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夜の闇を怖いと感じるのは元来、人の時間ではないと知っているからだ。それが誰の時間かなど、いまさら人が知るべきではない――
日が陰り、既に帳は神社の敷地いっぱいに広がっていた。
それでもまだ肉眼で、淡い青闇の中に人を判別できるのは、しっかりと自分の無意識が目を動かしているからだ。
「わたくし、そんなに怖い顔で睨まれるような事はしてませんよ。お兄様の為を思って、ただ集まって貰っただけですし」
八月の十九日。まだまだ夏日を平然と超え、真夏日も余裕で届く暑い日々が続く東都の端にあって、山奥の神社に凪いだ風は冷たかった。
吹いた風に揺れる防風林の木々は、葉を鳴らす事はなかった。暗がりに何かが蠢いている。
「本当にそれだけか」
ホウジンがおそらく弓を引き絞り、構えたままの態勢で問うたのだろう。村山は真珠を見据えたまま、その場から動くことが出来なかった。
「いやですねぇ。わたくし、隠したり見張ったりするのが専門なんです。戦うのは誰か別の方がやってくれますよ。それに、わたくしが襲ってどうにか出来るならずっと前にやっていますよ」
暗がりにあって、真珠の顔が見えない。何時か初めて会った時のように、暗い場所で真珠を認識する行為そのものが難しい。目の前に居るはずだが、黒いドレスが見えていてもどれだけ離れた距離に居るのか目測が出来ない。
不敵な笑み。それが暗闇の中に感じられる全てだった。
「わたくしは、お兄様に名前を頂いてから身も心も全てお兄様のモノですよ。ふへへっ」
場の空気をぶち壊す様ないやらしい笑い声が聞こえ、正直、気を張っていて無駄に疲れた。未だに真珠が何者か解っていないのだから、気を付けるべき対象であるにも関わらず、どうして簡単に真珠の前で気勢を流転しているのか自分でも解らないが、殺す気があるのならば村山の自宅に上げた時点で事は済まされるはずだ。
「どうやって結界式を抜けた」
「むー。やっぱりあのおじいさんは苦手です。抜けたんじゃなくて、わたくしが起点なので、わたくしを敷地内に入れた時点で出入り自由ですよ」
「……そうか、壊した訳ではないのだな」
「はい、壊したのは――」
言葉を止めると、真珠は暗闇の中からすっと、白い手を出して指し示した。
「アレですよ」
真珠の指し示す右方向。真珠と対面にいた村山からは左手方向だが、社殿正面の石段、そこから揺れる黒が見えた。どういう手段かは知らないが、ホウジンが撃退したはずのものが石段を登ってきた。
「アレ、何っ! だからなんなのっ」
「さあ、わたくしも知りません。わたくしに似ては居ますけど、中途半端ですね」
「神になり損なったモノだ。元々は人間だろうが、既にアレは人ではない。ただの死人だ」
村山の後ろからホウジンが、『アレ』と村山が怯え指すモノの正体を答えた。元は人間だというのは解る。なんたって遠目から暗がりで見れば人間の形をしているのだから、ただ近づいてきて、明るい場所で間近で見れば『アレ』は死んでいるのだと解る。
いつか誰かさんに見せて貰った死体が――遺体が動くというものとは、恐怖感やそれに対する心持ちが大きく違う。その何とも言えない感情は、腹からせり上がる酸っぱい昼食から来るモノではなく、本能的な、人間に備わる嫌悪感から来るモノだと、ようやっと村山は自覚した。
「あの、どうするんです。アレ」
「無論、打ち払う」
真珠に向けていた矢を番えていない弓を『アレ』に差し向けた。百五十センチ程はありそうな弓がきりきりと音を立ててたわみ、暗闇に斜陽を受けた弦が一瞬、光る。
次の瞬間、矢を番えぬ弓から、何かを放つ弦の声。
差し向けた先に居た集団の先頭。その一人――一つの『アレ』その頭が突然、音もなく炸裂するように砕け散った。
「――。 あの、今、何を……」
