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 他サイトにも重複投稿。


 『俺は羊飼いになるつもりはない』ただ、そう言った――

 ある日。弓張小百合は自宅の、神社の裏手の小山で両前足を怪我したタヌキを見つけた。

「放っておけよ」

「やだっ」

 どうしてか義妹、弓張小百合は頑としてそのタヌキの前を離れず、治療しないのなら自分も帰らないと言い出した。

 山を歩こうと言ったのは、ここまで連れ立ってきた弓張三千代である。

 見ればタヌキはまだ子狸らしく、親とはぐれてしまい足も怪我をしていて、放っておけば衰弱死する事は中学に上がった三千代にも理解できた。

 その狸の行く末を案じてか、それとも単なる可哀相なモノを助けてやろうという幼心か、義妹である小百合はだだを捏ねて動かなくなった。

「……暗くなるから、そろそろ帰らないと」

「いやっ」

 ぷいっと顔を三千代から背け、狸の頭を撫でて言葉を遮った。

「……野生の動物は病気を持ってるからあんまり触るな――」

「この子は持ってないもん」

「……」

 断言である。そして三千代は言い返せない。なにせ既に抜かれたのだ。養子で、外から来た子だが、既に弓張の術式系譜を巧みに使いこなし、その善し悪しを見抜く目は既に三千代の目を超えていた。

 天才とはこういう子なのだろうと、三千代は途方に暮れる。

 実際、小百合が病気や寄生虫の類は居ないと言えば、本当に居ないのだから。

 たった四年で追いつかれ、その魔力の流れを読む力に関しては追い抜かれた。

 最悪この子を、小百合を恨んだり憎んだりしない理由は単純。小百合は元々弓張の者ではなく、使用する術式の精度や効率に大いに差が生じたためであるし、年長者である三千代の経験則も未だ彼女を上回る為だ。

 だがそれも、いつまで保つやら……

「帰ろう」

「いやよっ! あたし、この子と帰るのっ!」

 四年、六歳の時に弓張家へ引き取られてからというもの、小百合の恐怖や困惑という表情を多く見てきた。単純に慣れない環境であることや、幼くして親元から離された為であろう。

 ただ三千代も、他の家庭と比べたのなら、父や母からの愛情はそう多く受けていないと思っている。

 母は五年前に他界した。父は健在だが『父』としては接することは少ない。社を護る者としての矜持や仕来りを伝え、ただ厳しく当たる師である。

 こんな環境に、ただ未来のために引き取られたこの子が、小百合が不憫で仕方なかった。

 一般的な家庭の温かさなどは皆無で、ただ云うが侭に従うだけの生活に、笑顔の一つなど三千代自身もあまり身に覚えがない。だから――

「わーったから、連れて行くから」

「本当っ!」

 十歳になって、急に背が伸びたのは女の子だからだろう。三千代自身も身長が伸びた事を父との対比で自覚していたが、小百合の身長の伸びは驚くほどだった。一、二年間は小さくなって後ろをくっついて来たのに、今はこうやって、三千代の前だけではわがまま放題に前を行く。

