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 他サイトにも重複投稿。


 手の平にシリンダーを当てて、ガリガリガリガリと耳障りな音を立て、「この音が好きなんだよね」と醜い笑顔でこちらを見ていた。一言だけ、死ねと呟いてやった――

 人が人を認識すると言うことはその実、かなりの難易度が伴うことをご存じだろうか。

 たとえば親の顔、兄弟姉妹の顔、友人、先輩、後輩、先生、同僚、上司、部下。有名人の男、女。それ以外、雑踏の多数。

 これだけも分類できる人間の数が、結構な数に上るだろう。

 人の記憶は実際、一瞬見た程度では保存されない。『必要』な記憶はすり込まれ、長期記憶として保存される。

 一つ、好きな映画やドラマを思い浮べると良い。主人公の顔を想起できるか。もちろん、思い浮べるとなれば最初に浮かぶであろう人物だろう。まあ、相手役や脇役の印象が強ければそちらが最初に想起されるだろうが。

 そして、その映画やドラマで雑踏は無かろうか。

 有るのならば思いだして欲しい。無理ならばそれで良い。

 雑踏の一人一人を覚えているだろうか。普通の、ごく一般的な記憶能力を持つ人間なら、エキストラの顔を全ては覚えていないだろう。

 しかし、好きな映画、ドラマである。本当に覚えてないのか。

 何度も見ているはずなのに覚えていない。名前と顔が一致しない。

 それらの答えは単純。その顔を、真に知らないだけだ。


 村山は目を擦るのを止めた。かわりに一つ、簡単な解決法であろう事柄を試してみた。

「アレ、見えるか」

「見えないわ」

 タヌキが否定した。解決はしなかったが、残念だとは一切思わなかった。

 得体の知れないモノ。それを何度か見た。

 マンションの屋上で、検視室で、今ここで。

 今ここにはソレが二つある。一つは傍らのタヌキで、人語を操り、クーラーの涼を求め、自分であんみつもプルタブも開けられないタヌキ。

 もう一つは、逐次感情の子細が解るのに、一切の表情が解らない。

 顔がワカラナイ、アノ少女の姿。

 村山には確信があった。アノ少女は絶対に笑顔だろう。傍らにいるもう一人の少女の手を取ってなにやら熱心に語りかけているのが解る。凄く熱心だった、情熱が、いやもうむしろ鬼気あふれる程の熱気を纏った満面の笑みでアノ少女は、傍らの少女に語りかけている。

 その空間だけがどうにも曖昧だった。

 顔ではなく、所作でもなく、存在でもなく。

 空間が、彼女らの居場所が不安で、曖昧だった。

 捻れている……いや、アノ少女は、黒い豪奢なワンピースの少女は背筋に鋼でも入れたのかと思うほどの真に直立した美麗な佇まいで、傍らの少女の手を取って語りかけている。

 村山は気がついてアノ少女の、傍らの少女を見た。顔が、はっきりと解る。普通にはっきりと、人間だと解る。そしてその顔は困惑するような顔で、アノ少女に何か話しかけている。たぶん、たぶんだ、恐らくだが、

『紙芝居が始まってしまうから、ここから動きたくない』

 と、そのような事を言っているに違いない。

 首を横に振って、語りかけるアノ少女の手を――

 次の瞬間、必死になって解こうとしていた。片手は掴まれている。だから、空いた左手でアノ少女の手を必死に引きはがそうとし始めた。離れたベンチからそれを眺めている村山とタヌキが呆然となるほど、傍らの少女は必死になってアノ少女の手を剥がそうとしていた。困惑していた顔が泣き顔へ変っていた。恐らく、大声で叫んでいるのに、誰一人彼女らの存在に目を、耳を、気を向けないから恐怖したのだろう。

