表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/25

19

 他サイトにも重複投稿。


 籠目籠目、籠の中の鳥は、いついつ眠やる。夜開けぬ番人、鶴と亀が統べた。後ろの正面な――

 正直、残された側は暇で仕方がない。

「むふふー、うふふー。へっ、へへっ」

 あの朝食を取った広間であぐらをかいて座っているのだが、真珠がごろごろと転がりながらまとわりついてくる。行きがけの弓張の言葉に乗っ取って『シャレにならねー』事はしないらしいが、さっきから甘ったるい声を出して体中にすり寄ってくるのが鬱陶しいことこの上ない。

 この子のお守りをしているだけで警察官としての務めが果たせるはずがない。まして、得体の知れない犬や、身元不明の三島なる男に恐怖して、上司の実家で庇護される立場である。これでは我が身かわいさにただ隠れているだけではないのか。

「お兄様は、何か良からぬ事を考えていませんか?」

 先ほどから人の胴に抱きついてきていた真珠が仰向けに体勢を変え、真顔で見上げてきた。その真顔が、なんとなく恐ろしく見えた。

「良からぬ事って――」

「例えば――」

「例えば?」

「誰かを助けようとか」

「……俺がどうやって、誰を助けるの?」

 にっと笑ってそれもそうですね、なんて。

 これでも一応警察官なのだから、人助けの一つや二つさせて貰っても良いのに、真珠に言わせれば自分には人を助ける資格が無いらしい。それに対して、自分の能力を悲観したような発言をしたのもまた自分なのだから、真珠を引き合いに出して正当化しようなんて言う方がおかしいのもまた事実だ。

 真珠の顔を真上からのぞき込んでいると、彼女の瞳の色が良く解らなくなる。

 おかしい。

 何かがおかしい。

 広い座敷に居るはずなのに、自分と、真珠とがいる場所しか空間として認識できない。

 あの時だ。初めて真珠に会ったあの――


「君は――」

「――っ」

 話しかけられ、我に返った。

 どれだけ惚けていたのかは解らないが、真珠が俺のあぐらの上に丸まって寝息を立てるほどには心はここに無かったらしい。

「君は、何を見てもどんなことがあろうも、魔法や魔術などと云うモノを懐疑的に捉えるのだろうな」

 話しかけてきたのは家に居るとあらかじめ上司に言われていた人物の一人。この家の家主である、弓張ホウジンだった。

「懐疑的、と云いますかその……」

「実、身近すぎて今更どう応えていいやら困ると云ったところか」

「身近? 自分が、ですか」

 ぶたっ鼻の様に寝息が詰まって真珠が「ふがっ」と鳴った事に少々驚いたが、ホウジンの言うことの意味が全くわからず、当惑するばかりである。

「君の存在は我々からすれば異常だ」

「異常…… 俺――自分が、ですか」

「自覚がないと……そうか、それで、アレは放って置けないと思うたのやもしれんな」

 遠い目で何に思いを馳せているのか。そんなもの、同じ目つきで同じように考え事している人のことだと嫌でも解るのだが、どうにもこの親子が確執だと思っているモノは、実は単なるすれ違いではないのか。同族嫌悪が、本当に同族で行われているだけの様な気がしないでもないのだが……

「あの、自分のことならなおさら知っておくべきだと思うので、ホウジンさんが解る範囲で、自分のこと、教えて貰えませんか」

 意外なものでも見るように、向こう側を見ていた目が此方へ向いてきた。

「肯定的には捉えないかと思うていたのだが」

「そういうことを云っても居られない状況下だと思うので、自分に出来ることがもしあるのなら、それを知っておくべきかと――」

 言い終わる寸前、なんともまあ――

「無いだろうな」

 酷く冷めた口調で自覚していた事を改めて言われると、傷つくなあと……

「期待させてしまうのも酷だと思うてな。君には魔法を行えるだけの素質はない」

「はあ……」

 真珠がくるぶしの辺りで頭をぐりぐりと動かしてくるのが痛くてかなわない。

 こんな場所でにやにやしながら口の端から光るモノを垂らして、夢心地でいられるのはある意味で強心臓以外のなにものでもない。

 特別な力があるわけではないのに、ホウジン達からすれば異常とは、どういう意味なのか。その核心部分を訊かねば我が身は振れぬ。

「ただ、使えぬ身ではあるが、私の様な半端者からすれば実に羨ましい限りだ」

「半端者なんて……」

「私はアレに、劣る。生まれながらに持てずして、この身を作った父母を恨みに恨んだこと限りない」

 なんの事だか村山にはさっぱり解らないが、アレとは確実にあの上司のことだろう。あの上司に劣っている部分なんて、偏屈度くらいではないのか。

「君は術者の系譜に生まれていればアレに匹敵する才を得ていたことだろう。君は完全な、純粋で無垢なる白の魔力を宿している。だが、惜しむらくに、君に魔の法を用いる術が無い」

