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暗いのは洞の中か、洞よりも外か。ヒトの目に映る場所のみが暗い訳ではない。闇を見初めるのは、暗き世界か、見る者の心の内か――
上司の怠そうなことこの上ない背中を眺めつつ、狭く暗い通路を戻って往来に吐き出される。
拳銃云々の話や魔法使いがどういうものかを少々聞いただけで、出た頃合いには日が傾いできていた。店から出た通りは狭く暗い。場所が場所だけにあまり治安も良くないのだろう、狭い通りの脇にはあやしい看板が出されていて目の毒以外の何物でもない。
こんな猥雑な場所に良くて高校生、悪ければ小学生のような男二人が出入りしているのだと思うと可哀想で仕方がない。
まったくそんなことはおかまい無いとずかずか人をかき分けて進んで行く上司の後ろ姿を眺めながら村山は歩んだ。
時折、道の脇にある扉が開くのだが、そこから嬌声が聞こえる時がある。来た時からなんとなくこの場所はどういう場所のなのか分かったのだが、あの二人がここを歩いていると思うと、今日持っていないことを悔やんだバッチを路肩の青いポリバケツに放り投げたくなる。ただあの二人の為に投げていたのならこれから何度投げなければ良いのか分からなくなるだろうからと、村山は無力を拳で握りつぶすことにした。
「冗談抜きで――」
上司が何事か、正面を向いたまま話し始めたので慌てて後を追い、横に並ぶ。周りの人間が嫌な顔をして二人を避けて通っていったのだが、それどころではない。村山の勘が、聞き逃してはならない話を上司はこんなところでしようとしているのだと言っているのだ。
「冗談抜きで、これから戦争になるだろう。お前が頼れるのは俺じゃない、さっき貰ったソレだ。俺も、俺の身を守るのに手一杯になる。お前の面倒はこれ以上見ないからな」
「これ以上って、今までだって放任してたじゃないですか」
村山自身、上司に、弓張に守られてきた気がしないのだが、上司はそうではないと言いたいらしい。どういう意味なのか問うてみたい気がするのだが、残念ながらそんな暇はない。
村山が運転席に乗ると、何故か弓張は後部の三列目のど真ん中に陣取った。
擦れたりへこんだりしているキャブワゴンタイプの車が駐車場にある光景は異様だった。見た目には型が新しく、最近出たばかりの高級ファミリーカー然としているのに、どうしてか悪路を走破して敵陣を突き抜けた軍用車然とした歴戦ぶりを主張している。
そんな車に男二人、片方は拳銃を所持した者が乗り込むのを見られていたら恐らく不審者、不審車両として通報されていたのだろうが、幸いにも無人のコインパーキングだったので面倒事は回避できたのだが、コレを蛭ヶ谷に見せた時の面倒事の責任は上司に負って貰うしかない。
村山は蛭ヶ谷の怒りの矛先がこちらに向かない様どうすればいいのか考えつつ、シートベルトを留めた。そういえば、上司は先ほど戦争になると言ったのだ。よもや蛭ヶ谷相手のセンソウに巻き込まれても保身は自分でどうにかしろという事か……
運転席に一人うなだれ、ハンドルに支えられて村山は生きている気分になる。上手く舵切って生きていけるのなら相方が車でも良いのではないかと思えてくる程だ。ただ自分が寄りかかっているのは他人の持ち物なので、自分で買ってから考えたい。
寄りかかっていても進むはずもなく、任されたのは村山自身なのだからその任を果たさなければならないと、キーを回してエンジンを始動する。
振り向いて上司に出て良いのかと問うまでもなく、
「村山、帰って良いぞ」
「……はっ、タヌキはどうするんです?」
「んあ? ああ。それなら大丈夫だ、今から呼ぶ」
