里帰り 1
電話が鳴り、携帯を取り出すと表示画面に『自宅』とあった。もう絶対にかかってくることのない番号だったが、今は違う。
「はいもしもし」
『お姉ちゃん!』
「はい、こんにちは彼方」
自分の願いの形だからだろうか、よく分からないが、彼方は自分を慕ってくれていた。こうして時々電話もくれる。
「どう?生活には慣れた?」
『うん、大丈夫だよ。ママの料理、すごく美味しいし、パパちょっと怖いけどお風呂に入れてくれるし』
「…へえぇ」
意外すぎる言葉に素で驚き、笑みさえ浮かんできた。あの父が彼方を風呂に入れてやってると思うと、おかしくてたまらない。
『あ、でもね、ママのグラタンちょっと苦手かな…あのごつごつしたの苦いもん』
「…ああ、ふきのとうね…あれ慣れると、そうでも、なくなるんだけどなあ」
しばらく色んな話をしてると、あ、と思い出したように彼方が呟いた。
『そうだお姉ちゃん。また怖いのが出るかも』
「…本当?」
それはあの恐ろしい異形のことだろう、携帯を耳にあてたまま、卯月は思わず座り直した。
『うん、ちょっと強い願いを感じるんだ。とても怖いかも。お姉ちゃん、危ないと思ったら逃げてね。戦えるのお姉ちゃんだけじゃないんだからね』
「え?」
そんな人いたの、と聞きかけると、ママに怒られた、と彼方が電話を一方的に切った。思わず笑いながらこちらも電源を切ると、ふ、と今更気づけたことがあった。自分が守れたとしても、それはあくまで自分の見える範囲だ。小さな破壊衝動なら誰でも一度ある、あの異形は世界中あちらこちらに溢れているのではないだろうか。
そうなると当然、あの異形を倒している者が自分以外のいるということだ。それは一体どんな組織なんだろう-考えたところで答えが出るわけもなく、その夜はそのまま寝てしまった。
寝坊した、卯月は慌てて寝室を開けると、もう若人はいなかった。仕事に行ってしまったんだろう、起こしてくれてもいいのに。髪をかき上げながら歩いていくとカレンダーが見え、思わずあ、と呟いた。今日は休日だ。慌てすぎたのは自分のようだ。
何しよう、と想像してみて、すぐに若人と街を歩く映像が出てきてしまい、思わず首を横に振った。休日は忙しいはずだし、何よりもしも出かけてくれたとしても、こんなあからさまなデートのようにならないだろう。
馬鹿みたい、恥ずかしさをごまかすように冷蔵庫を開けると、ラップをかけた朝食の奥に、ケーキが入っていそうな白い箱があった。上のメモを取ってみると、『お客様から頂いたから食べていいぞ』と書いてあった。思わずやったと呟き、笑顔でフォークを取った。
ケーキを食べながらのんびりテレビを見てると、ふと電話が鳴った。慌てて立ち上がると、それはすぐに留守番電話に切り替わってしまった。
なんだ、と呟いて椅子に座ると、留守番電話の向こうからゆっくりと優しい声が流れ始めた。
『もしもし、お母さんです』
フォークを落とすかと思った。なんとなく聞いてはいけないような気がしたが、体が動かなかった。
『いないのね…仕事かな、そりゃそうよね。この前、またテレビに出てたでしょう。働きすぎてない?無理してない?お母さん心配で…まぁ、すぐに聞けるわね。帰ってくるの楽しみにしてるから』
留守番が切れて、もう声が聞こえなくなった電話から目を離すことができなかった。若人は里帰りするのだろう、そんな話全然聞いてなかった。
近いのだろうか、遠いのだろうか。何泊もしてくるのだろうか。その間、ずっと自分は留守番して-…
寂しさがこみあげ、慌てて頭を振った。幼児じゃないんだし。きっとこの先似たようなことはある。若人だって友達はいるだろうし、彼女だって、有り得ないなんて言ってたけど分かんない。