 良く解らないモノの才能なぞ、有ってもなくても構いはしないのだが、ホウジンに言わせると宝の持ち腐れらしい。どういった宝を抱えているのか知ったことではないが、ホウジンに惜しまれ、上司が気にかけて自分をわざわざ雑対係に入れたのではないかと勘ぐるほどなのだから、得体の知れないモノ相手には重要な意味合いを持つのかも知れない。

「ふへっ、だめですよぉ。お兄様……それはえびぷりんですよぉ」

 強心臓さんの夢の中では得体の知れないモノと対峙させられているらしい。それよりも、この子が、真珠が自分にすり寄ってくるのはそのホウジンが惜しいと評したモノが関わっているのだろうか。本人に問うてみたい気がするものの、起こす気にはならない。

 真珠のせいで全く身動きできないが、すぐそばにホウジンがどかりと座り込んだのは驚きだった。それも正に座したわけではなく、片膝を立ててあまりにも楽そうに座ったものだからこその驚きだった。

「アレも、こゆりにそう許していたことが良うあった。私は子らに一度としてそう接したことはない。如何に可愛かろうも、私は弓張の名を繋がねばならん。それだけを支えにしてきたが、よもや――」

 言葉を中途半端なところで切る。それ以降に言葉を繋ごうという気はないらしい。息子の部下相手に余計なことまで喋りすぎたとでも思ってのことだろうと、村山はそう納得しようと思ったのだが。

「アナタはそう、彼の成りを邪魔する気ですか」

 突然、ホウジンが立てていた足をすっと直し、あぐらを掻いて村山の股間を見つめ始めた。止めてくださいなんて言えるはずはないのだが、何を思ってそんな……

「うーん。わたくし、このおじいさん苦手です」

「……起きてたの?」

 にまにま笑いながら村山があぐらを掻いたくるぶしに側頭部をこすりつけていた真珠が、その大きな瞳をゆっくりと開いて、あらぬ場所を呆然と眺めたままそう呟いた。

「そう云われましても……」

 うっすらと笑いを浮かべ、どうしてか真珠に丁寧な言葉を使い始めた。どこか笑っている風は孫娘を見るような、そんな柔和な表情なのだが、どうしても言葉の内容と態度が一致せず、村山には不思議で仕方なかった。

「むー、わたくしはお兄様にモテれば良いのであって、おじいさんは対象外ですよ。ぶっぶーです」

「振られてしもうた」

 柔和な笑顔をたたえたまま、村山に同意を求めるような視線を寄越してきたのだが、これもどう対応すればいいのか。混乱している村山にはこの難題を解ける気がしない。

「は、はあ……」

 白紙で提出することにした。

「あの、それより何で真珠相手にそんなに丁寧な喋り方を?」

「ん。ああ、君の話よりこの方の話を優先すべきだったな」

「うー、お兄様ぁ。わたくし、あまり聴きたくないので離れのお部屋でくんずほぐれ――」

「……」

 前髪が重力に沿って流れ、そこに見える白いおでこをひっぱたいてやった。

「たっ」

「はっはっはっ」

 何がそんなに面白いのか知らないが、真珠の扱いが年相応である事が嬉しいらしい。それは自分が息子達にしてこなかったことを、代償行為のように、見て充足を得ているからかも知れないと勝手に想像したところ。

「神を相手に額を叩くなど、私には畏れ多くて出来んよ」

「は?」

 もう一発叩いてやろうかと思ったのだが、寸前で手が止まった。その手が振り下ろされることを期待してか、堪えるためかは知らないが、両手を小さく拳にしてきゅっと目を瞑る真珠。