車を出せと言っておきながら自分はシートベルトもせず、二列目のシートとなにやら格闘を始める。どうにもシートを倒したいようなのだが、あまり車のシートを倒したことがないらしく、見当違いの場所をまさぐってはウンウンと唸っていたのだが、終いには「設計通り」の倒し方が分からなかったらしく、三列目から二列目の背もたれに蹴りを入れて倒そうとしていた。それで倒れる訳ないだろうに。
「二列目のシートクッションを開いて背もたれを倒すんですよ。左の扉側の下の辺りに――」
「早く云えよ」
「倒したいなんて聞いてませんから……」
ハンドルに両腕を置いてそこに顎を乗せる。上司が後ろでなにやら作業を始めたのだから車を出すわけにはいかない。終わるまでの間、村山はなにをして良いのかさっぱりで、駐車場横の、民家の白い壁を呆けて眺めるほか無い。
「おい、どうした。出して良いぞ」
「はあ――」
ため息だか、呆れて返事を返したのか村山は自分でも分からなかったが、上司は三列目の席に陣取って、なにやらアイスの棒きれを二列目の座席を倒して作った台に並べ始める。車を動かせば滑って崩れそうな気がするのだが、それでも構わないと上司が顎で出せと執拗に指図してくる。
村山としてはどうしようもない事なのでさっさとバックギアに入れて車をまずは駐車場から出さねばなるまい。
左右のドアミラー、ルームミラーで確認しつつ車を後退させ、駐車場から出ようとハンドルを回す。ルームミラーには器用に腕を組んだまま三列目に陣取る弓張が見え、二列目のテーブル化したシートの上にある棒きれは、張り付けられたかの様に滑り落ちる事もない。
ソレばかり注視していては運転が疎かになってしまうと、村山は気を取り直して運転だけに集中することにした。意味の分からない事に関わるのは止めておこうと思ったからであるが。
上司の考えなど知ったことではないと車を回し、通りに出て目指すは上司の実家だ。そこなら大丈夫だと上司が言い切ったので信用したいのだが、後ろでいつか見た大の字が連なったような紙を広げ出したので不安でもある。
また奇っ怪な光景が後ろで繰り広げられ、タヌキが間の抜けた様な音と共に白煙を上げて出現するかと思うと、両手を高く上げてやりたい気になってくる。生憎と運転中なので自分の為にそれはしないが。
車で走ること約二十分、どうしてか後ろで間の抜けた音もしないし、タヌキも現れない。ルームミラーに映るのは難しい顔をして両の手を合わせている上司の姿だけで、アイスの棒に変化はなく、どういう理屈でそうなっているのか分からないがアイスの棒の直上で大の字型の紙切れが環を作って浮いていた。
どこかの屋上で空飛ぶ化け物や、地下で飛び跳ねる肉の塊を見たので、今の光景に驚こうにも、今までの比較対象の方が異常性が高いことを承知している為に、どうにも村山は始終を冷めた目で眺めていた。納得はしていないし、理解もしていないが、馴れ始めている事にも醒めた思いであるが。
車は高規格道路に入り、高速走行を始める。
ここまで何事もなく走ってきた。何事もないというのは別に襲われたりしていないという事ではなく、後ろに陣取って難しい顔をしたままの上司が、一向に動かない事にある。
同じ姿勢のまま、両の手を合わせてなにやら額に玉の汗まで浮かべて二列目の紙や棒きれを拝み倒している。
なんどとなくルームミラーで確認してみるのだが、村山の運転の荒や村山の視線は意に介さないらしく、あの普段テキトウで尊大な上司が微動だにしない異様な光景が鏡の中にある。
車を高速で走らせているので村山自身が振り返って後ろを見るわけにはいかないので、鏡の中の光景が本当の事だと思うほか無い。村山自身が振り返って確認すればそれが本当のことだちゃんと理解するのだろうが、良く解らないものと相対した感覚は普段の認識にすら影を落としたらしい。自分が間接的に見ているモノすら疑わしいのだ。
嫌な場所に赴任したモノだと、ため息を吐き出しつつ高速道路の先を見据える。