恋を馬鹿にしていた自分が、若人を見つけてしまったように。
思ってた以上にずっと若人に依存していた自分に嫌毛がさし、ゆっくりと絶望していくと、ふと扉が開いた。
「起きたのか…ただいま」
「お帰りなさい」
慌てて笑顔になり、若人の方を向いた。
「早かったね、今日」
「ああ。今日は実家に帰るからな」
今日。ゆっくりと、吐きそうになるくらいの寂しさに負けないように、それを悟られないように、必死で顔を下げた。若人は上着を掛け、留守電に気づき、用意しながらそれを流し聞きにしていた。
「卯月。一日くらい学校休めるだろう。多分帰りは明日になるだろうから、必要なら今のうちに連絡しておけ。保護者の何かが必要なようなら、僕に言え」
「え?」
話が見えない、首をかしげる卯月の前で、若人はため息一つ、なぜか顔を横に反らした。
「一緒に実家に帰るぞ」
瞬間、跳び上がりそうなくらいな勢いだったが、なんとか、かろうじて自制心が勝った。
「何言ってるの…せっかくの里帰りなのに、私がいたらゆっくり出来ないでしょう。一晩くらい留守番できるよ」
「駄目だ、目を離したすきに子どもでも作られたら困る」
「私は発情期の犬か!大丈夫だって、本当に!若人がちょっといなくたって…」
強がって声を大きく張り上げていると、若人がそれを静かに見つめ、そして、またため息をついた。
「付き合ってくれ。育美がついてくるって言って、聞かないんだ。僕だけじゃ、あいつのおもりは無理だ」
「…え、育美ちゃんが?」
「ああ。あいつとは故郷が一緒だからな」
「そ、そうなんだ」
それなら、と卯月は笑顔になり、向かいの若人がつくため息は、今回は優しいものだった。
「おい、卯月はまだか」
「ふふ、お洋服を選んでるわよ。はしゃいじゃって」
カバン一つの若人の向かいで、育美は一体何泊するつもりだ、すごい荷物だった。嫌な笑顔が抑えられない様子の育美を、若人は殴りたくてたまらない。
「あーあ、私、彼氏3号とデートだったのになぁ。誰かさんがどうしてもって言うからぁ」
「黙れ、卯月に言ったら髪を刈るぞ」
「怖ぁい。素直に言ったらいいのに、一人で留守番させるのは心配だって。昨日だって卯月ちゃんの為に、少ない休憩時間に走ってケーキ屋さんに」
「五月蠅い。遅すぎる、卯月の様子を見てこい」
「はいはい」
鼻歌を歌いながら育美が卯月の部屋に向かい、ノックをする。
「卯月ちゃん?早くしないと、若人が待ちくたびれて溶けちゃうわよ」
「あ、育美ちゃん?ねえ、これ、赤いのと白いの、どっちがいい?」
「どれどれ」
部屋に入っていた育美を確認し、舌打ち一つ若人は腕時計を見る。育美が着替えに参加すると、確実に長くなる。正午に到着は諦めた方がよさそうだ。
実家に電話しようかどうか迷っていると、ふと信じがたい声が聞こえてきた。
「やぁだ、卯月ちゃん、この下着はないわよ!もしもがあったらどうすんの!」
「も、もしもって何よ!やだ、あんまり見ないでよ!」
若人が思わず顔を上げた。あの男-若人が怒りながら扉を開けると、真っ赤になった卯月からコートを投げつけられた。
「ちょちょちょちょ来ないでよ!!」
「…っ!!ちょっと待て、そいつも男だぞ!」
「見ないで!見ないで!スケベ!!」
「すけっ」
小学生か、真っ赤になった卯月から今度はカバンまで投げられそうになり、やむを得ず若人は苛立ったように部屋を出た。最後に育美の勝ち誇ったような笑顔が見えた気がして、ずいぶん久しぶりに殺気が沸いた。
