卯月の章
退屈な毎日が、少しでも変わると思っていた。
「ねぇ、あの子名前なんだっけ?」
「えーと確か…自信ないなぁ。ねぇあんた、聞いてきてよ」
「やだよ、大体聞いてどうすんの?あの子暗そうだし」
聞こえてんぞ、この野郎。
「やば、来たよ!」
「お、おはよう月野さん!」
「おはよう」
ウヅキだよ、死んじゃえ馬鹿。
笑顔が張り付いてる同級生たちをかき分け、教室に入った。扉の向こうだと急に安心したのか、彼女の噂話がまた聞こえてきたが、もうどうでもよかった。
高一、春。中学受験から解放され、周りは分かりやすくいろいろなものに挑戦しようとしている。眉毛を整えることから始める化粧、いかに風紀委員に見つかることなく制服を着崩すか、強い友情の探求、息が出来ないほどの恋。
若いねぇ、と忘れ物の教科書をカバンに詰め込み、卯月は一人ため息をついた。
高校入学したばかりで急に転校となり、あっという間に知らない土地の聞いたこともない学校に再入学となった。色々面倒だったが、もしかしたら何か、退屈にならない何かが起こるかもしれないと期待して、文句一つ言わず親についてきた。
結果どうだ。
景色が違うだけで、何も面白いことなんて起きない。顔ぶりが違うだけで、級友たちも、話すことも、ただひたすらに、青く、鬱陶しく、馬鹿馬鹿しい。
前の土地では作り笑顔と作り話を習得し、人並みに友達がいたが、新しい土地に移った途端に急に面倒になった。すると学べたことがある。友達がいなくても死にはしない。更に、高校に入ればいじめるような暇人はほとんどいない。
人の噂話をいつまでも止めない程度の暇人ならいるようだが。
「ねぇ、そういえばあいつさぁ。なんでこんな時期に転校してきたんだろうね」
だから、聞こえてるっつの。
「前の学校でも友達いなかったんじゃないの?」
お前こそ、目の前にいるのは本当の友達なのか。
つうか。
…早く帰れよ。私が帰れないよ。
卯月15歳。高校一年生の春。頭の中は毒舌家だが、本当の口からは文句一つ言えなかった。
「おはよ-、卯月ちゃん」
「…っ、おはよう」
急に声をかけられた為作り笑顔になったが、馬鹿らしくなって止めた。今更イメージアップを図ったところで、何の意味もない。
「隣、座っていい?」
「どうぞ」
特に断る理由もないので頷くと、笑った彼の歯は少し欠けていた。
なんというか、全身校則違反まみれだった。髪は染めてる、耳のピアスは一体何本あるのか、鼻にもホクロかと思ったら、またピアスが空いていた。更に制服は着崩し過ぎてて原型が分からないし、何気なく覗いた足元はなぜか教師用スリッパを履いていた。
これだけ派手な生徒なら、例え興味がなくても見覚えがあるはずだ。不自然でない程度に名札を覗くと、隣のクラスのようだった。
自習時間とはいえ隣のクラスの人間がこんなに堂々と居座っていいものだろうかと思わないわけではなかったが、注意する義理もないし、追い払う気力もなかった。
「君さ」
「何」
「友達いないでしょう」
分かりやすい挑発に怒鳴り返しこそしなかったものの、悔しいほど顔が赤くなっていった。
「女嫌いでしょう。男も嫌いでしょう。つうか人間が嫌いでしょう」
「何が言いたいの」
「クラスにいるやつ全部馬鹿した目で見てるでしょう、いっつも。笑ってるふりして。そういうのって意外と伝わるんだよ。君が嫌いな子供でも、いや、だからこそかな。でも君も所詮子供だよね。馬鹿にして突き放したところで、結局寂しいんでしょう。いつもいつも、一人でも大丈夫ですってクールぶってるけど、よく見たら、そわそわ落ち着いてないのバレバレなん-…」
「うるさいなぁ!ほっといてよ!!」
その怒鳴り声が決定打だった。教室内の視線が、全てこちらに向いている。いつから聞かれていたんだろう、そして、今どんな風に思われて、どんな目で見ているんだろう。
耐えきれずに走りだそうとしたそのときだった。物静かそうな女子が腕を掴んで止めた。彼女は確か、クラス委員だった。
「卯月さん、誤解しないで。あなたはどうでも、私たち別に、あなたが嫌いなわけじゃないから」
こんなに。
こんな情けない日を、私は知らない。
そしてカバンも持たず学校から飛び出していくと、商店街のテレビからニュースが流れてきた。今日誕生日の芸能人の名前を読み上げて、レポーターが形式的におめでとうございます、と告げていた。
最悪なことを思い出した。
今日、私の誕生日だ。
泣きながら歩いていた。目が霞んで前が見えなかったが、じっとしているよりよかった。もう何に対して泣いているのか分からなかった。
なんて最悪な誕生日だろう。去年は確か、うわべだけでも仲良くしていた友達が祝ってくれた。両親も祝ってくれた。本当はそんな可愛い小物趣味じゃない、ふきのとうグラタンなんて本当は好きじゃない-…
でも。今年は、いらないプレゼントも、本当は好きではない料理もないのだ。私の誕生日を知ってる人が一人もいるわけがない。家にも、こんな顔じゃ帰れない。帰れたところで、私が無断で早退したことが連絡されるだろう。下手な言い訳さえ思いつかない。もう消えてなくなってしまいたい。
