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恐ろしく高い場所から眺めていた。眼下に広がる煌々の様は人の営みのソレで、整然と人家や社屋に並んだ明かりは秩序、雑然と人家を焼き払い燃え盛る明かりは混沌。どちらの光も俯瞰で捉えれば、他愛ないモノだ――
「……え、えっと。こちらのデルシェリムさんは、まりねの師匠だ」
「はあ……」
師匠というのだから、先生なのだろう。滝川まりねの先生……検視の先生、と考えるよりも、特殊な性癖の先生と捉えた方が村山には納得できそうだ。
「俺たちの『上に』あたる方で、前に云った実働部隊の一人だ」
「はあ……」
ソファーに弓張以上に尊大に座る人間を初めて見た。しかも、その弓張が背筋を伸ばして直立不動の鬼教官の様な佇まいで、ソファーにどっかりと座り込んだ「でるしぇりむ」とかいう人の隣に立っていた。
弓張の普段見せない緊張が村山にも伝わって場の空気が気まずいのだが、椅子を回転させてソファーの方へ向いている村山の、その正面からデルシェリムが無表情のままずっとこちらを見ている方が気まずくて仕方ない。村山は自分に与えられた机と対になる灰色の事務椅子に座っているのだが、その後ろに真珠が隠れるように立っていた。
デルシェリムさんがずっと気になっているのは真珠のようで、当の真珠にしてみればトラウマを植え付けた張本人なのだから警戒してもなんらおかしくはない。
灰色の椅子の後ろに必死に小さくなって隠れていたのだが、デルシェリムに見られている事が恐ろしくて仕方がないと、村山の後ろから出ることはなかった。
「そのお嬢さんはキミが作ったのかね」
デルシェリムの言葉を聞いて、村山は何を言ってるんだという顔をしたのだろう、デルシェリムが一度唸り、説明らしき言葉を続けた。
「ふむ。別人が作ったのか。どうにも召還の術式に近いようだな。そこなタヌキと相違ない。ユミハリが作ったのか――」
一瞬だけ目線を真珠から外し、目の端に弓張を捉えたようには見えたのだがそれで顔色でも伺ったというのだろうか。眼球は一瞬で真珠に据えられた。
「有り得んな。この男にこれ以上召還の式が組めるとは思えんしな」
「……そうですね。組みたくも無いです」
デルシェリムの前では緊張を保っていた弓張だったのだが、どうにも今の返答だけはやる気のない返事を返した。そこには本当に『やる気がない』という意味が込められているのだろう。その話はしたくないとでも言いたげに、顔を反らした。
「ユミハリでもなく、こちらの――」
「ああ、そっちは村山慶次です」
デルシェリムの前で変な緊張を崩さない上司が、部下の説明だけおざなりである。
「ムラヤマが作ったわけでもないのだな?」
ずうっと村山の方を見て、真珠の方を見て話を続ける。それは真珠がその言葉の意味を理解して回答することを望んでの行為なのだろうが――
「し、知らないです」
「……む。普通なら作られた側は召還者を知っていなければならないはずだが」
「わ、わからないモノは、わかりませんっ!」
きゅっと真珠が村山の上着を掴むのだが、掴める場所が襟足しかなかったせいか首が絞まった。苦しみに耐えつつ、擁護と言うほどの言ではないにしろ、村山は真珠に助け船を出すことにした。
「良く分かりませんが、真珠とは今日会ったばかりなんですよ。そんなに一度に根掘り葉掘り訊かなくても良いんじゃないですかね」
「それはあり得ない。会ったことがないはずなど無い。ムラヤマはその娘を知っていたはずだが」
知らないと何度言えば解って貰えるのだろうか。むしろどういう理由でデルシェリムさんは村山自身が真珠を知っているという事に考え至ったのか解らないのだから、そっちをすっきりして貰うのが先ではないのだろうか。
「本当に知らない子ですよ。大体、名前だって俺がテキトウに付けた名前で――」