 そんな我がまま娘に育った彼女を、どうにも甘やかしているのは三千代自身らしいと薄々自覚してはいるのだが……

「ありがとうございますっ! にぃさまっ!」

 一度、ひしと飛びついてきて、上目遣いでにっと笑う。よく出来た自然の摂理だなあと、三千代は感心せざるを得ない。この顔には、勝てたためしがない。

 ちょっと前まではそのままべたべたと甘えていたのに、最近は「手段」として覚えたらしく、そそくさと子狸に向き直って抱え上げた。

「さあ、帰りましょう」

「あ、ああ。そうだな……」

 小百合を嫁に取った男の末路が、何となく不安になる。




「おいで、こゆり。ほら、おいでっ」

「ちょ、ちょっとにぃさま! あたしと同じ名前で呼ばないでっ」

 コユリと呼ぶと、一人と一匹がついてくる。

 子狸を拾ってから二年。

 名前を同じ「こゆり」にしたのはただ単純に、気紛れだった。

 子狸は神社で殆ど飼っているも同然だった。両前足を怪我していて、その上喉まで何かにぶつけて切ったのか怪我をしていた。それらが完治しても、子狸は鳴き声一つあげない。

 静かなもので、人気のない神社の裏手では誰にも咎められることもない。

 しかも懐いたのか小百合に付いて歩くようになった。

 小百合を呼ぶときに絶対に一緒になって付いてくる。

 こゆり、と呼ぶと付いてくるのだから、タヌキの名前は「こゆり」にしようと言ったのは良くふざけ半分で呼んでいた三千代である。これに異議を申し立てたのは他でもない同音の「小百合」で、三千代の言い訳は「字が漢字とひらがなで違う」というもので、納得するはずがない。

 それでも、怒って追いかけてくるコユリの行動が、あまりにも三千代の悪戯心を燻って仕方ないのだ。

「三千代、小百合。いい加減にしなさい」

 そしていつも、二人からタヌキを取り上げるのは父だった。




 弓張三千代は辟易していた。

 高校に上がってからと言うもの、実家とは距離を取って全寮制の高校に入った。

 鬱陶しい仕来りや作法に頓着する事が無くて清々していたのだが、入った全寮制の学校はあくまでも父、弓張方陣が許可した学校であって、魔法や魔術という世間一般から乖離したものを裏では『肯定』している学校であった。

 うんざりだった。

 タチの悪いことに、その『裏』の先輩が矢鱈に三千代を引き回し、父に厳しい教えを受けている以上に肉体的、精神的疲労がある。「男の純情を弄ぶ、魔性の女」と学校内でも名高い先輩に目を付けられて参っていた所に、年次の催しがあるから一度戻ってこいと実家からの絶対命で、三千代は石段を上がることすら億劫だった。

 太陽が南中を迎える少し前、予定通り実家の弦水神社へ到着した。

 石段を上がり、社殿に居るであろう、父や兄、小百合の姿を探すのだが、見当たらない。そもそも、例年ならば準備し終えているはずの社殿が、中途半端な状態のままに、放置されていた。

 そして何より、その『目』に付いたのは異様な光景だった。

 ただの人間ならば『気味が悪い』と感じるくらいがせいぜいで、三千代のように『異常だ』と感じる者はそう多くないはずだった。そして、その多くない側の者が、この神社には四人いるはずだ。その全員が社殿から離れた、母屋裏の池の方に集まっているのを知覚した。

 明らかにおかしい、覚えのない膨大な魔力の元に。

 肩掛けにしていたドラムバッグを石段を登りきった位置に放り捨て、玉石を派手に踏んで走った。

 ここ最近こき使われたお陰で池まで走っても、なんともない。

 そう思っていたのだが、母屋の陰になっていた位置から飛び出して、池の方を見れば、三千代の整然とした呼吸が、止まった。

「ぃ…… おい、なんだよ。どうしたんだよっ!」

 吐き気を催すような感覚が、唐突に訪れた。それはここに、池の畔に残る圧倒的な魔力残滓と、父に、弓張方陣に抱きかかえられている小百合の姿を見た、両方から来るものだった。

「……」

「おい、説明しろ。誰かっ、誰か説明しろっ!」

「三千代」

 素っ気なく。ただ、だだを捏ねる子供を窘めるような。ただ冷たい声だけが三千代の膝を折った。

 崩れ落ちた。

 目の前には小百合が、左胸から大量の血液を敷石にまき散らし、ぐったりと首を父の腕に預けていた。右腕は焼け爛れ、左足は膝から捻れ曲がり、右足は無く、左腕はそれが腕だったのか疑わしいほどに、炸裂していた。

