17
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心焦がして貴方に会いに。そう歌わば、他人の心には情動を伴って響くかも知れない。ただ、彼女の心には届くことはない。逢瀬の場所は、ヒトの死地でもあるからか――
この世は、人の世で無しに。
彼岸、此岸。無しに、
常世、現世。
この世、あの世も、人のもので無しに。
家の庭が広くて困ったことなどないと言う人間は、そこを手入れする事を楽しんでいるか、やったことのない人間である。俺は知っている。庭の手入れが酷く面倒で、億劫になる作業だと言うことを。
文の無い紫色の袴を履いた少年は、そんな不遜なことを思いながらも境内の枯れ葉を集めていた。
昨年よりも早い紅葉に、少年は昨年よりも一足早く敷地内の掃除が始まったのだと嫌々ながらに実感していた。例年よりも二週間は早いだろう。葉は色づいて落ち始めているのに、冷夏だったせいか栗のイガが小さい。あれでは栗ご飯は期待できない。
山の中腹、どうしてか開けていて、真っ平らな場所に少年の住む神社がある。
単純に削って平らにしたのか、元々上手く平らになっていたのか定かではないが、少年が生まれる前からずうっとあったというのだから、そんな事はどうでも良い。
いつ出来たとかそういうことよりも、どうやってここに社を建てたのかという方が気になる。山間部にこれだけの平地を見つけたのか、造成したのか解らないが、山の中がこれだけ平坦で敷地が整然と四角いはずがないのだから、作った人間は暇だったのか、妄執に近い信念でも有ったに違いない。
ただ、それを維持管理する人間の苦労など考えてないのはどうかと思うのだが。
「三千代」
「はい」
竹のほうきに寄りかかり、集めた落ち葉を敵のように眺めていると後ろ、社殿側から声をかけられ、反射的に姿勢を正してすぐに向き直った。
「お前の妹が来る。迎える準備をしておけ」
「は、はあ……」
その時が来るまで、少年は父の言うことの意味を理解しかねていた。
彼女が我が家へ、弦水神社へ訪れたのは、もう十八年も前のこと。
「起きろ」
そう聞こえたのだが、
「うげっ」
完全に覚醒しきらぬうちに、毛布の上から腹部へ何らかの圧力がかかった。腹を押さえて村山は丸まって堪えていたのだが、瞬間的にいくつか判断できた。おそらく人間の足だ、それも真珠やタヌキ娘の足ではない。あんなに力強いデカイ足はしていないはずである。
「めぇ覚めたか」
「部下殺す気ですか。寝てるところに足蹴とか」
「蹴ってない。踏んだだけだ」
どう違うのか懇切丁寧に説明してくれそうにはないが、状況と展望くらい説明してほしい。
腹を押さえて転げ回ったおかげで敷き布団から転げ出て、い草の香りを堪能したところで絡まった毛布を除け、睥睨しているであろう上司を探すのだが、部屋にはもう姿がない。
「飯だ。こゆりが怒る」
「わ、わかりましたよ」
だらしなく着崩した浴衣姿の上司は既に部屋の入り口に手をかけて出ようとしていた。昨日、夕食の後一度も見かけることはなかったのだが、寝ぼけ眼で上司の表情を伺える様な状態ではなかった。
ただ、焦点が合わずに見た上司の顔色はあまり良くないように見えた。
朝食は意外にも洋食だった。
上司と同じようにだらしない浴衣姿で出て行くのは何となく嫌だったので、数日着続けているスーツに着替えた後、あの広間に通されて座布団に陣取ったまでは同じだが、そこにホウジンや上司の兄たちは居なかった。違いは居なかったことだけではなく、お手伝いのような女性が、村山の母と同じくらいの年齢の女性が、小さな卓を並べた上に目玉焼きと小鉢に入ったサラダを置いていた。