「ほう。それでか。解った、解った」
逆に勝手に納得されてしまった様だが、どういった理由で今の言葉から納得できたのか全く理解できない。そもそもこの人は何をしに来たのだろうか。
「デルシェリムさん、今日はどういったご用で」
緊張は崩さないものの、弓張はそう口にした。おそらく変な緊張感を持っているのはこの人に早く帰って貰いたいからなのではないかと、村山も真珠も感じ始めた。
先ほ弓張自身が自分達の上の人間だと言ったのだから、別段危害を加えてくるような人ではないのだろうが、それでも帰って欲しいと何となく声色から解るのだからそれなりの理由があるのだろう。
「君達には用など有りはしない。ただ、こちらの抱える問題がここに来ていてな。用元が弟子に手を出す寸前だったもので顔を出した。用元には結局逃げられたがな」
「ま、まりねはっ」
弓張がいきなり慌てたように声を張り上げた。だが、それに普通とは違う反応をしたのは訊ねられた側のデルシェリムである。
「ユミハリ、それは私に対する雑言と取るが」
「……だ、大丈夫だったんですね」
真珠から視線を離し、デルシェリムはソファーに深く座り込んだ。先ほどまで弓張は帰って欲しそうにしていたのだが、深く座り込んだデルシェリムの行動はその思いに反する行為だろうが、そんなことには構いはしないと前のめりになって言葉を待っていた。
「無論だ。ただ医療機関の救護員が一名殺された。もう一名いた救護員と、騒ぎを聞きつけて出てきた警察官四名の記憶操作をしておい――」
「ちょっと、ちょっと待って下さい。殺されたって――」
滝川を心配していた弓張の言葉やデルシェリムの返答を黙って聞いていた村山だったのだが、人が死んだというのに淡々と後を続けようとしたデルシェリムの言葉を途中で止めた。そんな村山がどうして自分の話を途中で止めたのか不思議でならないと、デルシェリムの視線が村山に固定された。真珠には向いていないはずだが、村山はきゅっと首が絞まった事で、真珠を見ずとも顔色が解る様な気がした。
「人間が一人死亡したのはこちらの不手際に違いない。だがそれにはこちら側の隠蔽工作をもって対処する。そういう取り決めだからな。ムラヤマには説明していないのか?」
「ええ、まだです」
説明していないのかと弓張は問われ、ただ事務的な返事をした。
真っ当な警察官が、人が一人死んで「ええ、まだです」などと、素っ気なく言うだろうか。
村山が警察官になった事はある意味で親の為になったと思っている。だが、警察官になったからにはそれ相応の自負や自戒のようなものを備えているつもりだった。
それが上司のなんの興味も疑問もなく、先ほど死んだという人の話を訊ねもせず、ただ関係なさそうな事の肯定などしたのだから、村山が――
「――っ」
「おおうっ! なんだ――」
真珠が恐怖心や不安で掴んでいた手を気に留めることもなく立ち上がり、気がついたら村山は上司の胸ぐらを掴んでいた。自分の顔面は鬼気に迫っている事にも、真後ろでは真珠が恐怖や不安の回避場所を失って泣きそうになっている事にも気が回らなかった。
「云ってることがメチャクチャじゃないですかっ! 滝川警部の事は心配しておいて、それ以外の人のことはどうでも良いって云うんですかっ! なんでそんな態度で――」
「待て待て待てっ! 誰もそんなことは云ってないっ! だいたい、もう起こったものは俺たちにはどうしようもないんだよっ! 今は冷静に状況を判断して、今できる事をだなぁっ」
数センチ。村山よりも身長の高い弓張が軽く数センチ床から浮いている事に村山は気づかなかった。村山自身、成人男性を両手で釣り上げている事に全く気が回っておらず、弓張の顔面が紅潮してきた事は怒っている為だと勘違いするほど回りが見えなくなっていた。
「し、しぬっ! お、おれがころされるっ!」
「……す、すいません」
