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かえる

作者: 山羊山 羊
掲載日:2026/05/14

 今日はついてない日だ。


 朝からお気に入りのリップが折れた。髪がうまく巻けなかった。サロンに行ったばかりなのにネイルが剥げた。白いスカートにコーヒーがかかった。

 別に誰かが悪いわけじゃなくて、だからこそ行き場のないもやもやがずっと胸の中で渦巻いていた。ついてない日だ、とため息をこっそりついても気休めにすらならない。


 ピー、ピー、耳障りなコピー機のエラー音。まただ。今日はやたらと紙が詰まる。新しい紙をセットした5分後にはもう紙詰まり。社内の人間じゃ原因が分からなくて、修理の業者は明日にならないと来ない。

 本当についてない。もう一度こっそりとため息をついて、私は機嫌の悪いコピー機の様子を伺いにデスクを離れた。

 早く定時になればいい。形のいいアーモンドに整えてもらった爪で詰まっているコピー用紙を引き抜く。早く定時になればいいんだ。そしたら私は2つ年上で成績のいい営業の彼とデートに行けるのに。

 リップが折れても、髪がうまく巻けなくても、ネイルが剥げても、スカートがコーヒーに濡れても、最後がよければきっと今日はいい日になるはずだから。


 オフィス街とはいっても、私の会社がある地域は歓楽街とさほど変わらない。通りを1つ間違えれば安っぽいネオンが乱雑に並んでいて、昼間は活気のないそこも定時を過ぎた頃から賑やかになってくる。

 そんな品のない場所に会社があることが嫌だったけど、歩いてすぐ服を買いに行けるというのは助かる。昼休憩は1時間。お弁当を食べて化粧を直すのに30分はかかるから、残りの30分でスカートを買わないといけない。

 白とネイビーのストライプのブラウスに合うようにと選んだ白いスカートには、新入社員の女の子がこぼしてしまったコーヒーの染みが今でもくっきり残っている。アイスコーヒーだったから火傷はしてないし、私だって新人の頃にやってしまったことがある。だから彼女を責めるつもりなんてない、弁償も断った。

 ただ、今日じゃなければよかったのに。それだけだ。

 落ち込んでも仕方ないので、さっさと職場用のパンプスからテラコッタのヒールの高いパンプスに履き替えて近くのブティックを目指す。かわいいけどむくみやすいのがこのテラコッタのパンプスの欠点で、歩きやすくてむくみにくいけどとにかくかわいくないのが職場用のパンプスの欠点だ。


 今日はついてない日だ。たった半日で何度そう思っただろう。いいな、と思った白いスカートは目の前で売り切れた。仕方ないから他のスカートを探そうとしたらヒールが折れた。踏んだり蹴ったりだ。結局それなりのスカートと、似たようなテラコッタのパンプスを買えはしたけど、やっぱり朝の格好が一番だった。ブティックを出てから、誰にも気付かれないように小さくため息をつく。

 足に馴染んでいないパンプスは固くて歩きにくいけどそんなことも言ってられない。午後からの仕事のスケジュールを組み立て、早歩きで会社に戻った。定時になればいい、そう思っていた。

 だというのに、


「嘘でしょ……」

「ごめん、ほんと」


 謝るくらいならしなきゃいいのに、という言葉は出てこなかった。代わりに長い長いため息を吐き出し、もう一度目の前の2人をちらりと見る。

 2つ年上の営業の彼と、私の同僚の彼女。階段から私の部署までの短い廊下には間に給湯室があって、そこでいちゃいちゃ、キスまでしちゃって。ついてないどころの話じゃない。

 彼とはまだ付き合うまではいってないけど、何度も彼から食事に誘われた。はっきりとデートと言われたのは今回が初めてで、だからこそ脈ありかな、なんて思ったりしたのに。私のついてない1日は最高の1日になると思っていたのに。


「あの、俺、」

「金輪際、仕事以外で私に関わらないでください。失礼します」


 せめて開き直ってくれたら私の感情の行き場もあったかもしれない。けど、あんなおどおど言い訳を並べ立てようとする人が好きだったなんて! 途端にばかばかしくなって私は足早にその場を去った。

 呆れた、彼にも彼女にも、私自身にも。


 結局今日はとことんついてなくて、私が悪いわけじゃないのに同僚の彼女が私を無視するせいでずっと空気が悪かった。送られたはずのメールが届かないままだった。愛用していた万年筆が壊れた。小さなミスが続いた。調子のよくなかったスマホが勝手に再起動した。電車に乗って座ってからパンプスを履き替えていないことに気づいた。散々だ。

