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星を渡る夢を見た。星々を渡り、星の屑で尾を引いて、新しい星の夢を描く。赤、白、黄、青、緑。色で紡いで星渡る。紡ぎ紡いで、黒に潰れるその日まで――
「申し遅れたが、弓張方陣と云う」
「は、はあ。ホウジンさんですか。その、珍しいお名前ですね」
「代々家督を継ぐ者が名を継いでいるのでな」
何か気がかりなことでも解決したのか、先からの厳格な態度を崩し、かなり親しげに話し始めた老獪な男、弓張方陣。親しげにとは村山の中で『この男の親しいという態度はこの状態』と、勝手な度量による表現であり、世間一般で言う親しいからはかけ離れている様に思える。実際、正に座した姿勢を、足を崩せる様な和気藹々とした八畳間を得られていないのだから。
更に村山を不安にさせたのはあのエセタヌキ少女が入ってこず、さっさとふすまを閉めてどこかへ行ってしまったらしい足音が聞こえた為である。
一人知らぬ人を真正面に据えて何を語らえと言うのか。あのタヌキ娘でも居ればなんとなく役に立ったのではないかと思えてくる。実際、村山には――
「それにしても、君はどうして愚息の下に就いたのかね」
「えと……解りません。警察学校で履修中だったのですが、なぜか突然」
「警察官。前途ある若者を捕まえてあれは責を負えるのか。村山君、お詫びの言葉も見つからず、本当に申し訳ない」
堅物そうな老獪な男が村山の見てきた限り、最も整然とした佇まいで完璧とも思える正の座を更に正し、両手をきっちりと左右対称に配し、深々と頭を下げてきた。
紛う事なき、土下座の図である。
ただ、村山にはそんなことをこの人からしてもらうだけの謂われはないのだ。早々に頭を上げてもらわねば、村山の方が失礼極まりない。
「やっ、あのっ! やめ、止めてください。謝っていただかなくても結構ですよ。人事のことなので弓張警視がどうこういうんじゃあ――」
「それは、私たちの事を知っていてなお云える言葉かね」
弓張家の何を知っていて『何を言えるのか、言うべきか』は定かではないが、あまり好意的に捉えられない語感で話を進めようとする。もちろんこれまで関わってきた事がこの老爺の言う「私たちのこと」ならば安易に言葉を遮るべきではないかもしれない。
なにやら紙切れの主は『弓張の三男坊』などとまで名指しで呼ばわったのだから、確かにそれに巻き込まれた村山自身は『弓張家の騒動』に巻き込まれたモノと捉えても差し支えないだろう。だが、それでも警察官になったのは自分の意志なのだから、どこに使われようが、誰の下に就こうが、やはり一般の人間に言われるまでもないとも思えるのだ。
「なって日は浅いですが、これでも警察官なので」
「これは……大変失礼した」
対面に座した老爺が、うっすらと笑みを見せた気がした。
老爺は手を打った。すると小間使いのようにあのエセタヌキ少女が来たときと同じように三つ指つく勢いで廊下で正に座し現れる。この老爺の前限定なのか、また淑女然とした態度でかしずいている。村山は今日日これほど奇異なモノを二度も眺めることになるとは思っていなかった。
確かに存在自体が奇異ではあるのだが、それにもましてあのエセタヌキとはかけ離れているので気持ち悪くて仕方ない。
「案内はコユリに任せる」
「承知いたしました」
小さくうなずいてどうぞこちらへ、などと嘯く。明らかに後で噛みつかれるパターンだろう。コレは。
村山が廊下に出たところ、エセタヌキ少女が楚々とした所作でふすまを閉めて、先に廊下を歩く。案内してくれるというのは本当なのだが、先ほど家主である弓張ホウジンとの挨拶の場から遠ざかったあたりで急にエセタヌキ少女が村山に向き直ったかと思うと――
「うりゃあっ」
「あぶないっ」
足袋のような様な物を履いた足が村山の足下へ伸びてきて、元あった場所に「どんっ」と音を立ててにじられた。元あったとは、何となく予期して避けたからであるが。
「な、なんだよ。危ないな……」
「ちっ」