そっと手を離すと弓張が転げ落ちた。手を離すその瞬間まで持ち上げていたことに気づかず、上司を落とすことによって初めて自分の行いに気がついた。
「あ、あの本当にすいません。ついカッとなって……」
始終を黙って眺めていたデルシェリムが弓張に顔を向け、どうしてこうなったのか説明を要求している様だった。全く動じていないようには見えるのだが、事実確認のためだろうか、デルシェリムは転げた弓張に言葉を寄越す。
「集団中で共有すべき情報の認識齟齬は混乱と軋轢を生む事になるぞ」
「そ、そういうつもりでは無いです……」
弓張がよたよたと床に這い蹲るようにソファーにたどり着き、肘掛けに掴まって立ち上がる。生まれたての動物はこんな感じだった様に思うのだが、上司がこうも警察官らしからぬ打たれ弱さだとは思わなかった。
「お、おお…… きっついな」
締め上げたのは胸ぐらなのだが、弓張は腰をさすりつつ立ち上がってそう言った。落とした時に強打したのだろうが、村山はそれ以上謝ろうとは思わなかった。
説明とやらの内容がどうあれ、人命に勝る話だとは到底感じられない言葉の用い方に聞こえたのだ。そんな人間に感情的になって手荒なことをした事を謝ったのは、過ぎた事をしたという後悔が有ったからだが、かと言って態度を簡単に崩したくはない。
「つーか、ついカッとなって。ってセリフは犯罪者が良く云うヤツだろ。気を付けてくれよ……」
人が殺された話をおざなりにされたからと言って、カッとなって上司を締め上げて件の仲間入り。それは洒落にならないが村山の不満や思いを多少酌んで答えて欲しいものである。
村山は上司への直接行動を起こした自分が熱くなりすぎていると自覚し、椅子に座り直すことにした。正面にはデルシェリムを据えて。ただ、村山のスーツは回避地としての能力を失したらしい。
「相手が悪すぎるんだ。俺が、俺達が相手にするには分が悪すぎる。ここで殺された件はデルシェリムさん達に任せるほか無いんだよ――」
任せるほか無い。警察官が、良く分からない人に事件を全面的に任せる理由が理解できなかった。だが、
「人間以外の相手を、人間に出来るはずがないんだよ。化け物の相手は、化け物がするもんだ」
それは単純、デルシェリムの事を化け物だと言っている。そして、デルシェリムの言う一人の死は『別の化け物』による仕業だと言い切った。
「あと、説明を後回しにしたかった訳ではないからな。今日の仕事が片付いたら、まりねと一緒にお前に全部説明する予定だったんだ。公園の件はテストみたいなモンだと考えてたんだがな。どうにも上からの情報はアテにならない」
弓張と滝川の二人が雑対係の全てを知っているのは理解している。
これまで得体の知れないモノが人間以外のものだという事を、村山は何となく理解してきていた。そして得体の知れないモノが人間にある種の影響を与え、意味不明な事象を起こしたり、地下で見た肉塊の様なモノまで形成したりした事を何となく、理性ではなく感覚で理解していた。
そして弓張の説明するという言葉の意図は『説明するから、理性で理解しろ』と言うことに他ならないのではないか。
「我々の情報網も万能ではない。叱責を糧に尽力せねばなるまい。とかくまりねが無事だという事を伝えに来ただけだからな。これにて失礼しよう」
すくと音もなくソファーから大男が立ち上がる。その動作はまるで誰かに釣り上げられたような、浮き上がったような違和感を覚える挙動で、村山は目の前で立ち上がった大男の存在そのものが違和感だらけの存在だという事をハッキリと理解した。
「新しい情報が有ればヒルガヤに伝えさせる」
「了解です」
人が死んだことなどお構いなしに、デルシェリムは雑対係を去った。デルシェリムの去り際に村山はその背中を目で追うことすらしなかった。出来なかったし、したくも無かった。