昨日の夕食ではすでに準備された場所に行ったので誰が支度していたのか解らなかったのだが、どうやらこの女性が料理を作ったり並べたりしているらしい。
普通なら上司の母親ではと勘ぐってみるだろうが、そのお手伝いさんを顎で使うようにタヌキ娘がこき使っていて、更に上司もわざわざ中野さんなどと敬称づけて呼んでいるので家人ではないらしい。
昨日はあれだけ楚々として淑女然としていたタヌキ娘が、後頭部で髪の毛を一つに束ねてポニーテールにし、和服をタスキがけである。どこからどう見ても、これから暴れてくれそうな見てくれである。
そのポニーテールを指して真珠が馬の尻以下だとか、ちょんまげ云々、配膳が済んだというのにそんな場でやんややんやとけんかを始める始末である。
黒髪をままに流した黒いドレスのような衣装を着た少女と、赤いリボンのポニーテール着物娘とが、変わった空間であまりにもマトモに映ってしまうのだから、まだ村山の目は寝ぼけているらしい。
それでも、このお方よりはマシだろうが。
「おい、まりね。ブラ見えてるぞ」
「んあ…… 見えてもだいじょぶなの穿いてきたからだいじょーぶ」
それは穿く物なのかどうか問い質す前に、明らかに寝不足で眼下に血流不全の証を携えて、朦朧とした状態の方が遙かに心配である。同じ係の上司その二である滝川警部がどうしてかこの様である。
ただ、昨日の寝る間際にすべてが凝縮されているようで、村山自身は問いたくなかった。
「子守ご苦労さん」
「あんかいった?」
ぼうっとした表情のまま、怒気を孕んだ返事が返ったことに、尋ねた弓張以上に村山の方が冷えた。妙齢の、独身、子供の居ない女性に向かってそういう表現はセクハラではないのかと。おそらく朦朧とした頭でも、どこか気にしている話を吹っかけられて無意識に反応したのだろうが、そのやりとる様子があまりにも恐ろしい。動物園で行われる、ワニの口を開けた中に、頭を突っ込むショーくらいの恐怖感である。
矛先を上司からこちらへ向けられることを忌避し、テキパキと仕事をこなしてゆくお手伝いさんに邪魔になろうとは思ったのだが、どうして朝食が洋食なのか尋ねてみた。
「これは、三千代さんのご指示でして……」
眉根を寄せて、自分も気は進まないのだがといいつつ、漆塗りの膳にコーヒーとトーストが並べられる。
村山が思うに、これは当て付けだろう。ホウジンや兄たちが居ないところを見ると、明らかにあの三人を避けるために朝食を用意させたのだ。面つきあわせて食べたくないのなら一人で空気の読めない行動をして欲しいのだが、無類の寂しがり屋というわけでもないだろうに、部下にまで強要してきた。
部下だけなら良いのだが、真珠の朝食の時間が遅くなってご立腹の様子らしい。先ほどからタヌキ娘に突っかかっているのは腹が減ってのことだろう。
昨日の朝、真珠に変な起こされ方をした後に、喧嘩ではないが変に苛ついた感情をぶつけられたので、なんとなく理由はそれだろうと思う。
漆塗りの膳の前に正座して、目玉焼きやコーヒーと対面する自分というモノを俯瞰で見られたら、おそらく携帯電話で写真の一枚でも撮っているだろうが、生憎と俯瞰から眺められる能力はない。
「うぇっ……」
ある程度憂さ晴らしが済んだのか、すぐ横に見慣れた黒いドレスの真珠が陣取る。そして、まさかの空きっ腹、初手にコーヒーを選んだのだが、昨日の今日である。
「飲めないなら口に入れるなよ」
「むーぅ」
口に含んだまま一向に飲み込もうとしない。苦いのならとっとと飲み込んでしまえばよいモノを、どうしてか味を感じる舌覚の場所にコーヒーを留め続ける。
「とりあえずその分は無理矢理飲み込んでくれよ」
「むぅーっ!」
人のことを鬼か悪魔かと呼ばわんばかりに両の手を拳にしてポコポコと叩いてくる。別に痛くないので本気で怒っているわけではないようだが、何か求めているらしい。