「なんだよ、どうしてだよ…… 何が有ったんだ、どうしてこうなったんだ。なんで小百合が、どうして」

 それなりの大きさの岩に腰掛けたまま、父は微動だにせず、抱えた小百合をただ見つめていた。それに習い、兄二人もただ小百合を見つめていた。

「おい、父さん…… どういう事なのか、説明しろよ。誰がやったんだよ、小百合を、小百合をこんなにしたヤツは誰なんだよっ!」

「三千代」

 父に代わり、名を呼んできたのは長兄である一千期だった。一回り以上年齢の違う腹違いの兄が、これまで一度として振るわなかった右の拳を、末弟の左頬に力の限り振るってきた。

「――っ!」

 今まで、父以外の家人から殴られたことなど無い。まして、拳を固く握りしめ、本気で殴り抜かれたことなど、ただの一度も無かった。半分しか血の繋がりのない弟とは、二人の兄は距離を置いていたのに。

「……どういうこと―― どういう事だっ、おいっ! 説明しろクソ親父っ!」

「三千代っ」

 頬を殴ったのは長兄である一千期だが、三千代が食ってかかったのは父、方陣だった。

 そしてその見境無くなった弟を羽交い締めにし、必死に食い止めたのは次兄である二千年である。

 そして、息子には目もくれず、父はただ言った。

「これは…… 私がやった」

「……嘘だろ。そんな下らねぇウソついてんじゃあねぇよっ!」

 五体を力の限り動かし、次兄の顔を手の甲で殴りつけてでも逃れ、父の胸ぐらを掴もうと三千代は躍起になった。納得など行くか。そんな場当たりにもならない嘘など、どうして父がつくのか理解できず、ただ暴れた。

「三千代、覚えておけ。我々は、こういうイキモノだ」

 小百合を玉石の元へ降ろし、そこに着物の懐から取り出した一枚の札を置いた。

 知っている札。どういう意図を持って用いられるのかも知っているし、どういう事になるのかも知っている。

「忘れるな。三千代」

「止めろっ! おいっ! 止めてくれっ!」

 父の、

 クソッタレの足下で、

 その日、

 大切な妹が燃えて、

 消えた。


 岩の前に、ただ一人残って四つん這いで探していた。

 日が落ちようが、父や兄に止められようが、殴られようが、それらを振り払って石の前で探した。妹を、小百合を探した。あれは、燃えたんじゃ無い。父が新しく考えた術式で隠されたんだ。だからどこかにある綻びを解いて、にぃさまが解いて、小百合を助けるのだと。

