覚醒 1
なんだかんだで帰るときが一番大変だった気がする若人の里帰りは奇跡的に無傷で終わり、部屋に帰るなり倒れ込むように寝た。
朝になっても吐きそうなくらいの車酔いで、卯月が若人を恨みながら何とか起き上がると、ふと携帯が光っていることに気づいた。開くと思わずげっと呻いた。すごい数の着信履歴、全部自宅-つまり彼方からだった。
慌てて折り返し電話しようとするが、今は早朝だ。こんな時間に知らない女子高生から電話があったらさすがに両親も不審がるだろう、と思いながら携帯を閉じると、ちょうど携帯が鳴った。
『お姉ちゃん!』
飛び込んできた泣き叫びそうな声に卯月は思わず耳を離すが、なんとか耐えてくっつけた。
『大丈夫!?生きてる!?』
「だ、大丈夫だよ」
恐らく先日の一件が彼方に何らかの形で情報となって流れたのだろう、事実、若人に剣を与えてくれたのだから。
「ありがとう、助かったよ。彼方のおかげ」
『本当!?』
「うん」
まるで弟をあやす姉のような口調になってしまっている自分に苦笑しながら、卯月は焦らずゆっくり彼方を落ち着かせた。そしてようやく彼方も落ち着いてくれたようだった。
「…ねえ彼方。私、強くなりたいんだよ。どうすればいいかな」
若人を守る為に、若人を傷つけないために。必死の願いは、電話の向こうで彼方が一生懸命考えてくれていた。
『人の身体能力を上げるのはとても難しいんだ。努力すれば、それなりに叶えやすくなると思う』
「えーとつまり…鍛えるってこと?」
『そうだね。体力つけるとか、剣を振るえ続けられたらもっといいな。努力すればそれだけ、僕も願いを叶えやすいんだ…あ、やばい。ママが起きそう。もう切るね』
「う、うん。ありがとうね彼方」
電話を切り、卯月が一人小さく頷いた。彼方の言う通りにはならなかったとしても、少しでも体を鍛えておくのはいいかもしれない。またいつあんな強い異形が現れないとも限らない。どうしようか迷いながら部屋を何気なく見渡すと、雪香がくれた学校案内のパンフレットが見えた。
皿に磨いていた若人が、ふと手を止めて少し驚いた表情でこちらを見た。
「剣道部に?」
「そう、入部してみようと思うんだけど」
どうかな、と聞いてみると、若人はいつもの冷静な表情に戻り、皿磨きを再開した。
「いちいち僕に聞く必要はない。君の学校生活だ、君の好きにするといい」
「そりゃそうだろうけど」
そんな冷たい言い方しなくてもいいのに、卯月が少しむくれると、若人が皿を置いて再びこちらに向き直った。
「ただ帰りが遅くなろうだろうから、連絡は必ず取れるようにしろ。あまりに遅くなるようだったら、僕が迎えに行くから」
「…っ、バイクは止めてね」
ありがとう、卯月が笑うと、若人も小さく笑い返した。
いってきますを言って下までエレベーターを降りて外へ出ると、向こうから水無瀬が手を振っていた。
「みなちゃん」
「止めろってその呼び方、女みたいじゃねぇか」
「えー呼びやすいのに」
「まぁいいけどさ」
お前が呼ぶなら、という台詞は小さすぎて、卯月には届かなかったようだ。悲しいやら助かったやらで、複雑な水無瀬の目の前まで、ようやく卯月が走ってきた。
「どうしたの、今日は」
「いや、通りかかったらお前が見えたからさ。一緒に」
「卯月、水筒を忘れているぞ」
いきなり後ろから若人が現れ、卯月はびっくりしたがありがとうと受け取り、水無瀬は小さく、出た、と呟いた。睨むのを我慢して微笑むと、向かいの若人も似たような表情をしていた。
「はじめまして、卯月の世話をしている若人です」
「はじめまして、テレビでよく拝見してます…学級委員の水無瀬です。卯月さんとは大変仲良くさせていただいております」
二人の火花が散り、お互い固く握手を交わす。その近寄りがたい雰囲気に卯月は訳も分からず身を引いてしまう。笑顔なのが余計に怖い。
(何の世話してるんだよ、この変態ロリコン美容師が!)
