願いの形
「ハッピバースディトゥーユー…ハッピバースディトゥーユー…」
昼間の大通り、人通りの多い中、高らかに歌いながら少年が歩いていく。気の毒そうに見下ろす女性、笑ってあげている老人、様々な反応をされながら少年は気にしない様子で笑顔のままずっと歩いていく。
そのまましばらく歩いて行くと、ケーキ屋の前で売り子をしていた女性が少年に向かって笑いかけた。
「あら僕、今日誰かの誕生日なの?ここのケーキ美味しいわよ。ママにおねだりしてみたら?」
「ケーキ?」
ショーケースの中の美味しそうなケーキを眺め、少年が目を輝かせた。
特に予定もない休日、卯月は一人でうろうろ買い物をしていた。買い物といっても先ほどから何も買わずに見るだけだ。若人のくれるお小遣いは多い通り越してクレジットカード一枚というとんでもないものが、必要最低限は使っていない。元々それほど物欲がないのだ。
若人は遠慮するなと恐ろしい目で言っていたが、最近は言わなくなってきた。ようやく自分が遠慮しているわけではないことを分かってくれたらしい。
ふとケーキ屋の前を通りすがると、新作スイーツの看板に足を止めてしまった。若人にも買って帰ろうかな、とケーキ屋の前に行こうとすると、そこはすごい騒ぎになっていた。
なんだろうと覗いてみると、驚きのあまり動けなくなってしまった。
ケーキ屋の中で、少年が抱えているのは札束だった。それも一束や二束ではない。次から次へとまるで水のように現れ、店員は小さく叫び、野次馬も大騒ぎだった。軽薄そうな男が隣の友人に、おいお前拾ってこいよ、などと言っていたが、実際誰もそんなことはしなかった。携帯で写真を撮れても、これだけ大金を目にして動けるような肝が座った者はいないだろう。
「ぼ、僕!そのケーキは三千円でいいのよ!」
「え、違うの?まだ足りないの?」
「違う、違う、そんなにいらないの!どうしよう、どうしてこんなにお金持ってるのかしら…」
「警察…ですかね」
「馬鹿、別に万引きしようってんじゃないのよ」
完璧に困り果てた店員たちの前で、首をかしげて大金を抱えているのはまだ10歳にもならないような少年だった。女の子にも見えそうな可愛らしい少年は、どこかで見たことあるような気がした。
誰だっけ、卯月が必死で思いだそうとしていると、ふと少年と目が合った。すると彼は目を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。
「ママ!」
「…っ、はい?」
耳を疑ったが、何と呼ばれようが今すぐ逃げ出した方がいいような予感がした。しかし店員たちに藁にすがるような涙目で見られ、卯月は逃げ出すわけにもいかなかった。
「どうもすいませんでした」
「いいえ、いいのよ。ごめんなさいね、おばちゃんたちびっくりしちゃって」
とりあえず大金は全て回収しカバンの中に詰め込み、ケーキ代は自分の財布から払った。正直こんな見知らぬ少年の世話など焼きたくなかったが、こんなに腕にしがみつかれてママママ連呼されては他人です知りませんと逃げ出せなかった。
もう一度軽く頭を下げ、店を出た。野次馬は飽きたのかもう誰もいなくなっていることが救いだった。さてこのお金と少年はどうしよう、ちらり、と彼を見ると、また子犬のような目でこちらを見て、嬉しそうに笑っていた。
「ママ、よかった!やっと会えた!」
「ママじゃない!あなたなんて知らないし…それに、私まだ16よ!」
「16?じゃあ僕も16になろうかな」
「え?」
何言ってるの、卯月が顔を上げると、その質問を口から出すことは失敗に終わった。目の前の少年の背丈は伸び、あっという間に自分より背の高い高校生くらいの少年になった。
そしてその顔を見て、もう一度驚いた。幼さがあるが、それは若人の顔だった。先ほどは幼すぎて分からなかったが、先ほどまでの姿も、もっと幼い若人だったのだろう。
「あなた…一体、誰なの?」
「僕?僕は、ママから産まれたんだよ」
「だから、私は」
もう一度同じ文句を言いかけ、ふとあることを思い出した。