目の前のソファーには村山の虚ろでも座っていたのだろう。ただソファーには重さの輪郭が残っていて、何も無かったとは認めさせたく無いらしい。安い人工革のソファーが憎らしい。出来る事ならソファーの上っ面を剥がして黄色いスポンジを引きずり出す様に、弓張やデルシェリムの上っ面を引っぺがしてやりたい。そんな恨みにも似た視線を誰も座っていないソファーに投げ続けた。
デルシェリムを見送るために係の表まで、廊下まで弓張が出て行った。残ったのは端から見れば呆けているように見える村山と、そんな村山にどう接して良いのか解らず、ただおろおろとしている真珠だけだった。
ただ、村山より肝が据わっていた。それだけの事。
村山の肩に、軽く手を載せて少女が曰く、
「あ、あの……お兄様大丈夫ですか?」
そのままつつと回り込んで、眉根を寄せた顔を覗かせて、村山の顔色を伺っていた。
その少女の下着がビニール袋に収まったまま村山のポケットに入っている。ふざけた話だった。恐怖に泣いて、あまりの恐ろしさに粗相をした少女に、どうして自分が心配されなければならないのか。真珠が一体どういうモノなのか知ったことではないが、確かに人間らしく感情を持って人の心配までしている。
それなのに村山はどうして、『自分の無力感』を当てつけのようにここで投影したのか。説明されていないから怒ったわけではない。人の死に警察官としての矜持から力を振りかざした訳ではない。
ただ、示したかっただけだと思い至った。自分はここに居るんだと。
「おい、村山。今日はもう帰って良いぞ。明日はお前非番だろうが、午後二時までにここに来い。ちゃんと全部説明してやる」
いつ立ち上がったのか覚えていない。
自分に似た、何も入っていない肩掛け鞄を引っ掴んだ事も覚えていない。
気がついたら独身寮の自室の前に立っていて、自室の鍵を回して解錠していた。
独身寮の自室はクソ重たい鉄扉で、付いている鍵はそこらのホームセンターで売っていそうな、見るからに安いシリンダー錠だった。
警察の寮なのだから防犯体制はかくあるべき、という気概がないのだろう。これで寮の入り口に監視カメラや寮監の部屋が無ければただの単身向けアパートでしかない。
部屋にはトイレも風呂も、キッチンも完備されていて完全に他の住人と隔離されている。寮と言っても統括第一警察署が借り上げたアパートであって、単なる賃貸物件だった。
だから疲れて帰っても寮母が飯を作ってくれることも無ければ、傷心のまま帰っても誰と会うことも強制されない。
入り口の寮監室の前を通ったはずだが、寮監はいつも雑誌を読んでいるかテレビに興じているかのどちらかで、人の顔を伺うような人間ではないし、ましてや挨拶などしたこともない。
独身の男性警察官が住んでいるのだが、隣に住んでいるのがどの課の、どの係の人間か知らない。転居初日に挨拶くらいしはしておこうと思ったのだが、独身の警察官が平日の日中に居るはずがなかった。居たとしても彼らは寝ていたかも知れない。
希薄。それを絵に描いたような建物がここで、もちろんそんな希薄な生活に数ヶ月で慣れてしまった自分が居た。
開け放たれた鉄扉の先は細く短い廊下とキッチン。廊下には扉が三枚付いていて、奥の八畳間、トイレ、風呂。ただそれだけの部屋。八畳一間にトイレ風呂が別で付いていて、キッチンがある。至って普通のワンルーム。一月の家賃と光熱費を合わせて二万円ほどだ。
民間の人間が似たような部屋に近隣で住んでいたら五万円ほど家賃だけで取られるのだが、公務員で良かったとは思う。それでも、村山は自分の住んでいる部屋を見ていつも思うことが一つ。
ふざけてる。
民間の会社に務めている友人に似たような話をメールのやりとりで行うと「お前の方がふざけてる」などと返ってきたが、別に賃料や間取りのことをふざけていると送ったわけではない。
ただ帰ってきて寝るだけ。そんな部屋が、酷くふざけてる様に思えた。