明らかに舌打ちできずに自分で言ったような気がしたのだが、どうにもこのエセタヌキは村山の始終が気に入らなかったらしい。ホウジンとの会話をふすまを挟んで廊下で少々盗み聞いていたらしいのだが、どこにタヌキが怒る要素があったのかは全く解らない。
「いきなりなんだって訊いたんだけど」
「顔が気に入らないのよ」
顔が気に入らないからと足を踏むのはそもそもの前提としておかしいのだが、言って聴くような生き物ではないと知っているので別な事を尋ねることにした。
「で、君はあのタヌキ……だよね」
「失礼ね、あたちの名前いい加減覚えなさいよ三下。こゆりよ、こゆり」
おまえも人の名前を覚えろと言ってやりたくなったのだが、覚えてほしかったらまずは覚えてやるのが大人という物である。
「解った解ったから。こゆりだな、こゆり」
「何で呼び捨てにしてるのよ。こゆり様って呼びなさいよ」
「タヌキ」
「うりゃっ」
「あぶないっ」
どんどんと屋敷中に響き渡らんばかりの音を立て、藍の和装を乱す勢いで村山のつま先を踏み砕こうと躍起になり始める。面倒なことこの上ないので、
「ホウジンさーん、こゆりさんがー」
「うわっ! ちょっと、止めなさい。そ、それは本当に止めて……」
今度は違う意味で躍起になり始め、村山をひしと捕まえてはこそこそそと辺りを伺い始める。一応世話になるとは言え、弓張家にしてみれば村山は客人として迎え入れられたのだから、タヌキの粗相はあってはならないはずである。
すごい睨まれはしたものの、下らないことで怒られてはかなわないとばかりに、タヌキ改め、こゆりが案内してくれた。
先ほどホウジンと面会した屋敷から、渡り廊下で離れの屋敷に案内された。どうやらこの離れの屋敷自体が客人用、ゲストハウスとして機能しているらしい。廊下を歩いて部屋の入り口をいくつか通りすぎて見たのだが、それぞれ名前のついた部屋であるらしい。
村山の案内された部屋は、鵜の間であった。なんとなく、村山は嫌な予感がした。
「あー、部屋着は浴衣があるから適当に着なさい。下着は買ってきたばかりの新品が置いてあるから適当にサイズの合うやつ使って。部屋のことは訊けば解ると思うから。じゃっ」
そう言い残してタヌキ、改めこゆりが片手を雑にあげて去っていった。そう言うところだけ飼い主……か、どうかは良く解らなくなったが、上司にそっくりである。
そして、村山はそんな雑な扱いに辟易しつつ、嫌な感じのする語を脳内で反芻した。
『訊けば解るから』
なんとなくだが、『誰』に訊けと言っているのか解ったのである。
「ふふふっ! お兄様っ! まさかのしっぽり新婚旅行編ですよっ!」
「……」
金箔で鶴のあしらわれた豪華な引き戸を開けた瞬間、見覚えのある少女が浴衣姿で飛びついてきた。根回しなのか、どうしてか真珠と相部屋であるらしい。いや、これは断固として拒否しなければならない。
「真珠は滝川警部と相部屋にしてもらえ」
「えぇーっ! 嫌ですよ、何であんな年ま――」
「んですって、マミちゃん」
豪奢な引き戸を開け放ったまま真珠とやんやと話していたので、同じ棟に宿泊する人間には丸聞こえだったらしい。というか、村山の声を聞きつけて訪ねてきたら、まさか自分の陰口である。怒らないはずがない。
「いやぁ、あのですね……」
「言い訳はお部屋で聴きましょうか」
「すびばせん、本当にすびばせん……」
滝川は真珠の浴衣の首根っこをひっつかんでずるずると廊下を引きずり、隣の部屋に消えてゆく。隣の部屋は滝川の部屋なのだろう。元々女性二人の相部屋にする予定だったのだろうが、勝手に真珠が村山にあてがわれた部屋に入り込んで待機していただけに過ぎないらしい。色々な意味で恐怖しか感じ得ない光景だった気がする。
まだ午後五時過ぎだが、すでに疲れた。得体の知れない青い大きな犬に追いかけたれた事もそうだが、今現在も腰、ズボンの内に差し込んだ拳銃もその疲労の一端を十二分に担っている。
軽く一眠りして、その後誰かに話を聞けばいい。
「ぐぇっ!」
何も敷いていない畳の上で寝転がって仮眠をとっていると、腹部に強烈な重さと痛みがのしかかってきた。夢の中で悪い物でも食べたわけではないのだが、突如として見舞われた腹痛に、外的な要因を考えざるを得ない。
「な、なんだっ」