車で時速六十キロメートル以上の速度で走ることを目的として作られた道なので、曲がっていたとしてもそれほどきついカーブではない。
ただ、両側が山に囲まれているので見通しの悪い場所もあった。
見通しの悪い場所で気を抜いて事故など起こしては上司の実家まで行く意味をそっくりそのまま失ってしまうので、ハンドルを両手で握りしめてかかる。
何事もなく切り通しのような場所を通っ――
ミラーの中に奇異なモノが映ったような気がする。別に後ろに陣取っている上司が変な顔をし始めたとか、上司の前で何か変化が起こったとかそう言う事ではない。上司よりも後ろ、ハッチバックのドアに填っている窓に海の色かくやと言う程、青い何かが見えた。
それが気のせいであればどれだけ良いことか。
ミラー越し、後ろの窓から見える。
青い犬のようなモノが追いかけてくるのが。
「けいし……あの、ちょっと良いですか」
「んだよ、集中してるんだから話しかけるな……」
「なんか、追いかけられてるっぽいんですけど……」
真っ青な毛皮を持った犬など見たことはない。それも車に追いついてくる程の速度と、ミラーと窓越しに見える大きさがおかしいのだ。車と同じ――むしろ中型のトラックくらいの大きさではないかと思える様な、犬の様なドウブツが追いかけてくる。
「けいしっ、あのっ、後ろにですねぇ――」
「後にしろ」
「いや、無理そうなんですが――」
ミラーから見える後部の窓に、犬のようなドウブツの大きな顔が迫っていた。額で車の後部に突撃をかましてきたらしい。
カーブを通るので時速八十キロ程に減速していた事が幸いして、派手な横転や壁に突っ込むなどと言うことは無かったのだが、流石に車の後部に衝撃を受けてまともに走れるはずがない。なんとかハンドルを握りしめて操舵したものの、派手に車体を高架道路の防音壁に擦り当てて走る事になった。
車は蛭ヶ谷の物だが、防音壁に左側面を当てた時に吹っ飛んでいったサイドミラーは誰の請求になるのかと、村山は現時点では意味のない、余計なことを考える。
既に自分自身が逃避し始めている事にも焦りを禁じ得ず、ハンドルにしがみついて何に頼ればよい物かと思案したものの、頼って倒すのはアクセル以外に無いのだと割り切り、全開にして逃げを打つ。
真っ青な犬は明らかに殺意を持って車を攻撃してきている。
そんなヤツに追われて全く対抗手段がないのは辛い。後ろで何か目的を持って瞑想のような状態に入った上司は動く気配が一切無く、村山が自分の腕で操舵し、車で一本道を逃げるしかないらしい。
幸いなのはどれだけ飛ばして走ろうとも、先行車が居ないことであった。
中央分離帯の存在が酷く恨めしい。もし出来ることなら対向車線すら逆走して犬に当てられないように逃げたいのだが、残念なことにずうっと脇を固めてくれる中央分離帯が恨めしくて仕方ない。
「あのっ! ヤバイと思うんですけど、この状況っ」
「……」
ミラー越しに黙りを決め込む上司を見やる。瞑想に入った上司はどうしてか触れてはならない、この世の物からかけ離れた存在に見えた。話しかけておいてなんだが、どうにも止めておけば良かったのではないかとも思えてくる。
コレでまたタヌキを出して半分だったなんて事にでもなったら……
「来い。天野傘小遊狸主神」
いつかと同じく白い煙で後方が見えなくなった。ミラー越しに後ろを見て当てられないように気を付けていたのだが、まさか身内から妨害を受けるとは思っても見ない……
しかし、煙に巻かれている車への体当たりは行われなかった。煙を嫌ったのか、不審な動きがあって警戒したのかは分からないが、真っ青な犬は様子見に徹するらしい。
「うほぉっ! げほっ! ちょっと、ちょっと警視。何かするなら前もって…… ぎゃあああああっ」
「いやああああっ!」
煙で染み入る、それこそ文字通り目の敵である上司を睨もうとミラーを見やると、全裸の女の子がアヒル座りの図である。
誰?
