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空を自在に飛べたとして、崇高には及ばない。いずれ、地に還るのだから――
かつんかつんと歯に金属が当たる。当たると言うよりも雑に当てて左右に振られていた。重たい金属が歯に当たっていると痛い。それも故意にそうしているのが良く分かるような動かし方で、時折男の嬉しそうな笑いが片方の耳に聞こえていた。
視界は塞がれていて見えない。多分塞がれている。多分というのは、正確には分からないから。顔面がどこも痛いので何とも言えないのだ、自分の眼球があるのかどうか解らない。
額が痛い、目が痛い、鼻が痛い、頬が痛い、口が痛い。顔が痛い。
片方の耳は鼓膜が破れたのか、もうずっと何も聞こえない。
誰かは解らないが、男の声がする。その男が執拗に右側を何かで殴りつけてきて、いつからか右耳が聞こえなくなっていた。殴る度に声を上げて喜んでいるのが解る。そこに居るのは多分自分と男の二人だけで、他に誰かが居そうな気配はなかった。
腕や足を縛られていて身動きが取れない。腕は両方とも釣り上げられている様だし、足は肩幅よりも広く広げられて、床に縛り付けられているらしく一切動けない。
声を上げたくても声を出そうとすると『何故か』息が詰まるほど苦しくなるので絶対に声を上げられない。呼吸が出来なくなって苦しいから、ずうっと前から声を上げられなくなった。いや、声を上げたく無くなった。
体中に痛みがある。顔しか殴られていないのに、どうして全身が痛いのか全く解らない。縛られている部分が痛いことには痛いのだけど、それでも全身が痛いことに理解が追いつかなかった。
がつんがつんと何かが振るわれて顔に当たる。頭の骨が砕けるんじゃあないかと思うほど殴られているのに、意識を失ったりしない。男がそういう手加減をしているのか、痛みを与えることが好きで仕方ないから気絶させたくないのかわからない。
そして好きなだけ顔面を殴りつけ、アラームの様な電子音が聞こえると途端に暴力を止め、聞こえる左の耳元で男は必ず言う。
「キミは幸運だ。キミは神に成り代わる」
それを合図に、男は口にオイシイ何かを流し込んでくる。殺さないために、ずっとこういう事を続けている。いつからこうされてきたのか解らない。たぶん一日一回のペースでこういう事をされているんだと思う。殺さないようにずっと、殴って痛めつけて、その後は何かよく分からないごはんを与えて、最後に治療して男は去っていく。
死なないように、長く多く、殴って痛めつけるために。
八月の十九日。目覚めは最悪だった。
「うぉにいさまっ! 出ますっ! 漏れますっ!」
昨日の夜、村山の部屋に強行突入した、あの強い腕力でトイレの扉を叩く。叩く度に扉が幾度か軽く湾曲した様に見えるのは、寝ぼけ眼でも錯覚ではないと確信出来る程。流石に借りた部屋の扉を割られる訳にはいかない。
村山は蓋を閉めたトイレの上に座ったまま寝ていた。眠いがよろよろと立ち上がり、真珠のために出てやる事にする。鍵を開けてトイレから出たところ、村山の眼前には――
「なにやってんだっ」
「てへっ」
全裸の真珠がポーズを取って立っていた。
朝っぱらから一悶着を起こして村山の怒りの声が響き、真珠がやんやとそれを煽って面倒なことこの上なかった。
村山の部屋を出たのは朝六時。真珠に起こされたのがなんと午前四時のことで、それからずっと説教と身支度と朝食云々に費やした。
朝の六時に家を出るなどと言うことは警察官になってから一度もしたことはない。雑対係に配属されてからというもの、規則正しく八時までには警察署に居たし、雑用があっても午前中で殆どが終わり、雑対係の定時に帰る。
一切早出も、残業も課されて来なかった。
それなのに今日は早く出る。それもこれも真珠のせいである。少女を連れて他の署員達が出かけ始める七時半頃に出るわけにも行かず、更に今日は真珠を連れだっての徒歩になる。早く出ても構わないだろうし、村山には統括第一警察署に行く前に行きたい場所があった。