「ご飯よ、ご飯。アホみたいに口開けて寝てたら、鈴虫突っ込みたくなるのよ」
藍の着物を着た少女が村山の直上から見下し、顔の真上には足の裏が迫っていた。
「あぶないっ」
何度か転がって回避したものの、元いた場所にはドンと重い何かの音がする。
「ちっ」
出来ないのなら舌打ちの真似などそもそもしなければいいものを、どうしてもそのエセタヌキはやりたいらしい。誰の教育の賜か。
客人として迎えられた者は、このエセタヌキの世話にならねばならぬらしい。むしろ大きなお世話だと思うのだが、誰一人文句など、あの老爺に言えるはずもないだろう。
隣の部屋に伺いを立てて、滝川警部と真珠を呼ぶ。他の部屋には寄らなかったところを見ると蛭ヶ谷は既に用意された場に居るのだろう。いや、まだ車の元で蚊に集られて居るかもしれない。
藍のタヌキを先頭に、滝川、村山、真珠とぞろぞろと廊下を歩いた。本当にあの毛むくじゃらの、どこかふざけた見た目だったタヌキなのだろうか。楚々とした所作を見せたり、着ている着物も雑に扱うような事はない。蜂の尻のような縞々な尻尾も生えていない様だし、肌だって人の肌そのものだ。
古めかしい日本家屋ではあるものの、客用の離れの廊下も、離れと母屋を繋ぐ渡り廊下も経年を感じさせるのだが、丁寧に手入れされた柱や白い土壁、それらを上手く照らすために配された照明。この場の雰囲気というものが陰鬱にならないのは家人の空間に対する気遣いの表れだろうか。そこなタヌキも少しは見習えばいい。
「……どうぞ」
廊下に座して、両の手でふすまを開けたまでは確かにそれっぽく見えるのだが――
「早く入りなさいよ。あたちが入れないの」
半眼で三人を睨み付け、入室を促す。既に促すと言うよりか、脅迫に近い剣幕であるが、抵抗したところで晩飯が当たらないという自分たちにとってのマイナスになるだけだ。誰がエセタヌキに反感を覚えて晩飯をボイコットなどするのか。
滝川、村山、真珠の三人が広間へ入室すると既に数人が待ちかまえていた。
上座に家長であるホウジンが座り、両脇には見知らぬ男性が二人脇を固めていた。ただ見知らぬと言っても年の差違があれ、三者が似通っている事から親子らしく見える。
いつぞや、紙切れに『弓張の三男坊』と記してあったのを思い出した。それならば両脇に控えているのは長男と次男か。
他に、件の三男である警視がなぜか下座の端に座し、対面に蛭ヶ谷が呆然と天井を仰いで座り込んでいる。あれは、相当参っているのだろう。
「どうぞ、ご自由に」
座れと言うのだろうが、残されているのは中間あたりだけで、選ぶ余地などほとんどありはしない。選ぶとなれば入り口から近い二席と、その対面、壁側の二席。
序列で言うならば滝川警部に、上座に当たる壁側の、家人側に座してもらいたいところだが……
「ほわあああっ! なんですか、このご飯っ! すごいですねっ!」
「……っ」
目つきの悪いタヌキ娘を鼻で笑ってあしらった真珠が、いつの間にか村山の腕にしがみついて件の上座へ引っ張ってくれた。
ホウジンは半分笑ってどうぞとばかりに気にしない風なのだが、その両脇を固めている長男、次男があまり良い顔をしていない様に思える。おそらく、ここは警視の席としてあてがうつもりの場所だったのだろう。居心地が悪い上に、真珠の世話まで付いてくる始末だ。手に負えない。
滝川警部の方は特に席順などどうでも良いとばかりに、席に着く。目の前にあるのは一流の料亭で出されるような会席料理で、席順よりもそちらにありつける方がいいらしい。真珠と良い、滝川と良い、ここな女性陣は食べ物で籠絡されやすいのだろうか。そう思いきや――
ずうっと半眼で村山を睨み続けるエセタヌキ娘が、残りの席に着いた。食べ物よりも別な事が勝る女性もいたらしい。ただ、あのタヌキが本当に『まともな』女性なのか疑わしいが。となると、真珠の性別も疑わしく思わないとならないのだが、いつぞ全裸を見て『男』ではなかったので真珠は女性に『分類』してやることにした。晩飯時に思い出す事ではないと、それ以上考えることを止めたのだが……
「これから数日とのことですが、宿飯を共にする者同士、和睦を深める席を設けさせていただきました――」