 父や兄が代わる代わる訪れ、三千代を止めたが聞く耳など持たなかった。

 岩の周りをくまなく調べ、敷かれていた玉の石を全て取り払って、天を仰いで星の並びの中に術式に用いる、並び星が無いかまで、探した。

 星見の為に天を見上げたとき、三千代は、自分が母を亡くした時以上に泣いている事に気がついた。見えない。眩しいばかりに月や星々が光っているはずなのに、輪郭がない。

 亡くした。

 また、亡くした。

 そう、気がついた。


 どう歩いたのか覚えていない。どこだったのかも、覚えていない。

 ただ小百合の魔力を追って、神社の敷地を彷徨った。

「~~っ!」

 急に、何かが足下で色濃い警戒の魔力を放っている事に気がついた。

 コユリが、そこには居た。

 ひしと四つの足で何かを掴んだタヌキが、尾を立てて威嚇していた。

 足である。人間の、小さな右足を護っていた。

 覚えている。忘れもしない。その時の、こゆりの瞳を。

「そうだな。怪我をしていたら、助けてやらないとな」

 小さく、こゆりが鳴いた。




 コンクリートで打たれた壁が、中の鉄筋ごと吹き飛んだ。

「――っ」

 その一撃を躱したのは弓張三千代で、飛び退ると同時に腕の中に抱えたのはこゆりだった。

「危ねぇなっ! クソがっ」

「ねぇさんが俺と一緒に居たくないと思っているはずが無いじゃないかっ!」

 空間が歪んでいるはずだった。魔法使いが自分達の陣地を、城と呼ぶ。それは自らの研究を守るための堅牢な壁として、内側で起こる予測外の結果を外に漏らさないため。

 そして何より、内側への侵入者を、自身に有利な場所で圧殺する為だ。

 捻れ、良く解らない空間。

 コンクリートを打っただけの六畳程度の部屋に接続していたのは長い廊下だったはずだ。

 弓張三千代とこゆりは破壊されたコンクリート壁の向こう側をのぞける位置に立ったが、そこはどう見ても、長テーブルと、整然と並んだ椅子のある大食堂に見えた。

「おいおいおい、空間接続の術式がやべぇな」

「海は全てを繋ぐ。ここに俺が居る、その先にはねぇさんが居るっ」

「やべっ」

 海が、全ての大陸や島との接続部分。そういう見立てをして、この術式は成り立っているらしい。そこに見える穴がどこの食堂に繋がっているのかしらないし、この部屋に来るまでに通った廊下が、どの場所のどんな廊下など、今更考えていても意味がない。

 ただ森田が左の拳を振るう度、見えぬ何かが飛んで派手に何もかもをぶっ壊す。

「どーなってんだっ」

「わ、わからないっ」

 弓張三千代よりも、こゆりの方が鼻が利く。というか、魔力の流れを探知する能力に長けているはずなのだが、全く解らないらしい。

 実家で良いものを手に入れたからと意気揚々と東都の中心部にある、四百メートル超の超高層ビルの上階、森田の給与でどうして押さえられているのか不思議なレベルの、超高級マンションの一室に乗り込んだ所、一発でアタリを引いた。

 ここに来るまでの間、使えるだけアイスの棒きれを消費した甲斐が有ったというものだが、正直どMという訳ではないので、本当に『アタリ』かどうか疑わしいが。

「にぃさま、弓っ! 弓っ!」

「ダメッ、あれは威力が有りすぎる……」

 正直ここまで来て、出し惜しみするというのは思っても見なかった。

 その理由は、未だ捕らえられた少女の存在である。

 使えるには使えるのだが、不慣れなまま持ってきたので、まさか誤射して傷つける……殺してしまう訳にはいかないのである。

「あ~、もう。森田の手の内が解れば――」

 律儀にドアから廊下に走り出て、森田を待った。

 少女に危害を加える気勢を削げるくらい挑発しようとは思っていたものの、こうも激高して追ってくるとは思っても――

「――」

「うおっ」

 間一髪……頭髪の後ろ側を掠めて、少々髪の毛を持って行かれた気もするが、毛くらいくれてやる。それで命が助かるのなら、本望だろう。

 辛うじて躱した横、廊下の壁が深く穿たれた。そこから太陽光の様なものが盛大に差し込んで薄暗く長い廊下に違和感のある光量をもたらしたが、そんな事を気にしている場合ではない。こゆりが必死に走って、結構な距離、廊下を逃げていた。

「君は愚かだ。君のような成功者をして、なぜ俺のような助けを求める者を、ねぇさんを救わないっ!」

 太陽光が恰幅の良い、森田を照らす。薄暗い廊下にあって気がつかなかったが、森田の顔面は蒼白だった。

 血液は森田の物で間違いない。

 実家に居るとき、まりねの携帯電話にかかってきたのは酷く不機嫌な、事務的な連絡だった。科学的な解析に回したベッド脇の血液が、救急に運ばれてきた時に採血された森田の物と同一だと判断されたらしい。