 紙芝居の準備をしている高校生達も、それを指導、監修している青年会の人々も、子供達に水飴を配りながら整列させる係の高校生達も、それを始終監視、監督している引率の教師も、ブルーシートのただ中で絶叫し、喚き散らすように泣く女の子と、それを掴んで離さないアノ少女の姿を無視していた。それはもう無視ではなく、気がついていない。認識の範疇に無かった。

 村山は見た。アノ少女が、空いた手、左手の人差し指をそっと唇に当て、

『静かに』

 と、ただその所作だけで傍らの少女の声を止めた。

 笑っている。すっと静かに、笑みを浮かべたまま、熱意の冷めぬ感情をあらわに、諭すように何かを語りかける。

 ありありと解る。顔は見えないのに、意思と意味だけが村山へ伝わる。

 それはアノ少女が傍らの少女に語りかけているという始終を見て村山が感じたもので、本当は村山に向けられた意思や意味なのではないかと錯覚するほど、顔の見えぬアノ少女の流麗な所作が記憶に残った。

 記憶に残った。焼き付いた、すり込まれた。忘れることなど出来はしない。そう言わんばかりの時間が、意味がそこに流れていた。

 一切目など離していないが突然その二人の姿が、村山とタヌキが見ていたアノ少女と傍らの少女姿が消えた。

 替わりに、彼女らが居た場所に、見覚えのある男の子が立っていた。

 村山はすぐに気がついた。

 昨日、あの時の少年だった。

 紙芝居の無い日に、日付を一日間違えた少年。八月十七日に、少年は言った。

『どうして。今日は紙芝居の日でしょ? 十六日だよ』

 村山はベンチから立ち上がり、無意識に男の子元へ向かっていった。とっくに飲み終えたオレンジジュースの缶を握りしめたまま、肩には頭蓋骨が入った鞄を提げて、ずんずんと歩幅を大きくして寄っていった。

「キミ、昨日――」

「あ、さっきのおじさん」

 自分が、二十四歳の村山がおじさんと呼ばれた事よりも、男の子が言い切った、

『さっきの』

 という言葉に村山はその歩みを止めた。止めた位置はブルーシートの手前だったのである意味で丁度良い。高校生達が不審そうに村山を見て、紙芝居を監修する青年会のメンバーが怪訝そうに村山を見、引率の教員に至っては村山の袖を引っ掴んで子供達から離し、どういう用件かと問うて来た。

 どういう用件かと問われたので村山は仕方なく警察官としての身分を明かす。正式な辞令はないものの、近隣からとある事案が上がって自分が調査に来たと言うと、教員はただそうですかと呟いて離れていった。

 なんとなく、あまりにも無責任ではないかと思ってしまった。自分たちが行っている紙芝居に関連しての事案である。しかし、村山はそれを言ってはいない。言う必要性もなかったし、そう言って無用な緊張を与えたくなかった。

 元々事案としてあげてきたのは学校側、無いし生徒、青年会の人間だろう。教員はあくまで引率。引率など人が代わっても引率でしかない。複数人の教員が持ち回りで引率しているのだろう、その中に事なかれ主義の教員が居て、今日たまたま村山と会話した男性教諭がそうだったと言うだけだろう。

 ブルーシートまで上がり込まなかったことが幸いしたのか、あまり村山には興味が向かず、その後は淡々と紙芝居が始まった。

 おそらく村山は『近所のおっさんが知り合いの子を見かけて声を掛けに来た』程度にしか思われなかったのだろう。

 そして、アノ少女と傍らにいた少女がどうなったのか、村山には恐ろしく思えた。その後どうなっているのか、どこに行ったのか。それはそこに、紙芝居のブルーシートの上に居る男の子が証明してくれるだろう。昨日、彼を見た場所へ向かえば、会えるに違いない。

 そこまで考えが巡って、ふと忘れ物に気がついた。

 鞄に入れておいた頭蓋骨は流石にベンチに置いたままに出来ない。こんなものが鞄に入っていて、ベンチに放置されていては事件性有りと通報されかねないのだから当たり前だった。だが、もう一つ、事件性のあるモノを忘れていないだろうか……