寮から出る際、なぜか出入り口付近で寮監に呼び止められた。
「おい、村山ァ」
「はい、なんでしょう」
眼鏡を掛けた時の滝川警部に似ている女性。その人こそこの寮の寮監で、どうしてか口調が男っぽい。しかも一人称が俺なので面と向かって話をしなければ性別を疑う程、その口調は男のそれに近かった。
「その子は誰だァ」
「妹です」
村山は臆する事無く、当たり前のように嘘をついた。
どう見ても村山と一回りほど年齢の差があり、顔もそれほど似ていない。更にこれで真珠が余計なことを言い出せば瓦解するような程度の低い嘘なのだが、
「はい。妹の村山真珠と申します。夏休みを利用して、兄の部屋の掃除に来ました」
丁寧に手を前に揃え、深々と頭を下げて顔を上げた瞬間、兄がお世話になっておりますなどと良妹然とした態度で、これからもよろしくお願いしますと終始村山に合わせてきた。
ただこれは単純に朝の件を反省した真珠が守った約束に過ぎず、村山は内心かなり焦っていたのだが、その様子を真珠は横目で村山の反応を愉しんでいる様だった。
恐ろしい限りである。
寮監に早出だと言って別れを告げ、ついでに真珠を実家に送るのだと嘘をつき続け、その場から逃げ出すように寮を後にした。
寮最寄りの大通りに出てタクシーを探す。車の通りはそこそこあって、タクシーも時折通ることを村山は元々知っていた。それでも少女を連れた男の前で簡単に車は止まらなかった。まずその連れ合いが怪しまれた事と、
「お兄様ぁっ」
「……っ」
空いた右手で痛い頭を押さえ、タクシーを呼び止める手を失っていた。
左腕には真珠がひしとしがみついていて、一向に離れようとしない。そのべたべたと甘える姿を見た車のドライバー達はそれを不審がって誰もが止まらないし、路肩に寄せようともしない。村山の手をいじり回して、自分の体を触らせようとしてくるのでなんとか抵抗し続けた。
途方に暮れかけて、ズボンのポケットに入っていた携帯電話を取り出す。最近もっぱら友人と連絡を取る以外に使い道がない文明の利器を使おうと思い立った。
大学時代に飲み会の帰りにタクシーを呼ぶことがあった。その時、今後使うかも知れないと一社だけ登録しておいたものがあった。直接呼びつけたのなら嫌でも止まってくれるはずだ。運転手の誤解は話すことさえ出来れば解けるので、村山はとっととアドレス帳一覧から探しだし、電話を掛けた。
現在住所と人の数と名前を伝えた。朝も早くから担当の事務員さんは大変である。交代制とは言え深夜帯担当や早朝の担当はやはり辛かろう。電話口に出て対応した男性は今にも死にそうな声で、はい、はいと呪詛のように繰り返して電話を切った。村山が救急車でも呼んでやろうかと同情したほどの憔悴が電話口から漏れてきて、朝から憂鬱な気分になった。
タクシーを待つ間、数分間。真珠にべたべたとまとわりつかれて鬱陶しいことこの上なく、デコをぐいぐいと押して退けていると、二人の目の前に一台の黒い車が止まった。
一瞬、黒い個人のタクシーかと思ったのだが、村山が呼んだタクシー会社の社名表示灯を屋根の上に掲げているので間違いない。
後ろの扉が自動で開き、中からどうぞと声を掛けられた。
真珠を押し込んで、村山が追って乗り込む。
「あの、環状通十二号の千穂公園までお願いします」
「千穂公園ね。ちょっと待って下さいね」
タクシーの運転手はそう断りを入れた後、無線機を取って連絡のあった乗客二名を乗せたと会社に報告し、助手席にあったクリップボードを手にとって何か書き込む。それらはものの数十秒で済んだので催促する事もなかった。そもそも二時迄に警察署に行けばよいのだからまだ八時間も猶予があって退屈なくらいだった。
良く喋りたがる運転手が居るが、村山と真珠が乗った運転手は必要なこと以外、一切話すことはなかった。元々寡黙な人なのか、それとも朝も早い時間から運転することに精神的、肉体的負担があって話すことを止めたのかは定かではないが。
自転車で昨日、片道二時間もかかった道のりをすんなりと走り終えた。