エチケット袋など持ち合わせていないのだが。
困惑していると口に含んだ分を飲み込んで、
「ん、むはぁっ! 何で解ってくれないんです? こう、口に何か含んだら基本は口移しでですね――」
「そんな基本はない」
「バッッッカみたい!」
そんなやりとりに最も反応したのがタヌキ娘だと言うことに少々驚いたのだが、
「さ、さっさと食べてよ。片付けるのあたちなんだからっ」
どうしても自分事を呼ぶときに変な舌っ足らずになるらしい。滑舌が悪いとか、直そうとしていないとかそういうモノですらないのだろうか。そんなお怒りを受け、村山と真珠は一言すみませんとその場は謝り、朝食を進めた。
そうでもしないとタヌキ娘の激情が治まりそうに無かったからでもあるのだが、村山が同情を禁じ得ないのは昨日から広間で呆然と、抜け殻と化した蛭ヶ谷が、ずっと、日をまたいでも広間の一角に座っているからだった。
「あの人、大丈夫なんですか」
「知らねぇよ。車一つで女々しいんだよ、アイツ」
「車半壊させて云う台詞では無いですよね……」
朝食を食べ終わり、すぐに元凶である上司の下へと向かった。そして聞き尋ねてみたのだが、なんともまあ他人事のように流された。
村山とてこの状況を他人事のように流してしまいたいのだが、村山にも責任の一端は有るだろう。それはあくまでも一端に過ぎない。端も端で、左のドアミラーを吹っ飛ばし、フロントから木に突っ込んだけである。それだけである――
「普通、お炊きあげとかする?」
「……び、びっくりした。なんですか、お炊きあげって……」
死人のように動かなかった蛭ヶ谷が突然ぬっと村山のそばに現れ、なにやら不穏な事を言い出した。心霊写真をお炊きあげして供養したり、御守や御札などをお炊きあげしたりなどは聞いたことはあるが、まさか車を――
「ほ、放火は下手すれば極刑になるんですよ……」
「いや、自分の家の前で火なんか付けねぇよ。どれだけ嫌っててもな」
確かに。自分の部下の身の安全云々、そんなこと言って連れてきたあげく、安全だと自分で言い張った場所で、家族もろとも焼いて殺そうなどと言うのはおかしい話だ。
「溶けて完全にねーんだけどっ!」
それに、ただ焼いたって壊れた車の形くらいは残る。
「俺の車が燃え尽きた……」
「……そういえば、張ってあったな。炎の術式陣」
村山は聞いた話でしかないが、滝川が語っていたマンションでの一件だろう。そこに真珠に手渡した、自称真珠の白い頭蓋骨を手に入れたとか言う話だ。それを守るように、触れたモノを焼き払うマホウの陣が張ってあったらしい。
それを今、引き合いに出すと言うことは――
「昨日の犬は挑戦状や果し状の類じゃあねぇな」
「向こうはもう、始めてるな」
何をとは訊かない。昨日、聞いたはずだ。
『あら、戦争でもするのかしら』
『ああ、似たようなモンだ』
肯定した上司の顔は半分おどけていたように思うのだが、やはり上司の顔色はうかがっておくべきではないかも知れない。何を意図しているのか、解らなくなるからだ。
ただ車を焼いただけというのは戦争などと言う言葉とはまだ遠いように感じるのだが、上司と、蛭ヶ谷の会話の内容から、二人がふざけて喧嘩する余裕も失せるらしい。その理由はおそらく、車を『焼かれた事』ではなく、『実家近くに放置した車』を焼かれた事にあるのだろう。安全な場所とは、対抗手段のある場所か、相手に見つからない場所のどちらかであるはずだ。両方ならばまさしく安全だろうが、これが後者だけならば、確かに冗談半分で喧嘩している場合ではない。
相手は、こちらを捉えているのかも知れないのだから。
「車に一式積んで来たんだが焼かれて駄目になった。予備を持ってくるから時間くらい稼げよ」
「俺の家も舐められたもんだな」