 すっと、視線を元居た場所に向ける。じっと、一心にこちらへ視線を向けるタヌキと目が合った。目が訴えている。

『アンタが横から居なくなったら、何があたちを隠すのよ』と。

 実際、

「あっ! なんか居るっ!」

 目を輝かせて、ベンチに駆け寄る数人を見た。

 中高生だろう。同じようなジャージを上下着て、自転車に跨ったままベンチへ猛進していった。

 まずい。これはまずい。

 タヌキ奪還作戦が、どうしてか始まった。


 タヌキの奪還が……機嫌が直ったのは十分もかからないくらいだった。

 タヌキが自力で逃げ回り、隠れ、有る程度時間が経った頃に出てきてくれればそれほどの時間は要さなかったろうに、このタヌキ――

「れでぃに走り回れって云うの? 良いご身分ね、三下っ!」

 逃げなかった。むしろ近所の中学生相手に喧嘩を売り出した。

 牙を剝いてふーふーと唸りながら威嚇しだしたのである。そんなチャレンジ精神にあふれる得体の知れない獣を見て、中学生は何を思ったのかテンションを上げてからかいだした。

 それを見て流石にこれは最悪の展開ではないのかと、村山が割っていった。

 さながら浦島の様な展開である。

『これ、タヌキをいじめてはいけないよ』

『んだよ、おっさん』

『おっさんじゃないよ。動物をいじめてはいけないよ』

『るっせーな、いじめてねーし。だいたいおっさんなにさま――』

『これこれ、こういうもので――』

『やっべ、マジもんじゃんっ』

 印籠よろしく取り出したのは勧善懲悪の証……のはず。浦島が御紋のなにがしかを持っていたかは知らないが、とりあえず助けてやったんだから、お宮と言わず礼の一つでもあって然るべきではないか。漆塗りで金箔細工を施した高そうな箱は要らないので、つづらの一つでも……つづらは違うか。


「アンタなんかツバで十分よ。ぺっぺっ!」

 飛びもしないが、吐いて捨てるだけだと言いたいらしい。

 そんなことよりも、先ほど消えた少女のことである。タヌキに下らないことは良いから助けに行かないとならないのだと、村山が必死になって食い下がると、流石に弓張から任された手前、タヌキも先ほどの始終にケチを付けている場合ではないと腰を上げた。四つんばいだから腰はもともと上がっていたが、自分を抱えて林の、鬱蒼とした闇へ入るように指示した。

 これからが、本日の任務である。


 公園の南側。高いマンションの影になり、公園の一角が暗い。最大で実に公園の四割が日陰に入るほど長大なマンションが南側に建っているが、そのマンションには誰も住んでいない。耐震基準云々で売却されることなく、建設から二年もの間、放置されたままになっている。

 建設費や売約済みである物件との兼ね合いのために、耐震補強の後に住めるように取りはからっているそうだが、それがどうにも二年もの間放置されている為に、そろそろ購入契約者達が詐欺での集団訴訟準備を始めそうな陰り具合である。

 人の思惑や金銭的な価値、感情に、動植物は一向に関知しないだろう。それよりも失った日照時間が如実に木々の育成を変質させていた。まずどの木もが高い。普通なら徐々にその幹を太らせ上へ上へと高くしていくのだろうが、千穂公園の一角、雑木林に至っては『日光を求めて』細い木々ですら高くその幹を伸ばしていた。

 公園にあって木登りできそうな木がない。そもそも子供達が木にしがみついて登るなんて言うことは村山が幼少の頃から殆ど無いが、村山自身は一度か二度ほど試した記憶がある。試したと言うだけで上れた試しの方が無いが、それでも見るからに子供が初めから諦めそうなほど幹と枝とが細く、高かった。