所属している係が係なだけあって仕事から帰ってきた途端、倒れるように寝るなどと言うことは無い。だが、何もない。
マンガも小説も実家の自室に置いてきた。よく珍しいと言われるのだが、男の部屋にあってゲーム機の類もない。単純に村山自身の性に合わないという理由で所持していない。
忙しく働いている人間なら部屋に何もなくても、帰ってきて寝るだけという空間でも、ふざけてるなどとは思わないだろう。
それでも、村山は自分自身の役回りをこの部屋に照らし合わせて、ふざけてると思うのだ。
後ろ手に鉄扉を閉めようとした。癖でただノブを右手で引いて、左手で靴を脱ぎながらの入室。だが、いつもなら無駄に仰々しい金属音が鳴るのだが、今日は異様な音がした。
振り向くと黒いエナメルの靴が扉に挟まっていた。今日、見た覚えのある靴で、誰の靴か瞬間的に理解した。ただ同時に、村山はそれがここに居ることに恐怖してもいた。
「ま、真珠か?」
「は、はい。お兄様、あのっ、痛いので……」
自分から声を掛けたのにも関わらず、村山は鉄扉をぐいぐいと引っ張って閉めようとしていた。真珠がここに居ることが恐ろしくて仕方なかったのだが、自分自身で気がつかない無意識中の恐怖だった。
「ど、どうやってついてきたんだよ。俺、自転車で帰ってきたのに」
「はい、ですから取り憑いて来ました。うふふ」
ハッキリと自覚した。断固として開けたくない。
「いたたっ! 痛いです。痛いです、お兄様っ」
エナメルの靴、右足がぐりぐりと鉄扉の間から玄関へと侵入してくる。ノブを両手で持って開けないようにしていたのだが、真珠の足の力は村山の両手をも上回っていた。
成人男性の腕力を上回っているのである。これで恐怖以外の感情が浮かぶ方がおかしい。
更に白い指が真っ青な鉄扉を掴み、ぐぐっと引き開けられた。村山の必死の抵抗は無駄に終わった。
「そ、そんなにわたくしのパンツが……」
「コレかよっ! いらねーから帰ってくれっ!」
ぶっちゃけ泣いていたように思う。どういう顔をして真珠に対していたのかあまりのことで覚えては居ないが、たぶん泣きながらビニール袋に入った少女の黒い下着をつきだして懇願していたはずだ。
「たのむからぁ、帰ってくれよぉ……」
いい歳した男がどうしてビニール袋に入った少女の下着を持って泣かなければならないのか。端から見れば盗んだ下着を懺悔しながら返却している風にも見えるかも知れないが、当人にはそんな思いは全くなく、ただ恐怖の対象が消えてくれることを願っていた。
だが、その対象は願いに反して言った。
「帰る場所は、ありません」
泣く子も黙る。愁いを帯びた少女の頬に男の物とは違う、雫が流れた。
いたたまれなくなったと言うか。これ以上玄関先で少女と揉めていると問題になる。
そもそも場所は男性向けの独身寮で、女性を連れ込むことは禁止されていた。そんな場所で、泣いている年端もいかぬ女の子を廊下に放り出す、などと言う事になってみればどうなるだろうか。住民は警察官しか居ない寮で、最悪明日から毎日取り調べ漬けになる可能性がある。半分冗談だが、半分は大まじめにそう思い当たった。
しょうがないので静かにするように言い含めて、真珠を部屋に上げることにした。
そして第一声。
「わあっ、男の方のお部屋ですねっ! 例の本はどこに――」
綺麗なエナメルの黒い靴を蹴飛ばすように脱ぎ捨て、どたどたと足音を立てて上がり込み、キラキラ目を輝かせて部屋中を舐めるように眺めたかと思うと、次の瞬間ベッドの下を漁り始める真珠。
この数秒の間に、村山は学習した。
幼くても、女は女だと。アレは凶器、むしろ大量破壊兵器なのだと。
漁っている真珠には悪いのだが、そういう本はない。ちなみに名誉のために言っておくと『まだ買っていなかった』だけであって、ソッチのシュミは無い。
「ぶーっ! 何にも無いですっ! 買う時は義妹物にしてくだ――」
「アホかっ」