聞き訪ねてみたがホウジンには反応はない。『アレ』が、腐った歩く遺体の群れが石段を上がりきり、先頭の崩れ落ちたそれを避けて『アレ』は布陣した。
「話している暇は無いっ」
弓を引き、空を射る。正面に据えた『アレ』の頭が弾け飛び、次に「射られた」モノは胴が真っ二つに折れて弾け飛んだ。どういう力で弾け飛んでいるのか。おそらく上司や周りの人間達が曰く、魔法というヤツなのだろうが、弓を用いる意味があるのかどうか。
ホウジンが弓を引いて空を射る事によって石段から登り来る群れを撃退していたものの、弓一本では限界があるらしい。
村山の見た限り、一度弓を引いて空を射る度に『アレ』が一体が弾け飛ぶ。それは『アレ』を相手にするにはあまりにも遅い。わらわらと石段を上がって来るのは、先に村山が逃げた時の数よりも遙かに多く、どれだけの人間が『アレ』として群がっているのか解らない程の数だった。暗がりの中から『アレ』の数を把握できる人間はここに居ないだろう。
「くっ――」
引き絞った弦を放ち、また親指の付け根で弦を引く。暗がりからでも解るのだが、ホウジンが弓を構え、弦を引き絞る度に相当な力を要しているのだろう。呼吸が一瞬止まるように、動きの全てを止め、見えぬ何かを弾く。
徐々に『アレ』の頭数は減っていき、群れの足下に転がってその遅々たる歩みを妨げてはいるのだが、残念なことに圧倒的に『アレ』の数が多い。
ホウジンが二十を射貫いたところで、後詰めらしき陰が石段をせり上がってくる。
村山は既に腰から拳銃を取り出し、『アレ』の大群に差し向けているのだが、引き金に指をかけることすら躊躇っていた。
「元は人間……」
死んでいても、遺体であろうとも、滝川まりねは、上司の一人は人として扱えと言っていたのだ。『アレ』も元は人間で、法解釈的には死体となるが、『アレ』を損壊することはそれに抵触するのではないか。
構えは半身。左肩を前に、右肩を少々引いて、右手に拳銃を深く握り込み、その上から左手で包むように握る。警察学校で正式に習った撃ち方ではないが、構える動作の一つとして学んでいたモノを選んで、こういう構え方になった。正直、うろ覚えの見様見真似だが。警察学校で習った一般的な構え方だという、肩幅まで両足を広げて正面に銃を構えるよりは動き易いはずである。
村山がその体勢を取った理由は二つ。一つは目の前の『アレ』に対応し、いつでもその場から動き出せるように、もう一つは半身の状態で真珠を視界の端に捉え続けるためだ。
この状況下にあって、更にホウジンとの会話でやはり真珠は得体の知れないモノの側であると今一度確認したのだから、真珠を警戒対象の一つに数えるべきだと判断したため。
そんな対象である真珠が、
「お兄様にはなるべく危険な目には遭わないで欲しいんですよ?」
白い指と腕だけが、すっと真珠の正面に指を立てて伸ばされた。唇に人差し指を当てているらしいが、肝心の顔が暗がりの中で見えない。見えるのは、白い腕だけ。
「そ、それで。俺が撃たなかったとして、どうにかなると思う?」
「う~ん、あのおじいさんも結構ヤバめですからねー」
尋ねたのはこちらだが、その答えが曖昧だった。撃って『アレ』がこちらに来ることを忌避している言動だが、ホウジンが危険な状態に陥れば必然的にこちらも危ないのだ。ホウジンを囮にしようとも、結局解決策はない。この状況ならば「助けない」という選択肢は無意味だ。
『アレ』に向けた銃口が、突破口を開くのだと握る村山に主張する。
警察官になったのは、誰かに言われたからではない。公務員になれと、安定した職種を選び、ごく当たり前の人生を生きろと親に言われたのは確かだ。確かだが、その言葉に反旗を翻したのも確かだ。安定した、起伏のある人生を歩むのだと、自分に期待した。
そして目の前にあるのは、自分で選んだ道の途中にあるモノだ。
玉の、白石が踏み鳴く。
重心を下げ、腰に深く自分の意識を置いて、握りしめた拳銃を『アレ』に据えた。