 致死量相当の血液を病院にぶちまけて、どうして目の前の男は――

「仕方ないので、君を殺して、術式を直接脳から取り出してあげますよ。恐怖と喪失感に苛まれた記憶なら、強烈なストレスと共に焼き付いているでしょうし」

「だったら、頭狙わないように殺さないといけないんじゃないか」

 五連装の回転拳銃。警察支給の官給品を私的な事に用いていることには村山と違って何の感慨もないが、アレで臆面無く少女の足を撃ち抜いた行為には怒りを覚えていた。

 生きている人間と、死んでいる人間に悪い意味で差を付けない人間も、この世には居ることに、滝川の代わりに全力で怒ってやる事にした。

「それもそうだね。頭以外は要らないから、すりつぶしてあげるよ」

 右手の拳銃を捨てた。正直、これは弓張三千代には好都合だった。

 五連装の拳銃。一発少女に向けて撃ったのだから、残りは四発か。その飛び道具が、最も厄介だったのだが、一番効率よく死ねそうな武器を手放してくれた。森田は鑑識を主にしてきた人間で、それも柔道はそれなりに履修していた様だが、射撃自体は得意ではないらしい。故に敢えて近接戦闘に絞ってきた。

 そして、最悪なことに両の腕が凶器だった。

「――」

 森田はその体格に、恰幅の良い太めの体型の割に、ステップが軽く、構えも良かった。

 ボクシング。

 何のために学んだのかなど知りたくもないが、脳を揺する為の心得はあるらしい。

「くっ――」

 それに対するのは、書類上の警察官。エセ警官だった。

 弓張三千代の不格好な足運びでは急激に間合いを詰めた森田の圧迫感に心の方が間に合わず、狼狽えてもつれた。高い革靴なんて正直なところ見栄でもなんでもなく、単に父に対する虚栄心の表れで、真っ当にその師の下で学んでいればこれほど怯えずに済んだかも知れない。

 不格好にすっころんだ弓張三千代の危機を救ったのは、かなり離れた場所にいたこゆりだった。

 左のフックが弓張三千代へ迫った瞬間、森田はその軽やかなステップをもって身を引いた。そのすぐ脇を掠めたのは細い、一本の光線である。

「あれぇっ!?」

「どんまいっ、だけどナイスッ」

 わたわたと慌てながらまたも不格好に立ち上がって、よたよたとこゆりの下へ走る。

 こんな事をしても時間の無駄である。何せ外傷の多数見受けられる少女が、その足を、太ももを撃たれているのだ。

 先に蛭ヶ谷が膝下を骨折して治療を施している間、やんやと囃し立てていると怒気を孕んだ声でまりねが言った事を思い出す。

『太もも。特に内ももは大きな血管が通っているから、小さな外傷の様でも、内部の血管が傷ついていたら危ないのよ。人の怪我を笑わない』

 少女は太ももを撃ち抜かれ、弾丸が床に到達していた。ももを貫通している。彼女を助けるまでの時間を、かける訳にはいかない。蛭ヶ谷のように、せせら笑ってやれるような状況ではない。

「にぃさま、弓っ! 気にしてる場合じゃないっ!」

「わ、解った。時間稼げ」

 弓をそのまま持ち歩いて、同業に職質などかけられてはたまらないと、弓張三千代は己の術式をもって別空間にしまい込んだのだが、こうも性急に要するとは思ってもみず、取り出すのに時間を要する。

 それくらいの時間なら短時間で済むと高を括っていたのが、仇になった。

「ひぃぃっ」

 こゆりが恐怖に変な声を上げたくなるくらい、気持ち悪いくらいの体捌きで太った中年のおっさんが間合いを詰めてきていた。こゆりの出せる光線があくまでも一本だという事に早い段階で気付かれ、更にこゆり自身がそれを確実に当てられるだけの力量を持っていない事も、気付かれている様だった。

 何もかも、時間がないのだ。

「よっしゃ、俺に任せろ」

 スーツのポケットに入っていたアイスの棒きれを床に並べ、六芒星を作る。その中央に手を突っ込み弓張三千代が作り上げた『向こう側』から弓を引っ張り出した。

 だが、弓を出してそちらへ向き直った瞬間、予想だにしない光景が広がっていた。

「……なんで?」

 森田との距離は未だ、森田の攻撃圏よりも離れていて攻撃を受ける心配はないのだが、こゆりが小刻みに震えていた。

「う、うぅ……」

 森田が何故か、パンツ一枚で、ブリーフ一枚の姿でファイティングポーズを取っていた。

「へんたいっ!」

 真面目に殺そうとしているのかウケ狙いなのか良く解らないが、十二分にこゆりが動揺した。実年齢はそれなりのはずなのだが、精神年齢がお子様の状態で止まっているこゆりには、中年の太ったおっさんの半裸……有る意味ほぼ全裸はキツイらしい。