朝早かったこともあって車の通りはそれほど多くなく、道は混雑していないし、混雑していないからこそ信号に引っかかる回数も少なくて済んだ。そして客商売か二種免許のおかげか、村山よりも運転技術が高いらしく心地よく目的地までたどり着けたのである。
終始真珠が黙りだったことも幸いして途中降ろされるなどと言うことにもならなかった。ただ真珠が沈黙を守っている事が村山には恐怖でしかないのだが。
公園に到着して支払いを済ませ、村山は車を降りた。真珠はそれに続くようにシートをずれて降りようとしていたのだが、途中詰まって足下を漁りだした。また変なことをし出したのかと思い、真珠の首根っこを引っ掴んで無理矢理降ろす。
「いやん。お兄様っ! めくれてしまいますっ」
「アホ」
ちなみに出がけに穿かせたので大丈夫な、はず。
公園に二人放置され、タクシーは去って行く。帰りはまた呼べばいい。
「どうして、ここに来たんですか?」
真珠はそっと村山の左手を右手で握り、にこやかに訊ねてきたのだが内心は笑っていないだろう。どうあってもここでは掘り起こされると、真珠も考えているに違いないのだから。
「ゆっくり考えようと思って。それと、キミがなんなのかちゃんと教えてくれ」
やっぱりそう来たかと、真珠は村山から視線を外してそっぽを向いた。別に怒っているわけでも、それが嫌なわけでもないようで。単純に、本当に自分がどういうモノか良く分かっていないからこその困惑から目を背けていた。ただ、そんなことは言って貰わなければ村山には解るはずもない。
突っ立ったまま公園の入り口で話すのも疲れると。どうせ真珠がやんやと騒ぎ出すのに決まっているのだから、座れる場所を探すに限りる。
二人が座ったのは、昨日、紙芝居を眺めたあのベンチだった。昨日見たのは紙芝居と、真珠の様な得体の知れないモノ。
「昨日、子供を攫おうとしてたよね」
「……」
村山は真珠の顔を伺いながら話しかけたのだが、当の真珠は正面に視線を固定し、焦点の合わない目をしていた。話したくないことなのだろうが、
「ちゃんと云わないと解らないよ。俺は何も知らないんだから」
黒く長い、腰まである漆黒の髪を真っ白な指先で弄びながら、正面を見たまま口を開いた。
「その、怒りませんか?」
村山の左隣にちょこんと座り、少し首を傾けて村山の顔をじっと見つめて訊ねてくる。
「んー、もう何でも良いよ。昨日、怒って八つ当たりしたし。これ以上怒れるか解らないよ」
真珠は真正面を見据えていた顔をうつむけ、手元に目を落とした。真っ黒なワンピース。全てが黒、ワンピースに付いている飾りも黒いので遠くから見たら判別が付かないが、丁寧に作られたシフォンの真っ黒な飾りが腰辺りに付いている。村山は真珠を見ても黒い服と黒い靴を履いているという認識でしかなかったが、人間くさいというか、そういう装飾に対する感覚という物は普通の人間と変わらないのだろうかと考えてみていた。
「わたくしが人を攫っていたことは覚えています。けれど、自分でそうしたかった訳ではありません。その、信じて貰えるか解りませんが、男の方に云われたんです」
信じる、信じないとは言わない。正直なところそうあって欲しいと願っているのだが、心のどこかで真珠が嘘をついているかも知れないと疑ってもいる。村山には何の明確な事実も情報もない。そんな状態、状況で信じる事も信じない事も、そのどちらも全くの無意味に違いない。
髪の毛を手で弄ぶことを止めず、村山の言葉がないことに少々の焦りを乗せて続ける。
「そ、その…… お兄様と会うずっと前に盗られたんです。その、頭を」
村山自身がそうなのだろうと勝手に思って手渡した真っ白な、白よりも白い頭蓋骨。アレが真珠の物だという事は村山自身がただなんとなくそう思って手渡したのだが、アレは盗られた物だという。どうやって頭を盗っていくのか解らないが、言い訳くらいは聞いてやっても良い。
「その方はわたくしの頭を盗って、その後云ったのです。返して欲しいのなら子供を隠せと」