とにかくひたすら泣いた。泣いた泣いた。時々叫んだ。何が悔しいのか、何が悪いのか、全部自分が悪いのを分かってる上で、それでも認めない自分が大嫌いだった。
結局、楽しかったんだろうか。作られた笑顔の上で出来た友情も、馬鹿で青い話も。私も結局は、馬鹿な女子だったのだろうか。
だから馬鹿は馬鹿なりに、こんなにも寂しくて泣いてんじゃないのか。彼の言う通りに。
親が怒るよりも心配するような時間までどこかで時間潰そうかとポケットの中を探ったら、情けないことに50円しかなかった。
途方にくれてどうしようもなく携帯電話を取り出すと、見知らぬ携帯番号から着信履歴が残っていた。学校かと思ったが、担任が携帯で電話かけるとは考えにくかった。いたずらだったらすぐに切ろうと発信すると、思いも寄らない声だった。
『卯月ちゃん?』
なんで、こいつが私の番号を知っているんだ。
『さっきはごめん。言い過ぎ』
電話どころか、電源ごと切った。こんな名前も知らない不良に同情される自分が情けなくて、また涙が止まらなくなってきた。
せめて涙が枯れるまで外にいようと思ったが、近所の人にも会いたくないし、指導員に見つかりでもしたらたまったものではない。
諦めてそろそろと家に帰ると、不幸中の幸いとでもいうべきか、家には誰もいなかった。父は仕事だろうし、母は出かけているのだろう。
ほっと家に入っていくと、電話が点滅していた。留守番電話が録音されている。そっと押すと、一件です、と機械が教えてくれた。
『いつもお世話になっております。-高校担任の-と申します。本日お嬢様が』
最後まで聞かず、震える指で録音記録を消した。こんなことで証拠隠滅にはならないだろうけど、消さずにはいられなかった。
ふと家の時計が、正午を教えてくれた。とても何か食べる気は起きず、ふらふらと自室に行くと、倒れ込むようにベッドに入り、そのまま目を閉じた。
目が覚めると、夕方になっていた。ずいぶん長く昼寝をしてしまったらしい。向こうで電話に向かって謝っている母の声が聞こえる。観念して部屋から出ると、ちょうど電話が終わったらしく、もう、とこちらに向かって軽く怒った。
「具合悪いんなら、ちゃんと先生に言ってから帰りなさい」
「うん」
どうも話が好転している、あの委員長がいらない気でも使ったのだろうか。分かりやすい同情に腹は立ったが、さすがに、礼は言うべきだと素直に思えた。
「あら目ぇ真っ赤じゃないの…まぁ、熱はあまりないみたいね。まぁ、今日はグラタンはお預け。ケーキ買ってくるお父さんは遅いし、あなたもその調子だから、誕生会は今度ね。今日はシチューで我慢して」
「うん」
お母さん。本当はね。私、そっちの方が大好きなんだよ。
自分の言いたいことが上手く言えない。誰かと長時間話せない。話せたとしても本当のことがなかなか言えない。同級生でも親でもそうだ。人はそれを思春期や反抗期で片付けてしまうけれど、この感情がいつか収まる日も、そして、大人になれる日も想像がつかない。
どうしたら自分のことを好きになれるだろう、さすがに眠れないままベッドの上で何度も寝返っていたそのときだった。
「ハッピバースディトゥーユー ハッピバースディトゥーユー」
静かな歌声が聞こえてきた。驚いて体を上げると、もっと驚いた。
家の中にいないはずの少年が目の前にいた。そして少年の顔には、見覚えがあった。
「キワ君?」
まさか、と思ったが思わず確認してしまうと、彼は返事もせず笑った。やっぱりこの笑顔は紀和君だ、と思わず笑い返した。
まだ楽しかった頃。まだ素直に心から友達と遊べていた頃。いつも一緒に遊んでいてくれた男の子。
「どうしてここにいるの?」
瞬間。
優しい感触が唇に触れた。何をされたか考えるまでずいぶん時間がかかった。彼は相変わらず笑っていた。
何をするの、とは怒れなかった。彼は自分の初恋の人だったから。けど赤くなることはできた。どちらかといえば、自分がどんどん赤くなるのに、彼の表情の変化がない方が腹が立った。
「それが僕の名前」
「え?」
「あなたは?」
「忘れたの…?卯月よ」
「うづ、き」
それはまるで情報をどんどん記録していくロボットのようなしゃべり方で、ここにきて、ようやく大変なことに気づいた。これは紀和君であって、紀和君ではない。
「あなた、誰なの?」
「君が消えてなくなってしまいたいって100回願ったから、僕が産まれたんだよ」
何を言ってるのか全然分からない-混乱していると彼がまた顔を近づけてきたので、今度はさすがに塞いだ。彼はずっと笑ったままだ。
「消えてなくなる前に、僕と一緒に行こう」
「どこへ…?」
聞いた瞬間、意識は飛んでいった。
「ねぇ、起きてる?朝ご飯食べられそう?お父さんがケーキが駄目ならって、あなたが好きなゼリー買ってきてくれてるわよ」
私は。
「大丈夫?開けるわよ」
私は自室に、二度と戻ることはなかった。