 一般的な広葉樹の樹木林に比べると細く高く、頼りない木々ばかりだが、幹にしがみついて上ってくる何者かが無いのなら、確かに鳥類にとっては安泰であろう。犬は元々登らないだろうとして、猫やそれに準ずる野生の獣なら幹に爪を立てて登ってくるだろう。そして自分たちの、鳥たちの安住を脅かす。

 だが幹が細く、更に枝までが遠いとなると猫が登って鳥を冷やかそうにも簡単にはいかないだろう。結果としてこの二年間が作り上げた変った雑木林は鳥類の城を成した。それでも二年間でここまでおかしな林の体系が成るというのはちょっとおかしいのだが、それも二年前の事で解決するらしい。

 それはマンションを建て、権利一切を所有する不動産会社が行ったことに通ずる。植樹である。元々千穂公園はそれほど樹木の本数は多くなかったらしい。マンションを南側に建てる事となり、日照の問題が出た。そこで不動産会社は日照不足は起こらないとして公園に植樹した。植樹の理由は『木が育つほど日光が届く』事を証明する為だったらしい。

 こうも陰ってまだ直立不動であるのだから確かに木が育つ程の日照時間はあるのだろうが、マンションが南南東にあって日が傾き始めた頃に当たる日光で子供達が納得するだろうか。遊んでいる間にはあまりに陰っている。夏場は日陰で遊んでいれば熱中症のリスク低減に一役買うだろうが、時間が経っても陰鬱な雰囲気をした空間で長時間楽しく遊んでいられるだろうか。

 現に、村山とタヌキが足を踏み入れた雑木林は遊ぼうという気が阻害されるくらい、暗かった。まだ五時になったばかりだが、マンションの陰と、高い木々の枝葉が作る陰の傘に『帰れ』と気圧されるには十分だった。

 まだ日当たりの良い広場には子供達が居る。もちろん始まったばかりの紙芝居に興じている子供達もあれば、広場でボールを蹴っている子供もいる。だが、暗がりになった雑木林にはタヌキを抱えた男しか居なかった。

 そこに、嫌な暗がりがある。どうにも行くには気が進まず、仕事のことを、任されたタヌキのことを思えば『行くこと』が村山の存在意義に違いないが、それでもそこに行くまでには数秒の躊躇いを要した。

 林の中の散歩道。コンセプトはそれで、おそらく元々はジョギングや散歩のために作られた道らしく、丁寧な舗装には歩きにくい場所など皆無だった。その道の両側には針金で木に札が括られていて、大きめの文字で木の名前、下に小さく説明文と、村山の予想通り木々を眺めながら歩く歩道なのだろうと解った。

 歩道が暗い。日が落ちきったのではと思えるほどに暗い。人とすれ違えば顔の輪郭が見て取れそうだが、その顔を覚えるだけの情報量が視覚に入ってこないだろうと思えるほど暗かった。

 黄昏時だ。たそがれどき、『誰そ彼』と顔の見えぬ相手を問う時間に近しい。夕闇までにはまだ時間はありそうだが、この林だけは時間が隔離されている。

 タヌキを抱え、頭蓋骨を鞄に入れた男は自分の特異性を忘れ、環境の、今ある空間の特異性に飲まれた。

 タヌキが中学生に絡まれた時とは違う。『まずい』という感覚。

 飲まれたら二度と出られないのではないか。そんな風に考えてしまえるほど、村山自身の中に危機感が生まれる。弓張が言っていた「下手すりゃ死ぬ」と言う言葉は、今まさにこの事なのではないだろうか。

「あんたね。こういう事、止めなさいよ」

 なんともまあ、不甲斐ないことこの上ない。なんたってタヌキの言葉に自分の居場所が確かになったのだから。まだここにいる。暗い、林の歩道のただ中に、村山はタヌキを両手で抱え、肩から頭蓋骨の入った鞄を提げている。そう、村山は信じることが出来た。