 今、ホウジンはなんと言ったのか。

「君はこの方が何モノか解らずに接していたのか。仲むつまじく、本当の兄妹のようだと見えたのだが」

「ちがいますぅー、わたくしはお兄様の昼夜を問わない嫁ですぅー」

「昼夜問わずに無関係だから、俺と真珠は全くの、赤の他人だから」

 未だあぐらを掻いた上に寝転がったまま半眼で睨みつつ、人のくるぶしに後頭部を強く押しつけてくる。痛い、骨の接合部をぐりぐりするな。

「見た目には年端もいかぬ娘に見えるが、人と同じ時間を往く方ではない。私も知らぬが、どこぞの神体であろう?」

 穏やかにホウジンがそう尋ねたのだが、尋ねられた当の本人は、両頬に空気をため込んでふくれっ面である。

 そう言えば、信仰を受けてとか、崇められてとか、上司がそんな様なことを言っていたように思う。本人も、真珠もそんな様な事を……

「どの様な思いや願いを受けたのかは解らぬが、まだまだ年若い神の一柱だろう」

 疑問系ではなく、真珠に対する言は推測や推理に近いものだった。

「み、みんなのアイドル真珠たんですよっ! お兄様っ」

 ウィンクでもしようと思ったのだろうが、寝転がったまま手を顔の横にやって変なポーズを取りつつのまぶたけいれんである。上からのぞき込んでいる側からしてみれば、色々な意味で怖い。

 変な発作を起こしてのけいれんなのか、本当にウィンク出来ずにそうなっているのか解らないのが、怖くて仕方ない。

 それは本人も同じだったようで、

「あるぅえ。め、目がぴくぴくします……」

「カラスだったよね? 鳥ってウィンクするの?」

「うぅ、れんしゅうします」

 変に媚び売る方法は知っているくせに、変なところで不器用なのはどういう事なのかと。

「して、アナタは生まれてどれほどで」

「……じゅ、じゅーはちです」

 ホウジンの方は絶対見ないようにしつつ、眼球を徹底的に反らせて泳がせている。子供以下のごまかし方に違いない。

「見た目も言動もどう考えても十八じゃあないでしょ、真珠」

「わ、わーたくしはぁ……そ、その、きせーたいしょーにならない、れっきとしたレディーですよっ」

 突然起き上がり、すくと立ち上がって腰に手を当て、村山を向いてそう宣言した。

「人間じゃなければそもそも法規制の対象にならないよ。そーか、真珠は俺にうそをつくのかー。しんらいされてないのかなー、きずつくなー」

 上司の言動を参考に煽ってみたのだが、

「うぅ……」

 結構利くらしい。この戦術。

「今、本当のことを云ってくれたら許してあげるんだけ――」

「うそですっ! ごめんなさいっ! わたくし生まれてまだ二年ほど――」

「人間の形してたら本当に人間か、神様か解らないんだから。たぶん規制対象になるけどね」

「わっ、お、お兄様はかりましたねっ!」

 謀ったもなにも、そもそもどういう規制の対象なんだよ。というか変な知識や中途半端に英語も混じった語彙の多様さや、変な言葉遣いは何処でどうやって仕入れてきたのか。カラスだと自称したが、学習意欲と記憶力はやはり鳥類でも名を馳せるほどだと関心はする。が、なにか偏った覚え方はどうにかならないのかと悩んでみたりもする。これは、親心に近いのだろうか。大学を出てすぐに警察官になったが、変におっさん地味て来たのは気のせいだと願いたい。

「はっはっ、本当に、本当に君たちは――」

 大笑いを始めた辺りで、突然ホウジンが呼吸を止めた。一瞬、老齢から来た発作などで倒れるのではと村山が心配したのだが、そう言う訳ではなさそうで。

「……呼んでもいない客のようだ」

「……何かお手伝いできますか」

 また飛びついてきた真珠を押しのけて村山は立ち上がったのだが、村山よりも先に立ち上がったホウジンが手のひらで制す。気遣いも、手出しも無用だと。

「久しく大きなものを相手にはしたことがないが、何。そう大した相手ではないな」

 雑に座り込んだはずだが、浅葱色の着物は着崩れることなど無く、老爺の鋼の背筋に沿って襟を正していた。


 歌を聴いた。鳥のさえずりを。

 管楽器の様な長く、尾を引く高い歌声。

 断続的に聞こえるその歌声は距離を蒙昧とさせる。歌声を聞く者がどこに居るのかと、その問いを投げるような、遠く、長い歌声。自分の居場所を見失う感覚は先に感じたものよりも遙かに実感を伴う。