そして車内は少女の絶叫で揺れる。主に揺れているのは見るななどと言って暴れ回る少女のせいなのだが。
「こゆり、これ着ろ」
「うぅ……」
上司の一言で何か嫌な予感がするのだが、今は車の運転の方が大事である。子供の裸くらいで喜びゃあしませんと、村山は無視を決め込んで今ある危険との対峙に専念しようとしたのだが――
「死ねばいいのよっ! 三下なんて死ねばいいのよっ」
どうにも聞き覚えのある声がする。嫌な予感は言葉の中にも如実に表れていて、村山のことを三下と呼んだモノはソイツしか居ない。
「あんたぁっ! あたちの裸見たでしょっ! 死ねっ! 死ねっ!」
上司の上着を羽織って前を留めただけの少女が運転席のヘッドレストごと首を絞めてくる。
「ぐるじいっ、ぼんどうにじぬ……」
上司はどうやら、真っ青な犬への対抗手段を出さず、内側に敵を作ったらしい。
「こゆり、とりあえず手始めにヤルのはアレだ。こいつじゃないぞ」
弓張が言った『ヤル』という言葉が『殺る』なのだと言うことは何となく分かるのだが、手始めにとは、次は自分なのだろうかと。上司にどういう意味なのですかと訊いてやりたくなったのだが、後ろにはアスファルトを蹴る速度を上げた真っ青な犬が迫っていた。
「やばっ」
時速百キロ。直線を走っている車が後ろから衝撃を受けたのなら、後ろが横滑りを起こして大惨事だろう。先に当てられてなんとかなったのは速度と村山の腕と、大半を占める幸運の賜だ。
速度に乗った今、車体に体を当てられたら、当てる目を失う。
アクセルを限界まで踏み込み、なんとか追いつかれないようにするのが村山に出来る唯一現状での対抗策であり、本当の根本的対処は後ろに沸いた敵の敵にでも任せるほか無い。
「うぅ……」
村山はミラーを見ることなく自分が蔑みの視線を受けている事に気がついた。弓張がタヌキを出そうとしている事は先例や言動からなんとなく理解していたのだが、形態が違うとは思っても居らず、ましてや人間のようで、全裸で、少女とはどういう了見か。
あれか、上司は変態か。
「こゆり、光束主砲だ。鼻っ面に叩き込んでやれ」
「ううぅっ…… 三下に穢されたーっ!」
勝手に人のことを鬼か悪魔のように仕立て上げているのだが、弓張の命令は聞くらしい。
車両後方十七メートル。幾度目かの突進の予備動作だろう。鼻っ面を下げ、額をぶち当てたいのか、少し右に顔を傾けて真っ青な犬が体を落し始めていた。
キャブワゴンの車の中で、栗毛色の長い髪をした少女が膝立ちになって、弓張の上着だけを纏い、真っ青な犬に相対する。後部のハッチバックドアは犬の突進によってへこんでいるのだろうが、高速走行中にその様子を見に行くだけの度胸など誰にもないだろう。
弓張が三列目から二列目のテーブルに腰掛け、三列目には栗毛色の髪をした少女が陣取る。エセタヌキがよくもまあ出世したモノだとは思うのだが、
「へへっ! ぶっ飛べっ!」
両手を前に突き出して手を重ね、その寸前から光の砲撃が起こる。
鬼や悪魔の誹りを受けた男はその始終を見ることはなかったが、少女はその一撃に満足な手応えを感じた。真っ青な犬が車体に当てようとした額に、自分が放った光の束が撃ち抜いたと――
ただ、一緒に後ろのドアが吹っ飛んでいったが。
「蛭ヶ谷さんになんて云うんですか……」
「い、犬に噛まれたって……」
這うようにして車の中を移動し、助手席に腹ばいになったまま移動してきた上司。出すだけ出して、後ろの狂犬と露出狂の少女を放置、無責任の呈らしい。
大量にある懺悔の材料をどうする気なのかと。後部のハッチバックドアもどうすればいいのか。誰が弁償するのかとか、道路交通法的にどうなんだとか。そんな何よりも――
「まだ追ってきてますけど……」
「アハン?」
左のサイドミラーは先ほど壁に擦り当てた時に吹っ飛んでいったので、上司は助手席から後ろをのぞき込んで確認する。
