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用いてはならない方法なら、誰でも知っている。では、何故知っている――
「まあひどい」
「他人事ですね。自覚有ります?」
三十四階建てのマンションの屋上。仕立ての良いベージュ色のスーツの男と、安い特価品の紺色のスーツを着た男が、二人で最下をのぞき込みながらやりとる。明らかに片方には覇気もやる気もない。
「ねえよ。実際、他人だからな」
「これからある意味で深く関わっていく相手をおもんばかるとか、無いんですか」
「自分で飛び降りたヤツの心理なんて知るか」
「それを酌み取って、状況から判断するのも仕事じゃあ――」
「無いんですよ。ここの係はー」
紺色のスーツを着た男は、咥えていた平たい木の棒を指で弾いて、彼女と同じ落下を取らせた。来る途中、車を道の脇に止めろと言った後、コンビニに入って行った後ろ姿を眺めたが、アイスの木の棒を咥えて出て来たときには真夏の車内で待ったのだから、アイスでも飲み物でも、一つくらいおごって欲しいものだと随行した男は始終を眺めていた。
棒を落としたその後すぐに両手をポケットに突っ込んで下を眺めているが、それは安全のために設置された柵の向こう側で、両足を半分ずつ『外側に』出した状態で突っ立って男がふざけた事を言うのだ。
「あ、危ないですって。戻ってくださいよ、死にたいんですか?」
「そうかもな……」
もう一人はその建物と建物の間、目下の暗がりに何か居るとでも思っているのか、金網の向こう側、建物の屋上で今でも命を放り出しそうな男に訴えかけている。
「や、やめてくださいよ。こんな怪しい係に一人きりになるとか、カンベンしてくださいって……」
「それ、今まで一人きりでやって来た俺に対する嫌みか?」
「そ、そういう訳では……」
無いと言い切れない。彼が聞き及んだ限りこの係は意味不明だった。何故か交通課の女性警官に蛍光灯の取り替えを頼まれて無言で従っていたり、置いてあったバケツに気づかず蹴り倒して、署内の掃除を行っている清掃会社のおばちゃんに怒られたり、警察犬の訓練と称してシェパードに噛まれたり、意味不明の係。
この現場に来るまで散々だった。東都都警の僻地だとか、地獄だとか、墓場だとか、掃きだめだとか、犬のエサだとか。言いたい放題言われ、あまりにも酷い扱いだった。明らかに交通課の女性警官の方が年下で、キャリア組の新任である男の方が階級的には上のはずだが、どうにもこの係に配置された人間は階級如何にかかわらず扱いは底辺だったらしい。
なのに、突然東都都警の本部長から直々に命令が下ったのだ。殺人事件の捜査をしろと。
「自分で飛び降りたのなら自殺、ですよね」
「そうだな」
「本部長には殺人と聞いたのですが」
「そうだな」
「やる気有ります?」
「そうだな」
「聞いてないじゃないですか……」
一応、彼の上司に当たるらしい。世間の体裁を考える親の方針で警察官になって、最初に配属されたこの場所を彼はどうしても好きになれなかった。むしろ、嫌悪していると言っても良い。だからと言って辞めたいとは思わなかった。確かに親に世間体や方針なんて言うもので縛られて警察官になったものの、それでも警察官という職業自体は自ら選んだのだから。
「自殺でも、教唆なら殺人に当たるだろ?」
「あ、ああ。そういう事ですか……」
「いや。正確には恫喝、恐喝だけどな」
「はぁ?」
自殺現場を見てそんなことがどうして解るのか。
解るはずがない、死者は何も語らないのだから。
「いい? 死者は雄弁に語るのよっ」
「えっと、いやその……なんか、すみません」
「ほら見てっ、生きたまま頭部を強く平面に打ち付けた痕跡があるじゃないっ! ああん、ステキッ!」
細い黒縁メガネをかけた切れ長の目をした綺麗な顔立ちをし、検視室だというのにだらしなく白衣を着崩して、ちゃんと前を留めない白いブラウスのせいで内容物を覆う鮮やかなピンク色の布がチラチラと見える。
誰だ。こんなヤツを検視官にしたのは。誰がどう見てもおかしいのだ、遺体を慈しむような顔でうっとりと眺めている。更に頭部や臀部に外傷のある女性の遺体をステキとまで言うのだから、怪しいことこの上ない。怪しくてもこの女は立場上、上司である。