真剣な顔で村山に何事か訴えかけてきたかと思うと、くっだらねー事を言い出したので頭を小突いておいた。先ほどまで指先に当たる娘に恐怖していたはずなのだが、あまりにもふざけた事をするものだから、いつの間にやら雑対係での延長になっていた。
これが真珠が計画的にした事だとすれば完全に手の上で踊らされている訳だが、真珠本人には村山に対する攻撃性と言うか、危険性が無いのでさほど警戒する必要もないかも知れな――
「あ、お兄様の使用済みトランクスを発見しましたっ! 被りま――」
「やめんかっ!」
ダメだった。超厳重警戒が必要だった。
一瞬、嗅がれたが、即座に奪ったのでなんでもなかったという風にして欲しい。
必死に少女から衣服を奪い取る作業をしていた。無論、村山自身が部屋中に脱ぎ散らかしていた衣服であって、真珠の衣服ではない。ちなみに先ほど返しそびれて真珠の下着をスーツのポケットに突っ込んでしまったが、それは不可抗力というヤツで、他意はない。
「ぱ、パンツを貸して下さい。はいてないのでスースーするんですっ」
「か、買ってくれば良いだろうっ! ほら、お金出すから――」
「わたくしのパンツはタダで差し上げますっ」
「うるさいっつーのっ」
あまりにもあんまりなので、グーで軽く小突いておきました。
「それで、どうしてうちに来たの」
「わたくしはお兄様の嫁なので――」
「もう一回グーでいこうか」
「ひぃっ!」
両手で頭頂部を覆う。どうして部屋にまで押しかけてきたのか解らないので、当人に訊くことにしたのだが、またふざけた事ばかり言うので少々扱いに困っていた。
真珠をガラステーブルの向かいに座らせたのだが、ワンピースの裾をたまに持ち上げて明らかに気を反らそうとしているがそんなものには引っかかるはずがない。
これ以上の引き延ばしは不可能だと、やっこさんに丁度理解させた所だった。
「うぅ…… その、本当に行くところがありません。泊めて下さい」
正座をした真珠が、三つ指をついて頭を下げてきた。これだけ見ればなんと奥ゆかしい少女なのかと感心しそうになる。ただ、はいてないのは奥ゆかしいかどうか理解しかねるが。
「警察署に居る間に云ってくれれば仮眠室とか貸してくれたのに。どうして云わなかったの」
「お兄様が云えるような空気を出していなかったので」
「……」
雑対係に戻るなり、デルシェリムや村山に当たっていた時の事だろう。確かにその時に真珠が自分自身の事を村山に相談できるはずがない。更に自分一人で沈んでいた事にも問題があったのだと、村山には思い当たる。
なんだかんだとふざけた事を言う真珠だのだが、今日会ったばかりなのに真珠は村山の機微をしっかりと読んでいたらしい。いや、そもそも読むまでもないほど、自分は正気でなかったように思うのだと、村山は反省点を洗っていた。
「そのぉ。泊めていただけないと、わたくし野宿をする事に――」
「くっ……」
正座をしたままちらちらと上目遣いで村山の顔色を伺ってくる真珠。
村山は自分自身の反省点をいくつも上げている所にそれにつけ込むように真珠が提案をしはじめる。完全に狙っている話の運び方で、これはもう手の平の上で踊らされていると思って間違いない。
村山の失点を突いて自分に有利に働くように言葉を選んでいる。これはお願いと言うよりも、既に恐喝の域に入っているのではないかと思えてきた。
「わ、わかったから。今晩だけだからな」
「あ、ありがとうございますっ! お兄様っ!」
正座した姿勢から飛びつくように村山に抱きつこうとした。ただ村山はなんとなくこう来るのではないかと予想していて、真珠が動く前に体を引いて逃げの姿勢を取った。
ガラステーブルを挟んで対面にいて躱した為、掴まれることはなかった。ただ真珠がガラステーブルに突っ伏して、潰れたカエルのように「ぐえっ」と声を上げていた。