話し始めたのは村山から見て老爺の、ホウジンの左側に席を取る男だった。
そんな話し始めた男の話を聞く者は、話している本人を除き、八人いて半数の四人だけ。三男である弓張警視は俯いて黙々と箸を動かして挨拶無視で食事を始めているし、対面に呆然とした蛭ヶ谷は微動だにしない。村山の右隣に陣取った真珠は口を半開きにしたまま目の前の料理に手を出して良いタイミングはまだかと急いているし、真珠の対面に居るタヌキは村山を睨んだまま視線を外さない。
結果、話を始めた男性の語る言葉を漏らさなかったのは滝川、村山、老爺、老爺の横のもう一人だけだった。
「話は良い。冷めぬうちに頂こうか」
「……はあ」
どうにも半分以上の人間が男性の話に興味なしと見るや、老爺はそれを遮って食事を優先した。村山は客人である自分たちよりも、その実、息子である警視のために話を遮ったのではないかと、勝手に思うことにした。
わざわざ部下だけ呼びつけて息子の話を聞こうなど、警視は弓張家から離れて久しいことが解る。老爺はどうにも警視を腫れ物に触るような扱いをしている様に思えるのだ。嫌なモノに触れると言うより、どう扱って良いのか、良く解っていない感じだとでも言えばよいだろうか。何があったのか当人たちのどちらかに訊けばよいのだが、
「お兄様、これ、堅くて痛いんですけど」
「エビを殻ごと食べようとするなよ…… 殻をこう……割って食べるの」
真珠が茹で上がったエビにそのままかぶりついて痛い痛いと喚き始めたので慌てて口からひったくり、頭を取って殻を剝いて手渡してやる。
「尻尾の堅いところは食うなよ」
「う。わ、わかってますよ。それくらいわたくしだって、がくしゅーと云うモノをですね――」
やんややんやとエビの一匹で騒いでいると、反対側から不機嫌そうな声が飛ぶ。
「気持ち悪いので黙って食べて頂けます?」
「な、なんですか。羨ましいからってっ」
「何であたちが羨ましいなんて思うのよ。ばっかじゃないのっ!」
「こゆり」
突然なにやら激高し始めたタヌキ娘に対し、酷く落ち着いた声がただ聞こえた。
「にぃ――」
「……」
啜っていた椀から顔を上げたかと思うと、タヌキ娘を一瞥の後、すくと立ち上がって広間から出て行ってしまった上司。ここに来てから上司の態度がなんとなくおかしいのは理解していたが、こうもあからさまに態度が悪くなると余計なことを考えたくなるものだ。あまり人様の家庭の事情に口を挟むのはよろしくないのだが……
「あの、警視のお兄さん方で……合ってますよね?」
とりあえず周りの関係者から埋めて話の筋を探したい。実家に帰ってきてから態度がこうも悪くなってしまっては本人から何かを聞き出すというのは難しいだろう。ならばこそ、他に知っていそうな人間に、それとなく訊いてみるのが一番だろうとは思ったのだが……
「いかにも。長男のカズチゴと申します。あちらに控えているのは次男のフチトセと申します」
丁寧に名乗って頂き、更に次男までも紹介してもらったのだが、名前が良く解らない。どういった字を当てればカズチゴになるのか、フチトセになるのか。父親の名前がホウジンだと言うのも村山の混乱の原因となっているが。
「変わったお名前ですけど、もしかして警視も変わった名前だったりします?」
「君は名前を知らずにアレの部下をやっているのかね。アレの名前は弓張ミチヨだ」
「ミチヨ、ですか」
何となく想像していたよりも解りやすい名前だったものの、それでもミチヨとは、女性名に多い名前ではなかろうか。たまに女性名、男性名との判別の付きにくい名前があるが、村山からしてみれば上司がそんな名前を呼ばれることを気にするような人間だとは思えない。実際、今日も「みーちゃん」などと呼ばれても平気な顔をしていた気がする。
上司の不機嫌の理由は名前を呼ばれて恥ずかしい思いをしそうだとか、そう言った下らない理由ではない様だ。
「自分の事も、係のこともあまり話してくれませんよ」
そんなことを愚痴ると、黙って箸を動かしていたホウジンが箸を置いて答えてくれた。
「そうか。君の居る係とやら、アレが作ったモノだ。私たちに対する当てつけのようなものだ。私たちのやり方では誰一人救えないそうでね」