「頭蓋陥没する程の高さから、頭を下にして落ちたのよ。そして自由落下のエネルギーを殺しきれずに腰やおしりも強打したみたい。腰の骨が砕けてもこんなに良いおしりしてるんだもの、ステキじゃないっ」
「……は、はぁ」
職務上見るのだとは構えていたが、実際に遺体を直視するとなると気が引ける。死に様を知っていただけあって、砕け散っているであろう頭部を直視できるはずがなかった。
それに引き替えて検死解剖まで行う検視官である滝川まりね警部とアイスの棒を咥えた直属の上司、弓張警視。二人は当たり前のようにその現実を直視している。着任して雑用ばかり行っていた人間にいきなりそれを見ろなどと無理な話である。
「警視。あたし、あなたは死んだ方がもっとステキになると思うの。溺死、溺死が良いわ」
「今度な」
「絶対、絶対よっ」
「わーったから、わーったから。ちゃんと仕事してくれ、な?」
「肺にいっぱい水入れてね。ねっ!」
「入れる、入れる。だーから、早く」
「お名前は、山梨和世、二十五歳。職業は……日中は大学生、夜はクラブで働いてたみたいよ。当日はお休みで胃の内容物に酒類やおつまみみたいな物は一切なし」
「解剖したんですか。親族の同意は――」
「知らなーい。取れたの?」
「さあ、そんな事云われても」
「無許可ですか、ヤバイんじゃないですか」
「あー、本部長の名前で付けておけばいい」
平然とそんなやりとりをする。明らかに手慣れていて、その上一切悪びれる様子はない。その二人には日常的な会話だとばかりに、新任の男をのけ者に扱う。
「飛び降りた時以外の外傷は一切無いわ。誰かと争った痕跡も無し。綺麗なペディキュアの入った足には落下時の外傷がちょっとあっただけで綺麗よ。裸足で飛び降りたんだとして靴が見あたらないのが変だけど」
「俺も靴がないのはおかしいと思ってたんだ」
「確かに、有りませんでしたね。自殺なら揃えてあるもんだと……」
ペディキュアというのは足の爪にネイルアートを施したり、広義には足のケアを施すことも含まれているらしい。手ならマニキュアというものだ。どうにもよく分からないが滝川警部曰く、乙女の常識らしい。
「靴揃えて自殺するなんてテレビの見過ぎだ。別に履いたまま自殺するのも珍しくないぞ。それより裸足であのマンションまで来たのに足が綺麗だったっていうのもおかしい」
「裸足で来たのかどうか解らないじゃないですか」
二十五歳で大学生。浪人したのか、単位を落として五年、六年と居るのか、それとも院生なのか解らないが、社会集団の中にいる女性が、更にクラブで客商売をする人間が裸足で外を出歩くはずがない。季節柄裸足でサンダルのような物を履いていたとして、途中で落としたなどとは考えられないし、辺り一帯を刑事課の人間や、鑑識の捜査員を動員しても見つけられなかったらしい。ただ、別の場所で殺された可能性は無いそうで、何か精神的に病んだ結果裸足で歩いてきて飛び降りた――などと結論づけられて表向き捜査は終わったのだった。
終わった捜査を蒸し返すなどというのは正直理解できない。
公式に警察が自殺と断定し、捜査を終わらせたはずなのに、同じ警察が調べ直すというのだ。これでもし本部長の言う通り、殺人事件だったとしてそれが世間に公表されれば警察の不祥事以外のなにものでもないのだから。
特にキャリア組で出世しか興味がなさそうな東都都警南方方面本部本部長の小太り……小結本部長がそんな不祥事糾弾に、セイギを燃やす男には見えないのだ。
「足綺麗でも良いじゃない! 仕事じゃなかったらぺろぺろしてるわっ」
「亡くなった方に失礼ですって……」
「何云ってるのっ! あなたの方が失礼よっ。女性なのよ、綺麗とか、美しいって云って何が悪いのよっ! むしろ喜んでいるのよっ、彼女はっ! ぺろぺろっ」
本人に聞いたのかとこの女に……警部に突っ込んでやろうかと思ったのはおそらくその場に二人いただろうが、面倒事でしかない人間を相手に、更に面倒な事をしようとは絶対に思うはずがない。