口を挟むつもりはないのだが、疑問がふと口をついて出た。
「隠す? 連れ去るんじゃなくて?」
「はい。あの方は隠していれば必ず返すと仰っていましたが」
その後に続くのは、約束を守って下さいませんでしたが、だろう。実際頭を返したのは村山で、頭を手に入れてきたのは弓張と滝川だった。
入手方法はとやかく、頭を奪うなどと言う荒唐無稽な話もこの際置いておこう。ただ、どうして奪ったのか、子供を隠すとは何なのか。
「理由は訊かなかったの?」
「その、訊ねられるような状況じゃありませんでした。断れば殺されてしまうかも知れなくて。こ、怖かったんです」
凶器、大量破壊兵器。
真珠は髪の毛を弄ぶことを止め、その手で目元を拭い始める。
あまりな話に同情はしないし、慰めることもしたくなかった。ぽろぽろと粒が黒い服に落下して黒に更に濃い黒を作る。嘘で泣いていても、演技でも、また本当に悲しくて、それ以外の理由で泣いていたとしても、村山にはどうする事も出来ない。
村山には年下の、真珠程の少女とふれあう機会はないし、そもそも人間であるかも疑わしいモノを相手にどう対応すればいいのか解らない。
【アー、アー】
遠く、カラスの鳴き声がする。朝、七時。千穂公園のカラスは全て寝床から飛び立ってもうここには居ないだろうに、村山は悪寒を覚えた。
「わかった。わかったから、もういいよ」
何がわかったのか自分でも分からないが、この場を納めておかないと何となくまずい気がした。自分から聞いておいて真珠を放置するのはこの場ではよろしくない。特に衆鳥監視が有るような場所では絶対にダメだ。
村山は肩掛けの鞄を漁り始める。癖で引っ掴んだ、普段は何も入っていない鞄。
ベンチに座る前、公園の入り口にあった自動販売機で飲み物を二本買った。保冷剤は要らないのに、それでも長時間居るであろうから買っておいた。
二つとも開けて、真珠と村山の間に置く。
「どっちか飲む?」
すんすんと鼻を鳴らし、落ち着いたところで、
「口移しでお願いします」
冷たい缶を一つ掲げ、デコに底面をかつんと当てて拒否してやった。
隣でちょっとずつ口を付けて真珠はアップルジュースを飲んでいる。大人しくしていてくれるならもう一本もくれてやれば良かったのだが、生憎村山は一気に飲み干していて、飲み終わった真珠がやんやと騒がない事を祈る。
祈っているついでに考える。
村山とタヌキがここで会ったのは三島隆、そして真珠。
まず真珠の事は良い、話しても正直これ以上分からないだろう。弓張なら、上司ならなんだかんだと言い出して来そうだが、村山にはこれ以上のことは分からない。
問題は、三島隆の方だ。
弓張に言われた『バッチ』とは警察官の身分証明と共に提示される警察手帳のことだ。警察官なら誰もが持っている。職務中であれば絶対の携行義務が課されていて、私服の、スーツの村山達にも携行義務が課されている。ちなみに今日、村山自身は本来『非番』であるため持ち合わせていない。そもそも警察署に置いてあるので持っているはずがない。
三島隆は制服を着ていて、官給品の白い自転車、無線機まで持っていた。その装備と服装から村山は警察手帳の確認を怠った。怠ったとは聞こえが悪いが、警察官の制服を一般人が着ているとは思いも寄らなかったのだ。
本当に警察官だった可能性も完全に否定できないが、その場合は嘘をつく理由がないのに、存在しない派出所を名乗ったのだからやはり疑わしい。
この公園で最大の謎は、あの三島隆に絞った方がよい。
そう考えると真珠の頭を奪ったのが三島隆なのかも知れないと、そんな突拍子もない事を思いついた時、左の袖を引っ張られた。
「お兄様。先ほどの乗り物にコレが――」
「……」
四つ折りにたたまれた紙切れを手渡され、村山は困惑した。困惑、いやこれは恐怖か。
『先日はどうも、三島と名乗った者です。弓張の三男坊にお伝え下さい。邪魔をするな』
その紙切れを右手で握りつぶし、真珠にもっと早く出せと怒鳴りつけそうになったが堪えた。真珠に当たったところで意味はないし、そもそも間違っている。
