里帰り 3
卯月は包丁を置き、慌てるように外を見た。すると家のすぐ側を異形が通っていき、その大きさに腰を抜かすかと思った。今まで出会ってきたどの異形よりも大きい。雪香から産まれた異形も大概大きかったが、今通ったものは桁外れだ。家一つ分くらいの大きさがある。
震えながら卯月は剣を出そうとするが、異形はこちらを見ようともせず、ただ静かにどこかへ移動してしまった。ほどなくして空間が動き出し、母親が動き始めた。
「卯月ちゃん?どうしたの?料理飽きちゃった?」
「…いいえ。教えて下さい」
今度はジャガイモを手に取りながら、卯月は窓の方をさりげなく見た。もう異形は見えない。ただの通りすがりで人に危害を加えるつもりはないんだろうか-など一瞬安心しかけたが、あの異形がまるで一点だけを集中して歩いていた様子が気になった。自分が狙いではないのなら、と思った瞬間、急に不安になった。一番に浮かんできた顔は、当然といえば当然だった。
「すいません、私ちょっと出かけてきます。えと…若人に渡したいものがあって」
「そう?じゃあ、待ってるわ」
気をつけてね、と手を振ってくれる彼女に、卯月はすぐ帰ってきます、と笑って返事した。すぐに帰ります、なんて本当は返事したくなかった。時間が止まるということは、戦わなければならないということだから。
お墓は家から見える小高い丘の上にあるという。その丘はすぐ見つかったが、そこに着く前に、もう若人が向こうから見えた。卯月はほっと笑って、彼に向かって走った。
「どうかしたのか」
「化け物がいた」
「なんだと?」
恐らくお墓に供える花を入れていたのだろう、若人は桶を地面に置き、卯月に一歩近づいた。
「怪我は」
「大丈夫…っていうか、見ただけなの。本当に、通りすがる感じで。どこかに向かってるみたいだった」
「どこかに?こんな田舎に、一体何の願いが」
ふと、若人の後ろで異形がいた。卯月が叫ぶより早く、気配に気づいた若人が身をかがめ、卯月をかばうように抱いた。
「でかいな…大丈夫か」
「だ、だいじょう、ぶ」
心臓が止まりそうになっている場合ではない、卯月は必死で集中し、そして若人の体から滑り抜けると、剣を抜いた。そして異形をもう一度『それ』をじっくりと見た。大きい。とんでもなく大きい。必然的に怖い。
けどどうしてだろう。恐怖以外で泣きたくなるのは。
まだ誰も危害を加えていない、何も壊していない。異形といえど現れているというだけで倒していいものか、卯月が迷っていると、ふと異形がいきなり破裂した。
呆気にとられると、ゼリー状に散らばったそれはあっという間に人の形になっていった。それは大きいとはとてもいえない、小さな女の子だった。可愛らしいがどこか儚げな笑顔に卯月が戸惑っていると、後ろの若人の様子がおかしいことに気づいた。
「若人?」
彼は自分の声はまったく届いてないようだった。ただじっと、目の前の少女に目を奪われていた。
「時計…」
「お兄ちゃん」
二人のやり取りに、卯月は喉の奥で小さく叫んだ。異形は、若人の亡くなった妹の姿を模したのだ。
「若人、しっかりして!あれは妹さんじゃないよ」
「分かっている!」
こんなに激しく怒り、激しく動揺している若人は始めて見た。つられるように不安になる卯月を、ふと少女が抱きしめた。
それは一瞬のことで、叫ぶ間もなく、すごい怪力で卯月を締め付けていった。
「卯月!」
「来ないで」
そう叫んだ少女の手先は刃物へ代わり、卯月の首もとへ近づいた。若人は悔しそうに足を止めた。
「その子を離せ」
「どうして?いらないじゃない。それがあなたの願いじゃない」
「なんだと?」
「私さえ生きていればいいんでしょう。私だけが」
目眩と吐き気で倒れそうになり、懸命に自分を立たせるのに若人は必死だった。これは昔の自分の願いの形だと思うと、叫びたくなった。
「ありがとう、毎晩毎晩、作ってくれて。私、産まれられた」
「…っ、そうだな」
本当に、本当に毎晩、毎晩毎晩、時計を思い、時計以外生きている人間を恨み続けた。そしてそれが今、卯月を殺そうとしてしまっている。
どうする、どうすればいい、焦る若人の目の前に信じられない者が現れた。ゆっくりと鳥のような羽を羽ばたかせながらまるで舞うように降りてきた者は、本の中でみたことがある天使のようだった。
羽をしまうとそのへんを歩いている中年の男にしか見えない、男はやれやれと呟くと、両手を叩いた。すると一瞬だけ異形の手が離れ、彼は素早く卯月を回収した。
若人が慌ててかけつけると、男は驚いたようにこちらを見たが、すぐに冷静に卯月を返した。ほっと軽く抱きしめる。気は失っているようだが、彼女は息をしていた。
「参ったねどうも…民間人が、黒星が見えてる上に、俺まで見えちゃってるのか」
「…コクセイ?それが、その化け物の名か」
「まぁ、俺等が勝手に付けちゃってる名前だけどね。兄さんは?」
「ただの民間人だ。お前は」
「俺?俺は天使だよ。それも兄さんたちが勝手に付けた名前だけどね」
化け物に、とうとう天使まで現れた。だが状況は多分よくなるだろう、若人は少し安心して卯月を抱いたまま少し身を退いた。天使の手からは、光り輝く細い剣が産まれていた。
「またごっつい願いだねえ兄さん。どんだけ恨んだの」