真珠に下着云々を言われ続けるのが嫌だったので、さっさとビニール袋から出して洗濯機へ投入した。洗剤を適量入れて、静音モードで洗濯機を回す。乾燥機などと言う大層な物は無いので、洗濯機が止まったら取り出して適当なところに干しておけばよい。
面倒なので自分の分も全て突っ込んで回した。色柄モノ云々があるのだが、別に色が移って困るようなモノは無いので一緒くたに洗った。
ただ、その始終を眺めていた真珠が鼻息荒く「わたくしのパンツとお兄様のパンツが洗濯槽の中で絡み合って うんぬん」などと言い出したのでグーで小突いておいた。
真珠に風呂は入らせず、村山自身も入らなかった。シャワーくらい良いだろうかと思ったのだが、真珠のいる場所で全裸にはなりたくない。似たような理由で真珠が全裸になることも許可しなかった。なので結局風呂は無し。
そして、絶対に言い出すであろう事が一つ。
「お兄様っ! 一緒に寝ましょうっ! 同衾っ! 同衾っ!」
おっそろしい程鼻息荒く、村山のベッドの上で飛び跳ね始めた真珠。村山には予想できていた。村山の部屋にはシングルの折りたたみベッドしかない。そして真珠が部屋に上がり込んでからその瞳がランランとベッドに向かっていた事も見落としていない。
「そこは使って良い」
「あれ、一緒に―― お、お兄様はどこで寝るおつもりで」
「トイレ」
トイレには鍵が掛る。内側から鍵をかけて寝る。それしか安住の地は無いと初めから想定していた。
独身寮はそもそも一人暮らしを想定しているので、玄関の扉に鍵が掛ればトイレの鍵など本来は不要だ。来客なども男性だけを想定しているし、ワンルームで誰がトイレに行ったのかも解るのだから雑な作りなら付いていない事もあるらしい。ただ、ここはそこまで雑な作りではなかったというだけ。
「……はっ! わ、わたくしがトイレに行きたくなったらどうすればっ」
「ノックしてくれたら起きるよ。座りながら寝ても浅い眠りだろうから」
本当なら鍵の掛る部屋に女性を寝かせて、野郎は閉め出されるという構図になるのだろう。だが身の危険は現状男性側の村山にあるので、なんとしてもトイレで寝なければならない。
「は、図りましたねっ!」
「どっちがだよ」
最後の砦がトイレというのはなんとも酷い有様だが、縋れるモノならフッ素加工でも陶器にでも縋るのだ。
村山は結局安住の地に腰掛け、自室に感想を漏らす。
「ふざけてる」
憔悴したような村山を見送って、弓張は両腕を組んで立ち尽くしていた。
明日、指定の時間に来るだろうか。心配にはなるものの、弓張自身が考えても仕方のないことである。それよりも気がかりなのは真珠までくっついて出て行ったことだった。真珠が一緒に帰って面倒なことになり、明日「来られなくなる」事の方がもっと心配である。
当人がどうにか折り合いを付けて来てくれる事を祈るしか出来ないが、弓張は腕を組んだまま自分の考え事が可笑しくて堪らなくなった。
どうやら年下の部下を初めてもって上司面というか、責任のようなモノの形を初めて理解したのかも知れない。係を作ったのは自分で、滝川を引き抜いたのも自分、更に村山を警察学校在校中に『引き抜いた』のも弓張自身だった。
明日、全て説明するつもりだが全てを聞いたら恐らく村山は怒るだろう。下手をすれば係を辞めたいと言い出す事も考えられる。
村山が警察官になってやりたいのは世間一般で言う刑事だろう。刑事事件を追いかけて、犯人を見つけ出す。ドラマや映画、あらゆるエンターテイメントで題材にされ、知名度も職務内容も国家の最高主権者である国民からオスミツキを頂ける程、高名だろう。
そんな花形を目指していたのにこのザマは何だと言われそうで、とてもじゃないが気が気でない。警察署内でも肩身が狭く、目標としていた刑事課の人間には邪魔者扱いされる始末で、雑対係から刑事課になど鞍替えできる雰囲気すらこの係には無い。