「てめ、汚いモノ見せんなよっ!」

「こちらの方が都合がよいのでねっ」

 青い犬の男もそう言えばこゆりに全裸姿を見せていた気がするが、ペットと飼い主は似るのかと。

 未だ数歩、理由の解らない力が及ぶ範囲に届いていない気がするが、それでも森田は空を右フックで穿った。

「――」

 こゆりの着物の首根っこを右手で引っ掴んで引き倒し、自身は弓を持った左手で良く解らない行動に対して体を庇った。すると、左腕に焼けるような痛みが走る。

「いっ――」

 森田の振り抜いた方向へ、左方向から右方向へ突き抜けるような痛みが走る。

 何が起こったのか、その身をもって理解した。

「……あんた、良い度胸してるよ。血ぃ抜いて、全部海水に入れ替えただろう」

「左腕を犠牲に、よくもまあ見抜いたな」

 あまりに血色の悪い顔色を見て、単に貧血気味なのかと思ったのだが、森田が振り抜いた右フックと共に『汗』が飛んできて気がついた。

 まりねが良く言っていたのを今更思い出した。汗っかきのおっさんが居るらしいと。

 海は、母なる海である。塩分濃度を調整し、術式で血液の代替など思いも寄らなかったが、全身に酸素と必要なエネルギーさえ送れるのなら、体全部が究極の触媒となるのだ。分泌される汗も、全てが凶器である。

「きったねぇ手ぇ使うんじゃあねぇよ」

 弓張三千代はかなり焦っていた。左腕が、左手があまりの痛みに、番えた弓を支えきれるか解らないほど、力が入らない。

「我々の間に、汚いも何も無いだろう」

「お前の見てくれが汚ねぇって云ってるんだよ」

「不格好なのは承知の上だ」

「キモイおっさんの所になんて、ねぇーちゃん帰ってこねぇって云ってるんだよっ」

「――っ」

 これはマジで怒ったろう。こゆりが放った光線をかいくぐり、姿勢を低くして前のめりに突っ込んできた。

 こゆりの二発目に全てがかかる。上手い具合に放たれることを祈りつつ、弓張三千代は、黒い漆塗りの弓を構えた。

 

 鳴弦弓。


 それがいつからか解らないが、弦水神社に伝わる邪気を払う為の、祭器だった。

 ただ番えるのは魔力。そして差し向けるのは己。

 内に響く音に耳を澄ませ、明朗に鳴り響く弦の声を聞く。

 弦舞の方を陣に敷き、明朗なる神鳴りを呼ぶ。


 放たれるのは雷鳴。

 神の技。

 すなわち、雷の矢。

 