 タヌキが話しかけたのは歩道から外れ、木々が大いに茂った暗闇の方だった。木々の向こう側、公園の外にはマンションが立っている。まるでマンションが墓標のような黒塗りに見え、手前の林は供物か何かのように思える。そして村山はその考えを一新した、供物は更にその前だと。

 すっと、真珠色の人差し指が口元に添えられる。

 見ていて嫌な汗が流れた。

 暗がりの方に、アノ少女と、傍らに膝を突いた少女。真珠色の素肌が暗い空間にあって、異様なまでに目を引いた。アノ少女が、自らの口に人差し指を当てている。

『静かに』

 村山はその時、ふと気がついた。カラスが居るはずである。一羽のカラスも声を漏らすことなく、じっと暗がりの木々の中から始終を観察している。いきなり襲いかかるでもなく、威嚇して縄張りを主張し、守るでもなく。じっと黒い双眸が、暗闇の中から人間を『観察』しているのが解る。

「無視すんじゃないわよ。消し飛ばすわよ」

「……」

 急に、闇が広がった。

 風のような音がする。得体の知れない何かが舞い、視界を覆い隠すのを村山は一瞬見はしたが、その得体の知れない何かが顔に当たったりするものだから無意識に目を瞑ってしまった。

 流石にこの状況で目を開けていないと不安になる。そう思ってタヌキを左腕で抱え、右腕で顔を覆うようにしながらうっすらと目を開けて視界を確保した。

 舞っていた。黒く、深い闇を作る、白い鳥の羽根が。

 風の音がする。耳元でけたたましく鳴る。金切り音の様な高い音が聞こえたかと思うと、村山が顔を覆っている右手がひっかき傷のように裂けた。

「痛っ」

 傷を伝うように血が垂れてきたのだが、暗い場所にあってどれだけの量が流れたのか判断が付かなかった。風の舞う音と白い鳥の羽根の渦中に閉じこめられ、村山は身動きが取れなくなった。

「あんたっ、何失礼なことしてるのよっ! 本当にぶっ飛ばすわよっ」

「……」

 タヌキの言葉に反応してか、風当たりは強くなるわ、羽根が当たる回数が多くなるわで全くの逆効果だった。実質的な被害を受けているのは村山だけらしい。口の悪いタヌキは村山が抱えていて、羽根が当たりにくい様に計らって貰っているのだから少しは感謝して欲しい。

 弓張の、上司からの預かりモノなので傷だらけにして返すわけにはいかないのだ。それに、人間としての良心がある。意思疎通が出来るタヌキが帰り際に血だらけになって「痛い、痛い」などと言い出しては良心の呵責に耐えきれないだろう。

 時代が時代だから、鍋にする訳にはいかないのだ。

「あんた、だから止めなさ――ぶばっ! ぺっぺっぺっ! 口に入ったっ!」

 そりゃあ一人で――一匹で喋っていればそうなるだろう。風に乗って舞い散る白い鳥の羽根がタヌキの口に入り込んでも同情なんてしない。タヌキに同情はしないが、

「もう解った、もう良いわ。喧嘩売ってるのねっ! あたちを本気で怒らせたわねっ!」

 相手方に、得体の知れないモノに同情した。

 どちらかと言えば先に喧嘩腰だったのはタヌキの方だと記憶している。折角怪我しないように抱えてやっているのに、タヌキはじたじたと人の好意を蹴散らすように暴れ、結局するりと抜け出した。流石獣か、上手く地面に着地してアノ少女の方へ向き直ったらしい。

 村山には既にアノ少女の姿は見えない。傍らに膝を突いて泣きそうな顔をしていた少女の姿も認めることは出来なかった。それでも、白い羽根が作る暗闇の中に、タヌキはアノ少女の姿を捉えているらしい。