「あ、ああ、すんません、すんません。その、それで……」
「謝って」
「……えっと」
「あの子に謝ってちょうだいっ!」
言い終わった瞬間、警部は大号泣である。驚くほどの大声を上げて喚き散らし、よく分からない理由の罵詈雑言を無作為に叩きつけて泣き出すのだ。あまり化粧はしてないようで涙で滲んで落ちるような事はなかったが、それでもいい歳した女が男二人を前に泣き出した。親族でも知り合いでもない赤の他人相手に、全力で泣いて彼女の尊厳を守ろうというのだから。
そしてその涙を見て、謝った方が良いのだろうかと考え始める。
確かに、死んでいるからと言って――
「って、別に貶めて無いんですけど」
「あ、あなたみたいな凡庸な男は焼死すればいいのよ。顔かたちが解らなくなるくらい――いや、レアね……顔はどうでも良いけど、あなた肩まわり良いわね。勿体ないから骨格だけ取っておいてあげる」
男が単純、正解にたどり着くと急に泣き止み、先ほどまでの号泣がなんだったのか全く解らなくなる。その上、さも当たり前のように落ち着いた声で男の死に様を思い浮かべ――
「あはー、美味しそう。肩胛骨ぅ」
聞いていなかった。向こう側にぶっ飛んでいて何も聞いていない。
検視室に二人して残された。正確に言えば確かに四人以上居る。壁際に黒い袋がいくつか台に乗せられた状態で置いてあった。たぶん、いや。確実に所謂死体袋っていうヤツだろう。
男二人がほぼ同じ境地に、残念なバショにいた。
死体袋の遺体を『人』としてカウントすると言う――
「この女性、山梨和世。こいつの住んでいる場所はどこだった?」
「……現場から徒歩五分の、別のマンションです」
「高さは」
「高さ?」
「住んでいたマンションは何階建てだ。何階に住んでいた、屋上は立ち入り可能か?」
「立ち入り出来るかどうか分かりません。十六階立て、住んでいたのは二階です。高さは……」
「十六階も有れば余裕で死ねるな。まあ、ただ自殺するだけならな」
「ただ自殺するって、じゃあ――」
誰かと一緒だった。何かそこに行かなければならない理由が有った。
そこで死ななければならない理由があった。
弓張は冷房が強めにかかった検視室の壁に寄りかかり、両の腕を組んで目を伏せている。遺体の状態を保つために冷房が強く効いていて、検視室の壁面は常に冷やされていた。その冷たい壁に寄りかかって考え込む様は刑事の様だと言っても過言では――
「ゆうれいのしわざだなっ!」
「そうね、ヤツらのしわざだわっ」
「亡くなった方に謝れっ」
「俺、ここから飛び降りて、結婚するんだ」
「そんな事したらけっこんどころか血溜まり出来ますけど。そもそも脈絡おかしくないです、それ?」
「冗談くらいテキトウに突っ込んでさっさと流せ。んで、真面目な話、ゆうれいのしわざだー、って云うのはだな――」
そういう冗談でも無ければ殺伐とした現場でやっていけないのだろうか。仕事中なのだから真面目な話しくらいちゃんと出来ないものなのかと。最悪の係と名高い所に来てどうしてやる気のない、昼行灯の上司と日中ぶらぶらしなければならないのかと。これでは何のために警察官になったのか。そんなくだらない事は認められないのだ、冗談じゃない。
「冗談でもなんでもない。事実だ」
「……なんの話しがですか。もう一度、ちゃんと――」
「山梨和世は幽霊に恐喝されて死んだ」
「あの、さっき科学的に検視して、解剖結果まで聞いたんですよ。何が幽霊――」
三十四階建てのマンション、その屋上。高気圧ど真ん中にして南南西から風が寄せる。風が強い。百メートルを超える超高層階にあって無風であることはあり得ないと言っても過言ではない。
「人間が三十四階、その屋上から飛び降りて垂直に落下すると思うか?」
「風で流されてあの位置に落ちた可能性もありますよ。もっと離れた場所から飛び降りたのかも」
「飛び降りてない。落ちたんだ、ただ落ちただけだ」
「なに云ってるんですか、落ちて自殺するのは飛び降りって世間一般で――」
「じゃあ、あれは世間一般でなんて云う」
弓張は咥えていたアイスの棒を手に持って、それを差し向ける。アタリと焼き印されたその棒は消費者の安全を考慮して、持ち手とアイスの被覆部の両端が丸く綺麗に面取りされている。