 立ち上がって畳を踏みしだいていたはずだが、足裏の、藺草の繊維質を喪失するくらいには自分の居場所が不安になる歌声。歌声によって自分の耳があり、聴くことの出来る体があり、訊くことの出来る場所がある。と、理解に至るまで釘付けにされた。

 その音の主が、玉の石を踏むまで、村山は自我を逸失していた。


「――っ」

 腹の辺りからかちゃかちゃと金属音が聞こえた辺りで、村山は異変に気がついた。自分の腰回りを誰かがなで回している。まあ、犯人には心当たりあるが。

「ったあいですよぉ……」

 感覚だけで振り下ろした手刀が頭頂部に「こん」と当たる感覚を得て、村山は己の居る世界に舞い戻った。

 両手で村山の振り下ろした手の平ごと包み込むように抑えている。二発目以降を恐れてのことだろうが、その前にその手に持っているベルトを返せと。

「おい、真珠。ホウジンさんは何処行った」

「ふえ、お外に出て行きましたけど」

 当たり前のように障子を指さして、しらっと自分には無関係であると装っている。

 いいから、その左手に持ったベルトを返せ。

 明らかに自分には『関わる気がない』といった風なのが、村山には異常に気になった。村山行くところ真珠が必ず付いてこようとする、それがどうだろう、ホウジンのところに行って状況確認しようと村山が動き始めると、真珠が両足を放り出すように座り、そっぽを向いていた。

「……ど、どうしたの。ついてこないの?」

「わ、わたくしがどこでもついて行く尻の軽いおんなだとお思いですか」

「尻が軽いとか関係ないけど、一緒に行かないの?」

「お、押して駄目なら引いてみろ作戦、実行中ですっ」

 どういう作戦か知らないが、奪ったベルトを大事そうに両手で隠し押さえたまま村山がホウジンと話をした場所から動こうとはしなかった。

 変にべたべたまとわりついてこないからこそ村山としては心おきなく動けるが、心許ないのは腰である。拳銃をズボンに差し込んだままだが、ベルトを奪われたせいで不安定で仕方ない。しょうがないので右手に持って歩くことにした。

 他の家人に、上司が言っていた中野さんにこれを見られたら大問題だが、それよりもホウジンが『大した相手ではない』と言った事の方が、村山には遙かに大きな問題があるのだと思えて仕方ない。

 襖を開けて廊下を歩き始めると、後方から畳を叩く音が聞こえた。お子様の駄々かと。


 それに、情けをかけるものかと。

 左右に茫々と揺れる陰がある。幾人も連なり、黒い波のようにたゆたう。

 今ここは祭事中の神社ではない。ぞろぞろと山の中腹に位置する神社に参拝のモノが訪れる事などあるはずもない。そもそも、それは人間ではない。

 ヒトの形をした『出来損ない』に、憐憫と安寧を。私はそういう生まれだ。

 正面、石段を時たま踏み外しつつも確実に、着実に上ってくる。『出来損ない』が鳥居をくぐることが出来た事には何の驚きもないが、階段下から標高差七十メートルもの距離をよくも歩いて来られたものだ。途中、何匹か足を踏み外し、脱落して失せてくれるものだと思っていたのだが、屋敷の門の下に立った時より眺め下ろしてやっていたのだが、一つとして逸する事はなかった。蠢く数十の統率を褒めてやるべきか、『出来損ない』であろうとも目的通りに指示を成そうというその出来映えを褒めてやるべきか。

 階段上方よりただ淡々と眺めていた老爺は、一つ笑みを浮かべた。

 先に、羨ましいなどと曰おうとした事に。

 自分が、羨ましいなどと曰うのだから、老いは怖いものだ。いつか見た日を、叶わなかったモノとして投影する。それが私に許されても良いモノだとは到底思えぬ。

 似合いは、この門前である。


 村山が玄関先に出ると、日が傾き始めていた。相当真珠とうたた寝を共にしたらしい。

 玄関で村山は自分の革靴を見ると、中にエビの殻が大量に突っ込まれていていることに気がついた。誰の仕業か何となく見当はついたものの、あえて戻って糾弾しようとは思わなかった。それは思う壺である。戻ってやんややんやと言い合うのは殻を入れたモノの策略に違いなく、流石にタヌキ娘の嫌がらせとは思えない。もしタヌキ娘の嫌がらせならばホウジンが必ず怒るだろう。