 村山の目に見えないのは暗闇のせいではないだろう。実際に白い羽根が周りを覆うように飛んでいるのが解るのだから、明るさだけで言えば認識を阻害する要因には成り得ない。

 村山にアノ少女と、傍らに膝を突いていた少女が見えないのは羽根や暗いせいではなく、この状況そのものが村山の認識を阻害しているのだとは気づかなかった。

 気づくはずはない。

 村山はアノ少女の顔を知らず、傍らにいた少女の顔も『知らない』のだから。

 タヌキが羽根の中から出ていったのを目の端に捉えた。村山は必死に羽根の乱舞する空間から逃げようと藻掻いてみるのだが、羽根の海に溺れて死ぬのが『目』に見える。

 目に見える。違う、ソレは村山が幻視した事だと気がついた。『どこか彼方の白い闇の中、白い羽根で卵のように球形に覆われた男が、息も忘れて溺れ死ぬ』そうなるかどうかなど分かりはしないのに、解っているつもりで村山は己の死を見た。

 村山はこうして死を迎えるのだ。そう、諦観に似た、己の末路を悟ったのだが……羽根が村山に当たる勢いは収まらなかった。白い羽根が見せた村山の最後。それが、村山自身まだこの世界にいる事を証明している。羽根の堅い軸部分が当たっているのか、刺さるような痛みを服の上から受け、羽根の柔らかい部分に素肌の部分を撫でられて、くすぐったいような、気持ち悪いような感覚を得ている。

 それら全ては生きている実感で、羽根が村山を殺そうとはしていないことに思い至る。正確には違うかも知れない、けれど恐怖心や痛覚による刺激は村山の中で生きていたいという感情にすげ変っていた。

「やめ、もうやめ――ぺっ、ぺぺっ!」

 喋るたびに口を埋めようとする白い羽根、白い羽根の意図も思惑もわからないが、阻害することに重きを置いているのが解るのだから、村山が取るべき行動は一つだけである。

「このっ、ほわっ! ぺ、ぺぺっ」

 黙って歯を食いしばり前に進めば良いものを、村山は無意識のうちに声を上げて白い羽根の乱舞に突っ込んだ。手を入れ、足を入れ、胴をぶち当てる。痛い。堅い羽根の軸が当たるたびに、服を穿って肌に刺さるのではないかと思うほど痛かった。

 白い羽根が闇を構築しているのに、意外にもその壁は薄かった。あまりにも拍子抜けする程簡単に出てしまったのだが、分厚い壁に体当たりする思いで意気込んだ村山はその羽根の卵から転げ回るように飛び出した。

 出た拍子に尻を樹木に打ちつけた。たぶん誰か見ていたら村山の「あだっ」という呻きとセットで不審者扱いしてくれるだろう。

 そんな一部始終を、仰向けに寝転がって抵抗しているタヌキと、タヌキの首を左手で掴んで組み伏せたアノ少女がじっと見ていた。タヌキは呆気にとられて『なにをしているんだ』とばかりに見つめてくるし、顔にもやが掛ったように見えないアノ少女は悲しいかな、タヌキと同じように『なにをしているんだ』と言わんばかりに村山を見ていた。

 顔が見えないのに、変なヤツ扱いされているのがひしひしと伝わる……

 去年のものだろう腐った枯れ葉や、堆肥を混ぜた土を安いスーツにひっつけて、村山は咳払いしつつ立ち上がった。

「あー、えっと。やめなさい」

 出てきた言葉がそれだった。もっとこう、何かあったのではないか。そんなことを思案しつつも、とりあえず喋ってどうにか場を治めたくなったのはなにも村山だけではない。

「こいつ、こいつが全部悪いのよっ」

 首を押さえ付けられ、前後の足をジタジタと動かしているタヌキが滑稽だった。そして滑稽なタヌキを、そんな野蛮な遊びはしないであろうとおぼしきワンピースの黒いドレス調の服を着たアノ少女が、左手で必死に押さえ付けているのである。

 タヌキよ、喋ることが出来るのだから、殺そうとするほど首を絞められてはいないだろう?