「あれって――」
午後三時五十六分。
西北西、その方角によく分からないものが見えた。真っ黒な装飾華美のドレスを着た、少しとは言い難い程のふくよかな女性。その人が地上百メートル余の空間に素足で立っていた。女性と分かるのは髪が長くて、顔立ちもはっきりと女性と分かるから。あれが女装した顔立ちの良い男性である可能性は否定できないが。服装と佇まいは確かに女性だった。
「え、んあ…… んん…… なんです、アレ」
目を細めたり、擦ったりしてみるが、一向に消える気配はない。
「俺が訊いたんだけどな」
空中に、人が浮いているように見えるのだ。
「足、付いてますよ」
「そうだな。幽霊は足がないって誰が云ってた。テレビか、雑誌か、それとも古文書か」
「黒い服、着てますけど」
「そうだな。幽霊は白い服だって誰が決めたんだ。俺もお前もここで今すぐ死んだとして、白いスーツで化けて出るのか? 俺たち、普通のスーツだぞ」
「でも、昼間…… ですよ?」
「そうだな。今日も東都はかんかん照りで暑いな」
最高気温三十四度。男は今日、朝によく見るテレビ番組の天気予報で年配の、男の予報士がそう言っているのを見た。刻一刻と変わる天気なのだから、体感ではその予想温度を超えているものだと推測していた。
「このクソ暑い日に真っ黒な服着て、空中散歩するご趣味を持った方は何だろうな」
「な、何かの――イベントで…… ま、マジックで……」
イベントなら空中に浮いている装置が分からない。マジックなら素人目に装置が分からないのは当然だとして、テレビカメラや衆目はどこにあるのか。地上から百メートル上空の人型を目視して、マジックだのと言われてもうさんくさく感じるだけだろう。地上からは遠いのだから、なんとでもやりようはある。
だが、それは二人の前に制止していて、先ほどまで居なかった存在だった。
新任警官の歓迎会にしてはやけに凝った趣向だし、歓迎会なら浮いている当人を合わせて、三人でする物ではないだろう。警察官としてこの係に配属されたのは、異例というか、よく分からない人事のせいである。六月の中頃、警察学校の中途に何故かこの係に配属されるという珍事だった。
そんな人間の為にどうして凝った歓迎会など、着任して相当経ってから催されるはずがあろうかと。
「で、結論としてアレはなんだ」
「み、見えない糸で繋がれた風船……が、妥当かと」
「おお、そうだな。妥当だな」
アイスの棒を咥え直し、左の平手に右の拳を当てて「ごもっとも」なんて納得している風を装う上司。
丸いのだ。どこが胸で、どこが腹で、どこが尻か分からないほど寸胴で、更にドレスを着ているのもビニール部分を隠すために後付けされた装飾だろう。顔や髪、素肌の見える手足だって特殊メイクの技術者に頼めば――
「おい、そこのブッサイクなデブ」
「は? いや、ちょ――」
こちらに頭をつんのめって移動し始める、アレ。それほど早く移動している様には見えない。見えないのだが、巨大な物体が空中をゆったりと向かい来る様は酷い圧迫感と嫌悪感を十分に二人に与えるモノだった。
「迫ってます、来てますって――」
「おー、こわいこわい」
そう言いながら三十四階の屋上でアレから逃げるために、アレの反対方向に歩いて逃げる。歩いていても十分逃げられるような速度だったのでチラチラと横目に見ながら歩いて柵までたどり着いた。
「なんですか、アレ」
「お前、風船って結論出したんだろ」
「いや、絶対違うじゃないですか。めっちゃ笑ってるし。拳銃持ってきた方が――」
「アレに普通の銃は効かないぞ。試しにお前、靴投げてみろ」
顎で指示する。アイスの棒を咥えた年若い上司が、得体の知れない物体相手に靴を放り投げろと言い出した。確かに投げられそうなものは靴しかない。数ヶ月ですり減って買い換える事になるなんていう話しを聞いて、安くて丈夫そうな買い換えを前提にした革靴を履いていたが、得体の知れないアレに投げつけろと言う。殆ど手ぶらで現場まで舞い戻ってきた二人には投げつけられるモノなど限られていた。
「で、どうすんの。投げるの?」