タクシーの運転手。確か年配の寡黙そうな男だったことを記憶しているし、三島隆とは似ても似つかなかった。それなのにこの紙が村山の手に渡るように配置されていたと言うことは間違いなく、三島隆が何らかの事実を知っているに違いない。
くしゃくしゃにした紙を握りしめ、村山は動かずにいた。
まだ考える。ここでどう動いたとしても村山には何の手段もない。三島隆が弓張に向けて『邪魔をするな』と言うのだ、ならば直接会った村山自身が三島隆の一語一句を思い出して精査しなければならないのではないか。
弓張の指定の時間までまだ七時間もあるのだから慌てる必要もないし、会う約束が確約されているのだから警察署に行って弓張を探す必要もない。
まず三島隆が警察官としておかしい挙動だったのは階級差。年功序列の警察機関としてはやはり三島隆は先輩然としている方が無難ではなかったか。あの言動全て『一般人』から考え得る警察官像だとすれば納得がいく。テレビドラマや映画で見る国家公務員と地方公務員は仲が悪いと思いこんでいるのなら、三島隆という『役』は村山に対する態度がそうなって然るべきと捉えられるかも知れない。
もう一つ、これは村山自身が反省しなければならない点になるが、三島が言った『増える事案』というモノ。事案として警察が扱った以上、資料や報告書のようなモノが作成されているはずで、口頭だけでその内容を把握するべきではなかったのだ。
事案がそもそも『無かった』可能性が出てくる。実際子供が攫われていたという事が有ったとしても、帰ってきているのなら誰も気がつかないだろう。水飴云々、靴云々。やはり高校生や教員達が事実確認したとしても『靴を履かずに出て行ったんでしょう』で片づく可能性もある。子供自身が靴がないことを他人に言いふらさず、そのまま帰ってしまう可能性もある。
それに、昨日教員と話す機会があったのだが、どうにも増えることも気にしていない様子で、むしろ『どうして警察官が居るのか』という扱いを受けた。
そうなると『増える事案』とは存在せず、あの場で作られた虚偽の情報である可能性が高くなる。
そして最後に、寮を出る時、真珠と打ち合わせた内容で気がついたことがある。
『親御さんに確認すれば学校から帰ってきて、公園に遊びに行ったと言う』
世間は夏休みである。もちろん学校主催の行事が有ったとか、学校の図書館が開放されているから行ったとか、いろいろと思いつくこともあるのだが、三島は学校から帰ってきたという下りを『当たり前』の様に語った。
それに三島が例として上げた親の話はそれひとつで、他に親御さんへ確認した話は一切無かった。複数の証言があってはじめて信憑性を持つのに、ただの一つしか語らなかったのである。
それが事案として認められるかと言えば、かなり無理があると言わざるを得ない。
三島の言葉だけ聞けばこうも問題点が沸いて出てくるのにどうして気がつかず鵜呑みにしたのか。村山は更に考えて自己嫌悪に陥った。
もしかすると、異常に階級について反応した行動は意味があったのではないかと。あれで『階級差』を意識させて村山の自尊心を過剰にさせたのではないか。新任の警察官はある意味で『勘違いする』らしい。
今日から警察官だ、自分は正義の権化だと。
確かに、事案を聞いて自分がそれを解決するのだと思いこんだ自覚が、今になってあったのだと気がついた。エセタヌキを抱えて意気揚々と乗り込んでいたのかも知れない。
あの時、解決にはエセタヌキの力があればどうにでもなるのではないか、と言う無責任さも一緒に抱えていたのではないか。
警察官として、正義を全うするのだと。それしか見えていなかったのかもしれない。
いや。何よりも、自分が見えていないのだ。
村山が三島隆の怪しさと不可解さを有る程度認識したところで、真珠が立ち上がった。
急に立ち上がったので驚いたが、村山の真ん前に仁王立ちになり、見下ろしてきた。真珠はそれほど身長が高くない。現に今も村山よりも少し上から見下ろしているだけで、それほど威圧感もない。ただ、人を蔑んだような瞳で見下ろしてくるので、どうにも居心地が悪く、
