里帰り 4
怒りが限界に達した卯月が地面を蹴ると、若人がそれを制した。若人は震えながら、それでも必死に剣先だけは少女へと向いていた。
「時計、一つだけ信じてほしい。僕は、君を殺しかったわけじゃない。君と一緒に生きたかった。長い時を、君と一緒にいつまでも一緒にいたかった」
「うん」
笑顔はどこまでも愛らしく。
「分かってたよ」
そして気高いものだった。
若人の剣は異形を貫き、そして、それはゆっくりと砂に変わっていった。
「若人!」
卯月が駆け寄ると若人は膝をつき、荒い呼吸を繰り返していた。出血は酷いが傷はゆっくりと塞いでいて、静かだった世界もゆっくりと制止が解けていく。
「若人、若人、大丈夫?」
「…っ、僕は…」
「若人」
あなたは人殺しじゃないよ。妹さんはあなたを恨んでないよ。私は大丈夫だよ。
言いたいことはたくさんあってそれはどれも正解でどれも間違ってる気がした。何かを言いたくてたまらないのに、どんな言葉も出てこなかった。
だから。だから、せめて。
「ありがとう、帰ってきてくれて」
また、私のところに帰ってきてくれてありがとう。それだけは絶対に言いたくて、頑張って声に出すと、若人は何か言おうと口を開くがふらついてしまい、そのまま、卯月の肩に倒れ込んだ。
「わっ」
その重さに卯月は必死で耐えていると、後ろから気配を感じた。まさかと思って振り返ると、背中に羽をはやした男が立っていた。異形ではなかった。
「無事…だったんですね」
「嫌味かよ。なっさけないねぇ、民間人に助けられるなんて…しかし、こりゃ。おかしいね、おかしいよ。こりゃいよいよ危なくなってきたな」
この男が何を言いたいのか気になったが、今はただ、目の前の若人を支えるのに必死だった。しかし男は言葉を止めない。
「君さ。もう気づいてるでしょう。自分が人間でなくなっていること」
否定も、肯定もできなかった。突きつけられる当然の事実に泣きそうになっていると、男は大げさに両手を振った。
「ああごめん泣かないで…ええとね。君は、ここに、人間のところにいない方がいい。魚は水中で、鳥は空で生きるように、生きるものは生きる場所がある程度決まっている。君もそのうち、生きるべきところへ行かなきゃいけない。けど、今は。王子様へのキスが先かな」
茶化すように男は軽く片目を閉じ、そして鳥のように飛び立つとそのままいなくなってしまった。男の言葉を脳内でゆっくり繰り返していると、ふとバランスが崩れてしまい、まばたきをすると、自分は若人に押し倒される形になった。
思わず赤くなったが、その羞恥はすぐに苦痛へと変わった。気を失って力が入っていないせいだろうが、異常に重い。
「若人、若人」
かすれる声で何度か名前を呼んでみるが、若人はびくともしない。気を失ってそのまま眠ってしまったようにも思える。このままでは冗談抜きで窒息する、卯月が腕を必死に動かし、なんとか携帯電話を取り出すことに成功した。
端から見たら美女が優男を軽々背負い歩いている、かなり目立つ行動だが、田舎のため人通りが少なくて助かった。先ほどからずっと笑っている育美の後ろで、卯月の顔は赤い。
「もう、昼間から青空の下で何やってるかと思ったわよ」
「だ、だから、そんなんじゃないったら」
「分かった、分かってるわよ」
怪我はふさがったためまさか救急車を呼ぶわけにもいかないし、かといって若人の両親に助けを呼べば状況が状況のため無意味な誤解を生む。力持ちで頼りになる彼女がいてくれてよかったと思った。
「なっさけないわねぇ、若人も貧血なんて」
「…疲れてるんだよ」
きっと、きっとすごく辛かった。若人の痛みを背負えない自分が悔しくて、卯月が拳を握りしめていると、その表情を見て育美は小さく笑った。
「よかったわね、若人」
「え?」
「ううん、なんでもない」
「ん?…っ、あ、本当にごめんね育美ちゃん。せっかく実家でゆっくりしてたのに」
きょとん、と目を開いた育美が、ほどなくして大笑いした。
「やだ私、家なんてないわよ。勘当されたもん」
「ええ!?」
育美が家を追い出されたということよりも、どちらかといえば勘当ということが今時本当にあるんだ-驚きすぎて驚く点がずれてしまっている卯月の様子に、育美はもっと笑った。
「オカマになっちゃったから、まぁ、当然よね。今日も友達んとこ泊まったし…私の実家はもっと北の方。今はちょっと違うけど、昔は高校がこのへんで一つしかなかったから。だから若人とも一緒だったのよ」
「そうだったんだ」
なんとなく育美とは長い付き合いなのは察していたが、高校時代からだったとは始めて知った。するともしかしたら妹さんのことも詳しく知っているかもしれない、と思ったが、さすがにそれは聞けなかった。もうその傷跡のことについては十分すぎる。
「私の髪を可愛く切ってね、女の子の服着させてくれたの、若人が始めてだったのよ」
「えっ」
思わず驚いて声が出たが、なんだかそれはすごく若人らしい話でもあった。若人は、常識や性別など関係なく、ただ育美に、喜んで欲しかったのだろう。そしてそこにいる自分を想像してみたが、馬鹿らしさで少し笑えたくらいだった。多分そのとき側にいるのは、育美でなければならなかったのだろう。
「さ、早く帰りましょう!」
「うん!」
では、今は。今は。
自分が駄目でも側にいよう。笑って若人のところに帰るって、決めたんだから。