ルームミラーでチラチラと確認し続けているので、村山自身既に驚く程ではない。
体勢を崩したのか、大分置き去りにした感は有るのだが、真っ青な犬がミラーの中に確かに見える。それを確認したのはどうやら村山だけではないらしい。
「こゆり、近づけるな」
「うん。にぃさま」
聞き覚えのある語感で上司に答える少女。上司の上着一枚で、後部ドアの吹っ飛んでいったキャブワゴンの後部座席に堂々の膝立ちで待機している。裾や袖の余る上着のおかげか、ミラー越しに見ても法に触れるようなブブンは見えないが、世界の理に触れていそうな存在なのでそういう気遣いは無用だろう。
そう言うことで、なりふり構わない。
「あわわわわっ」
目的の高規格道路降り口手前、最後のカーブにさしかかっても村山は速度を落とさなかった。完全に逃げ切る為にはここ以外無い。もし高規格道路を降りてしまったとして、小さな集落のある場所で高速走行を維持できるか怪しい。道幅も狭い上に、人が歩いていれば大事故につながる。だからこそ、引き離し、あの『エセタヌキ』にヤツを倒して貰って安寧を得る以外に逃げ切る方法はない。
少女がカーブで体勢を崩し、車内で尻餅をついてへたり込んだ。一瞬振り向いて恨めしそうな目をしたのだが、村山は謝る気も無ければ文句を言われて平然としていられる程、平静を保てては居なかった。
「もう一発、今度は足を狙え」
「う、うんっ」
走っている最中に足にダメージを受ければ大体の生き物は追っては来ないだろう。まともな生き物の場合は、と言う注釈が付きそうだが。
後ろで先程と似たような姿勢を取って、少女が真っ青な犬に狙いを定め、次の瞬間には光の束を放つ。太さはそれこそ千穂公園で見た樹木の太さ程で、長さも似たようなものだ。そんな光の束が襲い来れば人間でなくとも恐れおののくだろう。
だが、
「――に、にぃさま。その…… 食べられました……」
「んあ?」
半身になって助手席から後部を眺めていた弓張の顔が凍っている。食べられたとは言うが、少女は喋っているので少女自身が食べられた訳ではないようだが――
ルームミラーで後方を見やる。
なぜか先ほどより肥大化した真っ青な犬が、もう寸前まで詰めてきていた。
「いっ」
あの光の束を、食って吸収したと言いたいらしい。
視線を前に戻し、降り口にハンドルを向ける。緑色の看板を見落とさないように気を張っていたおかげで降り口自体を通り過ぎることはなく、なんとか料金所に向かうことが出来た。料金所自体は存在するのだがそんなものは過去の遺産であって、数十年前から無料区間として供与されているらしい。ついでに無償の慈悲も供与しては貰えないのかと。
高規格道路から料金所までの区間は減速を余儀なくされる区間であるが、村山は出来うる限り『無視』した。どうせ料金所には人は居ない。実際、今日二度ほど通ったがそのどちらも人は居なかったのだから、誰に咎められることもないと、あの膨れあがった青い犬から逃げる為に警察官の矜持を今だけ封印することにした。
「なんとかならないんですかっ! アレッ!」
「あー、そうだな。俺たちにはむりかなー」
アイスでも買って置くんだったなぁ、などと現実逃避に入る上司をヒトデナシと心の中で認定し、村山は唯一頼れる他人の車のハンドルにしがみついた。
時速百キロ超で、ボコボコになった車は料金所の間を抜けた。
車体のフレームが歪みに歪んで操舵の難度が上がっていたものの、無事に通過できた事を喜びつつ、真っ青な犬の対処に絶望しかけた所で――
「あ、挟まった」
「……は?」
その言葉がどういう意味なのかと、何事か起きたのかとミラーを見やると、あの真っ青な犬が料金所のゲートに頭を突っ込んだまま、なにやら唸って暴れていた。
「ゲグググッググゥッ」
「……太ったのは、予想外だった。とか?」