 おそらくホウジンも玄関を通って外に出たのだろうが、このエビの異臭に気がつかなかったのだろうか……疑問は残るが。ともかく靴の殻を除去し、外に出て行ったというホウジンを探すために外に出た。

 玄関先で時間経過を感じ入るに、時間がないと知る。この屋敷の周りは高い防風林の様な林が生い茂っていて、陽がもう少し傾いだのならばその背の高い影が辺りを深く濡らしていくのだろう。その前にホウジンを探さねば、あの浅葱色の着物は見えにくくなるはずだ。

 そんな焦りをもって村山は白い玉のような石を踏みしだき、家屋側から神社の社殿の表へと走り出した。

 村山の焦りは大した焦げ付きも成さず、ホウジンの姿はすぐに見つかった。

 他そ彼の時。社殿の真正面、正面の門より社殿へと続く、隙間無く敷き詰められた真っ直ぐな石畳の途中。ちょうど社殿と門の中腹。暗がりに居る見知らぬ人々と対するように、辛うじて日の差す場所にホウジンが立っていたのだが……

 突然、陰闇の中にいる人々が手をホウジンの方に伸ばし、縋りつくように雪崩れ込んだ。

「ちょっ、ホウジンさんその人たちは――」

 声をかけた瞬間、見てはいけないモノを見たような顔をしてホウジンが一瞬だけ目をくれたのだが、そんなものは本当に一瞬で、ホウジンは人々の手から逃れ、一瞬で社の参拝用の石段まで飛んだ。

 跳ねたなどという語ではなく、あの、日中に蛭ヶ谷が空を飛んだように。ホウジンの体が軽々と浮いて後方へ飛んだのである。

「下がっていろっ」

 来てはいけない場所に来てしまったらしく、怒気を孕んだ大声量で村山を留め打った。

 人々が迫り始めた中腹から社殿への距離は二十数メートルと言ったところか、そこから数十人は居そうな人の塊が割れた。一つは正面、勢いそのままにホウジンへ。一つは、一瞬の拍を持って、村山迫り始めた。

 村山と人々との距離はホウジンとそれよりも遠く、三十メートル以上はあるのだが、よたよたと迫ってくる人間の様子がおかしい。首が据わっていない。脳天を左右に揺らし、また前後にまで揺って走っている。これは――

「逃げいっ! 君の手には負えんっ」

「うっ!」

 人々が走ってこちらへ向かっているた中、村山は薄暗い中に迫り来る真影を目の当たりにした。着ている服は皆ボロボロで、走っているモノの足がおかしな方向に振れている。

 なにより村山が嫌悪の余り声を漏らした理由が『彼女たち』が裂けて、腐っていた事にある。

「走れっ」

 言われずともそうした、とは村山は思えない。ホラー映画で恐怖の余り立ち止まったり、意味不明な行動を取ってしまい、哀れにも果てていくエキストラの行動には幾分の現実味がある。村山もそれと同じように、実際に急襲に近い恐怖が訪れれば、全身の筋肉は硬直する。状況を理解し、合理的な判断が下せる状況下でも、即座に行動に移せる人間は常に訓練と研鑽を重ねる者だけだ。

 その優秀な例から村山は漏れたが、判断を肯定する第三者の言葉は、集団心理という行動規範を生む。

 怒声と指示。大学五年間で学んだのは退屈な現代社会学だけではない。

 走れと号令が出たのならば、先達に従うのが後輩の義務であり、正義である。

 今走ってきた方へと、とって返す。水中の格闘技が陸上でどの程度役に立つのかなんて知らないが、日頃自転車を乗り回し、雑用に明け暮れて肉体の衰えなど感じるはずもないのだから、思い描くとおりに体が付いてくるのは至極当然である。

 猛然と走った。

 ただ意味不明なモノから逃げるために、走った。

 走り始めは社殿の前だと言うことには心当たりがあるが、走ってたどり着いた場所は良く解らない。一応、玉のような白い石が敷き詰められ、左手側には延々と武家屋敷のような弓張家の塀が続いているので敷地内だとは解る。だが弓張家、敷地が広すぎて村山自身どこに居て、頼りになりそうなホウジンが何処にいるのか全く解らなくなっていた。