村山の頭では全く話の内容が理解できないのだが、係の存在理由はあの得体の知れないモノを相手に捜査する事だと当の弓張警視が言ったのだから、ホウジンの言う私たちのやり方とは、似たような行為を行っているということなのか。
警察機関だからこそ出来うる行為であるのかとも思っていたのだが、こちらでも似たようなことが出来るのか。確かに、弓張はあのデルシェリムさんの事を『実働部隊』だの『上の方』だの、そんな様な事を言っていた気がする。そうなると、下部組織が色々な場所に有ってもおかしくはないのだが……
「そうなると弓張家の事も何一つ訊いていないと」
「え、ええ」
ホウジンが座している姿は既に高僧然としていて、これ以上口を挟んではいけないような気がする。その口からはき出されるのは有り難い説法ではなく、
「弓張家。我が家も分家の末端ではあるものの、仏教伝来よりも遙か以前から伝わる古神道の流れを汲んで術を執り行っている」
「術……ですか」
「そうだ。有り体に云えば魔法や魔術を執り行っている」
何の臆面もなく言い放ち、それも上の座で背筋に鋼でも通したような正の座で、村山を見据えてきた。嘘偽りがない、と。これは嘘言や妄言ではない、と。
上司があの安っぽい人工皮のソファーに寝ころんで同じ話をしたらどう思うだろうか。
顔に出ていたのだろう。信じられないのは無理もないとばかりに、ホウジンは話を続けてきた。
「この国は…… いや、この国に限ったことではないが、人類史は常に宗教や思想というモノに支配されてきた。その根幹にあるのは常に真理の探究であり、同時に理想への憧憬を強制する事にある」
「は、ははあ……」
村山にはホウジンの言うところの真意まで汲めているとは思っても居ないのだが、なんとか理解しておかねば、自分が関わってきた事や弓張家の三男が作ったという係の存在意義も解らないままになってしまうかもしれないと、必死に解釈の速度を上げる。
「人を占う事によって思想や心理を誘導し、影響力を拡大する。同じ概念の元に、人の意識は同じ規範を持った意味を創造する。そこに存在しうる力を御する。これが魔術や魔法、術の理だ」
「……それで、その。具体的にはどういう――」
「そこらの神社と何ら変わらぬ。御守を分けたり祈祷するのが主だ」
「……普通、ですね」
「そうだな。それが普通だと思い込まされているだけだがな。今に伝われる宗教は、殆どがその本来の意図と異にしている」
村山はそれほど信心深い訳ではない。だがだいたいどの宗教も確かに教義や理念というモノを真っ当に、一切の人の思惑なしに受け継がれてきたモノだとも思わない。
時の権力者が己が望むがままに『利用』したという歴史が何よりも証拠ではないか。
村山の右隣でホウジンの話を暇そうに聞き流し、なぜかエビの頭を噛んでいる真珠が「その話はいつ終わるのか」と、臆面なく表情に出して村山の袖を引いてくる。ただ、その袖引きが気を引いているのか、小さな土瓶で煮たエビの汁を拭いているのか定かではないが。
「ということは、自分たちが知っている祈祷やお守りは、本来の意図とは違うと云うことですか」
「意味合いとしては正しいが、元来の性質が失われていると云うことだ」
「性質ですか……」
唐草色の茶碗を左手に持ったまま、村山はあまりにも失礼な状態で会話している事に気がついた。そっと膳に戻し、箸も置いて聴く姿勢を整える。
小綺麗にしてはあるものの、この建物も如何せん古い。柱や梁も旧家然としていて、ここにどれだけの年月、居を構えて来たのだろうか。
「神道は何を払い、何を清め、何を結んでいるのか知っているだろうか」
「清め、払うと云うんだから邪気とか、悪いモノとか……結ぶのは、人と人とのご縁と云うことですよね?」
「悪いモノ、良いモノを誰がどう区別するというのかね。縁というものも人と人とを結ぶだけではない。元々、我々は自分たちの教義や行いに名称を付けていない。他の信仰や思想の存在に、相対的に神の道、神道と名付けられただけだ。そして名は体を表すモノでもあるが、名に縋りついただけならばその意味は失われる」