なにやら良く分からない光の攻撃をして太らせた本人が、一番バカにした風な顔で二人に尋ねてきた。それに答えられるだけの余裕など有るはずがない。
高規格道路から降りて一般道を走ること十数分。行きの蛭ヶ谷が如何に安全運転していたのか分かる程、歴戦の様相を呈す車を軽快に運転し、蛭ヶ谷達と別れた場所に向かう。暗くなった山間部を走ると嫌でも虫がヘッドライトの紫外線に寄せられて、壊れたハッチバックからの流入が凄いこと……
「いやああっ! 虫いやああああっ」
「お、おちつけ」
車体の左を高規格道路の防音壁に擦り当てた衝撃でフロントガラスにひびがいくつか入っていた。
助手席に少女を抱えた上司が座り、ひび割れた場所に勢いよく虫が当たって弾ける。そのたびにひびがミシミシと嫌な音を立てながら内側に衝撃を逃がしてくるので、少女は涙目になったまま暴れていた。
真横で上司の上着を羽織って前を留めただけの格好で暴れられるとどう反応して良いモノかと村山は困惑した。
真っ青な犬が追いかけてきていないと分かるや、馴れない山間部の運転に細心の注意を払うべく、蛭ヶ谷もかくやと言う程に安全運転を心がけたのだが、仇になった。
「入ってきたっ! 虫っ! いやああっ! くっついた、取ってっ! 取ってぇっ!」
弓張の指示の元、近道だとかで舗装されていない道に入る為に減速し、右左折する度に虫が車内にどういう訳か侵入してきて、そのたびに少女が暴れる。どういう訳もなにも、ハッチバックドアを吹っ飛ばしたのが原因だろうが。
「動くな、取れん」
涙目になった少女の袖に付いた蛾を弓張はむんずと掴んで後方に捨てる。車内に投げてどうするのかとは訊かない。後方が開いたままだからそうしただけだと分かるのだから。
真珠が居なくて静かな道中になるのではと思っていた村山の予想はひたすらに裏切られ続けた。拳銃を持たされるわ、タヌキが沸くかと思えば真珠と同年代くらいの少女が出てくるわ、変な青い犬に追いかけられるわ、人様の車の状態に苦悩させられるわと、この数時間で全くもって散々だった。
「あの犬、何だったんですか」
「知らねぇ。ただ、向うさんの本気度が格段に上がったのは間違いない」
「本気度?」
「ああ、マジで俺達を殺したいらしい」
「今、俺『達』って云いました? もしかして俺も入ってます?」
「入ってないって思うなら自宅に戻って良いぞ」
「いえ、お世話になります」
本当に疑って聞き訊ねたわけではない。ただ訊いておいてなんだが、上司の認識の内に村山自身の名が無かったとして、犯人側の認識の内に既に村山の存在があるのなら、全くの無意味だ。そもそも弓張の認識に自分の曖昧模糊な安住の場所を求め無ければならないほど小さい自分が情けない。
いつかもそうだが、タヌキに頼り切った自分と、今まさに誰かに縋っている自分が愚かしいことこの上ない。受け取った拳銃だって自分の意思で持ったわけではないが、何も持たぬ自分の唯一の手段に変えなければ、庇護を失った時、自分の存在が如何に脆いのかと思考に落ちた所で――
「おおおわぁっ! バッカッ、前っ!」
「はへッ」
暗がりの山間部、狭い道を車で走っている時、考え事は禁物らしい。
派手に真正面から木にぶつかった。
「うおおおおおおっ!」
惨憺たる愛車を見て、両の手で頭を抱えて暗闇の中に伏せる。
丁度、弓張の実家の前で立木にぶち当たったので戻るには戻れたのだが。『戻らぬモノも世の中にはあるのだよ。蛭ヶ谷』とは弓張の言い訳である。陰湿なダメージを主に与えたのは弓張なので村山は黙って居ることにした。
到着して一旦、栗毛色の髪の少女を連れて弓張は実家へ向かった。すぐに弓張と蛭ヶ谷が戻ってきて、惨憺たる車体と散々な村山を見て、蛭ヶ谷が車に駆け寄り、発狂した。
「虫が多いんですから、ぶっ壊れた車の中で待機って云うのはキツイですよ――」