「な、なに?」
「公園に女の子と二人きりだというのに酷くはありませんか。お兄様」
どうにも怒っているようで、その内容は構って欲しいというものらしい。
「か、考え事をしに来ただけでね――」
「はあ? 何云ってるんですか。デートじゃないですか、これ完全にデートですよ。さっきだってどうして手を繋いで歩いて頂けなかったんですか? ベンチに座ったならこう……そっと手を重ねるとか、スカートの裾に手を突っ込むとか。お約束が有るでしょうっ」
「どういうお約束なのそれ……」
聞いたこともないお約束をつらつらと語り出したので、村山は聞きたくないとばかりに両手で両耳を塞いだ。その腕を掴み、無理矢理耳から引きはがす真珠。村山は鍛えているのでそこらの男性と腕相撲しても勝てる自信はあるのだが、真珠相手には分が悪い。そもそも既に一度負けていた。
「いーですか、お兄様。今日は、時間までデートですよっ!」
嫌だとは言えなかった。ぎりぎりと締め上げられている両手首が痛い。締めて上げているのは少女の白い小さな手で、締め上げられているのは大の大人の、男の腕。村山は赤子になった気分だった。
「よぉっ、喜んでエスコートさせて頂きますっ」
満足そうに頷く真珠の笑顔を見て、村山は自分が上手く笑えたことを褒めてやりたくなった。
「ほああっ! 素敵ですねっ!」
ウィンドウショッピング。聞こえは良い。
店の商品を見て回って、楽しむ。そう言う趣向なのだろうが、
「この、えびぴらふって美味しいんでしょうかっ」
「うん。まあ、現物を見た時にがっかりしないでね」
「それはどういう――」
「これはね、見本だから。作り物、食べられないの。これと同じ物は出ないから」
「えっ、お兄様方はこうテカテカしたごはんを食べているのでは――」
真珠がショーウィンドウにかぶりついたのだが、色気より食い気だった。いくつか服屋やアクセサリーなど見て回ったのだが、結局は食品サンプルにやられた。というか朝食にテカテカしたものは出していない。少し考えて欲しい。トーストと目玉焼きだったろうが。
環状十二号通り近くの、アーケード付きの商店街に来ただけなので真珠の言う『デート』に合致するかどうか分からなかったのだが、本人が文句一つ言わないので問題ないらしい。むしろ真珠は腹が減っているらしいので、村山は何か食わせて黙らせようかと考えていた。
「それで、何が良いの?」
小さな洋食屋の前でうんうんと悩んだあげく、
「……こっ、ここっ、こーひーと云うものが良いです」
食べ物ですらないものを所望された。
木曜日。まだ午前十時だ。村山はそれほど腹は減っていない。朝、トーストと目玉焼き、それに冷蔵庫に入っていたスポーツドリンクで朝食とした。食べ合わせが良くないかも知れないが、半分程残っていたスポーツドリンクが痛んでしまわないようにそうしたのだ。
それに真珠を付き合わせたのでそれほど腹は減っていないだろうと考えていたのだが、育ち盛りというやつだろうか。サンプルの食べ物にばかり目移りしていたと思っていたのに、ケースの端にあるソフトドリンクとコーヒー、紅茶が気になったらしい。
ここで渋っても真珠が怒り出すだけなので目の前の洋食屋に入った。
小さな店舗で、入って左手側に四人掛けのテーブル席が三席、左奥の角には六人掛けくらいのL字の長椅子とテーブル。右手側には八脚ほどのカウンター席。洋食屋なのに店内は喫茶店の装いである。以前喫茶店でもやっていたのだろうか。
店の外は古くさく、ショーウィンドウのサンプルもあまり出来の良い物ではなく、それほど期待していたかったのだが、店内は木製のテーブルや古めかしい椅子が相まってなんとも老舗の洋食屋といった雰囲気だった。
入ってきた村山と真珠以外に客は居ない。午前十時、おそらくまだランチタイムには早いのだろう。カウンターの向こう側にも人の姿は無かった。
入り口に一番近い四人掛けのテーブル席に座らせ、村山は店の奥まった所へ向かう。店の人が奥にいるのだろうと思い、声を掛けに行こうかと思った時、