「ほおっておけ」
軽口をたたき合いながら、若人は胸元の卯月を見つめた。まだ目を覚ましていない。それどころか、なんだか悪い夢でも見ているような表情だった。
卯月は夢を見ていた。それは自分の夢ではなく、どちらかといえば若人の夢だった。
妹-時計さんがいた、楽しく、穏やかで幸せな日々。彼女への若人の気持ちが溢れてくる。そこには血が繋がっているからとか、そんな問題は最初からなかったかのように、ただ純粋で、どこまでも強い思いが、ただただ溢れていた。
いつかの若人の言葉が思い出される。自分に彼女が出来るなんて有り得ないと。それはきっと、彼女が忘れられないのだろう。忘れたくないのだろう。
逃げ出したいような寂しさと嫉妬の中、心が壊れてしまった若人と出会った。
胸の痛みが、同調した。
「あああああああああああ!!」
「卯月!?」
いきなり苦しみだした卯月に若人は声をかけるが、彼女からは何も反応がなく、ただ痛みに耐えて叫んでいた。男は少し同情したようにこちらを見ると、異形に向かって剣を振り上げた。しかしその剣はあっという間に少女の触手に取り込まれ、男は畑へ吹っ飛ばされた。
「-お!いてて」
「何をやっている」
天使は無敵じゃないのか、若人が緊張気味に様子を伺っていると、ふと胸元の卯月が目を覚ました。
「卯月!」
大丈夫か、心配する声は掠れてしまい、のろのろと立ち上がった卯月は、なんとか大丈夫、と返事を返した。涙が止まらない。若人を抱きしめたくてたまらなかったが、それがぐっと我慢した。今のは、自分が勝手に見てしまった彼の傷跡だから。
卯月が歯を食いしばり、剣を構えると、目の前の男にようやく気づいた。
「誰?」
「天使だそうだ」
「天使、って」
それならきっと少なくても敵にならないだろう-彼方の言葉を思い出した。きっと異形を自分以外に沈めている存在は、彼らなんだろう。しかし男が向かうも、また異形に吹っ飛ばされていた。力量の差は、見て明らかだった。
「使えんな、あいつ」
「そんな言い方…」
しかしこのまま見ていても彼は殺されてしまうだけだ。卯月が剣を取ると、それに気づいた異形から触手が現れ、あっという間に卯月が宙へ浮いた。
「ひゃああああ!」
「卯月!!」
「美味そうだな」
異形の口が開き、卯月の体中を恐怖が走った。
なんで。なんで倒せると思っていたんだろう。今の今まで。がむしゃらに剣を振るって、ほとんど無傷だった今までの方がおかしかったんじゃないだろうか。
こんなに強い異形がいるなんて、想像もしてなくて。きっとなんとかなるって。もしなんとかならなくても、誰かが助けに来てくれるって。そんな保証、どこにもないのに。
「卯月!」
「若人、来ちゃ駄目!」
卯月が必死で暴れるが、異形の口はどんどん近づいていってしまった。こちらが叫んだところで若人はやってくる。このままでは二人とも食われてしまう-
どうしよう、どうすればいい。
泣き叫びたくなるのを必死でこらえながら卯月が賢明に考えていると、ふと、ある男の子が頭の中で笑ってくれた。
-ママが消えたくないって思ったから、今度はそっちを叶えたの
それは絶望の中の、光がどうかも分からない選択肢だった。けどそれでも、もう叫ぶ以外思いつかなかった。
「彼方聞こえる?倒したい…こいつを倒したい!!」
ぱあん!!
触手から解き放たれ、卯月の体は宙へ投げ出された。すると受け止めてくれたのは、若人だった。宙に浮いた、若人だった。
「若人…?」
「これが君の願いか」
瞬間、もう出てこないと思っていた若人の腕から剣が産まれていた。それは腕から産まれたわけではなく、細く美しい一本の剣そのものだ。この剣の光を卯月は知っていた。彼方が出してくれた光。
若人が剣を振り、異形へと向かっていく。しかしそれは異形に当たる様子もなく、あっという間に無数の触手が若人の体を貫き、血が噴き出した。
声にならない声で叫びながら卯月が駆け寄るが、若人は来るな、と叫び、異形を睨み付けた。
「なぜ心臓を貫かない」
卯月が足を止め、触手を見た。すると無数の触手の中、一本だけが、若人の胸の前で止まっていた。すると異形が模していた少女の表情が、少し変わった。それはまるで泣いているようだった。
「…時計?お前、なのか」
「…嘘…」
そこに魂があるなんて、ちょっと前までの自分だったら信じなかった。しかし天使も化け物もいるなら、魂があってもおかしくないだろう。
―助けて。お兄ちゃん、助けて。
「…時計、待ってろ今」
「若人!」
せめて私がやる、前に出ようとした卯月を、若人が手で止めた。
「来るな。彼女を殺すのは僕だけで十分だ」
「若人!」
それは違う、と卯月は叫びたいのを我慢した。けど出来なかった。今、若人の戦いを止める権利など自分にあるわけがなかった。震える手を必死で抑え、戦わないように、泣きながら剣を抱いた。
先ほどの夢で、見えたのは若人の気持ちだけではなかった。時計の気持ちも、流れ込んできたのだ。
彼女は若人を恨んでいない。彼女は楽になりたかったのだ。それが何度叫んだところで、若人の傷が癒えない事実だとしても。
決意した様子の若人が剣を構えるが、それはすぐに止まってしまった。異形が、時計の泣き顔を模してきたのだ。若人の剣先が動けない。
「また私を殺して」