「うほおおおおおおっ!」
「うるせぇーな。ちょっとへこんだだけ――」
「ドア吹っ飛ばしてちょっとかっ! おいおいおい、左のミラーどうしたっ! どこやったんだよぉぉっ!」
ミラーも何も、殆ど原型を留めないくらい一日で『出来上がってしまっている』のだが、発狂している蛭ヶ谷相手に弓張は氷菓を咀嚼しながらの怠慢の図である。実家に戻って冷蔵庫を漁る時間が有るならまともな言い訳を考えろと。この責任は――
「キホン、運転してたのは村山だからなぁー」
「な、ちょっとっ! 全部人になすり付ける気ですかっ」
一部は弓張が故意に壊したはずなのだが、なにやら保身を謀ろうとする態度に怒りを禁じ得ない。
「最初この辺りで木にぶつけたのは弓張警視ですよね」
「な、何の話を云ってるのか分かんねぇな。だいたい、お前に運転させるって云ったろ」
「百万パーセントてめぇのせいだろ」
パーセントは百までである事に意味があるのだが、どうにも蛭ヶ谷は『凄く突き抜けている』事を強調したいらしい。小学生並みの語彙だったが、それを追求しようとも思わない。
「それより、あいつらは」
「あいつらより、コレだよっ! ボッコボコのコッチが大事だっつーのっ!」
「未練たらしい男は真莉ちゃんに嫌われるぞ」
暗がりで懐中電灯の明かりだけだというのに、酷い形相で頭を掻きむしる蛭ヶ谷が言葉を返す。
「うるせぇっつーのっ! しかも特定して云うんじゃねぇっ!」
「ったく、うるさいな…… 車の中で真莉ちゃんときゃっきゃうふふしたってバラすぞ」
「だぁあああっ! まだしてねぇーよっ! もう黙れよぉっ!」
「お前、自爆したぞ……」
いつまでも暗がりで、虫を集める熱源三つが車の周りで中高生のような話をしている時間は無意味である。
「あの、俺そろそろ疲れたんですけど。お宅には上げて貰えないんですかね……」
三箇所。攻防の末、蚊に刺された名誉の負傷。
弔いの為か自暴自棄か分からないが、車の元に残った蛭ヶ谷を放置して、弓張と村山は弓張の実家に向かう。
本当にこちらに家があるのかと思うような小径が林の中に続いていて、まかり間違って獣道でも歩いているのではないかと思えてくる。そんなモノは結局杞憂でしか無く、徐々にその道幅は広くなり人二人が並んで歩いても窮屈には感じない広さになった時、それが見えた。
時代劇の門構えとでも言えば差し支えないだろうか。門の屋根部分が茅葺きで、武家屋敷にも見える。
門をくぐった先には、いかにも旧家然とした建物。雨戸が全て閉め切られているが明かりが漏れていて人の気配がする。真珠や滝川警部が居るのだろうし、弓張家の家人も在宅であろう。
昼過ぎに蛭ヶ谷達が先に入って話を付けてくれているとの事だが、家人の一人である前を行く男が黙りで歩いているのが気になって仕方ない。
「着いたぞ。真正面から入ればいい、誰か出てくるだろ」
「あの、警視。投げやりすぎません? それにどこ行くんですか」
暗がりで他人の家の玄関前に客を放り出して食べ終えた氷菓の棒を咥えたまま、どこかへ去っていく弓張。街灯のない他人の家の敷地に放置され、明るい玄関前に村山は取り残された。
別に青い犬や三島に怯えるような場所ではないとは思うのだが、それでも頼りになるのは弓張を置いて他に――
「ちょっと三下っ! 何してんのよっ!」
引き戸の玄関を勢いよく開け、村山を半眼で睨み付ける、赤いリボンでポニーテールに髪を結った少女がどうにも不機嫌そうに突っかかってきた。見覚えがある、先程、車の中で。ただ今度はちゃんと服は着ていた。藍色の和装なのが気になるが。
「何してるって、置いてけぼり食らって――」
「早く入りなさいよ」
勝手知ったる何とやらなのか、少女は素足で土間を歩き、板張りへと上がる時に足に付いた砂を軽く払った。あまりにも粗雑な振る舞いだったが、村山の推測通りならこの少女はあのエセタヌキではないのかと。そう言う事なら人間の文化や所作への理解など――