「弓張警視がどうにか……」
「やだよ、俺の靴高いし」
「……靴を投げるのは決定なんですか。あと、値段ですか」
「返ってくるとは思うけど、傷とか付いたら嫌じゃん」
普通、俺に任せろとか、俺に策があるとか。上司ならそういう部下を守り、警察官としての義務や職務に忠実な行動を執るべきだと……
「お、良い感じに追い詰められて参りましたよ」
「冗談半分に云わないでくださいよっ」
転落防止柵に背を預け、それを正面に据える。既にアレは屋上の中央に陣取っていて、更に左右にその体を引き延ばしていた。風船には絶対出来るはずはないし、まともな生物なら体をゴムのように伸ばして逃げ場を埋めはしないだろう。まさに捕食する地球外生命体の様だ。
「ほら、早く投げろって」
「わ、分かりましたよ……」
アレに。怪しい何かに向かってやはり靴を投げなければならないらしい。得体の知れない物体の前で片足を上げて革靴を取ろうとしている様は傍目からは明らかに変だろう。
男は足から取った靴を振りかぶってみる。本当に投げてどうにかなるのか分からない、上司がテキトウな事を言っている可能性も大きい。だが投げなくては確実に悪転するとして、好転する可能性はゼロに等しい。ならばとりあえず、投げてみるのが今取れる唯一の行動選択だった。
「のおぉぉっ」
「お前、無駄に肩良いな」
男は全身全霊を持って靴に全てを賭けた。回転してゆく合成革の靴が風や靴の形状のおかげで少々スライダー気味に飛んでいった事はあまり問題ではなかった。問題なのは、その合成革の靴が、つま先がアレに突き刺さった事だった。
どう見てもドレスを突き破っているように見える。更に軟体物の揺れる動きに合わせて靴が振れている。
そして数秒の後、
「あ、吸い込まれたな」
「お、俺の靴っ」
掃除機のノズルに詰まったゴミが何かの弾みで一気に吸い込まれるように消えていった。更に驚いたのは刺さったときに破れているように見えたドレスの布地が元に戻っている事。物理的に絶対にあり得ない。アレのドレス部分も、よく分からないアレそのものと捉えた方が良いらしい。
「あ、出てきた」
「……」
吸い込まれて数秒の後、またあの安っぽい合成革靴が飛び出てきてアレの足下に転がった。入れたら銀になったり金になったり、革靴を返してくれと頼めば金銀セットで頂けるとか、そう言うモノではないらしい。
靴を投げつけてはき出すまでの間、アレはその場に留まり続けていた。しかしはき出した瞬間、また徐々に近寄ってくる。
「ど、どうするんですか。靴投げても何にもならなかったじゃないですか」
「まあ、解ったことはある。お前の靴は気に入らなかったって事だな」
「いや、あの…… 何の解決にもなりませんよ、そんなこと解っても」
「そうでもない」
そう言って眉を上げている上司。ふざけている。絶対に、この状況全てがふざけている。そう思いこんで責任を押しつけることにした男だったが、彼自身に何が出来るわけではないと言うことが逃避の最大原因だった。
アイスの棒を咥えたまま上司、弓張警視は上着の内ポケットをまさぐっている。その間「どこ行ったかなー」「こっちだったかなー」などと、内のポケットは二つしかないのに、どうしてか交互に手を突っ込んでは何かを探していた。もちろん、その間にもアレは迫っていた。
「ちょ、早く。何かあるなら早くしてください」
「あー、いっぱい入ってて、ちょっと探すのに時間取るから。時間稼ぎして」
「時間稼ぎって…… どうすれば――」
思い当たる。一つだけ。先ほど上司が言ったことだ。
解ったことはある、と。
男に解った事はただ一つだけ。靴を投げれば少しの間、アレは止まると言うことだ。
「……っ。 もう一個くれてやらぁっ!」
自暴自棄だった。ムシャクシャして投げつけたとか、酔っぱらいがテンション上げすぎて放り投げたとか、周りにはそんな風にしか見えなかっただろう。居たならば、だが。
それでも律儀にアレは止まり、靴を腹のような部分に受け、数秒の後に飲み込んで、また数秒するとはき出す。
「……まだですか」
「んー、もうちょっと?」