 ただ一つ村山を安堵させたのは『彼女たち』が追いかけて来なくなったことだ。途中、弓張家の家屋の玄関前を通り過ぎ、必死に塀を左手に見ながら走って逃げてきたのだが、流石に広い池が見える場所など案内されては居ない。

 池の周りは木々の影で暗いが、池の中央付近は水草とそこに浮いている鴨の様なつがいの鳥が、傾いだ日光を浴びていて池と解った。

 首やあらゆる間接を自由にした『彼女たち』は追ってきて居ない。村山は見逃されたのか、単純に『彼女たち』の興味ある対象ではなかったのか解らないが。

 ホラー映画のゾンビよろしい『彼女たち』を見た後に、どこか公園で見られそうな水面と水草と水鳥の組み合わせは村山の心を困惑させた。

 まさに水と油である。

 日常的な風景に『彼女たち』は居ない。

 だが『非日常的な風景』に経験した「恐怖」という実感がある。

 今まさに村山は狭間に立っていた。塀や防風林の影に立ち、波紋を広げる日向の鳥を、草を、水を見ている。

 玉の、白い石が踏み鳴った。

「――っ」

「お、お兄様。どうかしましたか?」

 ベルトを持ったまま、真珠が村山のそばに来て、小首を傾げて顔をのぞき込んできた。

「あ、お、お前のせいで走り辛かったんだよっ」

「あうっ」

 ベルトを真珠の手からひったくり、さっさとズボンの輪に通し直す。

「あのおじいさんはどうしました? 見つかりました?」

「……見つけたけど、またはぐれた」

 はぐれたと言うのは村山が咄嗟についた嘘のようなもので、置いて逃げてきた、という方が事実である。走りにくくこの上ない状態を作ったのは確かに真珠がズボンのベルトを奪ったことが一因にあるが、咄嗟に差した拳銃の重さで腰回りが不安定になった事にあった。

 持っているのに、どうして使わなかったのか。

 確かに重荷になっている事は実感しているが、これを使って何かを成そうという選択肢は思い浮かばなかった。自分が持っているのは何かの間違いで、これを持たされたのも上司の言うがままに従ったから以外の何物でもないと、そう思っていたからだ。

 だが、持たされた時になんと言われたのか。

『お前が頼れるのは俺じゃない、さっき貰ったソレだ』

 村山はその言も違うのだと、勝手に解釈した。

 誰にどう頼ろうとも、同じでしかない。他人のわらじを履こうとも、同じように歩けるはずがないのだから、得体の知れないモノに怯えて逃げ、意味がわからないからと理解しないのは何の進歩もない。

 ならばそう、頼るのではなくて、コレを手段に代えるべきではないのか。

 水面に波紋が広がる。水鳥が水面を蹴って滑るように水面を移動していた。惚けて見ていても、事は村山の知らぬ内にしか無い。

 自分が動かねば、得体の知れないモノは永遠に得体の知れない畏怖の対象でしかないのだ。

 理解から学ばねば、村山がこの係に配属された意味が無い。

「真珠、これ、怖いって嘘でしょ」

 拳銃を取り出して、真珠に見せつけるようにスライドを引いた。撃った後、一度上司が奪い取るようにして村山の手から拳銃を取り上げたとき、親切にすぐ撃てないように薬室から弾を抜いていてくれたらしい。有り難いことだ。