 そんな言葉を投げかけ、更に「女の子がそんなことをするもんじゃない」と、村山はタヌキと少女に近寄って手をほどいた。

「な、なによ。肩を持つって云うのっ! 子供を誘拐したのよ、犯罪よっ」

「実際に事件として上がっては居ないだろ?」

「なっ! そんなゆーちょーなコトどうしてアンタが――」

「だから、理由を訊いて止めさせれば良いだろ」

 ついついと。村山の着ていた土くれまみれのスーツが引かれる。

 そう言えば村山は立ち上がってからタヌキと少女の状態をすぐに止めさせようとして無意識に動いた。土やゴミだらけでなんともまあ、酷かった。実際、髪の毛には変な虫が付いていたが誰も気づいていない。

 そんな村山に無視をするなと言わんばかりに、白い小さな手がスーツの裾を掴んで自己主張していた。

「……」

 そこに瞳があれば人形のように大きな双眸で見上げたのだろう。黒いもやが眼前に迫ると、はっきり言って村山は恐怖を覚えざるを得なかった。アノ少女が眼前に迫り、何か言いたげにスーツの裾を掴んだまま村山を見上げているのである。

「どうしてこんなことしたの?」

「……」

 少女は無言のまま首を振っていた。顔が見えないのに首を振っていると解るのはワンピース型のドレスが左右に緩く揺れたからである。

 先ほどこの少女の傍らにいたもう一人の少女はどこに行ったのだろうか。そんなことを訊ねる前に、村山は声を聞いた。

「お名前を」

「な、名前……村山、ですが……」

 澄んだ声。林の木々がさあっと風に吹かれてなお、村山の耳には少女の声が聞こえた。ちなみにタヌキが何か喚き散らして村山の右手を噛んでいたが、痛いだけで耳には届かなかった。

 どうしてか無意識に、丁寧に自分の名前を告げたのだが、どうにも少女は気にくわなかったらしい。ふるふると頭を振って、更に体まで左右にわずかに揺れていた。はっきりと『違う』と言いたいらしい。

 村山の裾から小さな白い手を離して、少女は声を発した。

「わたくしの、名前を――」

「はぐっ」

「――っ!」

 小さく声が漏れ、村山の眼前で少女が傾いだ。村山は呆然と見ているだけが唯一取れた行動で、タヌキが村山の右手から少女に標的をかえて噛みつこうとした事に思い至るまでに時間を要した。無論、その時間中に村山が少女を助ける事など出来はしなかった。

 後ろに倒れこむ瞬間、少女は掴まって自身の体を支えられるものを無意識に探していたらしい。

 少女の白い手に当たったのは村山が提げていた鞄。どうにか肩掛けのベルトを掴むには掴めたのだが、少女の体を支えられるだけの安定性は無かった。

 村山も引っ張られて体勢を崩しはしたのだが、流石に倒れるほどではない。ただ、タヌキを入れるために持っていた鞄は、開いたままだった。

 ころんと。

 白い、真珠色の髑髏が土の中に落ちる。

 一瞬、時が止まる。村山が思い至る。

 村山には、アノ……いや、手の届くところにいるのだからコノ少女と言うべきか、いやそれでもアノ少女と呼ぼう。アノ少女には、既視感があった。

 正確には既視感ではないような気もするが、村山はどうしてか『知っている』気がしてならない。どうしてそう思うのか、どうしてそう考えたのか、そのどちらももう解らないのだが、一つだけ理解したことがある。

「それ、キミのだろう」

「……」

 頭が垂れた。こくんと。

 見えない頭が見える気がする。一心に、もう村山など見ていないであろうその双眸が、穴穿つ双眸に向き合っている。

 人間の頭蓋骨を持って『それ、キミのだろう』などと言われて『はい、そうです』と言うはずがない。まあ、稀に研究用途やその他いろいろの理由で誰かが誰かの頭蓋骨を所有している事はあろうが、年端も行かぬ少女が人間の頭蓋骨を所有している道理がない。