仁王立ちしていた。ふくよかを超えて得体の知れなくなったアレを相手に、男は仁王立ちしていた。それ以外することがない。
履いていた靴二つをアレに投げ、紺色の靴下でマンションの屋上に仁王立ち、そんなスーツ姿の警察官という存在を知っているのは上司と彼自身と、目の前のアレだけだろう。
もう男に投げるモノはない。着ているモノを投げても風を受けて流され、アレの足止めにならない事は目に見えていた。
だからこそ、男は向き直る。
「え、何」
「靴」
「……まて、もうみつ――」
「しゃらくせぇぇぇっ!」
何の役にも立たない上司に体を当て、すっころんだ所から黒い革靴を奪い取る。確かに言っていたとおり高そうな革靴である。右足の靴を奪い取ってすぐにアレと相対し、思い切り投げつけてやった。
「おわぁぁぁーっ! 俺の、俺の靴っ」
思ったより良く飛んだ。そして思ったより良く突き刺さり、思ったより良く時間を稼ぐことが出来た。何もかもが男の思った以上の成果を上げ、自分自身の限界を超えたことに、男は一種の達成感と満足感を得た。
そうするとどうだろう。もう一度、己を超えたいとは思わぬか。
振り向いて今度は上司に相対する。
上司は尻餅をついた状態で右手を伸ばし、何か逝ってしまったモノを止められなかった無力感を演出していた。
「靴」
「だから、もう見つけたから時間稼ぎは良いっ」
上司は、弓張警視はすくっと立ち上がるのだが一瞬バランスを崩す。片足だけ靴を奪われて左右の高さが妙に変わってしまい、まっすぐに立てなかったらしい。
「コレで万事解決だ」
左手中指と薬指で挟んだ物。単なる紙切れ。それも人型に切り抜かれていて、顔の部分には子供が描いた様な笑顔の顔がある。その紙人形の手を引っ張ると、後ろに蛇腹に折っていたのか、連なって同じ形をした人型が伸びてくる。手と手を繋いで伸びる様は大の字を真横に繋げた様に見える。小学校の歓迎会とかで、飾り付けに使いそうなソレ。
「コレでアレを倒せ――」
「ふんっ」
上司は両手いっぱいに広げ、満足そうな顔をしてその紙の連なりを持っていた。
だから腹が立って、中間辺りをチョップで切り裂いてやった。
「だーっ! お前何してんのっ」
「あなたこそ何をしてるんですか。バッカじゃないですか、こんな紙切れ――」
「おま、式神とか知らないのっ! マンガとかテレビでやってんじゃねーか」
「そりゃマンガとかテレビだろ。早くアレをなんとか――」
「だから、アレもマンガとかテレビで似たようなの見たろっ」
「……あ?」
そう言えば、アレって何だったか。確か幽霊とかなんとか最初の方で……そういう話しだったのだろうか。そうなると、だ……
「え、切り札……的な?」
「お前が切り札、切り裂いたよ」
「……は、早く逃げましょう」
安全用の柵によじ登り始める男。
「落ち着け、半分でも何とかなるはずだっ」
弓張は男の首根っこを引っ掴んでマンション屋上、安全柵の内側に引き落とした。背中や後頭部を打ち付けたが死ぬような高さの方では無い。
「出番だ、こゆり」
「え、誰……」
死んだカエルのように転がって、疑問を口にしたが無視された。
弓張は高らかに紙人形を掲げる。ただそれは予定の半分程度の長さで、本当にそんな事でアレをどうにか出来るのか男は心配で、起き上がって柵もよじ登れなかった。
弓張は掲げていた大の字ニコニコ紙を手放した。百メートル余、強い風に煽られて飛んでいってしまうのではと男には思えたが、どうしてかその紙はそこに在り続けた。更にそれが屋上の床辺りに降りてきて小さな環を作る。
手と手を繋いで環を作る。
笑顔の紙人形が回り始めて環を作る。
「ほーら、おいでませぇ。天野傘小遊狸主神」
弓張がそう言うと、次の瞬間、紙人形がなんとも間の抜けたポンッと音を立てて発火した。そしてその火は徐々に大きくなり、炎となってそこに留まった。
それを見たのか感じたのか、どちらかよく分からないが確かにアレは止まった。その炎が出ている間は動かなくなるものだと思っていると徐々に煙の量が増えて、炎が弱まり、消えてしまったらしい。らしいというのは煙のせいで半径五メートル程度何も見えなくなったからだった。