ホウジンが放つ空を射る一撃で村山が見据える群れの一体が弾け飛んだが、石段から上がり切った群れが、既に村山達のいる社殿に向かって移動し始めていた。
自分の身を守るだけの能力に事欠いているが、警察官だの大人だの言っている場合ですらない。
村山はただ、申し訳ないという気持ちを殺すために、引き金を引いた。
屋内で上司に囃し立てられてひいた引き金とは違う。撃った瞬間、腕を衝撃が伝い、玉石の足下が揺らぐ感覚を覚えた。
村山は一度ならず、二度、三度と連続して引き金を引く。
迷った末の判断にしては、あまりにも自分が的確な動きをしたのだと、客観的に捉えていた。
弾丸が当たった箇所がえぐれ、浅く弾け飛ぶ様を見た瞬間、村山はほぼ無意識のうちに再び引き金を引くことを決断した。それを一番冷めた目で見ていたのは、客観的と捉えた自分だろう。
村山の後ろで玉石がじゃりじゃりと音を立てて踏みしだかれる。真珠が村山の銃撃に気負い、すさったらしい。更に一定の間隔で空を射ていたホウジンの一矢が遅れた。こちらも思うところがあったらしいが、村山にはそれらに一瞬たりとも気を削がれる事などなかった。
村山自身が、己の行いを一番不思議に見ていたはずだが、撃たなければならない方向へ無意識に腕を差し向け、銃が発光と硝煙の臭いを生み出し続ける。
引き金を引いているのは自分だが、引いているのか、引かされているのか。
おそらく、この拳銃は『アレ』の群れを一掃しない限り村山の手から離れてはくれないだろう。そんな、酷く他人事のような感想が脳裏をよぎっていた。
連続して発砲を続けると流石に熱くなる。そもそも銃が熱くなるだけの連射など、普通の銃では出来るはずがない。マガジンが、弾倉が延長して長くなっていれば別だろうが、生憎と村山の手のひらに収まる程度の、ごく一般的なオートマチック用の弾倉を有しているだけである。
幾体か撃ったところで、後ろの社殿に居るホウジンの射線上に立たないよう動きつつ、『アレ』への攻撃位置を確保する。歩いて移動したのだが、踏みしだいたのは玉の石だけである。自分が撃ったはずの薬莢が見当たらない。玉石の間に埋もれて消えていったわけではなく、目の前で薬莢が排出されて地面に落ちた瞬間、金属音を響かせて虚空に消える。
まさに魔法のような銃だった。
いくらでも撃てて、薬莢が送る足を邪魔しない。大挙して押し寄せた『アレ』への対処に自分が役に立つとは思わなかったが、まさか魔法のような銃で戦えるとは思っても……
「あれ――」
『アレ』の大群が倒れて黒い塊を形成している場所を見ていたはずだが、村山は膝から崩れ落ち、玉の石へ顔面から突っ伏していた。
「あの……え、おれ……」
「あー、お兄様、無計画に使いすぎですよぉ」
真っ黒い陰のような物が近づいてきて、そこから白い手がぬっと出てくると、指一本を伸ばして村山の頬をついついとつつき始めた。
「うふふー、やりたい放題ですよー」
「やめ、やめて……」
急に血圧が下がったような、貧血を起こしたような感覚を覚えたかと思うと、その症状に抗う暇もなく真正面から突っ伏した。あの感覚がなんなのか良く解らなかったのだが、真珠が言う使いすぎとはやはり右手にまだ残る、この拳銃のことだろう。
突っ伏したまま顔だけ横に向けて真珠の方や『アレ』の群れを見る。数は減ったものの『アレ』は気勢を削がれるなどと言うことはないらしい。一緒にいるのは仲間ではなく、ただ足下に転がる邪魔な物程度にしか感じていないのか、それとも全く何も感じていないのか。足蹴にし、柔らかい部分を踏み抜き、堅い部分を踏み砕く。
目標に向かう際、当たる物全てが邪魔な障害物らしい。
「……」
目に見えてホウジンの射撃頻度が下がっていた。
『アレ』の数が減らなくなり始めたのだ。アレの数は残り数える程だと見えるのに、全く動けなくなった村山と、空を射ることの無くなったホウジン。両者共に、なにやら気力を使い果たしたらしい。