神道から、古き名もなき教えから、何が失われたのか。
「名は体を表す。ですか……」
村山慶次。村山はもちろん苗字だ。表したのはたぶん山の中の村か、山を所有する村と言ったところだ。
ならば慶次はどうだろう。これは自分に付けられた名前だが、体を表しているのだろうか。それに、名前が慶次だからと、国家公務員の試験を受けて警察官になって正義面しているのは誰だったか。
「古く、我々は悪しき者を払うなどという事はしていない。悪とは力を指す言葉で、人間の下心を指すモノではなかった。悪と聞いて良くないモノのように捉える風潮が生まれたのは、力を持って人を制し、圧する事によって支配しようとする者が現れたからだ。その悪の『暴虐、支配』を『払う』為に力を振るわれたのが我が弓張家の始祖。鳴弦を行う為の弓に、弦を張る者」
「その、悪と云うのは……」
「人ならざるモノ。鬼や妖怪、化け物。余所の教義では悪魔となろうか。それらはすべて始まりを同じくする」
「もしかして、宇宙人ですか……」
「あれは、そう説明したか」
ホウジンの、村山を正鵠に据えていた視線が逸れた。見ていたのはタヌキ娘の方、おそらくその後ろのふすま。三男坊が出て行った場所だ。
「確かに、そう説明すればある意味で正しいが、安易に言葉を選びすぎたな。正確には、我々の母であり、父であり、最も近しい『悪』だ」
その『悪』は、悪者だの悪人だの、そう言った悪ではない。
先ほど語ったのだから『悪』であるのだろう。
「人は生まれ、いずれ死ぬ。それは是である。だが、いくつかの『悪』にだけは抗わねばならぬ。あれはそもそう云う役割の元、我々の前に現れる」
「はあ……」
どういう役割を持ってデルシェリムさんの様な存在が現れるのか。そもそもデルシェリムさんはこちら側に与していて、三島という存在は人間ではないかと蛭ヶ谷が報告していたように思う。話している事が逆ではないのか。
「だが『悪』と対等に渡り合おうというのならば、同じだけの『力』を、若しくはそれ以上の力を持たねばばならない。そうして『悪』と同等の力を得た者は、力持たぬ者からどう見られるのか」
「『悪』と変わりない……ですね」
「悪とは、心の依り代に因って移り変わる」
目を閉じて、村山など見ずに言った。それらの話は村山の期待したものではないが、思うところはある。
あの屋上で得体の知れない物体を倒したのは、同じくらい得体の知れないエセタヌキ。得体の知れない三島とやらの恫喝、教唆を受けて子供を隠していたのは同じように得体の知れない真珠。得体の知れない塊を相手に、得体の知れない犬のおまわりさんが立ち回った光景も見た。
今日だって得体の知れない犬に追いかけられ、得体の知れないタヌキ娘に助けられもした。
今まで見たモノの殆どがふざけているのだが、そのどちらも客観的に見れば変わりないだろう。どちらかの側に立って初めて相手を、敵と認識する。
敵に向かって悪と名付け、己の行いを正当化するのが正義だと言うのなら、確かに『悪』とは移ろうモノだろう。
「おとうさま。話は明日でよろしいのでは。今日はお疲れでしょーし」
「……そうだな。これは失礼した」
途中で話を止められても正直なところ困るのだが、これはタヌキ娘が明らかに腰を折るために割っていったのだろう。そもそもここに連れてきた張本人から話を聞いていない訳で、確かに明日でも良いのかも知れない。
「ところでお兄様。これはえびが入っていたので、えびぴらふで間違いないですよねっ」
「違うから……」
真珠の真剣な問いに、タヌキが薄ら笑いを浮かべていた。
「――っ!」
「~~っ!」
「……」
夕食の後、村山は部屋に戻って既に寝る態勢に入った。寝るに当たってスーツままの寝るなどという事は出来ないので、ハンガーに掛けてふすま桟の出っ張りに引っかけて吊しておいた。寝間着や下着などはなぜか各種サイズ新品が取りそろえてあり、着るモノには困らなかったのだが、余った下着はどうすれば良いのだろうかと途方に暮れそうになったところで、あまりかわいらしくない薄ら笑いを浮かべたタヌキ娘が残りを回収していったので、それは別件での客用に使うのだろう。