 雷撃は目に見えず、ただ震いたるのは天地。

 囂々と鳴り。神技を成す。


「腕の一本っ! 知るかっ、クソがぁっ!」

 弓道に用いるための弓ではない。集団戦のための弓ではない。

 全てが漆に塗られた、弦までもが黒い弓の用途。

 持ち運びを優先し、中距離での実戦のために用いられる為の弓。

 鳴弦の為だけに、鳴弦を実戦の為にだけに用いるための弓。

 これを使うためだけに、弓張家は存在する。





 たった一度、番えた弓は空を射た。

 こゆりは義兄の思いを汲んだか、はたまたたまたまか解らないが、上手く森田の足を、動きに制約を与えた。

 それを見逃さなかったのはただ、森田の魔力の流れだけを見て、追っていた弓張三千代だった。

 鳴弦。神鳴りを起こし、使用者の念じる対象物へ共振を与える。

 その物体の固有振動数に近い周波数を外部から与えると、近ければ近いほどに物体自体が振動する。物体が耐えきれない振動すると、その物体は形状を維持できずに崩壊する。

 人の声でグラスが割れ、地盤の固有振動と共鳴すれば家が倒壊し、風の影響で巨大な橋が崩壊するに至るまで。

 その力は物の大小を問わない。

 固有振動を持っているのは、何も無機物だけには限らない。

「――」

 弓張三千代が向けた先は、森田繁之の頭部だった。

 森田の巨躯は雷に撃たれたように瞬間的に伸び上がり、そのまま後ろに卒倒した。

「死んだっ?」

 呆気にとられていたこゆりが、森田がひっくり返って動かなくなった様を見て嬉々とした声を上げて尋ねてきた。

 三千代は焼け爛れた左腕を垂らし、黒い弓を取り落としてこゆりに向き直った。

「いたっ」

 喜んだこゆりの頭に、真上から義兄の右の拳が当てられた。それほど強くはないが、かといって優しいとは言えないくらいに。

「殺してねーよ。 ……こんなヤツと一緒にするな」

「ご、ごめんなさい」

 涙目になったこゆりが小さい声で詫びを入れる。

 こゆりの表情から、三千代自身がどういう顔をしているのかだいたい想像が付くがこゆり相手に弁解などしない。

 森田が「気をつけ」の体勢のまま、異常空間の廊下に泡を吹いてぶっ倒れた。

 出力を最大にすれば頭など軽く弾け飛ぶが、頭蓋を揺らして脳震盪を起こそうと思えばそれも可能である。実家から家宝である鳴弦弓を借りてくるにあたって十分くらい練習して体得した。子供の頃から父の――方陣の執り行う鳴弦の儀を見てきたのだから、同じ事を再現出来れば自身にも可能だと思ったからこその、短時間体得である。

 三千代は汗でテカっているおっさんに直接触りたくないので、なんとか革靴で蹴り回し、上着を脱いでからその上着越しに触りつつ、森田の両の手に手錠をかけた。

 手錠そのものは元々三千代は持ち歩く習慣が無かったのだが、ここに来る前、実家にいる間、村山が頑として譲らず、押しつけるように手渡してきたので借りてきたものだが、役に立った。ちなみに上着はそのまま森田の横に捨てた。もう着たく無い。

 取り落とした弓を拾って、こゆりに持たせた。

「よし、あの子助けにいくぞ」

「うんっ」

 長い廊下の一角。廊下の所々壁が壊れ、コンクリート片が散乱する中。ブリーフ一枚の姿で手錠をかけられ、泡を吹いて倒れた中年の男を一人残し、上着を脱いだスーツ姿の男と、和装の少女が廊下を進んでいった。


「もうだいじょうぶだからね」

 目隠しを取って貰うと、眩しくて仕方なかった。

 かわいらしい声の子を探そうと目を明かりに慣してみたのだが、見えるのは自分よりも年上の男の人だった。

「~~っ」

「ああ、待て待て。喋ろうとするな、窒息死するぞ」

「――」

 吊っていた縄をほどきながら、男の人がそう言ったので従うことにした。本当に喋ろうとすると喉の奥が、胸が苦しくなって辛かった。 

 男の人は両手と胴体を吊っていた縄を解いてくれたのだけれど、私は立つことが出来なかった。右足を撃たれていたし、左足は折れていたのか、おかしな方向をむいている。どこが痛かったのか、痛いのかなんて解らないほどに私の体はおかしかった。