すべて自分が、弓張自身に責任があるのだが、滝川と二人で一年間やってきてそこに問題を見いだす暇も、価値観も持ち合わせていなかった。ここに来て「真っ当な警察官」を目指した人間が入って、初めて弓張は警察機関として、雑対係のあり方を考える羽目に至った。
そんな事を考えている自分があまりにも滑稽で、馬鹿馬鹿しい。可笑しくて堪らない。
ゴンと鈍い音がした。どうにも金属製のもにぶつかったような音だったのだが、雑対係には一人しか居ないのだから、金属にぶつかる人間など自分以外に居ない。
「はうあっ」
音と同時。聞き覚えのある、どうにも間抜けな声がした。
どこかぶつけた張本人が上げた声だろうが、どうにもくぐもって聞こえた。その声の主は弓張の机と対になっている安っぽい事務机から這い出してきたのはタヌキ。こゆりだった。
「もう帰った?」
「帰った」
「あれ、三下も居ないわね」
狭い部屋なのにキョロキョロと見回して確認するのは今まで隠れていた理由が居ないかどうかしっかりと確認したいからだろう。いつか、デルシェリムに真珠と似たような事をされた覚えがあって、こゆりはデルシェリムを警戒している。
尻尾の毛を逆立てて攻撃色を消さないのは感心しないが、それに対してこう思ったわけではない。
「今日は酷いな」
「……に、にぃさま」
怒られたのかとでも思ったらしく、尻尾を丸めてしゅんと小さくなった。村山の机までとててと走ってきて、いきなりそれだけ言われたのだから勘違いしても仕方ないかも知れない。それに、全てではないが一端をこゆりが担ったのなら少しだけ責任を転嫁しても良いかも知れないが。
「お前じゃない。俺が酷かった。結局なんにもしてない様なものだ」
「あ、あたちだって半分しか力が出なかったから……」
「それも含めて俺が酷いって云ってるんだよ。こゆりの力が半分しか出ないってちゃんと覚えていたら、それはそれで別のやり方がな――」
小さくなったこゆりの頭をなで回し、笑いかけた。たぶん嘲笑だろう。自分に対する哀れみを、こゆりの黒い瞳の中に見たからだ。
『それが叶うと思うなら出て行け』
そう言われた時、たぶんあの人の目の中に同じ顔が映っていたのだろう。今になって弓張自身が抱えていた願いに押しつぶされそうな思いがした。
叶うと思うなら出て行け。その言葉に必死の抵抗をしてこの有様だった。
自分が誰よりも上手く立ち回らなければならない。言われていたことを続けることに嫌気がさして出て行ったのに、また同じ事を繰り返す訳にはいかない。
だからこそ思いついた。帰ろう。
出て行けと言われただけで、帰ってくるなとは一言も言っていない。
山積した問題を解決するためには行かなければならない場所が二つある。明日は説明に費やす事に決めている。ならば明後日、自分に必要なモノを得る為に出かけよう。
「こゆり。これ以上俺たちは失敗できない。再召還するから一回契約を切れ」
「う、うん」
驚いたような目をしていたのを一瞬見た。ただ次の瞬間にはこゆりは煙に消えて、この世から霧散した。契約の終了、常時消費し続けた自分の力があまりにも虚しい。何の役にも立てず、無駄に気を遣わせただけだった。
山積みになった問題。
山梨和世を呼び出し、化け物に殺させた輩。真珠の物だったと言う頭蓋骨を所持していて、そこで何かをしていたクソみたいな輩。村山に吹き込んだ三島隆という輩。そして先ほどの肉塊を作った輩。
何一つここに来て解決していない。
何をやっているのだろう。どうして係を作らせたのだろう。
誰一人居なくなった雑対係で山のような問題を一人抱え、弓張は立ちつくした。女々しい後悔も、意味のない考えも今はいらない。
決まっている。やることは一つ。片っ端から問題を解決して行くこと。
そして今まさに弓張が直面している問題から片付け始めるべきだった。
「ドアノブ、ガムテープでくっつくかな……」
そもそも叩く扉が無くては、運命もあったモノではない。