もし、これで『煙の出ている間に逃げる術』などと言われたら男は弓張警視を呪うために化けて出てやろうと本気で心に誓っていたのは、本人以外誰も知らない。
徐々に煙の帳が晴れ、紙人形が燃やした場所が見えた。茶色い物体がある。両手で抱えられる程度の、毛むくじゃらの物体……
「え、なにこれ」
「式神」
「え、しょぼっ。コレ、しょぼっ」
冗談ではない。マンガのキャラクターのような顔をした、明らかに普通の、野生の動物とは全く違うソレが、後ろ足で立ち、前足をお茶くみ人形の様に突きだしたタヌキが居た。
あまりにも残念なシキガミとやらに男は笑ってしまう。指までさして、それはもうバカの限りを尽くした様なモノだとそしり笑った。
「はぐっ」
「――っ、痛ってぇー」
しかも噛まれた。明らかにマンガやアニメのマスコット的位置に居そうな毛むくじゃらの物体に、がっちりと噛まれた。しかもスッポンか何かのように噛みついて離さない。指を食いちぎるなどと言う事はされなかったが、バカにした分だけ噛みつくつもりの様だった。
「こらこら、こゆり。敵はこいつじゃないぞ」
「敵だもん、あたちの敵だもん」
「え、コレ、喋るんですか」
運の尽き。指し示す。
「はぐっ」
「いた、痛い、痛いって――」
今度は噛み千切る気だろう。前足を器用に使って手にしがみつき、上あごと下あごの歯を摺り合わせるように指を噛み出すタヌキ。
「こゆり、あっちだから。あっちが俺の敵だから」
流石にタヌキも噛んでいる間は喋られないらしく、一度噛むのを止めてから喋るらしい。
「……こっちも」
「だから、こっちは敵じゃないから。部下だから」
「ぶかってナニ?」
「んー、下っ端?」
「三下、三下ねっ!」
どうしてエセタヌキに三下呼ばわりされなければならないのか解らないが、こいつがそこに居るアレをどうにかしてくれると弓張警視は言いたいらしい。先ほどから男に対する敵対心を一切隠さず攻撃してくるが、アレはこのエセタヌキの眼中にないのだろうか。
「何であたち半分こなの? 半分こ、どこ?」
「あー、こいつが半分に千切っちゃって――」
「はぐっ」
「あぶないっ」
エセタヌキと弓張警視の会話をもう半分以上投げやりに聞いていると突然男に牙が降りかかった。なんとなくエセタヌキの敵対心がどう膨れあがって襲いかかってくるか解った。縞の付いたしっぽの毛が逆立ってから行動に移るらしく、それはもう分かり易いモノだった。
「こゆり、来るから」
「うぅん、わかった」
弓張警視の言葉通り、アレが来た。
それもものすごい早さで襲い来る。先ほど迄の遅さは、こちらを余裕で倒せそうだと高をくくられていた証拠だろう。だがアレは二人と一匹をどうする事も出来なかった。
奇形というか、異常にふくれ上がった胴体を残し、頭が吹き飛んでいた。
エセタヌキのしっぽの毛が逆立ち、膨れあがっている。前足、両手と言えばいいか、それを前に突きだして両手を重ねて佇んでいるだけだった。
「終わったよー」
「はいはい、ごくろーさん」
「こゆり、良い子?」
「良い子、良い子。ほうら、よしよしよしっ」
飼い犬か飼い猫かを褒めちぎるようにワッシャワッシャとなで回し、抱き上げて顔まですり寄せ始めた弓張警視。明らかにそういう人ではないように見えたのだが、目の前でそんなことをしているのだからそういう人、なんだろう。
凄い音がした。重たいモノが地面に叩きつけられたような音。それがアレがマンションの屋上に倒れる音だと気がつくのに少々要したが、別段危害はなかった。
巨体からぱらぱらと剥がれるように黒いドレスが消えてゆく。中から出てきたのは大量の靴。ほぼ全てが女性用の物で、男性用の靴は殆どなかった。量的には小山が出来る程度、中規模の靴屋、1件分の靴をひっくり返した程の量が散らばった。
「……なんですか、コレ」
「ドレスに合う靴でも探してたんだろ」
「はあ?」
「女性がドレス着る前に何する?」
「は? 知りませんよ。シャワー浴びるとか……」
「そうじゃなくて、ドレスを着る日に向けてだ」
「……さあ」
「ダイエットとか、エステに行くとかするだろ」
「はあ……」
「さっきのヤツ、そう云う風に見えたか」
「……」
ダイエットしてあの体型か?