「……こ、怖いですよ」

 幼い女の子が拳銃を持った男を眼前に据えれば確かに怖いだろう。ただ、相手は得体の知れない真珠である。見た目や言動に、これ以上心をほだされてはならない。

 何よりも、真っ直ぐにこちらを見られるのだから、怖いという言はなりたたないのではないだろうかと、思えてならないのだ。

 それに、本当に怖いのなら大きな瞳を据えて、真正面には立たない。

「むー、お兄様は意外にかしこいです」

「それは失礼だから」

 引き金を引けばいつでも撃てるようになった拳銃に安全装置をかけ、また腰に差して真珠の目には見えない場所に落ち着けた。

「お兄様がわたくしの事をどうお思いか、それは知りませんけれどー。わたくしはお兄様の事大好きですよ?」

「それは恫喝だと取って良いよね」

「ぶー、そんな事ありませんよ。わたくし、お兄様と――」

「ちゃんと解っててそうやって答えてるじゃない」

「……」

 今まで中途半端に知識があって、中途半端に物知らずなどという事の方がおかしかったのだから、こういうやり取りでさっさと暴いてしまえば良かったのだ。

「真珠、俺はホウジンさんのところに行くからな。コレをもって」

「わ、わたくしがお兄様の事を好きだというのは本当ですよ。出来るのならば危ないところには行かないで欲しいんです」

 媚びるのも、しなを作って変にアピールするのも止めた。そんな真珠が、本当に懇願し始める。あの場所には行かないで欲しいと。ただ真っ正面に据えて、心から。

「お、お兄様は解らないんです。あの人達が恐ろしいことを」

「あの人達?」

 あの人、という単数ではなく、複数にする。

 今もホウジンがどうやってあの場を乗り切ろうとしているのかと気になる時分だが、どうしても真珠の言も気になってしまう。自分たちが、雑対係が相手にしてきたのは三島ではないのか。複数形と言うことは三島以外にも何人かの共犯者が居ると言うことか。そんな大切なことをどうして黙っていたのか。脅されていたとして、一体何を真珠は守ろうと――

「わ、私みたいなモノをいくつも使っているんです。ここにもたくさん居るので、危ないから行かないでくださいっ」

 本当にそうなのだろうか。今まで気に留めてこなかったが、あの公園で出会った真珠という存在にどうして疑問を抱かなかったのか。真珠が三島側の存在だとして、村山が手をこまねいている間にホウジンはどうなるのか――

 そう思ってしまった時点で、村山は走り出していた。


 玉のような白い石を後ろにはね飛ばす勢いで駆け抜けた。先ほど追いかけてきていた腐った『彼女たち』はどこに行ったのか、母屋の玄関先を通り過ぎても見あたらなかった。

 ホウジンがどれほど引きつけて村山を逃がしきったのか想像だにしないが、村山が見た限り『彼女たち』の姿は五十を遙かに超える人数が集まっていたはずである。その内、十数ほど村山を追いかけてきていたような気がするが、社殿前に行く間、一人として見かけなかった。

 逃げたときと同程度、肩で息をしながら社殿前にたどり着いた村山は小高い黒山を見つけた。それが『彼女たち』のなれの果てだと気がつくまでに、少々時間を要した。

「――っ」

 社殿へ続く石段の上、陰の中で何かが動いた。それを見た瞬間、背に手を回し、拳銃を引き抜こうかと構えたのだが、向こうの方が圧倒的に早い。

「……。君か」

「ホウジンさん?」

 暗い影の向こう側に、濃い色を落とす浅葱色が見えた。その手に何か持っているようだったが、暗がりに同化して全容が把握できなかった。

 村山が逃げ、真珠に違和感を覚えるまでの間に日はとくとくと沈んでいたらしく、社殿の真ん前まで陰りはその裾を広げていた。

 ホウジンが暗がりの中にいて、村山がそれを闇に阻害されながらもホウジンの姿勢を辛うじて見取り、村山は後ろ手に動きを止めていた。あまりにも警戒の度合いが違い、村山の警察学校履修中途などという付け焼き刃の対応力など蛇に睨まれた蛙のごとく、一寸にして飲まれてしまった。

 ホウジンが村山を見留め、周りに危険がないと感じるに、撓う鋼のような背筋は安堵の息をはき出すと共に警戒を解いた。

「良かった。上手く逃げおおせた様だな」

 そう言って陰の中から歩み出でるに、その左手には黒い、真っ黒い漆塗りの弓が握られていた。

 社殿前の石段を下り、村山の方へと歩いて来る途中、ホウジンの表情が一瞬にして硬くなり、下ろしたはずの弓が、撓う鋼に構えられ、再び村山へと向け引き絞られていた。

 弓に矢は番えずに。

「な、なんのつもりですか」

「答えろ。事と次第によっては射るぞ」

 先に訪ねた村山の言葉を無視して、ホウジンの脅しに近い言葉が叩き付けられる。

「わたくし、何もしてませんよ?」

 そんな言葉が聞こえて、村山は真後ろに真珠が居ることに気がついた。

 きっと、不敵な笑みを浮かべているに違いない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