「ちょっと失礼」

 男の人は座り込んだ私のうなじに手を当てる。前のめりになっていて、そのまま目の前に私は何かを吐き出した。

「喋れるか」

「あ、あ、あだ……あた、し」

「お、大丈夫そうだな。俺は警察官だ。助けに来た」

「っ」

 誰か知らない人だけれど、助けに来たという言葉を聞いて涙が出た。鼻水も出ていたかもしれないけれど、この人はそんなことを気にする様な人じゃあない。

 泣き崩れて、ちゃんと動かない手で顔をごしごし拭いていると、そっと抱き寄せられて頭を撫でてくれた。

「……役得とか思ってないでしょうね。にぃさま」

「お前、なんつー事を」

 和服のかわいらしい女の子が、ふくれっ面していた。


 こゆりが半開きの目でじとじととした視線をずうっと投げてくる。

 足が折れ、もう片方の足も撃たれて動かせないというのだから負ぶってやるしかない。

 お姫様だっこなど、ありゃ無理だ。村山くらい日頃から鍛えていれば出来るかも知れないが、こちとら久々に走っただけで筋肉痛になり、腰を痛める五体である。しっかりと、確実に運んでやるのなら負ぶってやるに限る。

「おしり触られたら云ってね」

「だ、大丈夫……」

「だから、触らねぇってーのっ!」

 こゆりの刺さるような視線が少女を背負って支える両手に集中しているが、実際の所、弓張三千代はかなり無理をしていた。左腕の感覚が明らかにぶっ飛んでいる。

 長い廊下、他の扉全ての中には、もう負える者は居ない。

 ただ一人だけ見つけたのがこの子だった。

 長い廊下、所々壁が砕け、コンクリート打ちっ放しの床面に破片が散乱している。壊れた箇所から差し込んでいる光は太陽光のようで、薄暗い廊下の先を見据えるには邪魔な光源だった。

「うそ……」

「あ?」

 こゆりが声を上げ、その声を聞いた瞬間。弓張三千代は立ち止まった。

 上着が落ちている。

 それだけだ。

「……まだ、十分も経ってないはずだけどな」

「……」

 脳天を揺らし、完全に失神させたはずだ。十分もせずに、どうやって意識を取り戻したのか。それに手錠が落ちていない所を見ると、それを解除するには至っていないはずだ。

 気持ち悪い汗魔術に負けじと、手錠にいくらか術式を仕込んで破壊できないように……破壊し辛いように細工しておいたので、ここから慌てて逃げたとしても「手錠をかけられたブリーフ一丁の変態おやじ」は目立つはずだ。逃げ場など無い。

 だが、横ですんかすんかと鼻を鳴らし始めたこゆりが、次の瞬間、走り始めた。

「こっち」

「おい、この子――」

「私は大丈夫です。犯人を、捕まえてください」

 困惑した。大丈夫ですと根拠もなくこの少女は言い放ったが、この廊下は森田の術式で成り立っている。森田を追いかけて、この子を異空間に放置しておけるはずがない。

「こゆり。森田はいい。放っておけ」

「でも――」

「俺たちの仕事じゃあ無い」

 捜査するだけ。調査するだけ。

 弓張三千代は断念した。これは英断である。

 人の命を、まともに救えた数少ない功績を手放す訳にはいかないのだ。

「おしり触るなっ!」

「触ってないっ!」

 こゆりに噛みつかれそうになったが、手放すわけにはいかない。


「ああ、ああ」

 朦朧とした意識と、止めようのない吐き気に襲われ、男は階段を上がっていた。

 四百メートル超の高層建築物において、滅多に階段を使おうという輩はいない。

 階段中途に幾度か嘔吐を繰り返し、ひたすら上った。

 じゃらじゃらと鬱陶しいことこの上ない手枷が、手すりを掴む手を酷く痛める。

 扉が見える。

 誰も通らない真っ白な階段に、最上の扉が見える。

 そこを開ければ、きっと待っている――


「よう。待ってたよ」

 

 殺風景な屋上。機能性を求めただけで、ビル空調システムの排熱機構が郡立する場所で。

 タバコを咥えた男が、怠そうに物干し竿の様な長い白の棒を抱え、軽く手を挙げて森田繁之を迎えた。

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