喧嘩は無いにしても、憎まれ口だけは忘れないらしい。
車の惨状に消沈していた蛭ヶ谷がいきなり復活した理由など、思い付くのは車以上の惨状が自身に待ち受けているからであろう事など村山にも解ったのだが、どうにもこの二人以外、危機感の無さを目の当たりにすると――
「ああああっ! あたちのプリンッ! 何で無いのよっ!」
自分の洋食皿が載った膳を持ち上げると、タヌキが悲鳴のような怒声を上げた。
「ああ、プリンならさっき真珠ちゃん食べてたわよ……」
「食べないで置いたままどこかに行くから悪いんですよ。わたくし親切心でですね――」
「アンタと違って片付けが有るのっ! ただ食べて太ってるだけのアンタたちと一緒にしないでよっ!」
女三人寄ってかしましいを実践しているところが弓張と蛭ヶ谷の間から見えたのだが――
「ちょっと待って。こゆりちゃん、今『たち』って云ったかしら」
「……云ってないです」
膳の足を持っている手が、わなわなと震えているのが少々離れた場所にいても解るほど動揺している。
「タヌキだったらすばしっこいから捕まえられないけど、今ならあたしでも捕まえられるわよ」
起きてからさほど時間がたっていなかったらしい食べ始めに比べ、滝川警部の呂律が回っている辺り、頭は冴えたらしいのだが、別の方向に冴え渡られても困る。
指をわきわきと動かしながらブルーベリージャムトーストを食べ終えた舌をなめずって、まさかの変態の図である。これは、止めておかなければ先輩の、女性としての尊厳に関わるのではないか。
だが、村山の杞憂など、無為である。
「遊んでる時間なんてねぇぞ。出来るなら陣を張れ、今すぐに」
それほど大きくない声だったのだが、あまりにも普段とは違う低くうなるような声は、高音で戯れる三人には良く聞こえたらしい。
「は、はい。にぃさま……」
「りょ、了解です……」
「え、わたくしはわかってないですよ。なにをすればいいんですか? 何を貼るんです?」
滝川に襲われて着崩した着物をそそくさと直し、タヌキ娘は自分の膳を抱えて逃げるように出て行った。襲われたことよりも弓張に怒られた事の方が逃げる理由に相当するらしいのだが、不敵な笑みを浮かべたまま指をわきわきしている滝川を見るに、どうしてもこっちを忌避したようにしか思えない。
「おい、お前も銃持ってるよな」
「あ、えっと。はい」
急に言われておもむろに取り出してしまったのだが……
取り出して見せた瞬間、滝川と真珠が飛び退くように逃げ出した。
「ちょおおお、何出してるの。危ない、危ないからしまってちょうだい」
「うぉにいさまっ! やばいです、それはやばいですよっ!」
広間の真ん中。タヌキ娘がいなくなった今、五人集まったのだが集まって来た瞬間、二人広間の端まで逃げすさってしまった。壁に後頭部を二人して打ち付けるほど必死になって逃げたのは見なかったことにしてやるとして、人の遺体を恍惚として眺める人間や、頭の無かった人外に恐れられるのはなんだか釈然としない。
ただ二人が恐れていることの内容は違ったらしい。
「鉄砲はダメ、ダメっ!」
「その白っぽい力はあぶないです。わたくし、まじやばですよっ!」
拳銃を指して鉄砲というのは拳銃になれていないから出てくる言葉なのだろうが、白っぽいとは何のことか。拳銃は生憎と鉄製の黒いフレームで、グリップ部分は木製である。白い部分などどこにも無いのだが――
「魔力が白いんだ。真珠が嫌いそうなくらい、白い。真っ白だな」
「……はあ」
何を言っているのか全く村山には伝わってこなかったのだが、真珠も弓張も真剣に村山へ言葉をかけるものだから、何となく気圧されて言葉が全く出ない。
いつぞや、上司は真珠と結託した事実があるので二人してふざけた話をしているのかと思ったのだが。