タヌキ娘に浴衣の着方まで丁寧に、それはもうしつこいくらいに教えられ、村山はタヌキ娘にカンシャして部屋から追い出した。
浴衣くらい適当に前が開かないように縛っておけば良いのではないかと思ったのだが、タヌキ娘に蹴り回されたあげく、死にたいのかなどと酷い形相で怒られた。
そんな嵐が過ぎ去って行ったのだが……
「~~っ!」
「×○□△Ω√っ!」
ふすま数枚と、更に廊下越しでも奇声を上げていると解るほど、真珠と滝川の部屋でタヌキ娘を入れての荒れ模様らしい。
どうせまた真珠とタヌキ娘がやんやとやり合っているに違いない。それで滝川警部があきれて怒り出すのだろう。対処は彼女に任せれば――
「うぉにぃさまっ!」
嫌な声が聞こえたかと思うと、どたどたと廊下を走る音が二つ。あまり聞きたくない、何かを破砕するような音を立て、村山があきれて眺めていたふすまが吹き飛んだ。
「……」
「う、お、お兄様聞いてくださいっ! わたくしの寝間着だけさうなすーつとかいう、かわいくない――」
「アンタが元々かわいくないんだからこれで良いじゃない。蒸し焼き鳥にでもなれば良いのよ」
下着姿でふすまを蹴破って現れた真珠がやんやと言い始めたところに、銀色の、だるまのような物体を手に持ったタヌキ娘が現れた。
こうして二人並んで見るとだいたい同い年くらいに見え、ある意味で仲の良い友達のようにしか見えない。ただ、並びには拷問官と痴女の図だが。
「お兄様と同じ浴衣が良いですっ! て云うか、お兄様の浴衣がいいでへへへっ!」
「さっき着ていた浴衣はどうしたの」
「お、おふろ上がりに隠されました……」
足音がもう一つ追従。二人のとててとした足音よりも一回り重いのは――
「タヌ吉っ! まみちゃんっ! いい加減にして」
顔を真っ赤にした浴衣姿の滝川警部が現れ、タヌキ娘の首根っこを右手で引っ掴み、空いていた左手で真珠の肌着を摘んで引っ張ってゆく。村山の目の前で真珠の肌着が脱げないように、怒っていつつも気を遣いながらの退去に、滝川警部の人の良さを感じるのだが……
「ふへっ! ふへへへっ!」
引っ張られて見える腹部を村山に見せつけながら、意味不明な笑みを見せつつ真珠は部屋を退出させられた。
「あいたっ! わたくしお尻を強打しましたよ。ちょ、まりねさん、お尻痛いです、やめ、段差が、段差がっ!」
隣の部屋で何が起こっていたのか知らないし、この際知りたくもないのだが、平穏無事に寝付けることを切に願う。枕元に、火薬を置いて願うのも何だが。
一人、暗がりの道を歩く。山の斜面を下っていく足が、長年の経験によって上手く運ばれる。それに、星の明かりで道が見える。都会に出て行って、暗がりを歩くことを忘れたのではなどと思っていたのだが、人間、一度身についた能力はそう簡単に消えないらしい。
道を行き、多少平坦になったところで明かりの消えた一件の店がある。
男は、躊躇無く、その薄っぺらい店先のガラス戸を叩いた。
「おい、ババア。いつものだ、いつものっ」
「あーもう、まあああったアンタかいっ! いっつもいっつ―― んあ……三千代ちゃん、帰って来たんかい」
「条件反射かよ……まあいいや。ばあさん、ほらいつもの、いつもの」
午前十時開店、午後五時閉店というド田舎の店。その店の明かりを付けもせず、軒先で弓張三千代はいつもと同じように手をひらひらと振って腰の曲がった老婆を急かす。
「アンタねぇ、若いからって糖尿になるよぉっ! 竹井のところの四男の……なんていったか、アレも三十過ぎて糖尿だって――」
「あーもう。良いから早くいつものやつをだな――」
星明かりしかないのに、上手い具合に冷ケースから三袋を取り出して老婆は言う。
「三千代ちゃんはいつになったらキャンデー卒業するのかね」
「人の食い物の趣味にケチつけんなよ。ほら、金」
「まいど。おとといきやがって下さいね。くそぼうず」
この暗がりで弓張三千代は二百円を手に乗せて差し出したのだが、次の瞬間には同じ手のひらに釣り銭が乗った。二十円。どうしてか差し出した手を引っ込めるタイミングも昔通り。暗がりで殆ど見えなくても、覚えている。
もう一つ。憎まれ口を双方叩いても、笑って見送る老婆の顔を、今でも覚えている。