「おおっ、びっくりした。お客さん?」
ひょっこりとカウンターの向こう側から、口ひげを蓄えた男が姿を現した。見た目には洋食屋のコックと言うより、喫茶店のマスター然としている。どうやら屈んで作業していたようで、入ってきたのに気がつかなかったらしい。
「はっ、はい…… ちょっと軽食を頂きたいんですが」
「軽食? ランチじゃなくて?」
「ああ、それでも良いですけど」
口ひげの店主が村山の迷っている言葉に小首を傾げていたのだが、
「こーひーをお願いしますっ」
にっこりと笑って、真珠が右手を高々と上げて注文した。
「うぇっ……」
「はははっ! コレ、お砂糖とミルクね」
「だから云ったろ」
無謀にも真珠はコーヒーをブラックで飲もうとした。そして見事に一口目で撃沈した。
自分で頼んで置いてもう要らないとばかりに村山に視線を向けてくるが、無視した。真珠がこうなるであろう事を何となく予想してイチゴと生クリームのサンドウィッチを一緒に注文した。サンドウィッチの方は真珠の口にあったらしく美味そうに食べていたのだが、コーヒーは完全に放置されていた。頼んだのだから飲まないと失礼である。砂糖とミルクを入れてスプーンでかき混ぜ、真珠の前に置いてやった。
「お、お兄様は鬼ですか」
「もう一回だけで良いから。飲んでみな」
村山の顔と色の変わったコーヒーの水面を交互に訝しんで見つめた後、目をきゅっと瞑って桜色の唇を尖らせ、白いカップを啜る。
「ううぅっ……う?」
「大丈夫そうか?」
「……は、はい」
不思議そうに何度かカップの中を見つめ、次の瞬間にはどこかあらぬ所を眺めながらコーヒーを啜る。別に真珠の視線の先に苦さが逃げていった訳ではないのだが、どうにもその光景が面白いので放っておいた。
コーヒーを飲み終わった後、勘定を済ませて店を出た。
十時十分。時間はあるが署に行って弓張警視を待とうと決めた。真珠に付き合わされる事を面倒に思い始めたのは理由の一つだが、真珠がコーヒーを飲み終えるまでの間、タクシーでの件が頭をよぎった事が最大の理由だった。
こんなにもだらだらとした雰囲気で真珠を連れて長時間歩くのはまずい。真珠を脅したと言うのは話半分に聞いていたのだが、もしそれが事実なら村山には対処できない可能性もある。
正直なところカウンターから店主が出てきた瞬間、正直村山は焦った。本当はすぐにでも逃げ出したい衝動に駆られていたのだが、無理に真珠を連れて逃げると怪しいことこの上ない。下手をすれば未成年者略取とでも通報される危険性があるので普通に対応するべきだった。そして普通の対応に、十分を要した。結局、店主は一般の人だったようで一安心だが。
村山は警察官として普段から周りに目を向けるよう努めてきた。三島の時は上手く出し抜かれたのだと思うことにして、他では向けているつもりだった。
だが、今の十分はどうだったろうか。真珠の希望通り二人で公園を歩き回って三十分。徒歩で公園から商店街までの間を見て回りながら歩いて三十分程。商店街を歩き回って一時間弱。それから店に入って真珠がコーヒーを飲んでいるのに五、六分。店を出るまでにトータルで十分。
思いの外、村山は普段の行動が緩慢で、どういうアプローチであれ村山と真珠は対処しきれない様に感じた。この状況はまずいのではないか、そう思うと警察署で大人しく弓張を待っている方が良い。
店を出て少しだけ落ち着いて考えた。確認したい事もある。
もう一度、タクシーを呼んだ。タクシーが到着するまで七、八分要した。
タクシーのドアが自動で開いたが、真珠を押し込む前に確認する。
「三島隆って、ご存じですか?」
「誰、ですかね?」
突然、客に知りもしない名前を出されて困惑しないはずがない。
訊ねることに躊躇いも恐怖もなかった。村山の予想通りなら、弓張への伝言が終わるまでは安全は保証されていると考えても差し支えないだろう。ただ、それ以降は分からない。
一分一秒でも早く、長く。それ以降の事を弓張と相談したい。