「ちょっと、弾倉抜いてみろ」
「は、え。マガジン抜くんですか」
「弾。確認してみろ」
警察学校でもオートマチックの拳銃の扱いを習ったのだが、実際にオートマチックの拳銃を手にするのは初めてで、あまりいじり回して暴発されても困るのだ。だから貰ってからというもの、セーフティがかかっている事を確認してから触らないようにしていたというのに、ここでマガジンを抜けという。
別にいつでも撃てるようにスライドを引いて弾丸を込めたなどという覚えはないので発射されることはないと思うのだが、弾倉に入った弾丸が暴発しない保証はない。
何たって、曰く、千年物らしいのだから。
「わかりましたよ」
渋々というか、もうどうでも良いとばかりにボタンを押し、マガジンをリリースした。
「弾がどうしたって…… なんだ、コレ」
昨日、拳銃を受け取って確認したはずだが、銅色の弾丸と真鍮の薬莢が淡く、白く光っていた。
光るようなモノは付いていないはずだし、天井部にある蛍光灯からの光を受けて反射している様な光ではない。
「試しに撃ってみろ」
「え、ダメでしょう。家の中ですよ」
「大丈夫だ、どうせ俺の家だ」
意味不明な事を言って「撃て、撃て」と上司が囃し立ててくるので渋々それに従うしかない。そうでもしなければ上司が奪い取って引き金を引くだけだろう。
なるべく誰にも被害が及びそうもない場所に銃口を向け、引き金を引いた。
何かが炸裂したような大きな音と、発光を手元から感じ、村山は拳銃からの放熱に愕然とした。閃光と、炸裂音を放ち、上司の実家の壁に四十五口径の通気口を新設した。
だが、
「……な、なんですか。これ」
「銃だろ。お前の」
握りしめたまま手を離せなかった。
銃の放熱は手放すほどの脅威にならなかった事は確かだが、大きな反動と炸裂音、発光もその銃を手放そうというほどの脅威を村山には与えなかった。
だがそれらは放さなくても良い理由であって、放せない理由ではない。
銃口を壁の穴に向け、震えに因って照星と照門の合わなくなった拳銃をその手の内に納め、恐怖のままに自分が作った穴を眺めていた。
なにより手から放せば『銃口が自分に向くのではないか』という恐怖感がどうしてか沸き起こった。自分が持っていて、誰に手渡そうという訳でもないのに、どうしてもどこかへ差し向けたまま村山は持っていたい。持っていさせて欲しいと、内心、誰かに懇願していた。
その対象が誰かなど、村山は知ったことではないのに。
放してはならない、と。
「下に向けろ。目を瞑って呼吸しろ」
上司に言われたまま、黙ってそうした。三度、深呼吸をして手の感覚が戻ってきた。撃った瞬間の衝撃よりも、何かに突き動かされた衝動の方に村山は自失しかけていたのだが、それが銃を撃ってしまったという後悔や恐怖から来るモノではない事だけは理解している。
「……弾、出ましたよ。普通に」
「そりゃあ、拳銃だからな。弾くらい出る」
当たり前だろうと言わんばかりに、上司は拳銃を一度村山から奪い取り、セーフティをかけてから村山の手の内に返した。村山は握る事を失念したかのようにだらしなく手を開いたままだったが、無理矢理のようにグリップを握らされ、拳銃が手に戻ってきた重さを感じた。
「殺そうとしてくるヤツ相手にためらうな。問答無用で引け。それ以外、生き残る方法はない」
村山は既に身の危険を感じる係であると気がついていたはずだが、誰かの犠牲を肯定する上司に、今までの身の危険を上回る恐怖と嫌悪を感じた。
作ってしまった小さな穴をホウジンに深く詫び、村山は表に出た。
怒られて放出させられたという訳ではなく、単純に皆、外に集まっていたからだ。
滝川は雑に着ていた浴衣ではなく私服姿で、上司も着替えてズボンととワイシャツ姿だった。蛭ヶ谷までよそ行きの格好である。
