう少し考えて運んで欲しいと。

 昔は怪我人が運ばれてきた時に『大丈夫ですからね』などと自分が言う立場だったのだが、その時の無責任さを悔いていた。痛いモノは痛い。苦しいモノは苦しいと、立場が変って初めて『本当の理解』に至った。

 がらがらと慈愛のない痛みに耐えていると、救急車のハッチの下で止まった。このまま足の方を押して救急車に乗せるだけなのだが、どうしてかハッチの下に放置された。

 ふと、疑問に思って顎を上げて救急車の開口部を額越しに見たのだが、救急車の積載部分に、頭にはふざけたショッキングピンクの星形サングラスを載せた麦わら帽子、オレンジ色の派手すぎるアロハシャツを素肌に直接着て、だぼっとした青い短パンを穿いた、滝川と同年代くらいの男が仁王立ちしていた。

 そんな男を見た救急隊員達が呆気にとられていて動かないのだと、今気がついた。

「やぁ」

 男は片手を上げ、滝川に「ひさしぶりだね」とでも言うように、気さくな笑顔で見下ろしていた。

「えっと……どなた――」

「アレェ? ティのあげたびっくり箱のリボンをほどいて開けた人じゃないの?」

 おっかしいなぁなどと、麦わら帽子を脱いでぼりぼりと頭を掻き始める。終始笑顔を崩さず「あっちの救急車の人が開けたの?」と、先ほど森田を乗せた救急車が走っていった方を指差し、更に訊ねてくる始末。

「あ、あなたがあんな酷いものをっ」

「あー、やっぱりキミだよね。っていうかシンガイだなー。ヒドイとかそっちの方がヒドイよ~ぉ? アレはシンリのタンキューだよ。赤ちゃんはどうやって生まれてくるのぉ~って――」

「――っ!」

 滝川は自分の目がどのくらいきつく睨み付けたのか自覚した。今まで一人にしか向けなかった、自分が嫌う視線を男に投げかけていた。

 そしてアロハ男の言動に、救急隊員達も嫌そうな顔をしていたのである。

「ヒドイよ、あまりにもヒドイ。なに、キミ邪魔なんだけど」

 ぱーんと、限界までふくらませたゴム風船が破裂したような音がした。滝川の顔の近くに立っていた救急隊員の頭が、アロハ男の左手に握りつぶされた音だと気づくのが遅れる程には澄んだ音だった。

「ねぇ、キミ。ダレにマジュツ習ったの? やっぱり、センセ?」

 左手に赤いモノを付けて、にっと笑う男の顔が滝川の顔に近づいてきた。上下逆さまに見えるのは、滝川がストレッチャーから起きられないからである。

「それに教示してやったのは私だが。それがどうしたか、ティーガルト・バルトー」

「エェ、ダレさ。アンタ」

 突然現れた大男に目を丸くしたのは滝川やもう一人の救急隊員だけではなく、アロハ男も漏れずにそうだった。大男は既に滝川の側に位置取り、更には滝川の左手首を握って立って居た。その行動が脈を測るものだと見抜けたのは手を取られた滝川だけで、救急隊員は腰を抜かしてその場にへたり込んでいた。もちろん、へたり込んだ理由は先の同僚の死にあるが。

「いつぞやは面白い見せ物だった。サージに感謝だな」

 大男はアロハ男に目も向けず、ただ俯いて滝川の脈を測る体勢のままそう言った。

 明らかに大男はこの場にあって異常だった。それはアロハ男とは一線を画す異常性を持っていた。八月の十八日。日が落ちてはいるが、湿度が高く蒸し暑い。なのに、大男は暗い色のロングコートを着ていて、前がきっちりと全て留っていた。

「ふぅん、センセの知り合い。で、何のヨウ? ティはこのおねぇーちゃんに用があるんだけど」

「これの今日の予定は私が押さえている。先約は私のはずだが」

 大男の言葉を聞いて、アロハ男は笑顔のまま口をへの字に曲げて肩をすくめる。

「ふぅ~ん。アッそ。じゃあ仕方ないや、また今度ね。バイバイッ」

 右手に持っていた麦わら帽子を被り、紐で括られていたセンスの悪いサングラスを麦わら帽子から外して目に掛け、満面の笑み。そして、塗れた左手で手を振った。

 瞬間、滝川の認識から『外れた』

「――っ。い、今のは……」

「云わなかったか。ティーガルト・バルトー。お前達人間の、敵だ」

 そこで言葉を一度切って、続ける。

「体が無事で良かったな。不具合が出たらいつでも云うと良い。作ってやろう」

 むすっとした表情で、大男は優しく語り掛ける。

 おかしな事を言う大男も大概だった。

 だが、滝川の記憶深く残ったモノはそんな言葉ではない。

 ふざけたサングラス越しに見えた、虚ろな笑顔。

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