夢を見ていた。
晴れの日も、雨の日も、変わらず病院のベッドの上で、ただ窓の外を眺めていて。そんな妹に何が出来るって、考えて。
-じゃあ、こうしたらどうかな。
以蔵、お前、最近口調まで女のようだな。似合いすぎるから止めてくれ。
-若人。
違う、以蔵じゃない。誰だ、君は。
-若人、あのね、私、いい考えがあるの。
どうせ、いい考えじゃないだろう。全く君は-…
「卯月」
「起きた?」
目を覚ますと本物の卯月がいて、若人は思わず目を反らしたが、彼女は気にしていない様子で、てきぱきと準備をしていた。布団を敷き、水までくんでくれようとしているので無言で止めた。重病人のような扱いをされるほどではない。
「どう?具合は」
「ああ、大丈夫だ」
そうか倒れたのか、情けない。そしてふと『時計』がどうなったか気になったが、聞けなかった。妹を二度殺したことなど、卯月の言葉にさせるには気の毒すぎた。
「あの自称天使はどうした」
「帰っちゃったよ」
「何か、言っていたか?」
「え…っ、ううん。何も」
きっと自分に心配かけまいとしているのだろう、気丈に振る舞う卯月の笑顔を、今は責めなかった。気を失いながら、夢のようにだったが、天使の言葉は断片的に聞こえていた。
もしかしたら卯月はその世界に行った方が幸せなのかもしれない。
「卯月、僕は血の繋がった妹を愛していた。そして殺した」
それは違う、と否定したかったが、今は言い返さず、じっと若人の話に耳を傾けた。
「それが僕の全てだ。もう何もない。美容師の肩書きも財力も、捨ててしまえば何でもないものだ。けど過去は捨てられない。犯罪者だ。だから…」
その言葉の続きを探したまま、若人は黙ってしまった。卯月も聞き返さず、ずっと彼の言葉を待っていた。けどこの言葉の先は、嫌な予感しかしなかった。どんな言葉も聞きたくなかった。きっとどの言葉も、自分の望まないものだから。
「私、私が若人の剣になるよ。もう、なってるけど。若人を、若人がいる場所を、守るから。頑張るから」
しゃくりあげながら必死に言葉を繋いだ。若人の望んでいないかもしれない言葉を繋いだ。そして。
「だから一人にしないで」
それはまるで幼子のわがままのような一言で、絞り出すまでずいぶん時間がかかったのにそんなことだった。情けなくてまた涙が止められないでいると、若人の手が、卯月の頭を優しく撫でた。
泣き疲れたのか卯月は寝てしまい、先に育美に運ばせ車に乗せた。墓参りには行ったが、帰る前に改めて時計の遺影に向かって両手を合わせた。
考えたら、先ほどの出来事はずいぶん都合がよかった。死者の魂が実在したとして、あのタイミングで、おまけに自分の命を完全に奪わなかった原因なんて虫が良すぎる。あれも結局は自分の願いの形、そして自己満足だったのだろう。そう考えられた方が、自分らしい気がする。
卯月はきっと否定してくれるだろうが。自分を救いあげてくれた、あの五月蠅い声で。
「卯月ちゃん、連れて帰っちゃうの。まだまだ料理教えたいのに」
ふざけたように頬をふくらませる母に、若人は小さく笑い返した。
「すいません、彼女は僕が連れて帰ります」
「あら」
笑った母は嬉しそうに穏やかに笑った。
「よかった、若人が幸せそうで」
「そう、ですね」
時計を失った直後は、世界中全ての不幸を背負ったようで、ただ絶望の中にいた。けど今は少し違う気がする。あいかわらず世の中そのものを馬鹿にしているし、生きる希望なんて鼻で笑っている。けどそれでも、部屋に帰る理由は出来た。働く理由は出来た。それで十分じゃないのか。
「幸せですよ」
「ん~幸せ!美味しいぃいぃ」
「でしょう、このアイスクリーム、このへんの名物なのよ!つってもこれしかないんだけど…あん、美味しい!もう幸せすぎて死ぬかも」
「安い幸せだな君たちは…」
帰りは若人が運転をしてくれることになり、後ろでは育美と卯月がアイスクリームをつつき合いながら大騒ぎしてる。卯月はどうしたって育美の隣がいいらしい。若人は苛立ちながらラジオを付けると、ふとどこかで聞いたことがある歌が流れてきた。
「ああこれ、CMのやつよね。前の曲よかったわぁ」
「あれかな、奪うがどうってやつよね」
「違う、あれは…」
珍しく若人が口を挟み、軽く口ずさんだ。その壊滅的なまでの音の外しぶりに、卯月は思わず吹き出して笑った。
「やだ若人、珍しいね、そんな風にふざけてくれるなんて」
泣きそうなくらいに笑った卯月の肩に育美が無言で手を置き、運転席の若人は無言だが気配がこれでもかと怒っていた。
「…え…もしかして若人…」
音痴、なんて言葉はまるで風のように流したはずだったが、しっかり若人の耳に届いたらしい。若人の血管が怒りで切れたような音が聞こえた気がした。
瞬間、轟音と供に車は再出発した。田舎の道のため石や草やらで車は痙攣したように揺れながら、それでもすごい速さで走り出す。育美が叫び、卯月は涙目で運転席を掴んだ。
「わっ、若人、危ない!」
「大丈夫だ、この辺りは目を閉じていても何もぶつからない」
「んなわけないでしょ、どんだけ田舎なのよ!」
「若人ごめん!謝る!謝るから!!」
大騒ぎのまま危険すぎるドライブは、ゆっくりと夕日の中へと溶けるように進んでいった。
帰り道にまた少女の幻影が見えた気がしたが、今度は目を反らすことも、睨み付けることもなく、思い切り笑いかけてやった。