第1話
シュッシュッ、ポッポー――。
夜更けの街に、汽車の音が響き渡る。
きらびやかなドレスをまとった女たち。
仕立てのいいスーツを着込んだ男たち。
酒と香水と煤煙の匂いが混ざり合う、眠らない街。
「でさ、その女がよ。俺がテリアックを一息で飲み干した瞬間、ぽーっとなっちまってな。そのまま部屋に行きましょう、なんて言い出したわけよ」
城壁の内側に建てられた兵舎。
その地下へ続く階段を、二人の衛兵がひとりの少年を連れて下りていた。
「嘘つけ。どこの女が、酒を一杯ぐいっと飲んだだけで部屋に誘うんだよ」
ジャラリ。
「本当だっての。考えてもみろよ。テリアックだぞ、テリアック。どんな酒豪でも一杯でぶっ倒れるっていう、あの強烈な酒だ。それを俺が一気に飲み干したんだぞ? そりゃ女の目も変わるってもんだろ」
ジャラリ。
「いや、それでも酒一杯で……っていうか、そもそもお前がテリアックを一息で飲んだって話の方が信じられねえよ」
「なら今度一緒に飲みに行こうぜ。この俺様が一息で飲み干すところを見せてやるよ」
ガハハ、と下品な笑い声が狭い階段に反響する。
地下に着くまで、そう時間はかからなかった。
衛兵たちは、自分たちの後ろにいる少年の両腕につながった鎖を、まるで犬の首輪でも引くように握りしめていた。
「ほら、早く降りろ」
壁に掛けられた松明の明かりが、少年の顔を照らす。
年の頃は、せいぜい十代半ばだろうか。
綺麗に切りそろえた髪を後ろへ流し、茶色のコートの下には白いワイシャツとベージュのベスト。
さらに、触れれば切れそうなほど鋭く折り目のついたベージュのズボン。
そんな妙に身なりのいい少年が、口元に笑みを浮かべながら階段を下りていた。
「いやはや、衛兵さん方。もう少しゆっくり行っていただけませんかねえ。灯りが少なくて暗いもので、一歩踏み出すのも怖くて怖くて」
「怖いとか抜かす奴が、真夜中に路地裏へ入り込んで他人の家を覗くか?」
「おっと、覗くとは人聞きが悪い。あれはあくまでも捜査の一環でして――」
「何が捜査だ。くだらねえこと言ってねえで、さっさと中に入れ」
笑っていた少年は、今度はしょんぼりとした顔を作り、衛兵たちを追い越して先に歩き出した。
「早く歩け。こっちは夜明け前の当直で眠くて仕方ねえんだ。お前のせいで余計な仕事を増やされたんだからな」
「ご安心ください! 僕は邪悪なる犯罪者ではなく、善良なる一市民! すぐに冤罪を晴らして釈放されることでしょう!」
「冤罪? 現行犯のどこが冤罪だ」
「ですから、それは捜査の一環で――」
「おい、もういい」
衛兵は腰の袋から鍵を取り出し、扉を開けた。
ギィィ……。
中には小さな木製のテーブルと、雑に置かれた椅子が二脚。
「椅子を引いて座れ」
「はいはい」
少年は素早く椅子を引き、テーブルの前に腰を下ろした。
その向かい側に座った衛兵は、ひとつ咳払いをしてから少年を見る。
「名前は?」
もう一人の衛兵が紙と羽ペンを持ってきて、テーブルの上に置く。
座っている衛兵は羽ペンを手に取り、記録を取る準備をした。
「デトロ・デ・ブラッドハートです」
「デトロ・デ・ブラッドハート……ブラッドハート?」
衛兵は首を傾げた。
「なんだ、お前、貴族だったのか?」
「まあ……一応、貴族ではありますね」
少年がぎこちなく笑うと、衛兵は隣に立っていた同僚へ視線を向けた。
「ブラッドハートなんて家、聞いたことあるか?」
「ブラッドハート……いや、聞いたことねえな」
「お前、国籍は?」
「テルペンです!」
「テルペン? あんな遠くから、このヒュペテトンまで来たってのか?」
「先ほど申し上げたでしょう。捜査のために――」
「おい、おい。もうそれは聞き飽きた。テルペンの身分証を出せ」
衛兵の言葉に、少年――デトロはコートの内ポケットから一冊の手帳を取り出し、テーブルに置いた。
それを受け取った衛兵は中身を確認し、デトロと手帳を交互に見比べる。
「……確かに、これはデトロ本人の身分証で間違いなさそうだな。で? そんな遠いテルペンから、わざわざヒュペテトンまで何をしに来た?」
「捜査――」
「その言葉をもう一回口にしてみろ。二度と日の光を見られねえように牢へぶち込んでやる」
デトロはごくりと唾を飲み込んだ。
額に冷や汗を浮かべながら、へらりと笑う。
「いやあ、衛兵さん。冗談がお上手で」
「冗談じゃねえ」
そこでようやく、デトロは口を閉じた。
そして、深いため息を吐く。
「僕がテルペンからヒュペテトンへ来た理由は――」
「待て」
デトロが話し始めようとした、その時だった。
立っていた衛兵が、扉と天井のあたりへ視線を向けた。
「どうした?」
「……聞こえないか?」
「聞こえないって、何がだよ」
「この音だ」
その言葉に、座っていた衛兵も耳を澄ませる。
ドン……。
ドン。
「な、なんだ……?」
何か巨大なものが動く音。