「あー、真珠。どうにかならないの……」
「わたくし、戦えないって云ったじゃないですかー」
暗がりの中で真珠を直視することは出来ないが、ふくれっ面で村山の頬をつついているに違いない。
この状況は非常にまずい。誰であろうとそう思うだろうに、うふふと笑いを漏らしながら真珠は執拗に頬をつつきまわし、一向に取り合わない。打開できるのはもう真珠くらいしか村山には思い当たらないのだが、当の本人は何が面白いのか執拗に頬をつつきまわすのを止めない。
「どーしても、わたくしの助けが必要ですか?」
全く止める気がないらしく、喋っていても執拗に突き回してくる。村山の頬は親の敵かとでも言うような執拗さに、流石に苛立ちを覚える。
「ひちゅよーなんだけどその前にやめろ、にゃめりょっ」
ぐりぐりと爪先を立てて抉ってくる。これが楽しいのかどうか本人にしか解らないが、痛い上に喋りづらい事この上ない。
「本当にわたくしには無理ですよ?」
「じゃあ聞くなにょ……」
数が減ってにじり寄る速度が速くなったらしい。『アレ』は村山には目もくれず、社殿を目指して直進していた。ホウジンの方を直接伺うことは出来ないが、『アレ』が立ち止まることなく進むところを見ると、村山のように疲弊しきっているのかも知れない。
これは、自分の判断ミスによる結果か。それとも、得体の知れないモノを相手にした故の結果か。そのどちらでも、村山の脳裏には警察官としての矜持の死があった。
なにも守れずに、何も掴めずに潰えるのかと――
【アー、アー】
カラスの声がする。
防風林の中から一斉に騒ぎ立て、何かの訪れにでも警戒するように境内中に声が響いた。村山は首を動かすだけの力も無く、眼球だけが辛うじて林の中を捉えた。
「なに……」
「……」
真珠も呆気にとられたのか、頬から人差し指が外れ、喋りかけた村山の口の中にえらく乱暴に突っ込まれていた。
「あほ、ばび……」
「ちょ、ちょっとお兄様、そんな積極的に――」
はっとなって我に返り、すぐに妄言である。明らかに動揺していたように感じるが、本人はこの妄言で隠せていると思っているらしい。暗がりの中に真珠の顔が見えないが、絶対に赤い顔をして必死になって否定しているに違いない。
寝転がっていてもどうしようもないのだから、先ほどから動かせる場所を動かして起き上がろうとするも虚脱感のような、酷く気疲れしたような感覚で、肉体的な疲労よりも精神的な要因で起き上がれないような感覚である。村山本人としてはなんとか起き上がって事の子細を掴もうとは思っているのだが、体の方が言うことがを聞かない。
いくら疲労を覚えたからと言って、ここまで体が言うことを聞かなかったことなど一度たりとも無かったのだ。これで焦らないはずがない。
眼球だけが、無情にも『アレ』が境内を進行していく様を追うことを許されていた。
ホウジンがどうなるのか、腐りかけた人体でどういう事が出来るのか。それらを想像することすら及ばない……
村山の無力が、目の前で一歩一歩と歩みを進めていたのだが、
「――っ」
耳をつんざくような甲高い音が聞こえ、何かが真上から『アレ』の只中に落下してきた。金属製の刃物が金属製の板を引っ掻いたような嫌な音だったのだが、そんな事はどうでも良い。
村山の眼球が深い陰の中に、銀色に輝く西洋甲冑を捉えた。あれは、何だ。
「……真珠、何アレ」
「知りませんよ。それよりわたくしの指をぺろぺろしたんですから、今度は直接お口にですね――」
下らないことを言い出して、自分は知ったことではないと関係のない行動に移ろうとするのだが、さっきの動揺の原因はあの甲冑だろう。
「どっちっ! 敵なのっ! 味方なのっ!」
「ですから、わたくしは知りませんよぉ。それより足を舐めてですね――」