育美の車を待っている間、卯月は電話をかけていた。最悪明日連絡を忘れた時のために、今のうちに水無瀬に電話をかけていた。一応彼は『優秀な学級委員』なのだ。
『ふーん、まあいいんじゃねぇか?親戚の家に行くってんなら。冠婚葬祭じゃねぇときつい気もするけど、まぁ、俺が上手く言っといてやるよ』
「ほんと?ありがと」
『いいって。で、本当はどこに行くんだ?さぼりか?』
「違います。若人の実家」
電話の向こうでしばらく沈黙があり、電波が悪いかな、と携帯を耳から離すと、その偶然の行動が結果的に救いとなった。電話の向こうから、聞き取り不可能な怒声が聞こえた。
『個人的な挨拶とかじゃねぇだろうな!?』
「…っ、ちが、ば、馬鹿!そんなわけないでしょう!もう車来るから切るよ!」
電話を切ると、自分でも分かるくらい赤くなってしまっていた。若人からどうした、と聞かれたような気がして、慌てたが、育美の車のクラクションが聞こえ、なんとかごまかせた。
育美が運転し、卯月は助手席に座らせ、若人は後ろに乗り込んだ。車内からは最新の音楽と、それを口ずさむ育美と、横でずっと笑い続ける卯月の声でやかましいくらいだった。
寝られない、嫌そうに目を開けた若人の視界に一番に卯月の笑顔が飛び込んできて、若人は小さく笑い、そして眠るべくもう一度目を閉じた。
都会から数時間車を走らせると、あっという間に田園風景になる。物珍しそうにはしゃぐ卯月の後ろで、起きた若人は嫌そうに景色を見た。
嫌になるくらい変わっていない景色の中で、いるはずもない少女の影が見えた気がして、若人は軽く奥歯を噛んだ。
駐車場に車を停めしばらく歩いていくと、前から集団がやってきた。昼間から酒を飲んでいたらしい陽気な男女の集まりは、こちらを見るなり、あれ、と叫んだ。
「ねえ、若人と以蔵じゃない?」
「あ、ほんとだよ!」
「お帰り!!」
「ただいまぁ」
笑顔で握手を交わす育美とは対照的に、若人はそっけなく、淡々と飛んでくる言葉に返事をしているようだった。若人の後ろで、卯月はなんとなく小さくなっていた。恐らく若人たちの同級生たちだろう、中には綺麗な女性もいて、とても出てこれなかった。しかしそれが逆に目立ったのか、あれ、と男性が卯月を見つけた。
「あれ、若人の妹、こんな小さかったけ?」
「いや、妹は-」
瞬間若人の背中が揺れた気がして、卯月が思わず小さく、どうしたの、と聞いた声は誰にも届かず、その場は育美の言葉で雰囲気が変わった。
「ねえ、それよりあんた。昨日、ちゃんと化粧落とした?」
「げ、相変わらずやなとこ見てるぅ!なんで男のくせにそんなに肌綺麗なのよ!」
それから場は軽く盛り上がり、育美は彼らと飲み屋へ消えていった。若人と二人歩きながら、卯月はなんとなく若人の様子のおかしさに気づいていたが、そこに触れられる勇気はなかった。
「若人…行かなくてよかったの?」
「あいつらとはいい思い出がない」
そこには卯月に気を遣っている様子はまるで見られず、本当に心の底から嫌がっているようだった。学生時代楽しくなかったんだろうか、なんて問いも出来なかった。人に聞けるほどの充実した学生時代なんて、自分もしてこなかった。
「でも、初恋の人くらいいたんじゃないの?」
それは、とりとめのない話にするつもりだった。何気ない話で場を繋ぐつもりだった。
「いないの?ああもしかして、言えないような相手だったりして!」
無理に笑顔で、無理に明るくして、馬鹿な真似をして。
「妹だ」
そう短く答えた若人の声はあまりに切なく、あまりに悲しかった。嘘でしょう、冗談でしょう、なんて笑えなかった。触れてはいけないところに触れてしまった後悔が押し寄せてきた。