-君が消えてなくなってしまいたいって100回願ったから、僕が産まれたんだよ。
「…あなた、もしかして…っ、え、と…」
そうだ、恐らく自分をこんな風にした張本人-いや人かどうかも分からないが、恐らく、自分が戦わなければならなくなった原因だ。
なんて呼んだらいい。紀和君でも、若人でもない。目の前の彼は、きっと誰にでもなれる。けどだからと言って人外の扱いは出来なかった。まるで自分自身を否定しているようで。
すると向こうからやってくる人が邪魔そうにこちらを睨み付けていき、ここが大通りで、おまけに自分たちが邪魔になっていることにようやく気づけた。
「時間大丈夫?とりあえず移動しよう」
「うん」
16歳の若人ではなんだか落ち着かないため、最初に会った幼い彼に戻ってもらった。本当に変幻自在らしい。とりあえず訪れた喫茶店には、人目のない奥の席を選んだ。彼は嬉しそうに先ほどのケーキを切ってもらいながら食べ始め、卯月はカフェオレを頼んだ。
「え…と」
暖かい飲み物を一口飲み、少し落ち着いたが、どこから聞いていいのか、何から聞いていいのか、全く検討がつかなかった。自分が悩んでいる間も彼は嬉しそうに呑気にケーキを食べていた。こうしてみると本当にただの男の子で、少し安心さえした。
「もう一度聞くね。あなたは何なの?」
「僕?僕はママから産まれたんだよ。ママが100回、お願い事してくれたから」
やはり、やはりいというか何というか、100という数字と願いというのが重要な問題らしい。
「だから僕は願いを叶えた」
「叶えた、って…」
カップを置き損ね、割ってしまうかと思った。彼に会って次に目が覚めた時には、自分は確かに消えていた。
「確かに…消えてた。けど、じゃあ、どうして戻れたの」
「ママが消えたくないって思ったから、今度はそっちを叶えたの」
「なるほど…」
確かにあの時は夢中で、ただ若人を助けるのに必死だった。消えたいなんて思わなかった。そして守るべく、剣も産まれた。
「剣もあなたが出してくれたの?」
「うん。けど僕はへたくそだったみたい」
「へたくそ?」
「うん、すぐ消えちゃったでしょう。もう一人の子の方が上手。この顔のお兄ちゃんの剣は、消えないでしょう。それにずっとママの側にいてくれてる」
「そ…か」
正直まだこの剣がずっと腕にあることは嫌で仕方がないが、若人の願いの形なら、それほど嫌なものに思えなくなった。それに一つ分かれたことがあった。彼のような存在は、一つではないこと。
「あのばけもっ…、私が倒した怖いのも、あなたたちと一緒なの?」
「そうだね、誰かの願いの形だろうね。何かを壊したい、殺したい、めちゃくちゃにしたい…それは一瞬だけ願われて、終わってしまった願いの形だから、ママが倒すことができた。けど、怖かったよね。ごめんね。僕が剣なんかじゃなくてあいつらを消せればよかった」
「う、ううん。大丈夫だよ」
少年が泣きそうになり、卯月が思わず慌てた。自分の願いの形とは思えない程、純粋でいい子のようだ。
「なんでも願いが叶えられるの?」
「うん。だからお金もいっぱい出せるよ。そのお金だって、ママにあげる」
「いらないいらない!」
思わず力強く顔を横に振り続け、少年は残念そうな顔をした。また泣きそうな顔になるかもしれないが、このお金だけは受け取るわけにはいかなかった。
「そうだママ。僕頑張ったんだよ。ずっと人の形でいられるようになれたし、記憶だって戻せるんだ」
「…え?」
「ママの姿だけじゃなくて、思い出も残せるよ」
「…っ、本当!?」
「うん、本当だよ」
熱が一気に顔に上がり、溢れ出すような笑顔になったが、それは、すぐにふっと冷めてしまった。
両親のところに戻れるということは、それは同時に若人の側にいられないということだ。
「…でも、駄目だ。それは叶えられない。ママの強い願いがないから」
震えと同時に涙が出てきた。彼の前では、強がりも嘘も通じない、全て見透かされてしまうのだろう。最低だ。育ててくれた両親よりも、本心から若人を選んでしまった。
「ママ…どうしたの?どこか痛いの?」