真珠が村山の顔面に白い足をぐいぐいと押しつけ始めた。いつぞエナメルの黒い靴を履いているのを見た気がするが、その靴まで脱いで暗闇の中から白い足を出して押しつけてくるのだから、この状況を理解しているのかと村山が怒りそうになったところで甲冑が動いた。
落ちてきてから片膝を着いたまま動かなかった甲冑が急にすくと立ち上がり、村山からは見えなかった右手に、長いものを持っているのが見えた。千年前の骨董である拳銃を持っている自分がそれを評して良い物だろうかと思われるのだが、村山にはどこからどうみてもそれが槍に見えた。
甲冑が、すっと長物を正面、社殿に構えたのを認識した瞬間だった。
この世の音か。
空気の振動が自分の耳に良く解らない音を伝えている。それが幻聴であればまだ精神衛生上マシだったろうが、生憎と眼球が辛うじて追いかける甲冑の動きは音を出すには打って付けの動作を見せていた。
槍が『アレ』の群れ、その中央で振るわれ、暴風惨禍のような地獄絵図を描き始めたのである。元は人間で、肉は腐っていようも骨はまだ健在である。その骨が薙いだ槍の穂先に触れ、卵の殻が割れ飛ぶように炸裂していた。先ほどからホウジンが行っていた空を射るようなモノでも、体の一部が弾け飛ぶ位には威力があったのだが、目の前に突然現れた甲冑が振るう槍はホウジンのそれを軽く上回る暴威だった。
「みかた……で、いいの?」
「しりませんよー。わたくしあの人も嫌いですし。わたくしの敵です、ぶっ殺しちゃってくださいお兄様」
「あれ相手に銃って通用するの……?」
「たぶん打ち返して来ますよ。無理ですねー」
さらっと、とんでもないことを言い出すのだが、真珠が嫌う相手で、槍を使うのは村山の心当たりには一人しかいるまい。
振るわれた槍のお陰で半分腐ったような肉片が村山と真珠の方へ吹き飛んでくるのだが、残念なことに村山にはどうすることも出来ない。真珠に良いようにされているのがその証明で、村山の虚脱しきった体では玉の石が目の前にどれくらいあるのか数えるくらいが村山に出来うる仕事である。既に十個数えた辺りで嫌になっていた。
神社の石段を上がりきった辺りにまだ原型を留める遺体が転がり、境内の中央部分には原型を留めないナニかが複数転がり、そのナニかの中央には槍を携えた甲冑が一つ。
ここはまかり間違っても終末の日、解き放たれた災厄が集う場所ではない。ドレスコードがあり、皆、甲冑を着込んで来いなどという妄言は、誰もが吐かなかったのだから村山がスーツ姿で玉の石を敷いた場所に転がり、少女に足蹴されていても誰も文句は言うまい。
ものの数十秒で、残りの『アレ』は片付いた。物理的には酷く散らかったが。
「……」
「ご用命により馳せ参じた次第だ」
「……ご助力感謝致します」
聞き覚えのある声が二つ。渋く低い声の、目のいっちゃったおまわりさん――デルシェリムの声と、先ほどから空を射ることの無くなったホウジンの声である。
デルシェリムの声はくぐもった感じの声ではなく、何物にも阻害されず、普通の声色として聞こえる。いつぞのおまわりさんもくぐもった声ではなく、自然に聞こえていたので、甲冑を着ていたとしても普通に喋ることが出来るのだろうと思っていたのだが……
「それにしても、ずいぶんとまあ酷いモノだ」
「え……」
自分の左、天空の方から声をかけられて村山は驚いた。デルシェリムが村山の頭近くに立っていたのである。石が踏み鳴ることもなく、人としての圧迫感や熱量を全く感じなかったのに、だ。
デルシェリムが突然村山のそばに現れた事に最も驚いたのは本人ではない。
「うひょわあああっ」
じゃりじゃりと石を踏みならして走る音が聞こえる。真珠だろうが、途中ざざっと激しい音の後、一切音がしなくなった。たぶん、転んだ。
甲冑は未だ槍を携えて、社殿を向いて佇んでいる。あの様式が正しい参拝方法だとは死んでも思うまいが。
ホウジンからの礼を受けたのはデルシェリムだろうが、実際に戦ったのはあの甲冑だ。と言うことはあの甲冑はデルシェリムのモノだろう。中に人が入っていないと思えるのは、なんとなく周りの人間や人間以外に毒されてきているからだ。