昨日、暗い時間に案内されて敷地の全景を把握していなかったが、かなり広い土地らしい。武家屋敷のように高い塀に覆われていて、きれいな玉の白い砂利が敷き詰められた、昨日の話の通り、本当に神社の境内然としている。そんな広い場所である。
「そんじゃ、頑張れよ」
「誰に云ってるんだ。バカが。ちょっと東都に帰れるからって真莉ちゃんとにゃんにゃんしてきたらぶっ殺すぞ」
「しねぇーよっ!」
下品きわまりない大人げないやり取りをタヌキ娘や真珠の前で平然と繰り広げ、正直こんな上司に身の安全など保証されたくないと思ってしまう。ここにいてあの青い犬や、得体の知れない三島から逃れられているのだろうとは思うのだが、なんとなく村山の中では納得できなかった。上司のおかげという考え方を捨てて、ホウジンのおかげだろうと言うことにすげ替え、厚くもてなしてくれる事を感謝しようと村山は思い込むことにした。
「ところで、車もないのにどうやって帰るんですか。タクシーでも呼んだんですか」
最寄りの駅までどれくらいの距離があるのか知らないが、こんな山奥までわざわざタクシーで迎えに来てくれるのだろうか。場所だって普通には見つけにくいところに――
「いや。空飛んで行くけど」
「は?」
「そら」
「は?」
当たり前のように、蛭ヶ谷が真顔で雲が浮かぶ青い空を指さして言う。『そら』と。
「あの、何を――」
「あー、もういいから。早く行け。早く帰ってこい」
「へいへい」
上司が頭を掻き掻き、説明が面倒だとばかりに手のひらを振って蛭ヶ谷を追い払おうとした瞬間、蛭ヶ谷の足下に、玉石や砂が渦巻いた。
風が中央に向かって吹き込んでいく。その吹き込んだ風が、村山には歪みを伴って目に見えた。風が渦巻いて、そこにあるのだと一目でわかった。
「あ、真莉ちゃんに、使う前に愛の巣壊しちゃってごめんって伝え――」
「てめぇいい加減黙れよっ!」
上司が下らないことを上向きで言ったかと思うと、それに対して蛭ヶ谷は高い位置から見下ろしながら答えていた。
およそ五、六メートルの空中に、人が立っているのを村山は唖然と見上げた。
唖然としていたのは村山だけで、タヌキ娘や真珠、滝川は手でひさしを作って行ってらっしゃいだの、気をつけてだの、送り出す言葉をかけていた。
村山がどうなっているのか訊く前に、蛭ヶ谷はものすごい勢いで東都の方角に消えた。弓張家の敷地内から出て行くと、そこは背の高い林があってすぐに隠れ、姿が見えなくなったのだ。
「人って、飛ぶんですか」
「見たろ。飛ぶときゃ飛ぶんだよ」
前に得体の知れないモノも飛んでいたし、人だって飛ぶときは飛ぶのかな。なんて思えるわけ無いだろうと、上司に気前よく乗ってから突っ込んでやる気概など村山にはないし、そこまで柔軟な対応力など無い。
「いや、普通は飛ばないでしょう」
「誰が普通を決めるんだよ。お前か、世間か」
そういえば。この上司は、普通じゃない。
蛭ヶ谷の飛んでいった方向を眺めたまま、村山は呆気にとられていた。
魔法使いだの、魔術師だの、術者だの。良く解らない単語を並べ立てて、上司は村山への説明をそうやって煙にでも巻こうとした――とでも、係に入った頃ならば思ったかも知れない。
「そういう、良く解らない力で蛭ヶ谷さんは飛んだんですか」
「魔力で固めた空気の上に乗って、魔力の風を起こして、後ろから押されて進むらしい。俺には出来ないけどな」
「ああ。警視には出来ないんですか。でも、蛭ヶ谷さんに迎えに来て貰うなら飛ばして貰えば――」
「人間を何人もまとめて飛ばせないんだとよ。それに、集団で飛んでたら人目に付くだろ」
「まあ、録画とかされたら大変でしょうし――」
「そうだな。あちらさんの管理者に証拠隠滅されると後味が悪い」