「ううん…なんでもない」
涙をぬぐって、しっかりと顔を上げると、少年はほっと笑ってくれた。そして彼の顔を見て、若人のことを考えた。
「そうだ若人の願いは?その…人を殺したいって。なのに、若人も消えてたよね」
「それは多分…あのお兄ちゃんの願いは、きっと、一番殺したかったのは、自分だったからじゃないかな」
「…っ、え?」
「だから消えたんだと思う。そしてママを守りたかったから、否定されたんだと思う。そういえばお兄ちゃんから産まれた子はどこいったんだろうね」
その存在も気になったが、それよりも少年の言葉の方が気になった。考えてみれば、自分は若人のことをほとんど知らない。一緒に暮らしているから好みや癖は分かるが、今ではなく昔の話。彼が時折、冷たく寂しそうな目になる理由。人の過去を知りたいなんて、始めて思った。
「ねえ、僕、この公園で寝てもいいの?」
「え、ど、どうして!?」
「だってあの猫寝てるよ」
公園のベンチで呑気にお昼寝している三毛猫を指さし、卯月は慌てて止めるべく腕を引いた。
「あのねぇ、君は見た目人間なんだから…ねえ。もしかして、家ないの?」
「帰るところ?ないよ。だって僕は願い事だもん」
「そりゃそうか…」
自分の願い事の形の手前、なんとなく見捨てることができない。かといって居候の分際で若人の部屋に連れて帰るわけにもいかない。先ほどのケーキ屋の一件を見るにあたり大人にさせて働かせるわけにもいかないし、かといって子どものままではそれこそどうしようもない。
どうしよう、どうしよう、卯月が一生懸命考えていると、ふとある案が浮かんだ。それは我ながら自己満足で勝手すぎる願いだったが、それ以上の案が出てこなかった。
「ねえ、願い叶えられるって言ったよね」
「うん」
「だったら、願い、いいかな」
「うん!」
「こら、彼方!どこに行ってたの」
「ご、ごめんなさい」
「もう、早く入ってきなさい」
彼方と名付けた少年を引っ張るのは、卯月の母親だった。卯月の願いは、彼方が卯月の両親の子どもになることだった。自分がいなくなり子どもがいないことになっている両親に、いきなり男の子が最初からいたようにするなんて、我ながら無茶苦茶だ。けど、彼を叱る母がどこか嬉しそうで、情けないことに妬みはあったが、それでも、同じくらい嬉しさはあった。
「で、なんで彼方なの?」
「分からん。すっと出てきた」
そう言って不機嫌そうに見守る若人は、彼の名付け親だ。仕事から帰ってきた彼に、おおまかな事情を説明し、とりあえず名前に困っていると、彼がいきなり、彼方と言い放った。他に思いつかないためその名前になってもらうことにした。
彼方の笑い声が聞こえる。平和そうな元卯月家を眺め、若人はまた不機嫌そうにため息をついた。
彼方はもちろん他の異形がどうして産まれるのか、誰かの力が働いているとしたらそれは誰のものなのか、そんな根本的な疑問の答えを彼は持っていなかった。彼方はあくまで自分の願いの形であって、言ってしまえばそれだけなのだ。若人からはもっと疑えと言われたが、卯月はなぜかあの『少年』を疑うことが全くできなかった。
「まったく君はお人好しというか大馬鹿というか…願いを浪費してどうする。家に戻れないなら、何かいい願いが産まれるまで保留にしておけばいいものを。あんな何なのか分からんもの、捨てればいいだろうに」
「そんなこと出来ないよ」
「君がそれでいいならいいが…それで?どうしてあいつ、僕の小さい頃の顔しているんだ」
赤くなるのを必死で抑え込み、なんとか笑うことに成功した。
「へ、へええ。どっかで見たことあると思ったら。可愛かったんだね、若人」
「あいつは君の願いの形と言っていたが…」
何かを調べるように顔を凝視され、もう赤い顔を隠すことは敵わなかった。審判の時を待っていると、若人は思ってもなかった言葉を吐き出した。
「そんなに僕の顔が気に入らないか」
「なんで!?」
ひねくれた若人の考え方が助かったとさえ思ったが、少しだけ残念でもあった。まったく、恋というのは複雑な上に面倒臭い。