「早くしてよ、三下。アンタをおとうさまに会わせないと、にぃさまが叱られるんだから」
言うところによるとどうやら早く入って家人の誰かに会わせたいらしい。エセタヌキ少女が『お父様』と言ったのだから『エセタヌキ父』だろうか……ただエセタヌキが弓張の事を呂律の回らない語感で『にぃさま』などと言うのだから弓張の父の可能性もある。
どちらにしろここで村山は世話になるのだから、こちらから挨拶させて貰いたいくらいである。渡りにエセタヌキ少女か。
「はいはい。お邪魔します」
「本当に邪魔したらぶっ飛ばすから」
むすっとした表情を崩さず腰に両手を当てて尊大に振る舞う。人が下手に出ればタヌキはこうらしい。
仕方ないので不機嫌そうに髪を揺らすエセタヌキ少女の後ろを、失礼ながら家の中を睨め回すように歩いた。外観は暗くて良く分からなかったのだが、旧家然とした日本家屋ではあるものの、別に陰鬱だったり、暗がりから何か出てきそうなおどろおどろしい感じは無い。むしろ清潔感と清涼感を得られる。
そんな明るい廊下を通り、ある部屋へ案内された。
案内してくれたエセタヌキ少女は思いも寄らぬ行動に出た。エセタヌキ少女はその粗雑だった所作からは想像が付かなかったが、目当ての部屋の前、廊下に正座をした。
「お連れしました、お父様」
「入れ」
楚々とした所作、元来伏し目がちだとでも言わんばかりに視線を落とし、丁寧に両の手でふすまを開けるのだ。村山はその様を呆然と眺めていて、自分が奇異の目で見られている事に遅れながら気がついた。
床の間を背に、客人を迎え入れる体勢を取っていた老獪な男性が、じっと村山を眺めていた。どこかで見覚えのある醒めた視線をくれたのだが、ソレが上司が普段から顔面に張り付けている表情だと思い出し、目の前の男がどういう人間か分かった。
同じ、弓張さんだろう。
ただ何もかもが違うのはその顔にやる気の無さが浮かんでいない事である。どう見ても迎え入れる準備ができていて、対面に座ることを求められている。招かれたのだから断るわけにも行かず、更に楚々として控えている少女が明らかに早く行けと村山の足下にしつこいくらい視線を落とすものだから、村山は郷に入ったのでなんとやら、八畳ほどの部屋に入った。
「愚息の部下だとか。あの様な未熟者の下に就くなどとは、此方は申し訳が立たない」
村山が鬼気迫る男の対面に正の座を成すと開口一番、目の前の男との接点である警視の事が持ち上がる。直属の上司は弓張りなのだから、愚息というのは、そういう事だろう。
「い、いえ。こちらこそお世話に――」
世話になる相手の息子がヒトデナシだとか、テキトウな人間で、現に今も放置されたなどとは言えない。なので村山は正しく、ホントウの事を言うことにした。
「あの、未だに何だか良く解らないんですが、その…… 変な化け物に襲われたときには助けていただいて――」
村山も自分で何を言っているのか良く解っていなかったのだが、聞いている側には十分伝わったらしい。
「あれは、良うやっとると?」
うっすらと瞼を開け、正眼に捕らえる老獪な男が恫喝じみた言葉を投げてきた。言葉の内容をどう捉えれば「恫喝」という解釈になるのか村山は自分の事ながら良く解らなくなったのだが……なんとなく、いや、絶対にそうなのだと直感だけで判断した。
それに、あながち間違ってはいないらしい。
「惜しいな、実に惜しい……」
どこかで見た視線。おそらく屋敷の構造上、縁側の、外であろう方のふすまを眺め、ただ老獪な男はそう漏らした。
老獪な男の横顔を見た村山は思い出す。そう言えば昨日、安っぽい革張りのソファーに寝転がって、事件被害者の遺品である結婚情報誌を眺めていた上司に、似てはいまいか。