「後味?」
「俺たちの証拠隠滅は文字通り、証拠となるモノを隠滅すること。あちらさんの証拠隠滅は、証拠を持っているモノ、証拠となるモノ、証拠に関わったモノ。そういうものすべての隠滅だ」
余計なことを訊かなければ良かったと村山は思った。自分がどういう係にいるのかという事を棚に上げたような質問をしたのだと気がついて、その思いはますます村山の考えに陰を落とした。
「……係が捜査だけに限定されているのは、やはりそういう意図なんですか」
「そういうとは」
「だから……情報収集だけに限定されて、利用されているって事ですよね」
「その代わりに、この係に居れば隠滅の対象にはならないというのが最大の利得だ」
自分が誰にどう使われているのか知っているからこそ、上司は割り切った考え方が出来るのだろうが、村山は係の作られた経緯や、どれほどの規模で係の上が動いているのか完全には解っていないので利得と言われようもその良さが良く解らない。
単純に『あちらさん』と呼ばれる存在に「殺されないだろう」という事は解るのだが、『あちらさん』と呼ばれるモノたちと敵対していたり、捜査対象からの脅威にはその利点が全く役に立っていない様な気がする。
現に上司の実家まで皆で逃げている状況で、『利点』など実感できるモノではない。むしろそういう連中が矢面に立たない分、その矛先は末端である自分たちに向いているのではないのか。
係を作ったのは上司である、弓張だというのは聞いたのだが、どういった経緯で『あちらさん』にその係の存在を認めて貰ったのか、肝心なところを聞いていない。
設立したのは上司だと聞いたのも、昨日、ホウジンから間接的に聞いたことであって、本人から直接説明を受けたわけではないので、もう少しまともな説明をして貰いたいものである。
直接聞いてみようかとも思ったのだが、村山と弓張の間を背の低い陰が通り抜けた。
「アンタァッ!」
「ぷ、ぷりんとかいうモノくらい一個がなんだっていうんですか。わたくし、そんな食い意地張った方見たこと――」
「黙って蹴らせなさいよっ」
「ひゃっ!」
村山のすねに和装タヌキ娘の下駄蹴りが入って、説明の要求どころの騒ぎで無くなったのだ。
更に、滝川の携帯電話が鳴った事も聞きそびれた一因であるのだが……
「そんな……」
こんな山奥の場所に、携帯電話の電波が飛んでいたことも驚きだったのだが、電話に出て話していた滝川が一言そう漏らすと、放心のままに、動かなくなった。不審に思った上司が携帯電話を奪い取ると、実家に戻って不機嫌だった顔が、えらく不機嫌そうな顔にまで歪んだ。
「どうしたんです」
「森田警部が居なくなったそうだ」
「森田警部?」
「まりねと一緒に検視室で負傷した、鑑識の検視官長、森田警部だ」
そういえば、村山が負って助け出した人物ではないか。
「あの人ですか。居なくなったって――」
「滝川病院の個室から消えたそうだ。致死量相当の血液をベッドにぶちまけてな」
「致死量って」
「どうやら、向こうは一切の躊躇い無しに関わったヤツを潰しに来たらしいな」
そんな話はしなくても良いのだ。聞きたくないのだから。
まだ昼前なのに、どうしてそういう話が飛び込んでくるのか。正直止めて欲しいのだが。
「現場を維持させたから、これから向かうぞ」
「え、自分たちがですか……」
意外なことに、上司は真っ当に働こうと言い出した。あまりそういう事に積極的ではないような印象なのだが、流石にそういう訳にはいかないのだろう。
「係の仕事は捜査することだ。それ以外にやれる事はない」
弓張家を出たのは昼食を断る段のすぐ後だった。どうにも上司は東都に戻る予定でも有ったのか、既にタクシーを手配済みで、お手伝いさんに昼食を断ってから表に出れば、そこには既に車があった。