 やってらんない。黒くてかわいくない、職場用のパンプスを眺めて思う。やってらんないわ、こんな1日。せっかくのおしゃれも意味がなかった。ついてない日はついてないまま終わるみたいで、知らない人の革靴が私のつま先を踏んでどこかへ行った。

 今日はもう帰ったら寝よう。無駄になってしまったけど明日は有給だから、1日ゆっくりすごして気持ちをリセットしよう。おいしいご飯、きれいなアクセサリー、エステに行くのもいいかもしれない。

 あくびを噛み殺して壁にもたれる。電車の揺れは眠りを誘うのにちょうどいい心地よさだ。


 目が覚めたら2駅ほど乗り過ごしていた。慌てて降りたけどなんだか乗り換える気持ちになれなくてそのまま改札を出る。辺りにはシャッター通りしかない寂れた駅だ。私の最寄りの駅も栄えているわけではないけど、ここまで寂れてはいない。

 スマホの地図アプリで見てみれば、ここから家の最寄り駅まで歩いて1時間と少ししかかからないみたいだ。夕方の風も気持ちいいし、1人になりたい気分だったから歩いて帰ることにした。ちょうど歩きやすい職場用のパンプスを履いていたのは不幸中の幸いとでもいうのだろうか、少し違う気もするけど。


 地図アプリの示すままにシャッター通りを抜け、住宅街の方へと進む。昔から住んでいる人が多いのか、木の壁に瓦屋根の家ばかりだ。たった2駅しか離れていないというのに、こんなにも違うのかと少し驚いた。私の住んでいるところは新築が多く、住んでいるマンションも賃貸だが築浅だ。賑やかな町ではないけど、わりと小綺麗な住宅街だと思う。


 日が落ちていく。さっきからすれ違うのは若くても50代くらいの人で、子供や若い人は1人も見かけない。これだけ寂れているのだからやっぱり子供も少ないのかもしれない。

 なんだか家が密集している気がするけど、それぞれの家がさっきより小さいからそう感じるのだろうか。田舎で見かけるようなよく分からない宗教の看板がやたらと目につく。小さなぼろぼろの祠は扉のようなものが外れかけていた。なんだか不安になってスマホを何度も確認してしまうけどちゃんと地図アプリの通りに進んではいる。もっと私の住んでいる辺りの雰囲気に近づいてもいいと思うんだけど。

 引き返そうかとも思ったけど、もう30分くらい歩いているから進んでしまった方が早いかもしれない。後ろを振り向いても、満足に街灯のない暗い道が続くばかりだった。


 どんどん暗くなっていく。駅にいたときは確かに涼しくて気持ちのいい風だったのに、今では薄ら寒い淀んだ風がまとわりつくように流れている。どことなくすえた臭いがして気味が悪い。学生の頃住んでいた町を思い出す、いやな臭いだ。


 私は大学生の時分、学校近くの学生マンションに住んでいた。治安はよくもなく悪くもなくといった感じだったけど、用水路のような細くみすぼらしい川を隔てた向こう側がひどい場所だった。

 トタンでできた、プレハブ小屋にすら劣る家のようなもの。乱立する見たことのない文字で書かれた看板。洗っていないのか脂でてかり汚れた布。痩せこけた犬。淀んだ瞳が向ける視線。言語として成立していないような、意味の分からない罵声。

 区分けされているかのように一区域にだけ非日常が詰まっていた。私たちはそこに近づかないし、そこの人たちも私たちには近づかなかったから彼らがどこの人で、なぜそこにいるのかは誰も知らない。ただ、すえた臭いだけがときおり風に乗ってこっちまで届いていた。


 ゲェッゲェッと鳥の鳴くような笑い声に驚いて声のした方を見ると、やぶにらみの老人が黄ばんだ歯をむき出しにして何が面白いのかニタニタ笑っていた。濁った眼球はこっちを見ているのかも分からない。唾液が今にもこぼれそうな口元を歪めて汚れた煙草を咥える姿は異様だ。

 一区域に詰め込まれた非日常。ここも、あの町にあったような場所なのだろうか。あのときの私は近寄りもしなかったけど、今の私はこの中にいる。ここがあの場所と同じかなんて分からないけど、近づいてはいけない場所というのはそれなりの理由があるものだ。