(何が大変仲良くさせていただいているだ、欲の塊の分際で頭の悪い言い訳を…下心がばればれだ馬鹿者)
目は口ほどに物を言うという言葉があるが、やはり言葉にしないと伝わらないこともある。二人の火花は卯月には届かないまま、卯月と水無瀬は学校へ向かい、若人は職場へと向かった。手がかなり痛い、子ども相手に馬鹿なことをした。
仕事仕事、若人はまるで世界相手にでも言い訳をするように、足早に職場へ向かった。
水無瀬と世間話をしながら登校していると、ふと彼が妙に落ち着かない様子に気がついた。どうしたの、と訪ねると彼は大げさにため息をついた。
「やっぱり気づいてないか。お前、ちょっと前からずっと男につけられてたよ」
「ええ?」
「何かあってからじゃ遅いぜ、気をつけろよ全く」
「どんな人?」
「なんか眼鏡の、ほっそい奴」
「眼鏡の…」
それでは先日の『天使』ではない。今の卯月は、性犯罪者よりも天使や異形の方がよほど怖かった。特に今は、なんだか妙なことを言っていた天使の方が異形よりも怖いくらいだ。
でだ、と話を切り替えた水無瀬は、なんだか少し顔が赤かった。
「なんなら送り迎えしてやろうか?」
「え、いいよさすがに…危なそうなら、若人に迎えに来てもらうし」
面白くなさそうに睨み付けた水無瀬の視線に、パンフレットを取り出した卯月は気づかなかった。
「それに私、部活やろうと思って」
「へぇ、何部?」
「えっとねぇ」
「ミイラ取りがミイラ」
「どぁ!?」
いきなり後ろから雪香が現れ、驚く水無瀬の隣で、卯月は笑顔で彼女に向かって手を振り、雪香も返した。
「卯月ちゃん、男はみんな狼だからね。気をつけなきゃ駄目だぞ」
「あはは、多分、気のせいだと思うんだけど」
「何言ってんだ、気をつけろって」
「そうよ、少なくてもストーカー二人はいるみたいだし」
ねぇ、と雪香に含みのある笑いをされ、一瞬何を言われてるのか分からなそうにしていた水無瀬が、急に覚醒したように真っ赤になり、いきなり走り出してしまった。訳が分からず驚いている卯月の向かいで、雪香は笑いながら卯月の肩をぽんぽん叩いた。
「みな君も苦労するね」
「ん?」
「なんでもないよー。今日さ、会議早く終わりそうなんだ。久しぶりに、一緒に昼ご飯食べようよ」
「うん!」
放課後早速剣道部を訪ねると、いきなり歓声が上がり、少し怯んだ。また若人のファンの子だろうかとも思ったが、ただ純粋に見学者を歓迎したらしい。
「嬉しいわ、見学なんてどれくらいぶりかな。今時剣道なんて流行らないみたいね、うち、超弱小なのよ。今だって、柔道部の部室の隅、貸してもらってるくらいだし」
「そうなんですか」
「うん、おかげで暇なとき、受け身とかも教えてもらってるけどね」
「それはそれは」
剣道部部長の彼女には悪いが、自分にはいい環境のようだ。そういうのも覚えておいて今後無駄にはならないだろう。案内された場所に入ると、失礼ながら汗のにおいで倒れそうになった。思わず鼻を押さえた自分を見て、彼女は豪快に笑った。
「くっさいでしょ、すぐに慣れるから」
「ふぁい」
出来ればあんまり慣れたくないんだけど、なんとかそろそろ顔を上げると、彼女がすごい勢いで誰かに向かって手を振っていた。そしてやってきた人は、こういってはなんだが、柔道着が全く似合っていなかった。細身のどちらかといえば病弱にさえ見える男子生徒で、分厚い眼鏡が妙に印象的だ。柔道部室よりも図書室の方が似合う。
「紹介するね、柔道部部長の滝君」
「へっ」
まさか部長だとは思わなかった、思わず素で驚いた卯月の反応に、滝は不機嫌素に顔をしかめ、彼女はまた豪快に笑った。
「だよねえ、風が吹いても倒れそうだもんねぇ」
「黙りなさい、剣道部…おい、お前。こっちに来なさい」
「は、はい!なんすっか主将」
そう言ってこっちに向かって走ってきた男子は、非常に体格のいい、いかにも柔道部らしい生徒だった。そんな彼が近づくなり、いきなり滝は彼を投げた。細腕一本で。
鮮やかな手際に卯月は開いた口がふさがらず、さすが柔道部というか彼は受け身を取っていたが、それでもびっくりした顔はしていた。
「ちょっ、いきなりなんすっか!?」
「これで分かったでしょう。私は弱くない」
「はは、はははは…」
乾いた笑いが我ながら空しい。とんでもないところへ来てしまったかもしれない、入部する前から早くも後悔してしまった。
しかしせっかく入ると決めた、何も柔道部に入るわけではないし、卯月は剣道部の入部届にサインした。彼女たちは跳び上がって喜んでくれたが、その喜びはどちらかといえばプレッシャーだった。
今日は見学だけで終わり、卯月は早めに帰らせてもらえた。お辞儀をして部室を出て行こうとすると、先ほど滝にぶん投げられた男子生徒が走ってきた。
「おい、滝主将が呼んでるぞ」
「…ええ!?」
呼び出された先は体育倉庫で、予想はしていたが滝だけだった。暗いことと滝と二人だけということで、何だか妙に空気が重い。先ほどの失礼で怒られるのだろうか、卯月がじっと叱られる瞬間を待っていると、滝はいきなり自分の腕を掴んできた。
「えっ」
捕まれた腕からは剣が露わになり、小さく叫びかけたが、滝はまるでそれを知っているかのように凝視して、やがて腕を下ろした。
「申し訳ない、どうしても確認したかったんです」
「…え、と」
先日彼方と出会ったことから、人は見かけで判断できないと改めて思った。もしかして彼もまた、人ではないのだろうか。
「気の毒に、しっかり付いていますね。私に力があれば、外してやれたかもしれませんが」
「あの…先輩は、えと…どういう」
もしかして彼も誰かの願いの形なんだろうか、彼を見つめて答えを待っていると、彼はなぜか不機嫌そうにこちらを睨んできた。
「見て分かりませんか。あなたたちが呼ぶところの天使です」
「すいません、全く分かりませんでした」
いきなり男子生徒に天使だと名乗られて即座に信じるなんて、自分の頭も大概ファンタジーに毒されたものだ。自分の剣のことを見つける前から知っていたし、彼がそうだと名乗るのならそのように信じるしかない。どこからどう見ても普通の男子生徒だし、先日の天使と違い羽もないが。あんな大きなもの隠せるのだろうか、聞いていいかどうか迷っていると、目の前の滝と目が合った。刃物のように鋭い目で睨まれ、卯月は萎縮してしまった。