「う、動けないんですよ」
「それはそうだろう。死ぬ一歩手前だからな」
「死ぬって――」
「大方、その銃を撃つのが愉しくなって撃ちすぎたのだろう?」
撃ちすぎた、というようなことを真珠にも言われた気がするが、楽しんでいた覚えなど一切無い。どちらかというとこれしか思いつかない、仕方ないのだという思いで撃っていたはずだ。それを楽しいなどと――
「己が自覚できるモノだけを愉しいとは云わない」
「……」
無意識に、銃撃を楽しんでいたのだと言われた。倒れるまで気がつかなかったのだ、体調の異変に。これでは反論できないではないか。動かない体が、未だ握りしめたままになっている拳銃だ、自分が真に何を求めているのか、それを知るのが恐ろしい。
「少しそこで頭を冷やしていると良い」
「……」
助けてくれる……などという事はないらしい。自業自得だとでも言われた気分だ。実際使いすぎでこうなったというのが真珠やデルシェリムの言なのだから、村山は黙って言うとおりにするしかない。
じゃりじゃりと石を踏む音が聞こえた。
「陣を敷き直すので、母屋に上がって休んで居てください。後ほどお礼の程を」
「了解した」
未だ蒸し暑い八月の中頃にあって、デルシェリムはコートを着ていた。じゃりじゃりと玉石を踏みならして去っていくに、一切村山の事など気にかけるなどないらしい。
「ひっ」
真珠の横を通り過ぎていったらしく、相当嫌われているのか、小さな悲鳴を上げられていた。助けて貰ったのだからそういう反応はやめてくれと。
「助かった、礼を云う。だが、あまりにも無鉄砲すぎる」
「は、はぁ……」
一応、お礼のようなモノはされたのだが、やはりホウジンにも軽く怒られた。無意識のうちに行っていた事が彼らにはこれは相当、耐えかねるらしい。先ほどのデルシェリムの言葉から察するに、自殺しようとしたくらいには己の行動が危ういモノだったに違いない。
「ここに寝ていても辛かろう。運んで――」
ホウジンに介抱され、抱えて貰う段に入った瞬間、むっと声を上げてホウジンが動きを止めた。
「あの、身長は高くないですけど。自分は結構重いので――」
「そ、その様だ……」
流石に高齢の、上司の父に抱えて貰えるほど村山は軽くない。大学時代、水球のアタリを強くしようと体重を上げるために筋肉をかなり付けていて、それは警察官として役に立つのだからと常に気をつけて維持してきたのである。ご老体では流石に無理だろう。
「え、なにしてんの。きもちわるい」
石段の方から聞き慣れた声が聞こえた。しゃくしゃく右手の青色アイスを咀嚼しながら、左手にビニール袋を携えた上司が帰ってきていた。
「あの、動けなくなっちゃって……」
村山とホウジンのそばまで歩み寄ってきていきなり核心を突いた。
「ほーん。調子乗って撃ちすぎたか?」
「……良く解りますね」
得体の知れないモノに襲われて負傷した可能性を、当たり前の様に排除できる理由が解らない。それは単純、実家に残してきたから大丈夫だとでもいう意味だろうか。そうだとしたら実際に当たっている様な気がしないでもないが、ホウジンさんが万能ではない事を知っていそうな上司が、それだけで無責任な納得などしないとも思える。
「あの人来てるなら大丈夫だろ」
「あの人って……デルシェリムさんが来るの解ってたんですか」
「解ってたって云うか、さっき来てるのに気づいた。ほれ」
そう言って半分食べかけのアイスの棒を差し向ける。そこには槍を携えたまま棒立ちしている甲冑があった。
「あれが動いてたら嫌でも解るってーの」
どうして嫌でも良く解るのか村山には理解できないが、上司の中では当たり前らしい。
石段を登り、滝川とタヌキ娘も現れた。
「う……」
「ちょっと、この子達どうしたのよ」