実家が古神道、神社と言うだけあって正面、参道は石段で、ちゃんと整備されていたのだが、昨日案内された道は裏手の獣道のような場所だった。
そこには上司の、弓張警視なりの思惑があっての案内なのだろうが、残念なことに表の参道から行った方が精神衛生上良い。なんせ表の通りはまともに舗装されていて歩きやすい上に、通りには外灯も有って深夜ならこちらの方が絶対に苦労せずに済んだのだ。
自分が家人と不仲なのを部下たちの苦労に変換しないで貰いたい。
タクシーに乗れるのは四人まで。それに乗り込む際、一悶着起きた。
「悪いんだがこゆりは留守番で――」
「な、なんであたちが留守番なのよっ! 嫌っ!」
真珠とやんや言いながら石段下、鳥居の前で駆け回っていたのだが、突然弓張に声をかけられると凄い形相で食ってかかってきた。どうにも、絶対に留守番だけは嫌らしい。
駄々をこねる子供か何かのように嫌だ嫌だと喚き散らし始めたタヌキ娘を見ながら、真珠がその火に油を注ぐような嫌みを一つ二つと投げかけているのだが、全くタヌキ娘は意に介さないまま弓張へ訴える。
「わかった、わかったから…… じゃあ真珠に――」
「ちょわああっ! どうしてわたくしのような美少女を置いていこうなんて……」
「どうして美少女だと置いて行っちゃあいけないの――」
ふざけたことを言い出したので、すり寄ってきた真珠に向かい、村山はそんなことを言ったのだが……それが悪かったらしい。
「あ。お兄様、わたくしが美少女って認めて下さいましたね。わたくしの事をそういういやらしい目で――」
「見てないからっ!」
最後まで言わせろだの、美少女だと認めてもらえて嬉し恥ずかしだの、余計なことばかりを並べ立ててタヌキ娘の苛立ちを徹底的に煽る気らしい。
当のタヌキ娘の方は真珠のことなどほぼ無視し、弓張に食い下がり続けていた。
そんな年下の少女に気圧される野郎二人を見かねたのか――
「じゃあ、あたし。残ります」
子供の相手をして憔悴したような滝川警部が、力なく小さく手を挙げて残ると言い出した。だがそれを許さなかったのはもめ事の種になるタクシーを呼んだ人間だ。
「まりねはダメだ。実家だろ。それに状況分析に医者も必要だ」
「病院なんだから、医者なんて売るほど居るわ……」
まだ午前中で日も高い。なんならまだこれから最高度まで上ろうかという時間である。それなのに滝川警部の顔は暗い。
「それじゃあまりねを係に入れた意味がないんだが?」
あまり滝川に対して怒っているような顔は見せたことがなかった弓張なのだが、あまり人に見せて良いような顔をしていなかった。そういう顔で怒るのもどうだろうと勝手に滝川を擁護したくなるような程、悪人面だった。これでバッチを持っていなければ警察官だと言っても誰も信じないだろう。
「わかった、行きます。行きます……」
「それで、結局誰が残るんですか」
「……ああ。そうか、あ? 俺か? お前か?」
考えていなかったとばかりに意味不明なことを言い出したのでどうしようか困った。タクシーの運転手にしてみれば貴重な業務時間を無為にされていて苛立ちも有ろうが、そんな事は客商売には許されないのか、にこやかに窓越しで会釈してきた。
村山としては上司の悪態を深々と彼に詫びたい。
「……解りましたよ。俺が残りますよ」
「ちょっ! お兄様が残るならわたくしも二人きりで留守番を――」
「親父とお手伝いの中野さんがいるからな。シャレにならねーぞ?」
どうシャレにならないことを上司が想像したのか知らないが、
「うっ! じ、じちょーします……」
真珠がえらく焦った風で返答するモノだから、どう洒落にならないのかこれから詳しく問い質すとしよう。弓張たちが戻ってくるまで、時間ならもてあますほど有りそうなのだから。