 怖くなって早く帰ろうとスマホを見る。ここがどんな場所であれ、さっさと抜けてしまうに越したことはない。もう1時間弱は歩いたはずだ。

 地図アプリの画面を確認した私は思わず叫びそうになった。


 現在地を示す矢印がぐるぐる回っている。位置はそのままにぐるぐる、まるで私がスマホを持ったままその場で回転しているみたいだ。ぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる――


 現在地が取得できません、と表示されるまで、私は動くことができなかった。理解できないことが起こると、人間はフリーズしてしまうみたいだ。今も心臓が早鐘を打っている。

 もう一度地図アプリを開いたけどずっと現在地が取得できませんと表示されるばかりで、スマホはもう役に立たないということだけは分かった。シャッター通りを抜けたらほぼ一本道なのは最初に確認してたから、とにかくこの道を行こう。

 街灯はないけど道が分からないほどじゃない。バッグの持ち手を握り直して、恐怖にすくむ足を無理矢理進めた。職場用のパンプスは歩きやすいはずなのに、冷や汗のせいかいやに中で足が滑る。乱れた前髪を手ぐしで整えて、深呼吸をした。

 きっと疲れているから見間違えたのだ。だって私のスマホは最近調子が悪くて、今日も勝手に再起動していたくらいだし。そうだ、修理に出したらきっとすぐに直るはず。私は自分にそう言い聞かせる。

 ぼろぼろの祠を通り過ぎたとき、きぃ、と扉のようなものが軋んだ音がした。


 おかしい。そう思ったのは地図アプリが使えなくなってしばらくしてからだった。時刻は駅を出てから1時間以上たっているというのに、一向に私の住んでいる辺りに出ない。街灯もなければ民家から漏れ出る光もない夜道は、本当に今歩いているここが道なのかどうかすら不安になってくる。

 きぃ、と何かが軋む音がした。横目で見るとぼろぼろの祠がある。外れかけている扉がかすかに揺れるのに合わせて、きぃ、とまた音を立てた。

 気づいた途端、血の気が引いた。あれは、あの小さなぼろぼろの祠は、私がここを歩き始めてすぐくらいに見たものだ。田舎で見かけるようなよく分からない宗教の看板がすぐそばにある。間違いない、同じものだ。

 心臓が早鐘を打つ。そんなはずはないと思った、いや思いたかった。けれど同じような祠が同じようにぼろぼろになって同じように扉が外れかけているなんて、そっちの方が信じられない。

 早く、早くここを抜け出さないと。言うことを聞かない足を無理に動かして前へと進む。民家から漏れ出る光はないというのに、そこここから感じる人の気配は一体なんなのか。気になって、でも分かってしまってはいけない気がしてただ前だけを見据える。


 職場用のパンプスの、コツコツという音だけがいやに耳につく。木々の葉が擦れる音すら聞こえないというのに、私の呼吸と足音だけは唯一鼓膜を震わせる。一定のペースを保とうとして、けれど少しずつ呼吸は浅くなっていく。

 まただ、いや違う。違うなんてことがないのは私がよく分かっていて、でもそうだと認めたら本当に帰れなくなる気がして、自分を騙すために口先だけで違うと呟いた。喉が渇いているせいで、声のなりそこないでしかなかったけど。

 努めて気づかないふりをして祠の前を通り過ぎる。そんな私を嘲笑うように扉がきぃ、と鳴った。足早に進む。きぃ、きぃ、扉の軋む音が後を追ってきた。聞こえなくなるまで、ただただ走った。


 3度目に同じ祠を見たとき、私はどうしようもないのだと思い知らされた。どれだけ歩みを進めてもここからは出られない。地面から崩れていくような絶望感に、もう足は動かなかった。

 不安か、恐怖か、絶望か、理由の分からない涙がどんどんあふれて止まらない。ああ、せっかくかわいく化粧したのに。私が一体なにをしたというのだろう。ただ、今日がいい1日になると信じていただけなのに。リップが折れても、髪がうまく巻けなくても、ネイルが剥げても、スカートがコーヒーに濡れても、今日は最高の1日になると信じていただけなのに。


 祠の前でしゃがみ込んで泣く私の耳に、リン、と鈴の音が届いた。


 はっとして顔を上げる。ずっと遠くからだけど、間違いなく鈴の音だ。私と祠の扉以外に音を立てるものはなかったのに、たしかに鈴の音が聞こえる。人の気配だけはずっとしているけど、そんなものどうでもよかった。