ドン、ドンと大地を揺らすその音は、少しずつ、確実に近づいてくる。
緊張した衛兵たちは、思わず喉を鳴らした。
「……出た」
デトロが小さく呟いた。
二人の視線が、同時にデトロへ向く。
その、一瞬。
トン。
立っていた衛兵が、悲鳴ひとつ上げることなく前のめりに倒れた。
続いて――。
トン。
椅子に座っていた衛兵も白目をむき、そのままテーブルへ突っ伏す。
やったのは、デトロだった。
いつの間に外したのか、彼の両手にはもう手錠など残っていない。
「よいしょっと」
彼はまるで準備運動でもするかのように、椅子から立ち上がり、軽く屈伸をする。
次に首を左右へ鳴らし、肩を回した。
そして、ゆっくりと来た道を引き返していく。
少年が一歩進むたび、巨大な音が地面を震わせながら近づいてくる。
やがて地下へ続く扉を開け、外へ出た時――。
そこには、すでに半壊した兵舎。
崩れ落ちた城壁。
あちこちから響く悲鳴。
そして、その中心にいる巨大な存在。
デトロはそれを見上げ、呆れたように笑った。
「やっぱりな。ここに現れると思ってたんだ」
それは、熟練の討伐者でさえ単独では討伐不可能とされる巨大な魔物。
全身を鋼鉄の鱗で覆った怪物。
アイアンワイバーンだった。
* * *
「新聞だよー! 新聞ー!」
数日後。
ハンチング帽をかぶった少年が、自転車を走らせながら街中に新聞をばらまいていた。
その一面には、先日ヒュペテトンで起きた事件が大々的に載せられている。
『ヒュペテトンを襲撃した怪物、アイアンワイバーン! それを討伐したのは、たった一人の少年だった!?』
そこに書かれていた内容は、にわかには信じがたいものだった。
どんな魔法でも。
どんな武器でも。
傷ひとつつけられないはずの巨大な鋼鉄のワイバーン。
それを、手にした魔法とも武器ともつかない何かで貫いた少年の写真が、新聞の一面に掲載されていたのだ。
その記事を読んだ者たちの反応は、誰もが同じだった。
「……何で、どうやって倒したんだ?」
魔物を専門に狩る討伐者ではない一般市民でさえ、アイアンワイバーンの恐ろしさは知っている。
普通の武器では、絶対に倒せない。
鉄製の大砲も。
巨大な鋼鉄の矢を放つ五十トン級のバリスタも。
せいぜい衝撃を与えるだけで、その鱗を貫くことはできない。
そんな怪物が。
たった一人の少年の攻撃によって貫かれ、空から墜ちた。
もし本当にそんな少年がいるなら、とっくに名が知れ渡っているはずだった。
「で、その少年って誰なんだ?」
「それが、分からないらしい」
「は? 分からない?」
「ああ。アイアンワイバーンを倒した直後、そのまま姿を消したんだと」
少年は、街が混乱している隙にアイアンワイバーンだけを討伐し、その場から消えた。
彼の正体を知る手がかりは、新聞の一面に載せられた、遠くから撮られた一枚の写真だけ。
人々は、好き勝手に想像するしかなかった。
「ヘロイアス様じゃないのか? 聞いた話じゃ、ヘロイアス様はまだ若いのにオークを討伐したことがあるらしいぞ」
「オークとアイアンワイバーンじゃ、さすがに格が違いすぎるだろ」
「じゃあ他に誰がいるんだよ」
「俺は……ヘレイア様だと思うな」
「ヘレイア様は女だろ。写真のこいつは男だ」
「ヘレイア様が男装していた可能性も――」
「いや、それは絶対にない。髪を見ろ。ヘレイア様は赤髪だ。だが、この写真に写っている奴の髪は……」
漆黒。
ヒュペテトンでは、ほとんど見かけることのない黒髪だった。
「うーん……じゃあ、いったい誰なんだ……」
「へ、へっくしゅん!」
すぐそばから聞こえたくしゃみに、新聞を読んでいた男が振り返る。
そこにいたのは、一人の少年だった。
「ふぁ……」
少年は大きくあくびをしながら、ポケットに手を突っ込んで歩いている。
新聞を読んでいた二人の男は、互いに顔を見合わせ、ぎこちなく笑った。
「ま、まさかな……」
「ただの目立ちたがりが、格好を真似してるだけだろ……」
その言葉に、少年がふと顔を向ける。
二人の男は、慌てて視線をそらした。
「……なんか、視線を感じたんだけどな」
少年の名は、デトロ・デ・ブラッドハート。
テルペン辺境の小さな村、ブラッドハートを治めるブラッドハート男爵家の子息。
家長エフロイ・デ・ブラッドハートの四男として生まれた彼には、他の人間とは少し違う、特別な事情があった。
「くそワイバーンめ……落ちるにしても、よりによって駅に落ちるか普通……」
そう。
彼は――。
「またテルペンまで戻るの、いつになるんだよ……」
転生者である。
「まあ、でも……」
チリン。
『アイアンワイバーンの心臓』
『アイアンワイバーンの鋼鉄鱗』
半透明の文字が、デトロの目の前に浮かび上がる。
それを見た瞬間、彼の口元がにやりと吊り上がった。
「――ははっ! ついに手に入れたぞ!」
そして少年は、人知れず拳を握りしめた。