 だからこそ、普通、答えはこうあって然るべきだった『違います』と。

 なのに目の前で、黒いワンピース型のドレスを着た少女が、その胸に掻き抱いた。

「……」

「……」

 物言わぬ。アノ少女は時間を止めたように頭蓋骨を抱いて、静かにそこにいた。黒いワンピース型のドレスで汚い土に尻餅をついたまま、膝を曲げて両の手で静かに頭蓋骨を抱く。

 暗い林の中、空っぽの肩掛け鞄を提げた男と、不機嫌そうに黙りなタヌキと、頭蓋骨を抱いた顔の見えない少女が取り残されていた。

【アー、アー】

 カラスの声がする。

 不機嫌そうに、タヌキが応じた。

「ほら、帰りましょ」

「あ、ああ――」

 タヌキが村山の革靴に前足を載せた。もう帰ろうという、単純にして明快な催促のあり方だった。カラスが鳴いたから帰ろうと言うより、タヌキが駄々をこねるから帰ろうという方がなんとなく、村山の理にかなった。

「あ、そうだ。もう子供を連れ去ったらダメだよ」

 放って置いたらすねに噛みついて来そうだったので、村山はタヌキを抱えて少女にそう言った。

「……うん」

 泣きそうな声。俯いたままそれでも、澄んだ声が力強く約束した。

「それと。真珠、かな?」

「……」

 すっと、もやの掛った顔が村山に向いた。

 何かを期待している顔。笑った顔、困った顔、悲しい顔。

 その時ばかりは、村山に少女の表情が理解できなかった。

「ありがとう、お兄様」

 闇が、白い羽根を産んで、少女を覆う。

 包み、隠し、消す。

 滲むような黒。林の雑音に白い羽根の、摺れる音。

 暗い林の中、カラスの群れが静まって、何かを注視する視線が残る。

 その中に残されたのは男と、タヌキと、空の鞄。


「痛てぇ……」

「あたちの方が大変だったのよっ! 女の子助けたのっ! あたちちょー頑張ったんだからっ」

 聞くところによると黒いワンピース型のドレスを着た少女の傍らに居た、もう一人の少女はタヌキが逃がしたらしい。あの白い手に噛みつこうとし、躱された所でも追撃の手をゆるめず、アノ少女と対峙して、

『今よっ! 逃げなさいっ!』

 とかやったらしい。タヌキのどこに追撃の『手』があったのかそちらの方が不思議で仕方ないが、兎に角、タヌキのエイユータンとやらを聞かされて被害者……かどうかは解らないが少女は助かったらしい。

 事件として扱われないと被害者としては認められない。だから被害者の少女という言葉が適切かどうか村山には判断がつかないが、怖い目にあっても逃げられたのならそれで良いのではないか。無理に蒸し返してトラウマでも植え込んだら村山には責任は取れない。

 自転車に跨り、タヌキを鞄に突っ込んで村山は手の甲を見る。動物に引っかかれたような痕があるが、白い羽根に引っかかって付いた傷だった。先ほどまで血が滲んでいて、公園の水で洗い流していた。

 あんな良く解らないものと関わっていたせいか、時間の経過が良く分からない。

 既に公園の時計は六時を指していた。

 カラスは鳴いていたが、子供の様にまだ家に帰る訳にはいかない。

 大した量の出血では無かったから良いものの、二時間かけて自転車漕いで署まで戻らなければならないのかと思うと、正直笑えてきた。たぶん、帰途でも膝がケタケタ笑うに違いない。

 流石に気力はない。タヌキはまだ暑いから云々と、頭に登ろうと這い上がってきたが、むんずと掴んで鞄に押し込んでやった。頼むから、黙っとけ。

「ヒトデナシッ!」

 午後六時、まだ明るいが公園に村山以外に人影はない。

 人間が居ない公園。確かに、公共性は高いかも知れない。

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