 私以外の何者かが、物音を立ててこちらに近づいてくる。涼しげな音がリン、リン、と少しづつ大きくなって近づいてくる。助かるんだ。根拠もなく私はそう思った。

 鈴の音はまだ遠いものの、祭囃子のようにも聞こえてきた。祝詞とでもいうのだろうか、そこに声が混ざっているのに気づいた。そしてその声に、言葉に、私は覚えがあった。


 大学生の時分に住んでいた学生マンションの、みすぼらしい川を隔てた向こう側の非日常が詰め込まれた一区域。

 トタンでできた、プレハブ小屋にすら劣る家のようなもの。乱立する見たことのない文字で書かれた看板。洗っていないのか脂でてかり汚れた布。痩せこけた犬。淀んだ瞳が向ける視線。言語として成立していないような、意味の分からない罵声。

 そもそもあそこにいたのは本当に人間だったのか?


 甲高い奇声が意識を現実に引き戻す。祭囃子が聞こえてくる方に目をやると、松明か何かのような明かりと人間を握り潰したような影が遠くに見えた。人間なんかじゃない、「あれ」はなんなの。

 恐怖に混乱する頭でやっと理解した。あの頃の私には意味の分からない罵声だったそれは、獲物を……私を追い込むためのかけ声だったんだ。意味なんてあるはずがない、だってただ追い込むために上げてるだけの声なんだから。鈴の音だなんて、祭囃子だなんて、今日1日で一番都合がよくて頭の悪い勘違いだ。人間が狩りをするときですら音と声で追い込むのに、「あれ」がそうしないわけがない。

 走って逃げる? この閉じ込められた一区域の中で逃げたところで、私の体力が尽きたら終わりだ。既に疲れ果てているし、何より待ち伏せの可能性だって、逃げた先がループして「あれ」のいるところに行く可能性だってある。じゃあどうすればいいの、私は一体いつから「あれ」に目をつけられていたの。

 呼吸が浅くなる。視界がにじむ。異形の存在はどんどん近づいてくる。祭囃子の音が大きくなる。うるさい。うるさいうるさいうるさい。


「たすけて、かみさま」


 掠れた私の声に返事をするように、祠の扉がきぃ、と鳴った。

 涙でぐちゃぐちゃの顔で祠を見上げる。もう一度きぃ、と鳴った。祭囃子も「あれ」の声も、不思議と聞こえない。外れかけた扉のすき間から、黒いもやのような手の影が出てきて、おいでおいでをするように動いている。

 ああ、結局これも「あれ」と変わらないのだろう。特定の宗教を信仰しているわけじゃない私でも、朽ちた祠にはよくないものが宿る、程度のオカルトは聞いたことがある。


『信じてくれたらかえしてあげるよ』


 手招きをする黒いもやが何かは分からない。でも、どうやったって抜け出せないなら、どうせ「あれ」に捕らえられるくらいなら、どう足掻いても救われないなら、自分でかすかな希望に手を伸ばしたっていい気がした。平凡な日々の中で誰かからいい1日が与えられるのを待つよりは、きっとまだましだろうから。


「信じてあげるから、帰らせて」


 黒いもやの手を取った。祭囃子が耳元で聞こえた。意味の分からない罵声がうるさい。それでも私は黒いもやのことを疑わない。だって信じるって言ったから。



『帰るは返る、変えるか替える、還って孵る?』



 意識が戻ると私の家の最寄り駅で、駅員か警察か分からない男性に肩を揺すられていた。ひどい耳鳴りと目眩、吐き気はあったものの、それ以外に異常はなさそうだった。

 どうやら私は自分で電車を降りたあと、そのまま気絶して倒れてしまっていたらしい。2駅ほど先の、降りた記憶のある駅の名前を挙げるとそんな駅はないと言われてしまった。私の肩を揺すっていた男性は駅員で、癲癇か何かの発作かと訊かれたけれど大丈夫とだけ返しておいた。

 悪い夢を見ていたに違いない。治まらない吐き気はきっと悪夢のせいだ。

 駅員がタクシーを呼んでくれて、とにかく改札を出ようと立ち上がったそのときだ。リン、と鈴の音が手元から鳴った。

 ぎょっとしてバッグを見ると、ひきがえるのような形をした小さな黒い鈴がついていた。こんな鈴に覚えはなくて、誰かのいたずらかと思って外そうと手をかけた。そのとき不意に、すえた臭いがした。


「だめですよ、かえるまで信じないと」


 私の手を掴んで止めた駅員が、そう言ってゲェッゲェッと鳥の鳴くような笑い声を上げた。

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