タヌキ娘は上るなり口元を着物の袖で隠して嫌な顔をするし、対して滝川は嫌な顔一つせず、足下に転がっていた遺体を早速いじり回している。滝川の特殊な状況に対する順応は有る意味流石だろう。
「あの、蛭ヶ谷さんは」
「死んだ」
「んだとぉっ! てめっ、いい加減な事云ってんなっ」
まさにあうんの呼吸である。それにしても姿が見えず、村山は青の深くなった天を仰いで姿を探した。飛んでいったのだから飛んで帰ってくるものだと思い込んでいた。そもそも一緒に出て行った訳でもないのに、どこで合流したのか。
大声は聞こえたものの、一向に姿が見えない。どうしたものかと多少なり動くようになった首を向けて辺りを探すと、石段の方から蛭ヶ谷がのろのろと上ってきた。
「おい、怪我人にこの石段は無理だろ。誰か手伝えよ」
のろのろと上ってきた理由は松葉杖を突いて、右肩にスポーツバッグまで負って一段一段上っているからだった。神社の石段は丁寧に削られた石ではなく、自然に出来た凹凸面を生かした石段である。それを手伝い無しで上がってきたのだとしたら蛭ヶ谷も結構大丈夫そうだが……
「おい、そこのねーちゃん。いきなり放置すんのは流石にねーだろ。怪我人よりも死体が大事なのかよ」
「はあっ! ご遺体よ、何ふざけた事云ってんのよ。突き落とすわよ」
「す、すみません…… なあ、そういう人なの?」
「あたちに訊かないでよ……」
よたよたと石段を上がりきった蛭ヶ谷の目の前には、遺体をじっくりと眺め、ひっくり返す滝川が居て、それを冷めた目で見るタヌキ娘。蛭ヶ谷に優しい言葉をかける人間は居ない。
「いつ合流したんですか。連絡があるなら警視にあるものと思って訊いただけなんですけど」
「いやあ、知らないな。合流なんてしてないぞ」
「くっだらねぇ嘘つくなよ、居るだろ俺っ」
蛭ヶ谷はなにか長い鞄のようなものを背負っていて、更に左足を負傷したらしく松葉杖で労るように近づいてくるのだが、玉石の敷き詰められた場所では少々難儀するらしい。
「……武器頼んだら予想よりも早く用意してくれたから、病院で合流したんだよ」
「はあ、そうですか。その、足はどうしたんですか」
「ああ、病院で――」
「死んだ」
「んでねぇよっ! 居るだろっ! 喋ってるしっぃ! 足もくっついてるしっぃ! ったく……青い野郎に襲われたんだ」
「青い野郎? 犬じゃあ無いんですか?」
真っ青な人間を想像して、明らかにおかしいだろうと想像をかき消した。
「犬にも変身できる野郎だ。お前等が車で襲われたっていうのと同じヤツだろう」
あの車と同じくらいの大きさの犬が病院内で暴れ回って怪我をしたらしい。普通にアイスを咀嚼している上司は無事だろうし、滝川やタヌキ娘もこれといって負傷しているようには見えない。
犬にも変身できると言うのは……タヌキ娘を見ていれば、もう突っ込む気力もない。
「他の方は怪我を――」
「お前はアホか、自分の状況解ってて云ってるのか」
上司が食べ終えたアイスの棒を咥えたまま、がすがすと村山の脇腹を蹴り始める。蹴られる瞬間、蹴られるものだと身構えたのだが、音は派手にすれど、あまり痛くなかった。
「あの……」
「結構強めに蹴ってるんだよ。痛くないってんだろ」
「……はい」
「どうヤバイか解ったか?」
具体的にどうヤバイのか本当のところ良く解っては居ないのだが、上司が強く蹴っていると言うのだから、それは相当強く蹴っているのだろう。痛覚が殆ど機能していないと言うことは、自覚症状のないまま危険な状態にあるという事だ。
見覚えのある革靴ががすがすと未だ脇腹を蹴っていた。
「おい、真珠。寝転がってないでこいつ家まで運べ。後は好きにしていいから」
玉石が急にじゃりじゃりと音を立てて踏まれているらしい。暗がりから音が近づいてきて、既に暗くなった境内よりも、深淵の黒を見せていた。
「そ、それは本当でしょうか、けいし様」
「ほんと、ほんと」
「うひっ……うおっほん。わたくし、けいし様の命令なのですいこーします」