いや、元々ふくよかな女性で大きめのドレスを着ていた可能性もある。それになんだか自由に大きさや形状を変えていたように思えるので、そもそもダイエットする理由がない。
痩せたければ痩せた体格に変形すればアレはどうにでもなれそうだった。
「ドレスを着ているのに体型は気にして無かったんだよ。でも素足だった、靴を溜め込んでいた。じゃあ推察するに、自分に似合う靴を探してたんだろ」
「それで殺して奪ってたって事ですか」
「いや。奪ったら運悪く死んだんだろ」
「運悪く?」
「山盛りになるほど靴を溜め込んでるんだ、それだけ盗み、強奪したって事だろ。靴の数に対して事件数が少なすぎる。山梨和世は靴を奪われる際に運悪く死んだだけだ」
「他の靴は盗まれただけって事ですか?」
「多分な。これとか、分かり易いと思うぞ」
つまみ上げたのは女性物のブーツ。季節外れな上に傷んでぼろぼろになっていた。見る限り捨てられた物を拾って集めたのだろう。他にもそんなくたびれた靴が幾つも転がっていた。
「その靴を寄越せ」
「あの、さっき投げたんで履いてませんけど――」
「それは、その言葉は恐喝だろ?」
「……そう、ですね。けれどどうして落ちたんですか」
「お前、さっき自分で実演してたの覚えてないのかよ」
「実演…… え、もしかして――」
さっきもうどうする事も出来ないとあきらめてよじ登ったのは何だったのか……
「意味不明な物に追い詰められて正しい判断が出来なくなった。それでフェンスによじ登った。その時、丁度アレが靴を取ろうとしたんだろうな。あれだけの巨体で靴を持って振り回したら人間一人、垂直に叩き落とすのもわけないだろ」
ただ落とすのと、投げて落とすのでは風の影響が違うはずだ。ただそれを人間で実証するのは難しい。警察機関に、化け物地味たヤツが人間を叩きつけるように投げたなどという事を考慮し、実証実験しよう等というぶっ飛んだ考えの持ち主は居るはずがない。
わざわざ人間大の強度と形状の人形を、どの程度の力で投げれば垂直に落ちるのか実験器具を、設備を持ち込んで立証しても意味がないのだから。
「殺人としての立件は確かに無理だ。犯人は人間でも無ければ故意に殺したわけでも無い。強盗傷害致死、正確にはそれだが。アレを裁くのはこの国の法律じゃあ無理だろう?」
「そもそも存在を立証できませんし……」
「ああ、だからこの係が有るんだよ。雑対係。正式名称は雑種特別対策係、さっきのアレみたいなのを相手に捜査するのが雑対係の仕事だ」
「係が相手にしているものは解りましたけど、山梨和世がここに来た理由は?」
「まあ、それは署に戻ったら解る。ああ、あと都合良く署内だと雑用対策係だと勘違いされてるから、本来の任務は誰にも言うなよ。特殊な係だからな。まあ、とりあえず初専門事件解決おめでとう。村山慶次警部補」
「あの、警視。お言葉を返すようで悪いんですが、ここにも雑用が……」
「あ、なんだ?」
「いえ…… 俺たちの靴、ここに埋まってますよね」
「……お前が俺の靴、投げたんだから。お前がんばれよ」
「酷くないですかっ、俺が一人で探すんですかっ」
山のように積まれた靴、靴、靴。捨てられた靴や現役で履いていた靴など入り乱れてか、異様な臭いの山になっている。そんなものの中に、安い革靴を探しに行かなければならないのかと。だったら買い換えを前提にしていた靴だから放置しても良いかと思ったのだが……
弓張警視は抱いていたタヌキを下ろし、柵に寄りかかって座り込む。
「四万六千円だったなー」
「なっ」
「はぐっ」
「あぶないっ」
投げた時の勘を頼りに探すしかない。
午後四時二十六分。気温二十六度。
雑対係、村山慶次警部補、二十四歳。
目標は、刑事課の刑事。
なんだか、きな臭い所に迎えられました。