白い腕がぬっと暗がりから伸びてきて、村山の胴をむんずと両の腕で抱えると、暗がりの真上に担ぎ上げられた。人の家のドアを、鉄扉をたわませるだけの力は、大の大人一人を担げるほどなのかと。それより、それだけ力があるのなら戦ってくれ。
「うひひっ、うひひひひっ」
「……」
暗がりの中に顔が見えないが、おそらくこの世のものとは思えない様な、汚い笑顔が浮かんでいるに違いない。
「この子達、第一警察署の検視室に居た子よ」
「んあ?」
闇の人さらいが意気揚々と村山を担いで去った後、残った人間は状況の整理と分析に当たっていた。
「見覚え有るもの、このおっぱいの横のほくろ」
「……どんな覚え方だよ」
遺体の殆どが女性だった。それは一見して弓張にも理解できたのだが、遺体の一個人まで把握はしていない。係が違うからであるが、係が違ってもそこにほぼ常駐している人間なら個人の特定は可能である。
屈んでいじり回していた滝川の横へ弓張が歩み寄り、腐敗した遺体を睥睨した。
「あのマンションの部屋から運び込んだ遺体か」
「そうよ。まだ歯科治療跡からの照会途中だったから身元が分からないけど、この子あのマンションに居た子よ」
「どうしてこんなに腐ってる? 幾ら暑いからって腐るの早くないか」
「そうね」
かっかじゃりじゃりともう一つ、彼らの近くへ音が歩み寄った。
「その死体だけどよ――」
「ご遺体ですっ」
更にもう一つの音。玉石を踏んで寄る。
「海水を触媒に式が組んである」
「……方陣さん、俺の台詞をですね」
「おお、すまんね。蛭ヶ谷君」
「あ、海水でか?」
素っ気ない訊き方で、息子は父の評を質す。
「解らないのか。血中の塩分濃度よりも遙かに多い塩分で無理矢生体電気信号を掌握している。ただこれに高度な命令をすり込むとなると――」
「お前、わかんなかったの? 神社の息子なのに?」
蛭ヶ谷が鼻の穴を広げ、バカにした風で偉そうに云うモノだから、やはり弓張は苛立ちを覚えた。
「るっせーな、得手不得手は誰にでもあるだろ」
「おとーさまは解ってたみたいだけど、そのへんどーなの」
「もう一本の足もへし折るぞ」
「んだと――」
「ちょっと、あんたたち止めなさいよご遺体の前で」
「大人げない行動は慎め」
いがみ合って面付き合わせる大の男二人を見ながら、呆れた風なのは何もいい歳した二人だけではない。
「にぃさま、さすがにあたちもどうかと思うのよね」
「「……」」
それで十分だった。
「海水を触媒にご遺体を動かしていたから、蒸し暑い東都で腐食が早まったって事ですか」
「生きている細胞ではないからな、遺体の動きに合わせて発生する熱量に寄っても腐食が進んだのだろう。これらの前に斥候が来たのだが、撃ち抜いたそれは泡のようなものになって消えたからな」
「泡? 人魚かってーの」
「好きな人でも居たのかしら」
そう言っているそばから、境内中腹にあった肉片は泡のようなものになって徐々に消えていた。中央に未だ突っ立っている甲冑を引き立たせるための演出装置だとでも思えれば良かったのだが、生憎と原型を知っているので気味が悪い。
「……波の花か」
「あー、あのプランクトンで出来るヤツか」
親子そろって合点がいったらしいが、他の三人はどうにも解らないらしい。
「でもこれは泡にならないな」
「これじゃなくて、このご遺体だから。蛭ヶ谷君はいい加減覚えて」
「……す、すんません」
怒られている蛭ヶ谷を見て、一人ご満悦が居る。
「村山が撃ったヤツは泡にならないみたいだがな」
「あのよ、ここで喋ってないで中入ろうぜ。俺が疲れる。それに方陣さんだって陣、張り直すんですよね?」
「あ、ああ。そうだな、そうしよう」
方陣は社殿へ向かい、他四人は母屋へ向かうことにした。
なにか、彼女たちを覆い隠してやるものも必要だから、と。
既に日が落ちて暗くなった境内。
暗闇の中、銀色の西洋甲冑がただ彼女らを守護していた。




